【中】名前に捻挫に爆発炎上!
「……ごめん」
たったの一言を境に、オレの視界がぐわんと回って天井へと向いた。
「ひゃあっ」
揺れる体が危機を感じて、反射的に草太の首に腕を回す。
「なっなっなっ……!」
草太の顔がやたらと近い。無人の下駄箱でオレの怒声だけが響いた。
「おろせ、おろせよ馬鹿ぁ!」
「あんまり騒ぐと、他の人に気づかれるかも」「っ!?」
オレの方を見向きもせず前だけを見て淡々と言い放つ草太。いつもからじゃ考えられないほどの強引な姿勢は有り体に言って癪に触るけど、かといって他の人に見られでもしたら一巻の終わり。
「ちょっと走るから、捕まってて」
つまるところ、オレは草太に従うしか選択肢が無いわけで。
ああもう本当になんでこうなった! お姫様抱っこなんて精々漫画か、先週の鬼面バスター武神ぐらいでしか見た覚えないわ! なんでこんなことになった、なにをどこで間違えた。
この3週間と1日分の出来事が、走馬灯のように脳裏に浮かぶ……。
◇
乾と友だちになってから3週間が経過した。土日を飛ばせば15日ほどだけど、その間に起こってしまったイベントの回数は目測7回。あるいは2~3日に1回の事故率とも言える。そう、事故である。事故の種別を一言で表すならば、要するにラブコメ事故である。
ケース1。消しゴムを落としたとき。
「「あっ」」
ちなみに乾はオレの斜め前の席だ。
ケース2。オレがノートの運搬を先生に頼まれた時。
「あ、虎泰さん。僕も手伝うよ」「お、おう。ありがと……」
結局あいつは、オレの2倍のノートを軽々と持ち上げていった。眼鏡の癖に意外と力がありやがる。
ケース3。曲がり角でぶつかった時。もとい曲がり角でぶつかったけど乾はあっさり衝撃を受け止めて、オレだけが反動で倒れそうになった時。
「大丈夫!?」「ぁ……! だ、大丈夫だからいい加減手ぇ離せ!」「あっ、ご、ごめんなさい!」
倒れそうになるオレを引っ張ったその手は、やっぱり意外と力強くて。この時が一番心臓に悪かったかもしれない。
とにもかくにもそんな感じのことが計7回。乾と友だちになって全部解決! しかも鬼面バスター好きの同士もできて一石二鳥! ……かと思っていたのに、事故が起こる度にどうにもこうにもまだドキッとしてしまうのは何事か。
オレがちょろくないことを、乾に惚れてなんかいないことを証明しないとオレの男としてのプライドに差し障るし、なによりもあの……あ! の! クソ兄姉たちにまた笑われてしまう。まだ戦いは終わっていない、気を引き締めて日々を過ごさねば!
それはそうとこの3週間ちょっとで、乾とはラブコメ事故云々を抜きに普通に仲良くなってきた。少なくとも……放課後、高校の図書室で一緒に期末試験のテスト勉強をするくらいには。
図書室はB棟の2階にある。
広々とした室内の半分ほどは整然と立ち並んだ本棚で占拠されており、クーラーの涼しい風と紙の匂いが室内全体に漂っていた。その部屋のもう半分のスペースには、これまた整然と並べられた木製の大机が。オレと乾はその机のひとつをふたりだけで使って、ノートと教科書を広げていた。
長方形の大机にはそれぞれ6人分の座席が用意されていたけど、テスト週間だというのに運のいいことに人影は疎ら。席が丸々空いている机もあり、それを乾と向かい合う形で贅沢に使わせてもらっているのだ。
「うーん、この計算どうやるんだろ……というかこんなのどこで使うんだろ。人生足す引く掛ける割るができれば大体生きていけると思うんだけど」
「強いて言うなら今必要なんじゃないかなぁ、赤点取らないために」
「そーいう眼鏡らしい正論いらないから」
「め、眼鏡らしいって……まぁいいや、ちょっと見せて。えっとそこは、この式をたしかちょっと前に習ったこのページのやつを……あれ? これじゃなかったっけ……」
「あ、自己解決した」「えっ」
ノートにペンを走らせて、できあがった解答を乾に見せる。
「あ、なるほど。そっちだったかぁ、すごいね虎泰さんは」
なんて言いながら呑気な笑みを浮かべる乾。この眼鏡、前々から疑ってはいたけどもしや……オレは乾へとジト目を向けた。
「……乾って、眼鏡なのに意外と勉強できないんだ」
「うっ。一応中の中ぐらいは維持してるんだけど……」
「えー、てっきりクラスで五本の指に入ったり学年でトップ10だったり、そういう設定でもあるかと思ってたんだけど。そんなんじゃむしろオレの方が頭いいかも」
「……わりと色んな人に似たようなこと言われるんだけど、みんな眼鏡に偏見持ちすぎじゃない? ついでに『スポーツできなさそう』ってのもよく言われる」
「違うの!?」
「あれっ、一応テニス部のレギュラーなんだけど、こないだ話さなかったっけ? いやうちのテニス部大して強くないし人も少ないから威張れる話でもないけど……」
「うそうそ、ちゃんと覚えてるよ。ただ眼鏡がすべからく勉強できるもんだとは思ってたからそっちはがっかりだ」
「そんなぁ、勝手にがっかりされても……」
がくりと首を落とす乾の様子に、オレは軽い笑みを浮かべる。出会った頃に比べると、乾はオレの予想通りだいぶ砕けて話すようになってきた。まだ時折挙動が怪しくなることもあるけど、それも個性と思えば悪くない。
しばらく付き合ってみて分かったけど、要するに分かりやすいのだこいつは。どうやら挙動不審は元来の性格由来というか、例えば緊張はすぐ顔に出るし楽しい時は素直に喜ぶ。だから意外と肩肘張らず気楽に付き合える……のかもしれない。
そんな乾と勉強を続けて1時間ほど。頭の良くない眼鏡くんはどうも痺れを切らしたらしく、
「そういえば、今週の鬼面バスター武神見た?」
唐突に明後日の方向へと話を振ってきた。
あ、これテスト勉強忘れる流れだ。頭の片隅で予感こそしたものの、話が話なので喜々として忘れることにした。優先順位がね、違うのだよ。
「見た見た。今までずっとつんけんしてたヒロインの姫様がやっとデレたな! 30話以上かけただけあって、正直あれはぐっと来た……つうか今作、元々ヒロインに関してはシリーズ中でも5本の指に入るくらいの可愛さだったけど、今回のでトップ争いに躍り出て……あーでもヒロインだけならやっぱ黒髪ロングの正統派美人なXが一番だー! 話はわりとアレだけどー!」
鬼面バスターの話になると、ちょいちょい男口調に戻ってしまうのは仕様だ。ヒーローの前では人は皆少年に戻るのだ。
「あのシナリオも味があって嫌いじゃないんだけどね、個人的に。でもそういうアレで選ぶなら炎が好きかなぁ僕は」
「炎? 11作目だっけ」「そうそう」
「あれのヒロインって、たしかショートカットで天真爛漫な子だっけ……へぇ、ああいうのが好みなんだ乾は。あの人今結構人気で、こないだも写真集とか出してたんだっけ? もしかして買ってんの?」
