前編 ~アトリエ~
フランスはパリ。そこは昔も今も芸術家の集まる都市である。
ベルヴィル地区の裏通りの一つ、密集して建ち並ぶ古いアパートメントに彼は住んでいた。お洒落な街中の大通りとは裏腹に、地味で目立たない場所であった。そのアパートの二階にある一室が彼の住処であり、小さなアトリエでもあった。
彼の名前はジャン=リュック・パントル。それが本当の名かどうか、それを知る者はごくわずかである。職業は画家を名乗っていた。ただそれは、表向きのことであった。
彼には別の肩書があった。さまざまな人たちの、さまざまな依頼に応える何でも屋。言葉を変えると裏稼業と言うこもできた。合法なことから非合法なことまで、その幅は広かった。どちらかというと、彼自身選り好みは強い方であったが、それなりの対価が支払われるとなれば、引き受けないわけでもなかった。つまりは、条件次第ということなのであった。
もっとも、ジャンの父親もかつては、裏稼業の仕事をこなしていたものだった。そうはいっても父として、自身の息子には、時として身の危険や血生臭さを感じるような稼業とは縁もゆかりもない、真っ当な人生を送ってほしいと考えていた。そして父親の努力の甲斐もあり、ジャンは大学まで進学して小さいところながらも商社に就職を果たした。しかし数年後、不況や経理の不正により会社は破産した。彼は職を失った。そのときもはすでに、父親は病気で亡くなっていた。母親とも離れて暮らしていた。いずれにせよ、裕福とは言えない状況だった。どうしたらよいものか、彼は半ば途方にくれたのであった。
そんな折、ジャンの父を知るという人物が尋ねてきた。そして、このとき初めて自身の父親がどんな仕事をしていたのか知らされたのだった。ショックを受けている彼に、その人物はさらに、仕事の依頼を持ち掛けてきた。もちろんそれは到底、合法とは呼べないものであった。
「こいつは、あるジャーナリスト」
相手は小さな人物写真を取り出してジャンに見せた。「それほど名が知られてはいないが、私にとっては厄介な存在だ。それで……始末してもらいたいというわけだよ」
その依頼にジャンは悩んだ。だが、提示された報酬額は非常に魅力的なものであった。無理をしなければ二、三年は暮らしていけるような額であった。結局、彼は仕事を引き受けることにした。生活の糧が必要だったのだ。あるいは、かつての父の稼業を継ぐ道を選ぶよう、なにかしら運命づけられていたのかもしれなかった。
覚悟を決めたジャンは、持ち前の集中力と気力を発揮して仕事をやってのけた。行きずりの強盗に見せかけ、結果的に警察は場当たりの強盗の仕業と判断し、事件はそれで終わりとなった。それから、彼が裏稼業を本業にすることに時間はかからなかった。もう会社勤めなどには戻れなかった。
ただ、いくら報酬がいいとはいうものの、そういった業界とはなるべく距離をとることも心がけた。引き受けるのは年に二、三件までと決めた。それ以外の時間はというと、子供のときから好きだった絵を描くことに専念した。次第にその道でも名が知られるようになり、表向きは画家やイラストレーターと名乗って過ごしていた。
つい最近、大きな仕事を終えた彼はしばらくの休息も兼ねて絵描きに専念しようかと考えていた。その矢先のことだった。一人の老齢な男性が部屋まで尋ねてきたのだった。どこかためらいがちな様子であった。
「君は、その……様々な依頼に応えてもらえると聞いたんだが」
戸口に立っているその男はジャンよりも頭一つ分くらい背が低く、小柄な印象を受けた。その男はゆっくりとした動作でポケットから紙切れを取り出してみせた。ジャンがそれを見るには、どうにも仕事上の知り合いから紹介を受けてやって来たらしいということが分かった。
「ええ、といっても額によってピンキリですよ」
彼は言いながらさりげなく周囲をうかがった。アパートの廊下に他の人の姿は無かった。それから彼は愛想笑いを浮かべた。
「まあ、ひとまず中でお話を伺うとしましょう」
「それでは、お邪魔しようか」
部屋の中はいかにも画家が生活している風な雰囲気満載だった。壁際に置いてあるイーゼルには描きかけのキャンバスが乗せられていて、他にも大小さまざまな絵が壁や床に乱雑に立てかけて置かれていた。本棚のそばに並んでいる小さなテーブルとイス。テーブルの上には朝食を終えたあとの食器がそのまま置かれていた。
やってきた老齢の男性は驚嘆ともつかぬため息を漏らした。部屋の様子をみて少々驚いている様子だった。
「絵描きも、しているのかね?」
ジャンはテーブルの食器を片付け、狭いキッチンでコーヒーを沸かしはじめていた。
「まあ、そうですね」彼は背中を向けたまま答えた。「どっちかと言うと、画家を本業としたいんですよ」
男の方は近くの絵を見つめながら何か考えている様子だった。
「その、この技術を生かした仕事をしてもらうことも可能なのかね?」
