第4話 三つの詠唱句と秘密の願望
「まず催眠魔法を成功させるには、こちらが相手の心理を読み取り、精神的に優位に立つ必要がございます。そして、相手の潜在的な欲望を刺激することで、相手の行動を操ります。そのために用いる魔法が、こちらになります」
古代語で書かれた幾つかの魔法の詠唱句。レントはそれを頭に刻みこむ。
『其の心、我が心に通ず。なにごとも秘匿せず、我に明かせ』
『其の欲望について問う。何を求め、何を欲するか。我が前に曝せ』
『我は其の求めに応じ、其は我が命に従う。意のままに動くものなり』
「この三つの詠唱句が基礎となります。レント様、それでは私に続いて詠唱をしてみてください。『其の心、我が心に通ず。なにごとも秘匿せず、我に明かせ』」
レントはクリームヒルトの詠唱を聞くが、魔法は発動しなかったのか、効果は発現しなかった。彼女が言うとおり、過度な期待はしない方が良いのかと思いながら、レントはクリームヒルトの顔を見ながら呪文を唱えた。
――初めの一音を発するときには、レントは自分の中にありながら、今まで実感することのできなかった魔力の存在をはっきりと感じた。
「『其の心、我が心に通ず。なにごとも秘匿せず、我に明かせ』」
「っ……!?」
詠唱句が完成した瞬間、レントは自分の魔力が失われる代わりに、新しい力を得たような全能感を覚えた。
「……レント……さま……はい、おおせのままに……」
その変化は、劇的なものであった。クリームヒルトの瞳にあった知性を湛えた光が弱まり幻覚でも見えているかのようにとろんとする。
(これが催眠魔法……成功したのか? 目に見えて変化が分かるそうだけど、これは……)
成功か失敗か、それは確かめるまでもないと思えた。いつも家庭教師としての距離感を保ち、優しいながらも厳格さを感じさせたクリームヒルトが、警戒も何もなく、顔を赤らめてレントを見ている。
「レント様、わたくしに、秘密ごとなどございません。なんなりと、お尋ねください」
常にレントを教え諭そうと語りかけてくる彼女が、従順そのものの言葉を口にする。
元々異性に対し、多大な関心のある年頃だったレントにとっては、それはまさに一度は夢想したことのある状況そのものだった。催眠が効いている状態なら、レントが何を要求しても彼女は受け入れるだろうからだ。
(しかし、クリームヒルトさんは先生だし……催眠が解けたら、俺のしたことは……いや、待てよ)
まだ、レントは詠唱句の一つ目を唱えただけだ。『其の心、我が心に通ず。なにごとも秘匿せず、我に明かせ』という詠唱句が効果を表したのであれば、クリームヒルトはどんな質問にも答えるようになったというだけで、命令を聞くということにはならない。
二つ目の詠唱句は、『其の欲望について問う。何を求め、何を欲するか。我が前に曝せ』というものだ。つまり、どんな質問にも応じるようになったクリームヒルトに、彼女の持つ潜在的な欲望について問いかけ、それを聞き出すだけ――一つ目の詠唱句が成功した時点で、二つ目も自動的に成功することになる。
今もクリームヒルトはレントの質問を待っている。レントは高鳴る心臓を抑え、その濡れた瞳を見返しながら、こくりと喉を鳴らした。
(彼女がどんな欲望を持っているのか。教えてもらえるのか……普通なら、絶対に教えてもらえないようなことなのに、こんなに簡単に……)
書斎に二人きりでいるという状況が、レントにとって最後の後押しとなる。誰にも知られずに、催眠魔法の習得に集中することができるのだから。
「クリームヒルトさん。貴女は、僕の質問に全て答えなければいけません」
「はい、レント様。どんなご質問でも、お答えいたします」
その受け答えは普段の彼女と変わらないが、催眠魔法が効果を発揮していることは、彼女の目を見れば分かった。普段その瞳にある、「子どもを愛でる」という母性からくる感情が、そこにはない。
その瞳は、主人を見る目でレントを見ていた。十歳の少年が、二十歳の女性を支配している。その背徳感は、レント自身が客観的に見ても、許されざることをしていると思わせるには十分だった。
それでも止まるわけにはいかない。領内の不穏分子の反乱を防ぎ、敵対する者でも有能ならば従え、家来とする。それができれば、若くして伯爵位を継ぐことになったとしても、統治を盤石のものにできる。
領民に甘く、家来に陰口を叩かれる父レイリックも、レントにとっては尊敬すべき父であることに違いはない。父が引退したあとも両親に悠々自適の生活を送ってもらうためにも、手段は選んでいられないのだ。
「では……次の詠唱句を唱えさせてもらいます」
「はい。わたくしはいかなる詠唱に対しても、対抗措置を講じません」
「よろしい。『其の欲望について問う。何を求め、何を欲するか。我が前に曝せ』」
二つ目の詠唱句を口にすると、クリームヒルトの頬が赤く染まりはじめる。元々白い肌をしている彼女が赤面すると、まさに真っ赤なりんごのようだった。
(催眠をかけていても、羞恥は変わらない……か。なかなか、罪深い魔法だな)
だが、レントには懺悔をするつもりなどない。クリームヒルトが艶やかな唇を震わせ、長くためらってから、答えを口にする。
「わたくしは……だ、男性と、親しい交流を持ったことがなく……子供の頃から、魔法学院の寮に入り、勉学に励んでおりました。その、反動といいましょうか……自分でも、自覚がなかったのですが……」
「自覚……それは、何のですか?」
クリームヒルトは唇を震わせ、レントの前で立ったまま、所在なさそうに自分の身体を抱くようにする。
それでも答えようとしている――急がずに、レントはただ待ち続ける。彼女の葛藤がどれほどのものかは、白い顔が紅潮し、耳まで赤くなっていることから明らかだった。
しかし、羞恥だけではない。クリームヒルトの目には、レントに対する別の感情があった。