「そっ、そういうのじゃなくて! ほら炎はヒロインの使い方が上手かったっていうか、普通影薄くなりがちじゃんあのシリーズっていうだけで! そ、それより勉強しよう勉強!」
「露骨に話を逸らしてくるとは初いやつだなぁ、まぁ今回は見逃してやるか」
「べ、べつにそういうわけじゃ……」
打てば響くリアクション。こいつ弄るの結構面白いなぁ。しかしオレは姉貴と違って加減を大事にできる男。女だけど。このネタはまた別の機会にとっておこう。というか、入口近くのカウンターにで受付やってる図書委員の女子がこっち見てるし。オレたちは目を付けられる前に勉強を再開した。
カッ、カッ、カツッ、シャー……。
シャーペンが紙を叩いて滑る音ばかりが聞こえ、その中に互いの声……会話だったりひとりごとだったりがぽつぽつと混ざる。30分ほど勉強してふと気づいた。向かい側からはペンの音も乾の声も消えている。見上げると、乾は勉強の手を止めてぼんやりとオレ……というか、オレの頭上辺りに目を向けていた。
「乾?」
「えっ……あ! ご、ごめん虎泰さん! な、なんかぼーっとしちゃって……」
その反応を見て思った。……やっぱり、分かりやすいやつだ。
「いいよ、ごまかさなくて。……気になるんでしょ?」
「な、な、な……なんのことかなぁ」
震える声と逸らされた視線。隠すなら隠すでもう少し努力のひとつでもしてほしいけれど、オレとしては"それくらい"ならべつに隠すようなことでもない。オレは乾が思っているであろうことをずばり言い当ててみせる。
「だからべつに気にしないって。気になるんでしょ、私の……」
「ふへぇ!? そんな――」
「……猫の髪飾りが! 可愛いもんねこれ。結構似合ってるっしょ。へへっ、自分でも実は気に入ってるんだ」
髪に付けてるそれをピッと指差しながら笑ってみた。一瞬しんと静まる場。目をぱちくりさせる乾。あ、あれ? なにやら想定と違った展開にむしろオレが目をぱちくりさせた、その直後。
「ふぁぁぁぁぁ……」
大きなため息ひとつを吐いて、両手で顔を恥ずかしそうに覆って。
「……はい、見てました。そうです見てたのは髪飾りです……」
あ、良かった当たってた。しっかしこんなことで耳まで真っ赤にして、前々から思ってたんだけどテンションの振れ幅激しいなこいつ。オレとしてはこの髪飾り、女子の友だちにもよく「可愛い」って言われるし、お気に入りなのだから注目される分にはむしろ嬉しいまであるんだけど。
まぁせっかく髪飾りの話が出たし、あの持ちネタでも引っ張りだしてみようか。勉強再開のために、乾の緊張をほぐしてやる必要もある。
「ねぇ乾。なんで私がこの髪飾り付けてるか分かる?」
「え……? いや、特に心当たりは……」
乾の指の隙間から、眼鏡のレンズが顔を出す。どうでもいいけど、それ指紋とか大丈夫なんだろうか。
「ヒントはふたつ。この猫の模様と、私の名前ね」
「えっと……猫の模様は茶色の縞々……たしか『茶トラ』って言うんだよね」「そうそう」
いつの間にやら顔から手を外して、真剣に考え始めた乾……あ、一回眼鏡を外して眼鏡拭きをポケットから取り出した。やっぱり駄目だったのか。乾は眼鏡を吹きながらひとり呟く。
「それで名前が、虎泰梓茶……茶トラ模様……あっ、トラか」
乾は閃きついでに眼鏡をかけ直し。
「なるほど。虎泰の『虎』と梓茶の『茶』で」
「そういうこと。ついでに言えば知ってると思うけど、男時代の私の名前って『和茶』でさ。こうやって描くんだけど……」
ノートに名前を書いてみせると、乾は「あっ」と声を上げた。
「そっか。こっちにも『茶』って入ってたね」
「そ。だから結構馴染みがあるっていうか、元々小学生の頃から『茶トラ』ってあだ名で呼ばれててさ。当時の私はごく普通の短パン小僧だったからあだ名が猫由来だなんて可愛げありすぎて、それがちょっと馬鹿にされてる感じで嫌だったんだけど。それを知った姉貴や兄貴なんかも面白がってそう呼んでくるし、気づいたらなんか定着してて」
「へぇ、そんなことが……あれ。でも虎泰さんってクラスではよく『トラ』って呼ばれてるよね。『茶』が消えちゃってる」
「ああそれ? ぶっちゃけちょっと言いにくいじゃん、『ちゃとら』って。だから気づけば『トラ』だけが残ってたってわけ。まぁそんなこんなでオレも毎度あだ名で呼ばれるうちになんか気に入っちゃってさ。少なくとも、こんな髪飾り付けるくらいには。それに今は女の子だから、可愛いあだ名なんてむしろオイシイしね! 以上、解説終わり!」
すっかり己の一部となったわりと自慢のあだ名について語り終え満足したオレ。一方の乾もぱちぱちと小さく手を叩いて感心の素振りを見せる。オレがその反応に満足度を深める中……乾はごく自然に、ひとりごとでも呟くかのように、ぽろりと言葉をこぼした。
「はぁー……虎泰さんが『トラ』ってよく呼ばれてるのは知ってたし、ちょっと厳つい感じだなぁとか勝手に思ってたけど、正体が猫って分かると……確かに可愛いね」
緩い笑みから、ぽんと投げられたその一言。オレは一瞬だけ言葉を失って、
「……はぁ!? か、可愛いって」
「ひぃごめんなさい! 今のはつい思っちゃったっていうか虎泰さん自分で可愛いって言ったから大丈夫かなって感じですみません!」
怯えて竦んだ乾の挙動でハッと気づく、自分が椅子から立ち上がっていた事実に。
と、刺すような視線を感じて首を曲げればカウンターからは図書委員が氷柱のように冷たく、鋭い視線を投げかけていた。その冷気で頭が冷える。オレは乾に謝ってから着席した。
「こ、こっちこそごめん……」
冷静になると自分の行動に疑問が浮かんだ。なんでこんな過剰反応してしまったんだろう……オレは実際、自分のことそこそこ可愛いと思ってるし口に出しもした。だから乾の感想だって、べつに怒るところは無いのに。
……振り返ってみれば、なんというか赤っ恥をかいてしまったような気持ちが湧いてきて。オレは自分からそそくさと話を打ち切った。
「べ、勉強再開しようか! もうすぐ図書室閉まっちゃうし!」
「そ、そうだね」
さぁ気を取り直して勉強再開だ。と思った矢先、
「でも、あだ名か……」
静かな呟きが聞こえた。その時ふと頭に浮かんだ提案は、取り立てて理由なんて無いもので。強いて言うなら「こいつならいいかな」と思ったから。
「お前も呼ぶ? トラって」
「え!? そ、そんな恐れ多い!」
今のどこにそんな反応をする要素があったのか。ってこっちが驚きそうになるくらい、目をまんまるに見開いて驚きを露わにする乾。打てば響くリアクションは、やっぱり喋りがいがある。
「恐れ多いって……べつに仲良いやつは大抵そう呼んでくるし、特別じゃないからこんなの。あ、そうだ。私も『草太』って呼んでいいかな。それでおあいこってことで。それともなんかあだ名があれば――」「あだ名とか無いんで名前で大丈夫です!」「お、おう」
