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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

さよなら希望

作者: 浅野える

「このまま二人で逃げちゃおうか。」


優太は悲しそうに目を伏せて言った。


「心中とか良いと思うよ。」


白の手を強く握る優太は、泣いているように見えた。




白、と名付けられたその子は、齢14にして幾ら貯めればここから逃げ出せるのか、それはどのくらいで貯められるのか、何日で使い切るのかを毎夜何度も何度もシュミレーションしていた。


決して貧乏という訳はなく、平均的な経済力の家庭で育ったにも関わらず、白はいつもみすぼらしかった。


父親が汗水垂らして働き稼いだお金は母親のパチンコとお酒に消え、いつからかそれにあてられた父親も必要以上にお酒を買い込んでは白に暴力を振るった。


白に味方はいない。10歳になる頃には、私は一人なのだ、と漠然と思うようになっていた。


とは言え、最低限学業や学校行事に必要なお金は出してくれているので、まだ恵まれている方だ。目立つところに傷をつけられていないだけ良い。そう考える他に、現状を悲観視しない術はなかった。


学校ではひっそりと過ごした。勉強も運動も突出して成績が良かったわけではないものの、並みほど良いものは無いと特に気に止めることもなかった。両親は白の学力に期待しておらず、学業に関しては誉められることも無い代わり責められるようなこともなかった。


友達は一人いる。彼の名前は優太という。名は体を表すのだと教えてくれるような人だ。白にとって友達と呼べる存在は彼一人で充分だった。



「この問題解けないの?」


「うん。」


「この公式に当て嵌めるんだよ。これ、覚えたらすぐ出来るから。」



学校生活で会話をせざるを得ないとき以外に声を交わしてくれたのは彼が初めてで、白はそれがたまらなく嬉しかった。


初めは勉強を教えてくれていたが、そのうちに話が合うことが分かり、校外で会う機会が増えていった。




ある日、優太が何の気なく白に尋ねた。


「白は、死ぬことを考えたことがある?」


あまりに突飛な質問に、白は少し考え答えた。


「ない。」


ここから逃げ出したいとは思うが、死のうなどと考えたことはなかった。


「ないんだ。どうして?」


どうして?

その質問こそが「どうして?」と思う白に、返答は酷だった。

少し考えても分からなかった。

生きることが当たり前なのに、どうして途中で自ら命を絶とうと思うのか。


「私には、その問題、難しいかなぁ……。」


「そっか。ごめんね。」


謝罪の意味も分からなかった。



その日から白は、逃げ出せないなら死んでしまうという選択肢もシュミレーションの中に加えた。方法はどうするか、タイミングは、低価格で確実なものは。白にとってその時間は、優太と同じ事を考えているようで楽しかった。




