7話 浮揚の日
頭が痛いから目覚めたのか、目が覚めてから後頭部に疼痛を覚えたのか、何にせよ意識が回復した私を襲ったのは頭痛だけではなかったのでどちらでもよい。吐き気やら目眩やら挙げればきりがないが、気にかけるべきは手足が縛られていることであろう。人の恨みを買った覚えは無いが、他の心当たりは大いにある。まあ十中八九姫絡みだろうが、ともあれ今やるべき事は状況の確認である。
幸いと言うべきか、目隠し猿轡等々は無く、普通に周囲を観察する事ができた。闇の中でただきょろきょろと不安げに首だけ回すのを観察と表現するのならば、凡そ完璧にこなしてのけた自信がある。
周りは真っ暗闇であった。見える範囲に光は一筋も無く、人の気配も無い。私が転がされている場所は恐らく石造りの床で、静かな水の音と空間に染み付いた悪臭が、ここが下水道であることを示唆している。
「さて、どうしたものか…」
例の水を身につけるのは数日で飽きたし、それは今日とて例外ではない。その事をこれ程悔いるのは今この時が初めてであり、そして最後になるだろう。
王都は古くから存在する都市であり、この街に住み着いた民族が幾つあるのかすらも不明である。街の近くに川があり、街の中に井戸があり、我が家の地下には湧水がある。それとは別に下水道が街の地下を縦横自在に合流・交差・分裂・混雑しながら張り巡らされており、復元不能の未知の技術で建築されたそれは一度入れば出ることは敵わない迷宮だと認識していたが、そんな事は無かったらしい。この地下空間を歩き回るのは、一国の姫を暗殺するよりも難しいのではなかろうか。存在自体は知っていたが、人が動ける空間があるとは思いもよらなかった。そこまで考えてから、ここが王都で無い可能性も有ることに気付き思わず舌打ちが漏れる。
「一体どこから這入ったのか…いや、出口はどこだ?」
私をここへ転がした輩は何処へ行ったのか、生かされているのは何か利用価値があるからなのか。脱走して見つかったらどうなるのだろう。しかしこれは所謂正当防衛というやつなのでは?私はただ漫然と魔法魔術を習得したのではない、多分。対人でも、そこらの暴漢ごろつきを相手にして負けないだけの戦闘力はある筈だ。
そう思わないとやっていられない。
「ええい、成るように成れ!先の事など知るか!私は帰るぞ!」
…そう口の中で小さく呟き、手足を縛める縄を切る作業に入る。体に密着しているので魔術が使える者には容易である。
しかし容易であることと手早く済むかどうかは直結しない。私が普段冒険活劇や空想小説で読んでいるようには、魔法魔術とは便利な代物ではない。すっぱりと繊維を断ち切ることなど、到底とはいかないまでも現在のこの状況では困難を極める。魔術とは直接手で触れずに物を動かす技術であるからして、手を擦り合わせつつ繊維を解してばらけさせ、一本ずつぷつりぷつりと切断する。時間は掛かるが、関節を外したり手首に深い擦過傷を作らずに済むだけましというものだ。
やがて両手がしばらくぶりに体の前面に帰還し、慣れもあってかそう時間を掛けず両足も解放された。後は私が私を解放するだけである。言うだけなら易い。
「へっっぷし!」
ーーー ーーー
さて、暗闇の中で何処とも知れぬ出口を探す作業だが、予想よりも遥かに難易度は低かった。
この空間は当たり前だがかなり長い期間使われておらず、その上私をここへ転がした不届き者は単独だった様で、石の床には埃が厚く積もり、引き摺られた跡がくっきりと人間轍を形成していたのである。少々冷えるが裸足で歩き回るだけでそこそこの精度で道を辿る事が出来たし、そもそも衣服に付着した埃の量からして殆どこの床の上を引き摺られていないらしい事が分かっていた。そう時間を掛けずに埃に残る轍の途切れる箇所まで遡る事が出来た。手探りで錆びた金属製の梯子を探り当て、転びそうになりながら靴下と靴を履き、痛む頭をあちこちにぶつけつつ苔むした石の床を下から押し開けば、そこには宵の口の街並みが…