こいつなんかテンションおかしいな。名前ひとつでこんな一喜一憂するなんて……はっ、もしやぼっち……じゃないよなぁ。休み時間とか普通に他の男子と喋ってるところ見るし。
さっき乾の考えを言い当てたように、読心にはそれなりに自信あったんだけど……と、オレの思考は乾の言葉で中断された。
「……そ、それじゃあ」
「うん?」
ちょっとだけ、間を置いて。
「僕も……あだ名じゃなくて、名前で呼んでもいい、かな……」
乾の思わぬ申し出に、思わず口から疑問が漏れる。
「なんで?」
「た、大した理由は無いんだけど! ただなんというか僕、人のことを呼び捨てにするのちょっと苦手というか……だからって『トラさん』って言うのもそれはそれで微妙にしっくり来ないし、だったら名前呼びの方がいいかなってだけで……あの、自分の都合でワガママ言ってすみません……」
「いやいや、なんとなく分かった」
こいつに『トラ』って呼ばれると確かに違和感すごいというか乾のくせに生意気だ感あるな……失礼な脳内イメージを浮かべて納得。それに名前でもあだ名でも大差ないし、オレとしても断る理由が無いので。
「じゃあいいよ、名前でも」
すると視界に映る顔は、ぱぁっと表情を明るくして。相変わらずなリアクションだけど、嬉しそうな表情を見せられるのは悪い気分じゃない。
「それじゃ早速呼んでみよっか。ねぇ草太」
「は、はい!」
「こら、もうちょい静かにしなって。これ以上騒ぐと本当に追い出される。てかほんと一々大げさだなぁ」
「ご、 ごめん……なにかな? あ、梓茶さん」
……む。実際呼ばれてみると、ちょいくすぐったい感じだ。こいつに釣られて柄にもなく照れてるのだろうか。まぁ……やっぱり悪い気はしないので良しとしよう。
「や、大した話じゃないんだけどさ……さっきのヒロイン話で思い出したんだけど先週の武神、CG凄かったよねって。姫様奪還する時の」
「あ、それ分かる。今後の予算が心配になるくらい……」
「そういや今週はCG全然使ってなかったもんなぁ……まぁでもその分めちゃかっこよかったよ。それに……やっぱ憧れるよね、ああいうお姫様抱っこってのは」
「え、梓茶さんもああいうの憧れるの?」
意外だ、とでも言いたげな表情をしてきた草太。だけどオレとしてはその反応がむしろ意外だ。だってさ……男の子なら、誰も一度は憧れるじゃん! なにせ――
「そりゃあもう。颯爽と美少女を抱きかかえて悪漢から助けだすって、最高にかっこいいシチュエーションじゃん!」
◇
草太を草太と呼ぶようになった次の日の3限目は、体育の授業だった。
男女共通のハーフパンツに半袖の体操服。男女に分かれてグラウンドで持久走を行い、終わったあとも別れたまま男子はサッカー、女子はソフトボール――必ずしも試合形式じゃなくて、キャッチボールなんかでも可。そこら辺はわりと自由――に興じていた。
オレも当然女子に混ざって友人のひとりとキャッチボールをしていたのだけど、ぶっちゃけると自由に走り回れるサッカーの方が羨ましい。隣の芝生が青いせいか、友人が投げたボールをミットで受け取っては向こう側に投げ返し続けるだけの単純作業は、5分もしないうちに面白さよりも退屈感が勝ってきた。
男子はいーなー、こういうときだけ都合よくあっちに戻れないかなー……羨ましがりながら、グラウンドの約半分を使ったコートの中。そこを走り回る男子たちを目に映す……
「おっ」
すぐに、なにやら存外活発に動きまわる眼鏡の男子が目についた。草太だ。
パシン。飛んできたボールに気づいて左手のミットに収めるも、オレの視線はすぐにまた草太の方へと戻っていく。
いわく『あまり強くはないテニス部のレギュラー』という肩書を持っているらしいけど、なるほどあの姿を見ればそれも頷ける。周りの男子に負けず劣らずグラウンドを走り回り、連携のために声を上げる姿がなにやら様になっていた。
にしてもあいつ、制服姿じゃ気づかなかったけど、ああいうラフな格好してると意外に足とか引き締まって……「トー、ラー……」
「ちゃん!!」「うひゃあ!」
背後から響いたソプラノボイスと背中にのしかかった重み。次に感じたのはふにょんと潰れて自己主張する柔らかい感触。続いてオレの両肩からにゅっと細い腕が伸びる。驚きながら首だけで振り返ってみれば、幼い子供のようにまんまるな瞳と目が合った。ついさっきまで、キャッチボールを一緒にしていた友人Aもとい、
「さ、咲!?」
彼女の名前は『間 咲』。咲はオレに抱きついたまま、その童顔に意味深な笑みを浮かべてみせる。
「んふふー。トラちゃんってばキャッチボールだからって、マジでボールをキャッチするだけなのはどーなのかなぁ?」
「あっ、こ、これは……」
言われて気づいたミットの中のボールの存在。オレは慌てて咲に謝った。
「ごめんごめん。ちょっとサッカーが羨ましくて……」
「乾くん、見た目よりも結構運動神経いいよね」
「そうそう、思ったよりも引き締まった体してるっていうか……はぁぁぁぁ!?」
驚きのままに背中の咲を全力で振りほどくと、オレよりもちょっと背の低いあいつはひょいと飛びのき、軽くたたらを踏みながら地面に着地した。
長い茶髪の一部を両耳の上辺りでそれぞれ纏めた、いわゆるツーサイドアップの髪が咲の動きに合わせてふわりと揺れる。……ついでにその、大きな胸も揺れる。正直眼福だ……とか言ってる場合じゃない。これじゃあまるで、
「べ、べつに草太のこと見てたわけじゃないから! 単純にサッカーが羨ましかっただけなんだからな!」
「うーん、なんともベタな反応。本当に?」
「ほ、本当だって。草太はたまたま目についただけだし」
そう、それ以外にありえない。だからここでちゃんと否定しておかなければ『虎泰梓茶が乾草太に懸想をしている』なんてあらぬ噂が広がりかねない。女になって女の輪に入るようになって、直に理解したことがある。げに恐ろしきは女のネットワーク、やつらはゴシップに飢えている猛獣だ。
とはいえ咲だって、オレがついこの間まで男だったことを知っているんだ……特に、こいつは。
だからちゃんと釘をさしておけば、オレが草太に惚れるはずないって分かってくれる――
「でもすっかりクラス中で噂になってるよ? 主に女子の間では。最近ふたりの仲が急接近してるって」
「もう広がっていたのかよあらぬ噂ー!? 女のネットワーク怖すぎる! えっ、だって私の前じゃみんなそんなこと一言も……」
「そりゃあ程よくおもしろ……もとい、時が熟すまでは言わぬが華というやつで。新人女子のトラちゃんにゃ早い話かもしれないけれど、裏と表の使い分けも女子力だからほら」
「そんな闇の女子力知りたくなかった!」
くっ、まさか気づかぬうちに外堀から埋められていたなんて。だけど自らのプライドのため、そしてなにより兄姉たちに打ち勝つために、周りなんかに惑わされず毅然と自分の意見を突き通す! それがデキる男もとい女の証明!
