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「坂本さんはどんな音楽を聴くの?」
野崎さんは坂本紅葉に話題を振る。
輪の中に入れていない彼女を見かねて話しかけたのか。
しかし野崎さんは決定的に理解していなかった。
ギョロッ。
眼球運動の音など聞こえるはずも無いが、そんな幻聴を耳にしそうな勢いで皆が一斉に坂本紅葉を見る。
正確を期して表現すれば誰一人として坂本紅葉その人を見てなどいなかった。
ただ野崎さんの発した『坂本紅葉』という言葉を記号的に解釈してその視線の先を追っただけなのだ。
自分に興味など一度も持った事が無いであろう大勢の人間から向けられる視線は鋭く冷たい。
それを俺は経験的に知っていたが、野崎さんの送ってきた人生では想像も付かないだろう。
特に悪気も無く野崎さんは坂本紅葉を話題の渦中に引き寄せる。
「えっ……?」
坂本紅葉は困惑しながら自らの顔を指差す。
指名されたのかどうかを確認しているのだ。
ホストやホステスじゃないのだから指名など待たずに会話に参加すれば良いじゃないか、と思考する人たちがいる。
それは基本的に正しいが基本的な事実を見落としていた。
そうではない人だっている、と。
野崎さんは余裕たっぷりに聖母の如く坂本紅葉を見守るが、野崎さんとの会話を再開したい他の社員たちはノロマな坂本紅葉に苛立ち睨む。
多分、坂本紅葉に苛立つ彼等彼女等は坂本紅葉との会話であれば自らの思うがままに話を進めるだろう。
しかし今、この場での会話を仕切っているのは野崎さんだ。
野崎さんの采配にケチは付けられない、といったところか。
「あ、あの……」
坂本紅葉は言い淀む。
彼女の眼はボサボサの前髪で隠れて見えないが、その両目が泳いでいるであろうことは想像に難くない。
自分の好きな音楽を言葉にする際にこれほどもたつく人間がかつていただろうか?
と、その瞬間に思い出す。
坂本紅葉が好きな音楽は演歌と民謡だ。
だけど今までの会話の流れから、他人の好きな音楽にケチを付けるのは憚られる雰囲気になっている。
心配する必要も無いか。
「あの、べ、ベートーヴェンとか……ですかね……」
!?
う、嘘を吐きやがった……。
演歌と民謡だろ、お前が好きな音楽は。
偽装するにしてもミスチルとか言っておけば良いものを、それすら知らなかったのか?
この後どうすんだ!? 皆リアクションに困っているぞ……。
「クラシックも良いよね」
食い気味でも無く引き気味でも無い呼吸で返事をする。
やはり野崎さんは会話慣れしていた。会話慣れってのも妙な表現ではある気もするが。