「…何処だここは」
地下空間から脱出した先は、地下室だった。冗談ではない。
「はあぁぁ〜〜……」
粗雑な木製の扉の向こうから漏れ出る蝋燭の明かりで室内は仄かに明るく、暗闇に慣れた目に優しい。どうやら物置の様だが、出口が塞がれていなくて良かった。本当に、良かった。
ここは下水道とは異なり明らかに人が使用し手入れされている。壁には煉瓦が互い違いに積まれ、その見慣れた様式から密かに抱えていた『ここは王都ではないのでは』という疑念がある程度払拭される。ここは王都か、王都と同じ文化圏の街の地下である。多少気が楽になるが、それも扉の向こうの気配と比べれば些事である。
扉の向こうからは、数人の人間が忙しなく動き回る物音が微かに聞こえて来る。僅かに聞き取れる単語から推測するに、何かがここへ侵入したこと、それの対策に人員総出で当たる必要があること、恐怖に駆られ、隠れてやり過ごすことを望む者がいること、そして何より侵入した者が凄まじい勢いでこの付近へ向かっており、それは白毛の獣人であるらしいことが解る。
間違いなく小娘である。
「あの馬鹿…」
人間のしきたりではまだ成人もしていない少女だが、獣人というただそれだけで大抵の人間よりも遥かに迅にして剛、俊敏にして頑健である。正面から正々堂々と勝負すれば負け無しだろう。それを相手もよく理解している筈で、相手もよく理解していることを小娘が理解しているかどうかは微妙である。獣人を取り押さえる為に数の力に頼るという愚を犯す阿呆は、獣人の多く暮らすこの街には居ないであろうことは想像に難くない。
私も動かねばなるまい。助けられるために助けなければなるまい。
私は魔法使い。私は魔術師。今求められるのは、魔術師としての立ち回りと度胸。後者に関しては、『やけくそ』という非常に頼もしい補正がかかっている。
魔術師に出来ることは、魔術師を名乗るために体得する必要のあるものは、それは数にして二つである。魔力を操れるようになることと、意識を操れるようになること。意識を操るというのは、比喩表現ではなく心を触れ合わせることを初めとして、物言わぬ獣の意図を察すること、相対する者の考えを読むこと、そして自らの記憶を管理することである。魔術師は物忘れしても即座に思い出す事が出来る。
どう魔術を使えば連中を突破できたものかと一人暗がりで黙考していると、扉の向こうで想定外の動きがあった。私の想像していたよりも事態は進展していた様で、破砕音が部屋の空気を揺らし、混乱と獣性の唸り声とが混ざりあう。
例え初めて聞く声であったとしても、それが小娘の喉から出ているのだと即座に理解した。
扉一枚隔てた先で響き渡る非平和的な音の数々と、普段は穏やかな小娘の未だ見ぬ獰猛な一面に、臆病な私は情けなくも心底怯え身が竦んでしまった。自分が襲われる訳では無いと分かっていても、息を殺し気配を殺してしまう。獣人とは、斯様に猛々しく荒々しい種族であったか。私は理解している筈ではなかったか。獣人の膂力は、その主が女子供であっても、容易に人間の肉を裂き骨を割るのだと、そしてそれが獣人の長所であると、私は知っている筈なのだ。
しかし、往々にして百聞は一見に如かず、知識として知っているのと実際に目で耳でそれを認識するのとでは天と地程の差がある。私は、その差のなんと大きなことかと慄き、喪われたる記憶の奥底に曖昧に、しかし確かに存在する"闘争の空気"の懐かしさに眩暈を覚えたのだ。
扉の隙間から、血が一筋つつーっと流れてきた。
気付けば辺りは静まり返り、静寂の向こうには恐ろしい暴威を振るう者など誰も居ないかの様に思われた。幼い子供よろしく膝を抱いていると、突然目前の扉がばんと大きな音を立てて開かれ、縮こまっていた私は大層驚いて飛び上がった。