「で、単刀直入に聞くけどどこまで進んでるのかなぁ? いつの間にやら名前呼びになっちゃってるし」
「あのなぁ! 名前呼びだけで惚れた腫れたってなるならオレお前のことだって名前で呼んでるし、じゃあオレたち付き合っちゃうか!? 正直さっきのしかかられた時の柔らかさにちょっと興奮したし一向に構いませんが!」
咲が哀れみの目を向けた。
「トラちゃんのそういう残念なところ、友だちとしては好きだよ結構。友だちとしては」
「やめてよマジ答えすんの。普通に心折れるじゃん……」
相手が相手だから二乗の勢いでメンタルにサバ折りが入った。自爆して凹むオレをよそに、咲は可愛らしく顎に人差し指を当てて「んー」と少し悩んでから、今度はその指をピッとオレに向けてきた。
「つまりさ、トラちゃん的には自分はまだまだ男の子だから同性みたいな相手に恋なんてしないと。そう言いたいわけだ」
どうやら自爆芸の甲斐はあったらしい。オレは顔を上げてほっと一息付いた。
「よかった。やっと分かってくれ」「でもトラちゃんちょろいからなぁ」「は」
ぽかんと口を開いたオレの脳裏に過ぎったのは、いつぞやの姉貴の大爆笑。言葉にしがたい怖気に背中が震える。
「そりゃトラちゃんがご盛んな男の子だったのは私よく知ってるけど、それ以上にちょろさが先立つっていうか、ころっと一目惚れくらいしてもおかしくないっていうか」
「ねぇ待ってそれ以上はちょっと待って」
半ば無意識的にミットの中からボールを取り出し握りしめる。
「だってほら昔、私が趣味で作ったお菓子をお近づきの印に上げただけで」「待てっつってんだろうがゴルァ!」自己ベストの豪速球が咲の腹に突き刺さる!
……こともなく、咲は可愛さに見合わぬ鋭い反射神経を見せて自分のミットでボールを受け止めやがった。
「トラちゃん……さっきは投げ返さないし今度はキャッチさせる気ないし、私友だちとしてちょっと悲しいよ。キャッチボールっていうのは、人の心を通じ合わせる競技でもあるんだよ?」
「人の心にデッドボールぶつけてきたやつがキャッチボール語るんじゃねぇよ! 大体お前なー! もし誰かに聞かれでもしたらどーしてくれるんだよ!」
オレはずんずんと咲に近づく。そして口調が戻ってしまうほどの怒りを右手の五指に込めて、全力で咲の頬を引っ張ってやった。
「いひゃいひゃいひょーはんらっへひょーはん!」
痛い痛い冗談だって冗談! だろうか。仕方ない、仮にも一度惚れた弱みがある。適当なところで手を離してやると、咲の頬がぽにゅんと元に戻った。引っ張られて赤くなった頬を抑えながら、咲はオレから距離を取った。
「まったく、お前だって他人事じゃないだろうに……」
ろくに悪びれもせず呑気に頬を擦る咲に、オレはため息をつかざるをえない。その理由はさっきの一連の会話が既に示している。そう、オレが3年前に勘違いして告白した相手はなにを隠そう、この目の前の少女なのだ。
当人がさっぱりとした性格なのでフラれてからもこうして友だちとしての関係を続けられているし、正直オレが早々に女子に馴染めたのも彼女のおかげが大きい。そんなこんなで女子の友だちじゃ一番仲いいけど、だからこそ容赦しないスタンスです。
「うへへ、めんごめんご。もう言いふらさないよ」
両手を合わせて謝りながら、パチンとウインクを決めてみせる。そんな動作が様になる童顔だからなんともたちが悪いというか……まぁ、偉い人曰く可愛いは正義らしいし、そろそろ許してやるか……ツーサイドアップもよく似合ってるし。うん、やっぱり長髪はいい――
「だってもうみんなにバラしちゃったし」「可愛いは正義だと思うなよ?」
「ちょっと前に適当な話の流れで。えへへ、ごめんね?」「可愛いは正義だと思うなよ!?」
「言ってもほら、もう3年も前だし笑い話じゃない」
「笑い話じゃないんだよこっちフラれた側だから! もー本気で怒ったぁ!」
ブチキレながらボールを咲からひったくる。ちょっと前に読んだ野球漫画のエースピッチャーさながらに熱き闘志を瞳に宿し、咲に向けて握ったボールを掲げてみせた。
「昔好きだったやつだからって容赦しねぇ! オレの必殺魔球で地獄のひとつやふたつお見舞いしてひゃんっ!」
おそらく他の女子が投げたものであろう、いきなり視界の隅からエントリーしてきたソフトボール。悲鳴を上げつつ慌てて避けるも、足がもつれてこけてしまう。稲妻のように一瞬右の足首に走った痛み。直後に体が地面にぶつかった衝撃がドシンとひとつ。
「うわごめん虎泰さん、大丈夫!?」
「あ、うんボールは当たってないし、こけちゃったけどそんなに、つぅっ……!」
駆け寄ってきた女子に対して起き上がりつつ大丈夫だと説明しようとするも、不意にズキンと右の足首が傷んで言葉が途切れてしまった。こけた衝撃自体は大したことなかったけど、その際に捻挫をしてしまったらしい。そんなオレの下に咲がしゃがみこんでそっと一言。
「そういえばこの前お姉さん言ってたんだけど、『昔からトラが張り切るのは失敗フラグ』なんだって。あれほんとなんだね」
「あの姉いつか本気で復讐してやる……」
どうでもいい話だけど、なぜか咲と姉貴は知り合いどころか結構仲良しである。もしかしたらオレの女性運というやつはオレが思っているよりもずっと低いんじゃなかろうか。
「ま、結構痛そうだし保健委員呼んであげるから、保健室で休んできなよ。あ、私が戻って来るまで足は動かさないようにね!」
そう言い残してオレの下を足早に去る咲。その迅速な対応にちょっとだけじんと来る。さっきまでは散々からかってきてたけど、ちゃんとこういうときは真面目に心配してくれるんだな。ちょっと惚れ直しそうだぜ……。
「保健委員連れてきたよ、トラちゃん!」
「梓茶さん、大丈夫!?」
どうやらオレが感慨に浸っている間に咲が保健委員を連れて来てくれたらしい。
「ありがとな、咲……」
オレは咲たちの声がする方を向いて、咲……の後ろに立つ眼鏡の姿につい目を見開き叫んでしまった。
「お前かよ保健委員!」「ひぃごめんなさい僕なんかが保健委員で!」
大げさに仰け反りビビる草太。そっちはいつものことなのでとりあえずは放っておき、オレは咲に鋭い視線を向ける。
視線の先でオレを見下ろして立つ彼女は、男時代だったら間違いなく一発でオチてたであろう満面の笑みを浮かべて立っていた。
「もうなんていうか咲テメェー!」