バチン、と大きな音がしてすぐ何かしらが割れる音が部屋に響き渡った。

父に殴られた白がその拍子に立っていられなくなりテーブルの上の食器を巻き込んで倒れたのだ。

幼い頃から大事にしていた、可愛いうさぎが描かれたコップと、セットで買って貰ったお皿が無惨に割れている様が、まるで白自身をも割られたようで痛かった。


「学校にも行かないやつがひとの金で飯を食うな!」


今日は体調が優れないから休んでも良いかと尋ねたら良いと答えたのはあんただろう、と言い返したかったがそんなことしたらきっと殺されてしまう。


「働かざる者食うべからずって知ってる?なぁ?馬鹿だから知らないかなぁ?」


足先で白を軽く蹴りながら言う。

痛くて苦しくてどうしようもない。

助けてくれる人はいない。

母親は不倫相手と身体を交えている頃だろう。


私は。一人。


白はコップとお皿の破片が散る床に正座をし、ゆっくりと額を床につけて土下座の形をとった。


「申し訳ありません。」


脚に破片が刺さり血が流れる感覚がする。生暖かさが気持ちが悪かった。

父はそんなことは気にもとめずに、白の伏せた頭に足を置いて力をかけて踏んだ。

食器の破片が食い込み、また血が流れる感覚がした。


いつもこうして生を実感させられていたから死にたいなどとは思わなかったのだと、ふとあの質問の答えが浮かんだ。

痛みは生で、流血は生で。こんなに苦しいことはない。


死んでしまいたいとはこういう感情なのだと白は知った。





翌日、学校帰りにファストフード店で課題を片付けながら、優太にあの日の質問の答えを告げた。


「本当に?そうなの?」


「うん。」


「そっか。そうなんだ。」


サラサラと大学ノートの上で滑らせていたペンを止めて、学校指定の鞄からスケッチブックを取り出すと、そこに少し書いてその部分を切り取るように紙を千切った。


「あげる。」


「何これ?」


そこには何かの文字列があった。数字と英字が混ざっている。


「上が電話番号。下がメールアドレス。何かあったら連絡してきて。」


「私、スマホ持ってないよ。」


「知ってる。何かあったら、何とかして連絡して。助けるから。」


「分かった……。」


何とかして、と言われても持っていないものは持っていないのだからどうしようもないと思いながらも、いつも持ち歩いているお守りと一緒にポケットにしまっておいた。


「ポテト食べる?」


「食べる。」


優太はポテトを一本つまんで白の口に運んだ。


「美味しい……。」


白は人生で初めてファストフードというものを食べた。ずっとコンビニの温まっていないお弁当やおにぎりばかり食べてきた。

こんなにも美味しいのかと感動していると、「幸せそうだなぁ。」と優太が少し笑った。


「幸せだよ。優太といると、私は幸せ。」


優太の瞳が潤み目の縁に涙が溜まったように見えたけれど、次の瞬間には満面の笑みで「僕も白といると幸せだよ。」と返されきっと見間違えたのだと思った。





帰宅してすぐにビール缶が飛んできた。上手く避けることができなかった白は盛大にその中身を被るはめになった。缶は玄関扉に当たると白の足元に転がり落ちた。


「どこ行ってた?遊べる金なんか与えてないよなぁ?」


父はプシュっと小気味良い音を立てて新しくビール缶を開けた。


「友達と勉強してただけで、お金は遣っておりません。」


白ははたと気付いた。

初めて口答えをしてしまった。

玄関の端に荷物を置いた。


「勉強は一人でやるもんだろ。遊んでたんだろ分かってんだよ!」


先程開けたばかりの缶が飛んできた。避けられずまたビールを被る。鼻につく匂いに噎せ返りそうになった。


「俺より遅く帰ってくることが許されるとでも思ってんのかよ。調子乗んな。」


椅子から立ち上がり胸ぐらを掴まれたと思うと、そのまま玄関の扉に身体を押し付けられた。

振り上げられる右手に萎縮する暇もなくこめかみの辺りを殴られた。

お仕事で何かあったに違いない。皺寄せを食らうのはいつも白なのだ。


それから何発か殴られ、ようやく靴を脱いで家に上がることが許された。

息を吐く間もなく髪を引っ張りあげられ土下座させられる。


「得意だろ?ほら。謝れよ。」


「申し訳ありません。」


「家のルールも守れないのに何で友達と遊ぶことが許されると思ってんの?頭おかしいんじゃねえの?一回死んでやり直したら?」


「はい。」


我が子に死ねと言える親だということは何年も前から知っていた。はい、と言うしかないことも知っている。

口答えしたら、今日は、本当に、生きていけない。


「お前の存在がどんっだけ邪魔か分かる?分かんないよな、ゴミは自分のことゴミだなんて思わないもんなぁ!」


まるでボールを蹴るように強く強く耳の辺りを蹴られ鈍痛が生まれる。痛い。

何度殴られ蹴られたとてその痛みを身体が覚えたとて、慣れることはない。慣れてしまえたのならどれほど楽だろうか。


時間が、ただただ、長く感じた。

小汚ない床を見つめ続けてどのくらいが経とうとしているのかすら分からない。

だんだんと父の罵倒が遠くに聞こえるようになった。

痛みを痛みと認識することをやめた脳に最早何の意味があるだろう。

零れ続ける涙は枯れてくれた方がいっそ良かった。


ふと響いた「ガチャ」という音が白を現実へと引き戻した。母が帰って来たのだ。


「たでーまー。と言いつつお金ちょーだいしに来ただけでぇーす!」


父の手足が止まる。父がお財布からお札を何枚か出し母に渡す母はとすぐに出ていってしまった。


「くそ、酒買って来る。てめえは動くなよ。」


足先で軽く蹴りながら「てめえ」が白であると伝えてくる。


「分かりました。」


行ってきますも言わず家の扉が閉まる音がした。

鍵すら閉められていない。


鈍痛にまみれた頭を夢中で動かしてどうすべきなのかを考える。


どうしたら良い。どうしたら良い。死なないためにはどうしたら良い。私は生きたい。やりたいことがある。見たいものがある。行きたい場所がある。でもこのままでは死んでしまうかもしれない。そんなの嫌だ。絶対に、嫌だ。


