118話 日本へ……
日本に帰ることが出来る。
上家が生み出したどこでもドア風異世界への扉は、俺を日本へと送り返してくれるらしい。
日本へ……帰れる。
「オレは、グレイスとの約束があるから帰るわけにはいかねぇんだが、『NSB粒子』の結束力が弱まっていて、明日にもこいつは使えなくなりそうなんだ」
「『えぬえすびーりゅうし』?」
「あぁ、あんたらには分かんねぇか……異世界間を繋ぐためには不可欠な次元を歪める物質なんだが……」
「なんかの略なのか、『NSB』って?」
「『なんか(N)、凄い(S)、物質(B)』だ」
「本当に使い物になるの、その物質!?」
名前からしてダメ臭がしてるんだけど!?
「女神様たちの異世界間移動も、この『NSB粒子』が使われてるんだぞ」
「えぇ……俺、『なんかすごい物質』の力でこの世界に来たのぉ?」
なんだろう。凄く勝手に巻き込まれて、強制的にスベらされたようなこのやりきれない気持ちは。なんだろうなぁ。
「いつか使おうと思ってたんだが、期限切れだ。だから、あんたにやるよ」
「いや、やると言われても……」
このどこでもドア風異世界への扉は片道通行。
つまり、一度日本へ行けば、もうこの世界へは戻れなくなる。
エルセの力は封印されたままだし、きっと俺は二度とこいつらに会えなくなるだろう。
「やったじゃないですか、コーシさん! ラッキーですね!」
テンションの高い、嬉しそうな声がする。
振り返ればエルセが諸手を挙げて小踊りを踊っており……俺の目は点になった。
……エルセ?
「これでコーシさんは日本に帰れますね。わたしの力を取り戻すまでもなく帰れるのなら、そうするべきですよ。あ、わたしのことなら大丈夫です。ニコさんやスティナさん、グレイスさんもいますから、きっとなんとかなります。あっという間にマイナスポイントを返上して、天界の力を取り戻しちゃいますよ、きっと!」
我がことのように喜び、大はしゃぎするエルセ。その顔を見て……俺は何も言えなかった。
「ただ残念なのは、期限が明日までってことですよね。こんな急じゃ、ちゃんとしたお別れパーティーとか出来ないじゃないですか。ねぇ? 気が利きませんね上家さん。マイナスポイントですよ! ……ふふ、でも、よかったです。コーシさんが無事に日本に帰ることが出来て……うん、わたしは、嬉しいです」
一人でしゃべり続けるエルセ。
うん。まぁ、もともと答えなんか決まってたし、結局のところ、俺は俺の居場所にいるのが一番正しいんだと確信しているし。
「もう、なんですか? さっきから黙っちゃって。嬉しくないんですか? 帰れるんですよ! コーシさんの好きなハッピーターン食べ放題じゃないですか! あ、ハッピーターンはこっちの世界にもあるんでしたっけ? じゃあ、パックんちょ! あれを食べてください! 帰ったらすぐに二箱買って、ぺろりといっちゃってください!」
「エルセ」
「あぁ、悔しい。あぁ羨ましい。わたしもパックんちょ食べたいです! でも、我慢です。大丈夫ですよ。わたし、こう見えて我慢は得意なんです。人生、我慢に我慢を重ねてここまで来たような女ですから……」
「エルセ」
「もう、なんですか? なんなんですか? もっと喜びましょうよ。コーシさんは、一方的に巻き込まれたこんな変な騒動から抜け出して、日常に帰れるんですよ!」
「エルセ。とりあえず、顔を拭け」
「へ? ……顔?」
エルセがゆっくりと自分の頬に触れる。
「…………え」
「いいから、涙を拭け」
エルセの頬は、涙でぐっしょり濡れていた。
ハンカチを差し出すが、エルセは放心したようにピクリとも動かない。
本当に、こいつは気が付いていなかったのだろうか。