「トラちゃんのそういうとこホント好きだよ友だちとしては!」
このクソアマ、この機に乗じてオレたちの仲を煽ろうとしてやがる! だけどゴシップに飢えた女の妄執に欠片も気づいてないであろう草太は、真面目にオレを心配して手を貸そうとしてしまう。
「よ、よく分からないけど、とりあえず保健室行こうか?」
いかん! 下手に隙を見せると噂に殺されるぞ! これ以上噂が悪化したら堪ったものじゃない。捻挫の悪化も厭わずに、近づいてくる草太の手を反射的に払いのける。
「い、いい! これくらいひとりで、っ……!」
どうにか立ち上がろうとするも、やっぱりちょっと動かすだけでつい呻いてしまうほどの痛みに邪魔される。再び草太が慌てた声音と共に近づいてきた。
「駄目だよ無理しちゃ!」
「だからいいって、うわっ!」
普段のオーバーなまでの謙虚さはどこ行ったのか。強引に右手首を握られ、オレは目を白黒させてしまう。気づけばあっけなく体が引き寄せられて、草太の顔が眼前に迫っていた。
「いいぞいけいけー!」
横から飛んできたクソッタレな野次すら右から左にすり抜けるほどの驚愕。顔が近い。手首を握られてる。自分が今どうしたらいいのか、それどころか自分が今どう思ってるのかすらも分からなくて。
手首を右腕ごと草太の肩に回される。直後、腰を抱きかかえるなにかの感触が。多分、草太の左腕だ。抱きかかえられる。反射的にそんな言葉が脳裏に浮かび、ぎゅっと目をつむった。
「ちょっとだけ我慢してね」
草太が立ち上がるのと一緒に俺の体も持ち上げられる。その勢いで勝手に立ち上がる足。ズキリと走った痛みで我に返って……気づいた。目を開く。草太の肩にもたれかかる形で支えられていた。隣り合うことで初めてはっきりと気づいた、頭半分ほどの身長差。
「この体勢って……」
これはいわゆる"肩を貸す"というやつでは。オレの疑問に草太は控えめな笑みを見せて答えた。
「抱えるよりもこの方が梓茶さん的にはいいかなって。足への負担はあるから辛くなったらまた言ってね」
「……ん。分かった」
これくらいなら甘んじてもいいか。実際強がっていてもひとりじゃ立てないのは事実だったし。おんぶや抱っこはなんというか"いかにも"で恥ずかしいけど、肩を借りるくらいなら少年漫画でよく見るし……よし、友情判定的にセーフだな! そう思えば顔が近くてもあまり気にならない。
「お姫様抱っことかしないの? せっかくの捻挫なのに」「黙れ咲」
「そんな漫画じゃないんだし……というか梓茶さんが嫌でしょ」
「草太、お前めっちゃ常識あるなぁ……」
「なんだろうその褒められ方……まぁとりあえず行こうか」
「おう」
「ちっ」と露骨に舌打ちしてきやがった咲に内心で「ざまぁ」の言葉を送りながら、オレは草太に支えられて歩き出した。軽くもたれかかってみても動じる気配は無い……
「ん?」
「どうかした?」
「や……なんでもない」
これは、草太の匂いか? あえて例えるなら干したての布団のような……いわゆる"太陽の匂い"をどこか連想させるモノがうっすらと嗅覚に届く。汗をかいたせいか顔が近いせいか。ま、不快じゃなけりゃ今はいいや。
なんにせよ貧弱坊やなイメージ的に若干不安だったけど、これなら安心して身を委ねられそうだ。
さて、この高校の保健室はB棟にある。グラウンドから見るとB棟はすぐ隣であり直線距離自体は近い……んだけど、問題なのは下駄箱がA棟入り口にあることだ。そしてグラウンドとA棟に挟まれる形でB棟が建っているので、上履きに履き替えて保健室へと辿り着くには、まずB棟を迂回してA棟まで回る必要がある。
「怪我してみて分かったけど、嫌がらせみたいな設計してるねこれ……」
「A棟とB棟を繋ぐ渡り廊下が外からでも入れるなら横着も出来るんだけどね。だからテニス部で1回廊下のフェンス越えて入っていこうとした友だちがいて。結局先生に見つかっておもいきり怒られたけど」
「あはは、でも気持ちは分かる……つぅっ」
「梓茶さん、本当に大丈夫?」
「へーきへーき……じゃないけど、とりあえず保健室までの辛抱だし。さっさと行こう」
「……そうだね、急ごう」
痛みを紛らわすために駄弁りながら、そして痛みから右足を引きずらせながら歩くことしばらく。ようやくA棟の入り口に到着した。無理して歩き続けたせいだろう。足にこもる熱が、大分きつくなっている気がした。
A棟に入り、入り口すぐの下駄箱へ。2-Aの棚まで歩いてそこで互いの上履きを取り出す。そしてオレは草太に手伝ってもらい、腰を降ろして靴を脱ぐ。左足から脱いで、捻挫した右足に手をかけ……
「うぁっ!」
走る痛みが喉から悲鳴を押し出した。数分前よりもずっと鋭い痛みだ。
「梓茶さん!?」
隣で上履きに履き替えていた草太が、叫びにも近い声を上げる。もう、なんで捻挫したわけでもないお前がそんな痛そうな顔してるんだ。
「ごめん、ちょっと大げさだったね……でもまだ歩けるからさ、保健室も近いんだし。あ、でも上履きは履かなくてもいいかな。足汚くなっちゃうけど」
「……うん。無理はしない方がいいよ」
言いながら、草太はオレの側に置いてある上履きを拾って片付けてくれた。細やかな心配り。少しばかり顔がほころぶのを自覚しながら、オレは草太に頼んだ。
「草太。悪いんだけどまた肩貸してもらっていいかな。あとちょっとだけ」
「……」
草太はなぜか答えなかった。答えないまま、オレの側に屈んできた。
「草太?」
「……ごめん」
囁くような草太の声が耳に届く。直後、視界がぐわんと回って天井へと向いた。
「ひゃあっ」反射的に草太の首に腕を回す。目と鼻の先にある草太の顔はオレの方じゃなくてただ前だけをじっと見据えている。そこでようやく状況を自覚して、オレは驚愕に唇をわなわなと震わせた。
「なっなっなっ……!」
いわゆるところのお姫様抱っこ。羞恥が一瞬で着火どころか爆発炎上。
オレは草太の顔が近いことを考慮にも入れず声を荒げた。
「おろせ、おろせよ馬鹿ぁ!」
「あんまり騒ぐと、他の人に気づかれるかも」「っ!?」
たった一言の忠告は、オレを黙らせるのに十分な威力を持っていた。
「ちょっと走るから、捕まってて」
草太が保健室まで足早に駆け抜ける一方、オレの脳裏では走馬灯のように今までの出来事が駆け抜けていた。
なんで、どうして、こうなった。