(女の人が、はっきり俺を意識している……催眠がかかっているからといえばそうだが、これは……)
告白させるのは催眠の力であっても、その内容は、元から彼女の中にあったものだ。それを満たしてやることで、三つ目の詠唱句が効果を成し、完全な従属が成立する。
「わたくしは……そ、その……レント様に勉強を教えるようになって、気が付いてしまったのです。あなたさまのような、無垢な少年を、思うままに甘やかしてさしあげたい……真面目な顔をして授業をしながら、常にそう思っていたのです。レント様の横顔を見ているうちに、抱きしめてしまいたいと思うこともございました……よくできました、とお褒めするたびに、照れているレント様のお顔が、本当に……愛らしくて……」
「……クリームヒルトさん」
十歳の少年に対して、そんなことを考えているなどと。家庭教師として毅然とした態度を取っているように見せておいて、その内側は――そう思うと、レントの中でクリームヒルトと共に過ごした今までの時間が、がらりと意味を変えてしまった。
(こういう趣味は、基本的にはいけないものだが……で、でも、嫌じゃないしな……俺の精神は大人みたいなものだし。しかしクリームヒルトさんは、俺を無垢な少年として見てるんだよな。まあ、無垢といえば無垢だが)
前世では女性経験のないまま命を落としたので、普通の十歳よりは知識があっても、未経験であることに違いはない。
そういった方向に行ってはならないと思っていたのだが、催眠で聞き出した願望の種類によっては、それを満たすために触れ合うことも必要になるとレントは気が付く。
「……クリームヒルトさん、それで、僕をどうしたいと思ったんですか?」
愛らしいと思った、というだけではすまない。その先まで聞き出さなければ、とレントは思う。
頭に血がのぼり、全身が熱くなっている。それでも冷静を保ったままでいようとするのは、多大な忍耐を必要とすることだった。しかし本能のままに振る舞えば、催眠魔法を学ぶという本分から離れてしまう。
クリームヒルトは眼鏡の位置を直すと、座っているレントの前に膝を突き、彼を敬うように見上げながら言った。
「……わ、わたくしでよろしければ……レント様が、ゆくゆくは立派な殿方となられるために、手ほどきを……させていただきたいと、思っておりました……っ」
言い切ったところで、二つ目の詠唱句で示された条件を満たした――それが、クリームヒルトの秘めた願望の核心だった。
とても遠回しに言ってはいるが、『立派な殿方』になるための手ほどきとは、つまり何を意味するのか。レントには一つしか思いつかない。
「……それは、その……僕はまだ、十歳なんですが……」
「は、はい、そんなことを考えてはいけないと分かっております。少しでも思っただけで罪になるような考えです……こんなことをレント様に知られたら、わたくしはその場でお暇を出されても仕方がありません。それでも、ずっと考えずにいられなかったのです……」
「それは少年好きというわけじゃなくて、僕だから……と考えていいんですか?」
「……はい。レント様が初めてです、こんなふうに感じたのは。わたくしは、それほど見境のない女ではないつもりです」
それを確かめることで、最後の詠唱句に進むことへの迷いが消える。
『我は其の求めに応じ、其は我が命に従う。意のままに動くものなり』
その詠唱句が意味するものは、催眠魔法を完成させるには、彼女から聞き出した願望を満たさなくてはならないということである。
少年である自分に対しても、許される範囲でできること。いや、触れ合う自体が許されないことなのかもしれない――と思いつつも、レントは彼女にそれを求めようとする。
「……クリームヒルトさんがそこまで思ってくれているなら、僕は貴女の気持ちに応えたい。どんなことであっても構いません、僕は貴女に感謝しているんです」
「わたくしは、まだレント様にそこまで言われるようなことは、何もできておりません。そんな私の、浅ましい願いをかなえていただくなどと、お、おこがましいことで……」
辞退するにも言葉が弱いとレントは感じる。彼女自身も、レントの申し出を受けたいという気持ちがあるからだ――そう察すれば、後は押すだけだった。
「今までで貴女がしてくれたことで足りないと思うなら、それは間違いです。今だって、僕に催眠魔法を教えてくれた。それがきっかけというのは予想していませんでしたが、本当の気持ちが聞けて、僕もとても嬉しいと思っているんです」
「……レント様」
催眠がかかっていても、女性の心を開くために言葉を尽くすことに変わりないのだと考えながら、レントはクリームヒルトの最後の自制を解こうとする。
そしてレントは、クリームヒルトの眼鏡に手を伸ばし、そっと外した。彼女の素顔を見るのは初めてだったが、大人びていながらも、レントに対して向ける今の瞳は純真そのものだった。
(俺なんかより、彼女の方がずっと無垢だ。そんな彼女に、俺は……)
自らを悪人だと自覚しながら、レントはクリームヒルトの頬に触れる。その手に自分の手を重ねたあと、クリームヒルトは瞳を潤ませ、安堵の微笑みを見せた。
「……良かった。こんなことを打ち明ければ、レント様から遠ざけられるものと思っていました」
「いえ。僕こそすみません、クリームヒルトさんは我慢していたのに、僕のほうが抑えられなくて」
「わたくしは……素直な気持ちを申し上げるなら。どれほど恥ずかしい思いをしても、伝えられて良かったと思っています。家庭教師の役目を終えるまで、この胸にとどめたままだと思っていましたから……」
そう言って、クリームヒルトは自らの服の胸元に手をかける。
彼女がレントに対してしたいと思っていたこと。それはレントが想像するよりもずっと大胆で、それでいて、彼女らしい母性に満ち溢れた行為だった。