第一声の「やったじゃないですか」からずっと、自分が号泣していたことを。
明るい声を出して、おどけてみせても、涙が流れ続けていたことを。
「エルセ。ほら」
「いや、でも……これは、何かの間違いで……」
「あぁ、もう」
エルセがハンカチを受け取らないので、多少強引ではあるが、俺がエルセの涙を拭いてやった。
「――にゅっ!?」
「『にゅ』じゃない」
「にょ!」
「『にょ』でもない」
「………………わん!」
「吠えんな」
「………………………………くぅ~ん」
「お~よしよし」
「……ひぐっ!」
涙を拭うついでに、そっと髪を撫でてやると、エルセの喉から引き攣るような音が漏れた。
「だ……だって…………コーシさん……わたしのせいで……日本に帰れなくて…………今なら、帰れる…………チャンスが…………だから、わたしは、コーシさんが迷わないように、安心して帰れるように……って……」
「うん。分かってる。分かってるよ、そんなこと」
分かってるからこそ、そんな顔で無理されちゃ……
「お前を残して帰れるわけないだろ」
「だっ…………だって、それじゃ…………この次はいつになるか……ごじゅ、五十年後とかかもしれませんよ!」
「んじゃ、しっかり貯蓄しとかなきゃな。年金、もらえそうにないし」
「そうじゃなくて……日本には、コーシさんを待ってる人が、家族とか……お母さんとかとか、お父さんとか……ファミリーがいるじゃないですか!」
「なんで俺を待ってるのが家族しかいないんだ? 友人や恋人の存在はあり得ないのか?」
「コーシさん……異世界に来てまで、なんで見栄を張るんですか?」
「やかましい!」
可能性の話だ!
いる「かもしれい」という余白部分が物凄く大切なんだよ! 人を傷付けないためにはな!
「老婆心ながら忠告させてもらうけどな」
ごほんと咳払いをし、上家がちょっと頬を染めて言う。
視線はこちらを見ないように逸らされているのだが…………うむ、気遣い、痛み入る。
いや、いくら慰めるためったって、こういうのを第三者に見られるのは恥ずいっていうか…………あぁ、とりあえず、上家の話を聞くか。
「空白期間が長くなればなるほど、生きにくくなるぞ、日本って国は」
「学校のことか?」
「それもだが、すべてにおいてだ。行方不明になって、ひょっこり帰った後、なんて説明するんだ? 『異世界に行ってた』なんて、信じてもらえると思うか?」
確かに……
「空白期間が二年、三年と長くなればなるほど、就職にも影響してくる。『この空白の三年間、何をしていたんですか?』……面接で必ず聞かれるぞ。答えられなければ就職は無理だ」
「お前……嫌にシビアなこと言うよな……」
「俺は、そういう苦労をしてきたんだよ、日本で、嫌ってほどに」
異世界に来る前に空白期間があったのか?
「何やってたんだ?」
「人助けの旅に出ていた。高校をやめて、三年ほど」
「うわぁ……」
「そう! そんな顔を、何十回も向けられたんだよ! だから! 帰るなら早い方がいいって忠告してんだよ!」
なるほどな。
確かに老婆心だ。
「あ、あの、コーシさん!」
上家との話を聞いて、エルセも声を上げる。
「わたしも、ババアメンタルで忠告します!」
「いや、それは老婆心とはえらくかけ離れた代物だから! ババアメンタルで何か言う気なら、いっそ黙っててもらおうかな!?」
ババアメンタルってなんだよ!?
直訳もいいとこ………………ババアは英語ですらねぇ!?
「に、日本には楽しいことがいっぱいあります! この世界には危険がいっぱいあります! どちらにいるべきか、答えは出ていると思います! だから、あの……っ!」
気にせず帰れ……か?