ラブコメ事故の延長? お姫様抱っこに憧れてるとか言ったから? 咲が余計な煽りを入れたせい? 問いが浮かんで消えていく。消えないものは羞恥のみ。最後はただただ見つからないでくれと祈って祈って祈り続けて……がたがたっ。現実世界で響く音がオレの意識を引き戻した。
音源はスライド式のドア。草太がオレを抱えたまま足で器用にドアをこじ開けていた。
音を鳴らしながらスライドしていくドアの真ん中に付いてるマグネットフックには『ただいま外出中』の札が掛けられている。そしてドアの上には『保健室』と書かれたプレートが掲げられている。つまるところ、ようやく目的地に到着したらしい。
オレを抱えて草太が踏み入る。冷房のひんやりした冷気と、保健室独特の薬品臭に浸る間もなく。
「下ろすよ」
ベッドに体を降ろされる。反射的に草太の首から両腕を外す。背中にふんわり柔らかい感触が届いた直後、オレは草太を両手でおもいきり押し出した。ベッドのそばのカーテンに手を掛ける。薄桃色のカーテンをシャッ! と鳴らして草太との間に境界線を引いた。
ああもう最悪!! お姫様抱っこに憧れてたのはする側であって、される側なんて屈辱の極みだ! 毒づきながら備え付けの枕をぎゅっと抱いて、布団の上で丸くなる。さっきまであんなに辛かった足の痛みもすっかり羞恥と怒りにすり替えられて。
あいつなに考えてるんだ勝手に人を抱き上げておいて喋るなとか何様のつもりだ草太のくせに、地味眼鏡のくせに! つうか謝ったからってなんでも許されると思うなよ! 大体あいつはいっつもなにかあればごめんごめんって「ごめん梓茶さん、ちょっと……」ほらまた!
カーテン越しに届く声がオレの神経を逆なでする。いい加減、一言いってやらないと気が済まない! メラメラと燃える心のままにカーテンを開けて口を開いて、
「お前なぁ、いい加減にしろよ! なんでもかんでもごめんで済めば……」
視界に映ったものがオレの口を止めた。
眉尻を下げた苦笑い。両の手には、それぞれ氷のうと包帯が握られていた。
「あとでいくらでも怒られるから……とりあえず、手当はしてもいいかな。僕、保険委員だし」
ベッドから丸椅子の上へ。靴下を脱ぎ伸ばして乗せた素足をくすぐる感触は、包帯が巻かれている最中という証だ。
足首と太ももの間辺りをぐっと支える草太の五指が、足を支え直すために時折位置を変える。その刺激が妙にくすぐったくて。
なんで、どうして、こうなった。心の中で呟くのは二度目だった。
保健室でふたりきり、同級生の男子に赤く腫れた素足を晒しだす女子……なんだ、このシチュエーションは。
逆の立場だったらさ、多分ドキドキしてたよ。じゃあ草太は? そういうのを微塵も感じてない……ことはさすがにないだろう。だけどそれ以上のことは分からない、つうか今日の草太自体が分からなさすぎる。普段はオーバーなほど遠慮がちな草食系なのに、オレが捻挫してからやたら強引だしあまつさえお、お姫様抱っこまで!
一体全体なにを考えているのやら。顔色のひとつでも拝んでやりたいところだけど、なにやら胸の奥から湧き上がる得体の知れない恥ずかしさのせいでそれすら躊躇われて、どうしても草太から顔を背けてしまう。
そんな自分が余計に恥ずかしく思えて、そんな自分が以下省略な羞恥のスパイラルがオレの心を貫く――
「はい、梓茶さん。終わったよ」「ほぇ?」
なんかアホなこと考えてる間に終わったらしい。
処置の終わった右足に目を向ける。包帯はシワひとつ見当たらないほど綺麗に巻かれていて、足からじわりと伝わるのは強すぎず弱すぎずの程よい圧迫感。少なくともそんじょそこらの素人仕事としては完璧な仕上がりとその早さが逆に違和感を感じさせる。と、すぐに草太から氷のうを手渡された。
「はいこれ、患部に当ててとりあえず10分くらい冷やしといてね。あと出来るだけ心臓より高い位置に足を上げておいた方がいいから。冷やした後はしばらくベッドの柵にでも乗っけておいて、また足の熱が戻ってきたら冷やすのを繰り返せばいいと思うよ」
「ん。ありがと……にしても、上手いもんだね。今の説明含めて」
疑問が羞恥に勝った。自然と草太に顔を向けて尋ねれば、あいつは指で頬を軽く掻きながら答えてくれた。
「最近はかなり落ち着いてるんだけどさ。昔はほんとによくドジっていうか、なにも無いところでこけちゃったり、普通の人じゃやらないミスしちゃったりで周りに迷惑かけてて。それを直すついでに自分のことは自分でやろうと頑張ったら、こういうちょっとした手当ばかりが上手くなっちゃうんだから情けないよね」
「……その情けないやつに助けられてるんだけど」
「ご、ごめんなさい……」「また謝る」
「あっ。こ、これは……なんというかこれまた情けない話なんだけど、やらかすたんびに謝ってたらいつの間にか癖にというか……あ! もちろん軽く考えてるわけじゃなくて、申し訳ないと思ったら反射的に出ちゃうというか! あの、その、ごめんなあっ」
まだギリギリ謝ってないと示すため、両手で慌てて口を抑えてぶんぶんと首を振る間の抜けた姿がそこにはあった。
そんなものを見せられてしまえば、なんだかこっちの気が抜けてくる。さっきまであーだこーだと考えてたのが馬鹿らしくなって、そういうの全部が口から溜息と共に抜けていってしまった。
「はぁー……いいよ分かった、どーせ草太は草太だし。もうごちゃごちゃ考えるのもめんどくさいや」
「え……?」
「冷やしたり高めに上げておいたり。大体そんな感じだよね」
「う、うん……」
「りょーかい。手当ありがと」
一通り確認し終えて、オレは再びカーテンを閉めた。横になって体を丸め、貰った氷のうで患部を冷やす。キンと冷えた氷のうが熱を奪っていく感覚に体を預けながらオレはひとり考え始めた。
草太は草太。言葉にするとその程度の理由だけど、どうやらオレにはその程度で十分らしい。地味で眼鏡で遠慮がちなくせに、リアクションは大げさでどうしようもなく分かりやすく。謝り癖があって、鬼面バスターが好きで、あとは……のほほんと穏やかな笑顔がよく似合うそんなやつ。
それにしたってお姫様抱っこは意味分からないけど、なんというか所詮草太だし。無闇に恥ずかしがるのも野暮というか、結果論だけど痛む足を引きずる必要がなくなった辺りは悪くないし、まぁ……ん? つまりあいつが急にあんなことした理由って。
ふと思い至ると同時。ここ2週間ばかりで聞き慣れた声と単語が耳に届く。
「……梓茶さん、本当にごめん」
「ん、また謝り癖?」