「あぁ、居た!良かった、無事でしたか…どこか怪我は?…具合が悪いんですか?」
「あ、あぁ…」
「…っ!」
私は、この瞬間の小娘の表情を一生忘れない。獣人にとって、否獣人で無くとも、親しい者から恐れの、怯えの対象にされるというのは、それはきっととても…
「…ここを出ましょう」
そう言って彼女は尻餅をついた姿勢の私へ手を差し伸べるが、すぐに針に刺されたかのようにそれを引っ込め、蝶番の壊れた扉を退けて踏み出していった。その小さな背はいつにも増して小さくなっているように見えた。
部屋の中には血臭がゆっくりと広がりつつあった。
ーーー ーーー
「…殺したのか?」
階段の先を行く小娘は振り返らず、先端の尖った耳だけがぴくりとこちらに向いた。
「…いえ、伸びているだけです」
彼らは出血しているように見えたが、鼻血か何かだったか。口の中を切ったのかも知れない。何にせよ、小娘が安易に命を奪う事など無いとは言い切れない心境だったので、その言葉が聞けただけでも心持ち足取りは軽くなる。
我々が黙々と歩く階段は長く、登り降りを繰り返す経路は建築様式が度々変化し奇っ怪な様相を呈している。そこを小娘はお構い無しにずんずん突き進む。引き返すと言うべきか。道を覚えているのか、それか匂いでも辿っているのかも知れない。途中で拝借した粗悪な龕灯で自らの足元と小娘を照らすが、彼女は明かりを持たずに降りてきたようだし、暗い場所でも蹴躓かずにすいすいと歩いて行く。『獣人だから』という説明では多少無理があるが、その能力は紛れも無く私を救ける為に使われたのだ。
「…こんな所まで救けに来てくれて有難う。済まないな、私が情けないばっかりに」
「いえ、なんてことないです」
その言葉に偽りは無く、彼女の血濡れた白毛は汚れこそすれそこに外傷は見当たらない。しかし、相手が人間だけならまだしも、それ以外を相手取れば無傷では済まないだろうし、優秀な傭兵である獣人を一人も雇わずに荒事を起こすというのは考え難い。だからといって『お前の殴り倒した者の中に獣人は居たか』などと訊くのは論外である。
「ここは王都なのか?どの位移動したのかさっぱり…いや、それ以前にどうしてここが分かった?」
「ここは確かに王都です。それに私は鼻が利くので」
「…そうか」
嘘を言っている風ではないが、何か隠しているとも取れる。全ての獣人の鼻が小娘ほどに役に立つのなら、猟犬は職を失う羽目になるだろう。
長い階段も一段落し、簡素な扉が目の前に現れる。ふらふらと揺れる白尾を漫然と追いかけていただけで、日頃の運動不足を足腰から痛感せしめられた。
「途中に居た人たちは全員のしたけど、回収されたみたいです。なにか仕掛けてくるならこの先の広間なので、注意してください」
「分かった」
神妙な顔で頷いたが、漠然と注意しろと指示されても荒事が得意でない私には何をすればいいのか、何をするべきでないのかが今一つ分かりかねる。気の利いた魔法でも使ってやろうかと思ったが、準備をする間もなく小娘が中へ入っていったので慌てて追った。
そしてそのまま、広間の中へ呆然としつつ二歩三歩と踏み込んだのである。
「ちょっと!」
小娘から制止の声が上がるが、その時には既に私は広間の光景に目を奪われてしまっていた。
地下聖堂とでも呼べば良いのだろうか、年経た大樹の如き石柱が等間隔に並び、無数の蝋燭が天井から壁から床から生え、それでいて灯されているものは床にある一部のみである。石張りの床は完璧な水平であり、鏡面と見紛う程に磨かれた往時の艶やかな輝きは失われていない。何度か修復されたと思わしき宗教画が天井の中央から聖堂を見下ろし、しかしその意匠から文化を特定する事は出来そうにない。未知の文化或いは宗教の作品である。画に限らず柱も燭台も、装飾は総て初めて見る形状形式形態だ。いずれも非常に精巧な造りであり、優れた職人の手に拠る物だと一目で解る。