その言葉にジャンは、絵の修復か? あるいは贋作の制作依頼か? と、とっさに思った。じっさい、そうした仕事もしていないわけではなかった。今の彼にとっては驚くには値しないが、とりわけ美術館に展示されている名画のいくつかは本物ではないのである。贋作の製作依頼の多くは、有名な美術館からのものだった。所有者からしてみればおいそれと本物を展示など、簡単に出来ないということなのだ。つまり、観覧者が美術館で本物だと思ってみている絵は、実は良く出来た偽物なのである。
彼はコーヒーを入れたマグを二つ抱え、テーブルのそばまで戻ると男に声をかけた。
「どんな絵がお好みです?」
「ああ……」男はその場に立ちつくして、悩んだような様子だった。「少し、考え直してきてもいいかね? 出直すことにするよ」
「はい?」
ジャンは思わず間の抜けたような声を出してしまったが、軽く咳払いをして続けた。「ええ、もちろん構いません。ご依頼主様の、お好きなようにしていただいても」
「君は、いつなら都合がよいのだ?」
「しばらくは、ここで過ごす予定にしてますから、二、三日は大丈夫ですよ」
「わかった……じゃあ、また改めて」
男はそれだけ言うと、足早な様子でアパートの部屋を後にした。
ありゃ、いったい何者だろうか? 彼は湯気が立っている二つのコーヒーマグをぼんやりと見つめて考えた。これまでにも、なかなか決心がつかないという依頼者もいた。さすがに、直前でやめてくれという奴にはまだあったことがなかった。ただ、悩みかねて部屋の前を行ったり来たりする客がいたことは覚えていた。
あるいは、彼としてはあまり考えたくないことだが、警察か治安当局が囮捜査でも仕掛けてきているのではないかと訝しく思った。だがもしそうなら、事前にしかるべき筋から、それらしい情報が入ってくるというものでもあった。
とにかく様子を見よう。彼はそう考えると、椅子に腰かけるとコーヒーを飲んだ。
二日ほどたった日の午後であった。例の老齢な男性が再びジャンのところへ訪れた。
部屋に入るなり、男は上着の内ポケットから小さなパンフレットを取り出してみせた。
「この画家を知っているかね?」
「ええ、」受け取ってページを開いてみた。「知ってますよ。これは印象派ですねぇ」
パンフレットの紹介に書かれていたのは、その中でも、とりわけ当時は代表的な人物の一人だった。
「そうだ」
「それで、レプリカの制作でもお考えですか? それとも仲買? もし、」
「いや、厳密な贋作ではない。密売でもない」
男はきっぱりと言った。
「ふむ、といいますと」
「もちろん絵の制作依頼だ。だが、この画家が描いたような絵で、存在しないものを描いて欲しいのだ」
ジャンはあっけにとられた。どういう意味なのだろうか? 彼は少し考えてから言葉に出した。
「それは、つまり、その画家が描いている風な絵を描いて欲しいということでしょうか?」
「まあ、端的にはそうだ。だがもちろん、サインはその画家のものを真似て入れてもらいたい」
ジャンは一つの考えが浮かんできて、小さく唸った。
「つまり……架空の名画。とでもいうような、そんな代物でしょうか?」
「うむ、上手い表現だ。ま、そういうことになるかもしれない」
「それは構いませんが、そのようなものをいったい……」
ジャンは思わず理由を聞こうとしたが、相手は小さく首を振った。
「そう言ったことは、遠慮してもらいたい」
「これは失礼しました。それで、絵の枚数などは?」
「一枚でいい。きちんと完成したものを」
「ええ、他にご要望は?」
「いかにも、それらしいものを仕上げてほしい」
「分かりました。大きさはいかがしましょうか?」
「どうかな? 小さめのものでもかまわないが。細かいところは任せるよ」
「わかりました」
「それで、こういった仕事はどれくらいの金額かね? ひとまず四十万フランの用意ができるが、どうだろう?」
ジャンはそれを聞いて表情には出さなかったが、四十万とは少々驚いた。彼が普段こなす仕事の額にすればかなり低い方だが、一枚の絵を描くだけならまずまずの値段だった。ただ、顎を軽くさすりながら少し考えた。相手が先に額を提示してきたときは少し割り増しするのがいつものことだった。
「前金に十万で、すべて終えてから四十万の計五十万フランではどうでしょうか?」
「ほう……」
男は少しばかり眉をひそめた。
「画材や絵の具なんか、当時と同じブランドを探してくる必要がありますからね。それに多少は、文献をあたってみたりや調査することもありますから」
「よろしい。それでお願いするとしよう」
相手は二つ返事で了解した。
それから二人は少しの間、他愛ない世間話や絵画にまつわる雑談しながらコーヒーを飲んだ。
ジャンは今回の依頼人は裏稼業とほとんどつながりが人物だろうなと思った。それと警察関係でもなさそうだと見当をつけた。同業世界に多少でも足を突っ込んでいる人物なら証拠を残すようなことを嫌う傾向があった。今回の相手はとりわけ遠慮する様子もなくコーヒーを飲んでいた。たいていにおいては指紋をコップに残すのすら嫌うものだった。それと警察関係者だとしても、出され飲み物を飲むといった不用意な真似をするはずがなかった。つまり、目の前にいる依頼人は純粋に一見さんのお客だということだった。