「ち、違う! ……とは言えないけど、とにかく本当に申し訳ないことしたって思ってる。保健室に行くときあんなことしちゃったのはもちろんだし。それに……昨日図書室で怒られたことも。多分、それ以外にもきっと……」
前者はついさっきのことだから分かる。だけど図書室? なんだっけな……思い出そうとする合間にもカーテン越しに草太の話は続く。
「梓茶さんはちょっと前まで僕と同じ男で、だから男なんかにその……そんなこと言われたり、されたりするのは嫌なこと。ちょっと考えれば分かるのに。僕はそんなことさえ気づかなかったり、気づいてたはずなのに思慮が足らなかったり。そういうところはたくさんあって、梓茶さんにたくさん嫌な思いをさせてきたはずで。だから……」
草太の告白。流れる沈黙。痛みに喘ぐように絞り出されたその言葉にオレは、
「……え?」
そこまで深刻な問題抱えてたの? オレって。
草太には悪いけど、真っ先に思ってしまったのがそれだった。いや確かにあったよ? 思い出したよ? つい先日、可愛いって言葉に過剰反応しちゃったこと。思い返せば草太と友だちになった日とか草太だけじゃなくてオレも挙動不審なところあったし、ラブコメ事故の際だって照れ隠しのためにキツい言葉を使ってしまったり。草太が言ってるのはそういうことだろう。
そりゃそういうの全部"元男だから"ってのも間違いじゃないっていうか元を辿ればそうなんだけど、そんな根深い心の傷とかじゃないっていうかもっとあっさり目の味付けっていうか……だぁー! これオレが悪いのか!? 悪いんだよな多分! なにやら変な反応しちゃってるのはオレの方だし。
分かった、分かったよ。このまま放っておいて草太と変に距離が開くのは嫌だし。こういうときにやることは経験則上ひとつ、何も考えずに素直な気持ちを伝えりゃいい。うん、簡単な話じゃないか。オレは意を決してカーテンの向こうに言葉を投げる。
「草太、一々重すぎ。そんなんじゃ人生生きづらくない?」
「え。そ、そんなに重い……?」
「重い、重すぎる。大体さ、女の子らしく振る舞ってるのは他ならない私なんだよ? そりゃ中には本当に大変な人もいるだろうけどさ。私はほら、自分で言うのもなんだけど結構お気楽に生きてる側だから。なってしまったものはいっそ楽しむくらいっていうか、実際これはこれで楽しいっていうか……」
……む。口を開いてみて気づいた。こう、改まって素直な気持ちを伝えようって思うと中々恥ずかしいような。内容のせい? 相手のせい? いやいや、恥ずかしがる要素なんて無いはず、無いはず……。
「えっと、そんなわけで図書室のことなんてぶっちゃけさっきまで忘れてた程度だし……お、お姫様抱っこに関してはまぁ、さすがに恥ずかしかったけど! けど、だな。その……」
ああもうそこでどもるんじゃない。べつにあれはもう怒ってない。その一言だけ伝えればいいんだ。だから、
「いっ……嫌じゃなかった、から……だから変に引きずんな! そんだけ!」
言い切った。あー、つい口調が戻っちゃうくらいにはむずむずむずむず……。
氷のうを一旦置いて、気を紛らわすために枕を軽く抱きしめてみる。柔らかくてちょっと落ち着く。
「そっか……ありがとう、梓茶さん。でもさっきのは女の子相手でも失礼には変わりないから、やっぱりごめ……じゃなくて」
「いいよ、無理して抑えなくても。腰低くない草太は草太って感じしないし」
「それはそれでどうなんだろう……」
「恨むんなら日頃の行いを恨みなってことだね」
「う。反省します……」
草太が項垂れている様がありありと浮かび、自然と顔がほころぶ。これで一件落着ってやつだ。やっぱり人間対話は大事。
草太にお姫様抱っこされるのは嫌じゃない。たったひとつ、素直な気持ちを伝えただけでほら、わだかまりが溶け………………
――嫌じゃなかったの!?
違う、オレは「もう怒ってない」って言いたかっただけで。両方とも同じ意味? いや全然違うだろ! 今は許したけど、男にお姫様抱っこされるのはやっぱり嫌……な、はずなのに。思い返せば恥ずかしさから来る怒りこそあれ、嫌悪感みたいなのは抱かなかったような……いやそんな馬鹿な。例えばそんじょそこらの男にいきなり抱えられたら無理無理絶対に無理だよな、よし。それじゃあ草太は? ……まぁ、べつに……いやいやべつにってなんだよべつにってふざけんな。友だちだから許せる? 草太が人畜無害そうだから? そんな理由でいいの? それとも「梓茶さん」「はぁい!?」
我に返った時には、枕をぎゅっと抱きしめていた。
「へ!? な、なんかごめんなさい大丈夫ですか今!?」
「だ、大丈夫ですよ今!」
カーテンがなければ即死だった程度には大丈夫でした、はい。
やばい、とにかく顔が熱い。なんでもいいからおもいきり叫びたい。冷静になれ、冷静になろう。枕を手放す。氷のうを持って額に当てる。ひんやりして気持ちがいい。
「だ、大丈夫なら伝えるけど……梓茶さんの捻挫と処置については書き置きしておいたから、保健室の先生が来たらこれで事情は分かるはず。それと梓茶さんが戻ってくるまでは僕から先生に伝えとくし、ゆっくり休んでね。他はなにかあるかな?」
「えっと、特に無いです。色々ありがとうございます……」
「な、なんでそんなかしこまってるの?」
「果てしなく個人的な事情なのでお気になさらず……」
「そ、そう……じゃあ僕、もう行くね?」
「えっ……」
「梓茶さんもひとりの方が落ち着くでしょ。それに手当終わった以上、理由も無いのに長居するのはサボりだし。それじゃ、またあとで――」
「待って!!」
気がつけば、オレと草太を隔てる境界線は取り払われていた。眼鏡の奥、驚きに大きく開かれた瞳が視界に映る。
「……梓茶さん?」「ぁ……」
氷のうを手放し、慌ててカーテンを開け放った変な体勢でオレは固まってしまう。
なんで、なんで引き止めた。分からない、でも引き止めてしまった。引き止めたかったから引き止めた? 違う、理由があるはず。引き止めてまでやりたいこと。そうだ、ある。聞きたいこと。今更だけど。
「な……なんでお姫様抱っこなんてしたんだよ。いきなり」
「あ、あれはその、梓茶さんが足すごく痛そうで。だからどうしても放っておけなくて……」
ああ、やっぱりそんなこったろうと思った。心配性のお人好しだもんなこいつ……
「それに」「あ?」
え、まだなんかあんの?