街の地下にこれ程までに絢爛で巨大な空間が存在している事が、そしてそれが地上で暮らす人々に完全に隠匿されている事が、私に深い驚愕を齎した。我々は、過去に栄えた文明の残り香の上に居を構えのうのうと日々を過ごしていたのか。
ふと気付けば、私が一人で感銘を受けている間に小娘は聖堂の中央へ進み出ていた。
一体何をと問う間も無く、視界に入る人物が一人。
「困ったなぁ…寵愛の子を引き取りに来ただけじゃないんだよ?術師も必要なんだ」
小娘が睨みつける先には、黒髪を足元まで伸ばした中性的な見た目の子供が独りで立っていた。鳶色の瞳、赤い軍服、日に焼けた肌の色。背丈は小娘と同じくらいだろうか。
「……」
「わざわざこんなところまで来てさぁ、収穫なしだなんてひどいと思わない?」
小娘は何も言わない。
事前に注意しろと言われていたのもあるが、私はその少女…いや少年を直視した際に、猛烈な嫌悪感を抱いた。私は今後どう状況が転んでも、彼と親しくなる事は無いと、そんな錯覚を抱いた。人生最大の、不倶戴天の敵であるかのように。
少年は喋り続ける。
「でもまぁ、君に会えるんならどうだっていいかも。こんにちは、ごきげんいかが?」
「…こんばんはの間違いでは?」
唐突に小娘が冗談を言ったのには私も驚いたが、相手はもっと驚いている様子だった。
「あぁ、君の口から冗談が聞けるなんて!ふふ、『こんばんはの間違いでは?』だってさ!ははは!可笑しいなぁ、ふふ…」
会話が噛み合わない。或いは、彼の人は狂人やも知れぬ。
小声で小娘に問いかけた。
「…知り合いか?」
「まさか」
そう短く否定し、後ろ手に私を抑える。戦闘は避けられないと云う意味だろうか。その間にも、誰にでもなく喋る狂人。
「寵愛の子が二人固まってて、優秀な術師もいて、だのになんてついてないんだろう…集める子、集める子、理解の子、そして萃める子…組み合わせの問題かな?」
張り詰めた空気が肌で感じられる程に密度を増し、小娘からは先程見た獰猛さが見え隠れする。私は内心で腰が引け、恐らくそれをも感じ取った小娘がまたしても囁きを漏らす。
「…気を付けて下さい。彼からは茹で卵の匂いがします」
「玉子?」
何故今この状況でそんな事を言うのか?少年が玉子を食べたかどうかと危険か否かに何の関係があるというのか。それに態々念押しされなくとも彼が危険な人物である事は見ていれば分かる。理解したくなくとも、そうなのだと思わせる奇妙な説得力がある。
「卵!今卵って言った!?存在するのか…いや、君がここにいるんだから、やっぱりそういう性質があるんだ…はは、願ったり叶ったりだ!それだけでも遠出したかいがあった!」
突然彼は驚異的な食いつきを見せ、更に機嫌が良くなった。どうやら玉子が大好物であるらしい。かなりどうでもいい。
彼は少し落ち着いて再び話し始めた。
「…まぁ、君を迎える準備はまだまだぜんぜんだし、君が寵愛の子と術師を渡さないつもりならこちらとしてはもう打つ手が無いんだ。という訳で、残念だけど今回はもう帰るよ。やることがたくさんできたからね」
「……」
「いや、そういえばまだしなきゃいけない事が残ってるんだった。予定外だけど、君のために予定を曲げよう…心を込めて、これは君への贈り物だよ」
「一体何を…」
彼が手を振り、私は魔力が動くのを察知した。恐らくそれは、信号の役割を果たしたのだろう。
何処か近くに雷が落ちたのだと、そう思った。
「……やばいやばいやばいやばいやばい!!!伏せて!早く!!」
凄まじい轟音の中で駆け寄る小娘からは、本当に余裕が無い状況である事が察せられ、勢いよく床に組み伏せられ頭を強かに打ち付けた私の意識は本日二度目の暗転を強いられた。
まさかのネタ被りに戦々恐々しつつ更新。
気にするほどではないはず…