「まあ、確かにどちらにいるべきかははっきりしてるな」
「で、ですよね!?」
「こっちにいる」
「ふぁっ!?」
だってよ。
こんな顔して背中押されても、「コーシさんのために無理してます!」って言われてるようにしか思えねぇよ。
それに……
「俺の居場所は、たぶんこっちだからな」
「で、でもでも!」
「エルセ」
それでもまだ何か言おうとするエルセに、俺ははっきりと言ってやる。
「俺はお前といたいんだよ」
お前といると、退屈しないからな。
「そ…………そんな、その、……そんなの、……それじゃ、まるで、コーシさんがわたしを好きみたいな……………………えっ!? いや、そんな、まさか………………ぇえっ!?」
そこは、あえて触れないでおく。
……上家がいるからな。目、逸らしてくれてるけど。
「で、でも、折角日本に帰れるのに……」
「なんだよ。エルセは俺に帰ってほしいのか?」
「そんなの、決まってるじゃないですか!」
両手をグッと握りしめ、小さくファイティングポーズを取るような格好でエルセが言う。
「…………一緒に、いたいですよぅ!」
心の中に渦巻いていた本音を、声に出して。
「コーシさんといたら、楽しいし、面白いし、嬉しいこといっぱいで、幸せだし…………でも、わたし、の、せいで……って思うと…………申し訳なくて…………」
「じゃあ、俺がいなくなったら?」
「寂しいですよぉぉぉおぅ! 決まってるじゃないですかぁ!」
なら、答えはもう出てんじゃねぇか。
「日本には、ちゃんと帰るさ。エルセの力を取り戻して、エルセにきちんと送ってもらう」
「…………五百年かかるかもしれませんよ……」
「じゃあ、それまでずっと付き合ってやるよ」
「面倒見が良過ぎです……ここまで行くと、病気としか思えないです……」
「うっせぇ」
うな垂れて、拗ねたように体を振って、頭突きをくらわすようにたまに俺の胸にぶつけてくる。
なのに、さっきまでの無理して笑顔を作っていた時よりもずっと、今のエルセは嬉しそうで……耳まで真っ赤で。
「エルセ。お前、今すげえニヤけてるだろ?」
「そ、そんなこと、ありませんでんがな!」
どこの方言だよ。
「な、なんですか? コーシさんが『一緒にいてやる』って言ったから、わたしがニヤけてるとか、そんなの、まるで、わたしがコーシさんを、す、好き、みたいな……そんな勘違い、まったく、全然不愉快ですからね!」
「なんだよ、その分かりやすいツンデレは?」
「違いますもん! コーシさんが自惚れてるだけですもん!」
「じゃあ、日本帰る」
「あぅっ! ダ、ダメです! あのドアは……その、上家さんがイクスピアリ行きたいそうなんで」
「俺、なんも言ってねぇよ、女神様!?」
「うっさい、空気読め、上家!」
「口調変わり過ぎだろ!?」
盛大にテンパるエルセは、見ていてとても楽しい。
……同時に、心臓がすげぇ痛くなるくらいに、恥ずかしくもあるんだが。
「とりあえず、あの……そ、そうですよ! ニコさんやスティナさんに内緒で帰るなんて、不可能で不許可に決まってるじゃないですか! まずは一旦帰りましょう! そして、話し合いましょう! 三日三晩、じっくりと!」
そうしたら、このどこでもドア風異世界への扉は使えなくなっちまってるな。
まったく。
おねだりのヘタなやつだな。
「そうだな。んじゃ、上家。俺ら一旦戻って、三日ほど話し合ってくるわ」
「――っ! …………くふっ」
俺の言葉を聞いて、エルセがバレないようにこっそりと、笑いを漏らした。
ま、バレてるけど。
これはもう、アレだよな。
間違いないよな。
エルセも、俺のことを……
「おい、コーシ。忘れちまったのかもしれねぇが、このドアの有効期限は明日までで……」
「「空気読め、上家!」」
「あんたら、息ピッタリだな!?」
エルセがあまりに照れるから、今日のところはそれ以上の言及は避けて……エルセが照れるからな。あんまり追い詰めると、脳がオーバーヒートしちゃうからな、だからしょうがないから、『今日のところは』それ以上の言及は避けて、俺たちはニコの家へと戻ったのだった。
エルセが、あまりにも照れるからな。
俺じゃなく、エルセがな。