「あっ。いやなんでもないです」
「そこで止めんなよ。いいよここまで来たら怒らないつうかその気力も無いから」
終わってみれば捻挫の処置してもらっただけなのに、なぜか1日分の気力をごっそり持ってかれた感あるんだよな……。
「ほ、ほんとに?」
「ほんとほんと。先週の武神を真似したくなったとかいうアホらしい理由でも全然許すから」
疲れ果てたオレの言葉。草太はあっちにこっちに10秒くらい視線を彷徨わせて。
はたしてようやく観念した。そして一言。
「……は、恥ずかしかったから」
「恥ずかしい?」
オレが首を傾げたのが合図だった。堰を切ったように、草太がわっと暴露を始めた。
「みっ……見た目は抱っこの方が恥ずかしいからみんなの前ではできなかったけど、かっ肩を貸す方が実はピッタリくっついていて、僕としてはそっちの方が恥ずかしかったんです、すみません!!」
ぽかんと口を開く。意味を飲み込む。隣り合う顔。密着する肩やら腕やら。体を委ね、あるいは支え、寄り添うように歩くふたり……ボッ!
「や、」
耳まで灼ける羞恥の奔流。左手が枕をぐわしと掴む。
「やっぱ全部お前が悪いわ馬鹿草太ぁぁぁ!!」
「ご、ごめんなさーい!!」
本日二度目の、爆発炎上だった。
ベッドの上。閉めきられたカーテン。床に投げ出された枕を取りに行くのは諦めた。草太が立ち去ってしばらく。もう色々我慢できなくなって、オレは思いの丈を喉から絞り出した。
「あーーーーー!! あいつマジふざけんなよそういうこと言うから。そういうこと言うから! そういうこと言うからー!!」
誰に聞かれたってもう知らない。一種の自暴自棄だったけど、運のいいことに叫び声を聞いて誰かが駆けつける展開にはならなかった。ゆえにひとりきり、布団に包まって悶え続ける。
「おぉぉぉぉほぁぁぁ……!」
そりゃ分かるけど! あいつは男でオレはまぁ、一応は女だから気持ちは分かるけどそれにしたって! ああもう。悪気や欲のひとつでも見えればどっかで冷めるのに、そういうの全然無いから余計にたちが悪い……ってこれじゃまるでオレがあいつのこと意識してるみたいじゃないか!!
絶対に違う! だって意識する理由なんて無いんだ! 男のプライド捨てたつもりは無いし、姉貴たちにちょろい扱いされたくもないし!
じゃあ、なんでこんなにドキドキするんだろう……ってそういうのいいからー!!
「あーーーーー! いたぁー!」
衝動のままにジタバタしたら、当然すぐに足からガツンと痛みが響いて。
強烈な痛みで自分が捻挫していたことをようやく思い出した。さっきとは別の理由でひとしきり悶えたあと、涙目になりながら氷のうで足を冷やすとつられて頭も自然に冷えてきた。オーバーヒートから開放された頭が不意に、ひとつの案を思いつく。
「そっか。変に意識するからいけないのかも……そうだよ、それだ! それしかない!」
一目惚れを否定したいがために逆に『もしかして恋してるんじゃないか』だなんて疑ってしまうわけで。あれもこれもと疑ってたらどこかでなにかを勘違いしてもおかしくない。そう、それこそ兄貴のように……オレはあの人とは違うんだ! それにオレにはかつて一目惚れしてフラれた教訓が……ん、話がずれたか? まぁいいさ。
とにかく、オレとあいつは友だちなんだ。ならば心の往くまま自然体で接すればいい。友だちなんだから友だちとして接すれば、それ以上にも以下にもならない。うん、シンプルで分かりやすい!
「分かりやすいのはいいことだ! よし……これでいこう!」
◇
思いついた妙案は、借り物の松葉杖を突きながらの帰宅ですら心地の良いものに変えた。
鼻歌を歌いながら帰宅したオレに向かって、いつぞやと同じようにリビングで寛いでいた姉が怪しい物でも見るかのように瞳を細める。
「なんだトラ、随分と機嫌良さそう……あ、松葉杖? ……気持ち悪ぃなお前」
「なにを想像したクソ姉貴。これはちょっと捻挫して今日中は安静にしなきゃいけないってだけで、私の機嫌とは関係無いから」
「ふぅん。まぁどうでもいいけど」
「自分から言っといてこのアマ……まったく、せっかくいい気分だったのに姉貴と話してたら興が削がれるよ」
真面目に付き合うのもアホくさくなり、姉貴に背を向けて自分の部屋に戻ろうとした……というのに、
「そういや今ってさぁ」
まだ話は終わってなかったらしい。ここで無視すると後が面倒なので適当に聞くだけ聞いておく。
「うちの近くのわりとでかい美術館で……ほらなんだっけ。仮面ラ」「鬼面バスターな!」
なんか分かんないけどものすごく危ない気がして、思わずツッコミがてら振り返ってしまった。そんでもって、ツッコミついでに引っかかったふたつのワード。美術館と鬼面バスター。思い浮かんだ案件がひとつだけあった。
「もしかしてメモリアル展か?」
「そうそれ。お前、行かないの?」
「って言われてもな……」
正式には『鬼面バスター15週年メモリアル展』。
うちから徒歩10分……のバス停からバスに乗って20分。そっからさらに追加で徒歩15分ほど。そこそこ近いといえば近いかな……といった距離に建っている結構著名な美術館にて、期間限定で開かれている鬼面バスターの展示会だ。
その名の通り鬼面バスター15年の歴史に纏わる様々な代物が展示されている上、『限定特典付き入場券』を始めとした会場限定の商品なんかもあってファンとしては、それも運良く近場に住んでる身としては行かないという選択肢が無い……のは確かなんだけども。
「そりゃファンとしては行くつもりだけど……特典付きのチケットはバイトしてない学生の身にはわりと値が張るからな。当然行くなら限定版がいいし、そこら辺の算段付けてから行くつもりで――」
口が止まった。なぜ? いつの間にか姉貴が手に持っていた1枚のチケットに目を奪われたからだ。
「そ、それはまさか――」
驚愕と羨望が、オレの口からそのチケットの名前を押し出した。
「メモリアル展の入場券しかも限定特典付き!?」
そんなこんなでここからが本番。後編へ、続く!