ふと、ポケットの中のもののことを思い出した。そうだ。優太なら助けてくれる。白は一人ではないと強く思った。


鈍痛に喘ぐ身体を持ち上げて父親がテーブルの上に置いていった携帯端末をいじる。ロックが掛かっていなかったのが幸いした。

ビールを浴びて滲んだ文字をたどり、震える指でその番号へと掛けた。いつ父が帰ってくるのか分からない。時間との戦いだった。


ワンコールしないうちに優太は出てくれた。


「はい。」


「ゆ、た……?」


早く言わなくてはと焦る気持ちと裏腹に声は上手く出ない。

今白に出来るのは優太に助けを乞うことだけなのだから、それでも言うしかなかった。


「ゆ、た。……た、す、け、」


背後から大きな影が近付き、今までとは比にならない力加減で頭の上を殴られた。

父が帰って来てしまった。


「スマホ忘れたと思ったら……。ふざけんなよ動くなって言ったのが聞こえなかったのか!なぁ!この耳は何のためにあるんだよ!」


耳を引っ張られる。

痛い。

痛い。


「誰に電話してたんだ?なぁ?友達?こんなブスに友達なんか出来るわけねえんだよ!調子乗ってねえで早く帰って来て夕飯作れよ!勉強したって成績上がらないなら意味ないだろうがやめちまえ!」


「はい、すみませんでした……。」


父親は謝罪が聞きたいだけだ。それ以外は求められていない。大丈夫。きっと優太が助けに来てくれる。少し我慢すれば大丈夫。今は、そう思うしか白が強くいられる術はなかった。


「お前ほんにさぁ、何のために生きてるか分かってる?幸せになろうなんて考えるなよ。育ててやってんだから、一生掛けて返せよ。いいな?」


はい、とは言えなかった。

幸せになりたいと思って何が悪いのだと思ってしまった。

ずっとこの家に縛られるなんて、そんなの、嫌だ。

と思ったことが父には通じてしまったようで、耳を掴んでいた手を離された。ひりひりと、じりじりと痛む。

急だったためにその場に座り込んでしまう。力が入らない。


溜め息を大きく吐いて父はキッチンで何かを探し回っている。

あぁ、やっぱり、殺されるんだな。

今までのことが走馬灯のように駆け抜けていくが、その殆どに優太が居た。白はようやく、優太が好きなのだと気が付き、助けを乞うのではなくそれを伝えれば良かったと思った。


「あった。」


父が手にしていたのは料理包丁だった。父とて恐怖感が無いわけではないようで、まだ自分の殺意と葛藤している様子が見てとれた。

そんなところ見せないで。威勢を張って。


「もう一度訊く。育ててやってる恩を一生掛けて返す気はあるのか?」


白は、答えなかった。

死を覚悟しぎゅっと目を瞑った。


この世のものとは思えないような様々な音が混じり合い、何事かと目を開けると、刹那、眼前が真っ赤に染まった。


殺されたんだ。そっか、刺されてすぐは意識があるのか、なんて思っていたが、何やらおかしい。

全ての感覚が先程と何ら変わりない。


「白。ごめん……。」


赤く染まり震える手に、父が持っているはずの料理包丁を持つのは、紛れもなく優太だった。それからは、赤黒い血とおぼしきものがぽたりぽたりと垂れ続けている。


「優太……。」


「助けに来たけど、助けにならなかった……。ごめんね。」


優太は、私のために父を殺してくれた。

それが何故助けにならないと言うのか、白には分からなかった。


「手、洗ってきた方が良いよ。お父さんの血、汚いから。」


「うん。」


優太はゆっくりと床に包丁を置き、洗面台で手を洗う。

死体となった父を見る。下腹部を刺したようで、着ていたシャツはそこを中心に血に染まっていた。

すると父はぴくりと動き、手を少し動かし、腕を動かし――。


生きている。こいつは本当にしぶとい。早く死んでしまえば良い。


気が付くと包丁を手に取り父親を何度も何度も刺していた。


「白、もう死んでるよ……。」


「死なないよこいつは!何で!何で!何で!何で!何で!何で!」


「もう大丈夫だから、白も、手、洗っておいで。お茶を飲もう。」


「……うん。」


洗面台に行き入念に両手を洗う。爪の間に入り込んだ鮮血を確実に洗い流せるように、しっかりと、何度も洗う。

こうやって過去も何もかも洗い流せてしまえるのならばどれほど楽だろうか。




優太が淹れてくれたレモンティーを飲んでいると、唐突に現実を見たかのような表情で言った。


「このまま二人で逃げちゃおうか。」


優太は悲しそうに目を伏せている。心なしか、その声は震えている。


「心中とか良いと思うよ。」


白の手を強く握る優太は、泣いているように見えた。


「優太がそれを望むのなら、私は何だって良いよ。」


「そっか。取り敢えず、どっか行こう。ここから、逃げないと。捕まっちゃうよ。」


「うん。」


白は少ない荷物をリュックサックに詰めた。


「行こう。」


優太に差し出された左手をとる。

優太と強く手を握り合い、どこか知らない遠くを目指す。

それがどこかは分からない。

でも、きっと、ここよりはずっと、綺麗で素晴らしい場所に違いない。


ずっと背負い続けてきた絶望は、父の亡骸と共にあの家に置いてきた。

こんなにも明確な形の希望を、白は初めて見ることが出来た。




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