忘れ形見
最高位貴族ヨハン=サノバスの父親であるダリア=サノバスは、国王のいなくなった六十年前のアルレラントで初代・最高位貴族の座についた。そのダリアもヨハンが二十七歳の時に亡くなり、ヨハンは若くして一国を率いる長となった。
「ヨハン様。なぜ、あの少女に招待状をお送りになられたのでございますか?」
屋敷の一室で葉巻をふかしながらソファーでくつろいでいたヨハンに、白髪の頭の老人が尋ねた。老人の名前はグラン=バルディ、この屋敷の執事だ。
「なぜ、とは?」
ヨハンはグランの質問の意図を探るように鋭い視線を送る。そんなヨハンに怯むことのないグランはいつも通りの穏やかな表情でテーブルに置かれた空のティーカップにハーブティーを注ぎながら言った。
「いえ、気になったものですから。わざわざご自分の使者に招待状を秘密裏に届けさせてまで今夜の舞踏会に招待したお客人、きっとお困りになったのではないかと。」
ハーブティーの暖かな香りが立ちこめる広い室内で、壁時計の振子の音だけが響いた。
ヨハン=サノバスの舞踏会と言えば、参加することができるのはアルレラント有数の名家の人間のみ、貴族ではないリラのような人間がこの舞踏会に参加することなど前例がなかった。
ヨハンは顎をさすりながら考えた。
「『あの少女は“忘れ形見”なのだ。』そう言えば、君は納得するかね?」
それだけ言うとヨハンは葉巻を灰皿に押し当てた。
「いえ。」
しわの深く刻まれた優しげな表情で、グランは閉め切られていた南側のカーテンを開け放つ。そこに現れたバルコニーへと出られる大きな窓からは午後の眩しい太陽の光が差し込んでいた。
ヨハンはその光に振り返り、目を細める。
「まだ、日が出てるうちはさすがに暑いな。」
「夕刻には舞踏会の準備が始まります。その頃には、過ごしやすくなっているかと。」
それだげ言うとグランは恭しく頭を下げ、部屋を後にした。
グランの言うとおり、日が傾き始めると一気に気温は下がり、舞踏会が始まる頃には上着を羽織るほどに肌寒くなった。
「ヨハン様、まもなく舞踏会が始まります。大広間の方へお越し下さいませ。」
扉の外から聞こえるグランの声に、ヨハンは重い腰を上げた。
「あの少女は来ているのか?」
大広間に向かう途中、ヨハンはグランに尋ねた。
「使者に招待状を送らせたあの少女で御座いますか? さあ、わたくしはその少女を存じませんので。」
グランは申し訳なさそうに言う。
「金の髪の少女などそうはいまい。」
タキシードに腕を通しながら、少し不機嫌そうにヨハンは言う。何か焦っている様子のヨハンは少し早足で大理石の広い廊下を歩いて行く。グランはそれを追うように少し後ろを歩いていた。広い廊下を抜けると、シャンデリアをいくつもぶら下げた大広間が眼下に広がる。その吹き抜けに沿ってゆっくりと歩くヨハンはあの少女を探し、視線を大広間へと向けた。大広間の一角に目当ての少女を見つけたヨハンは、立ち止まり顔をニヤつかせた。
周りを睨みつけながら、そこに立つビロードのドレスを着た金の髪の少女に近づく、一人の青年。
「一緒に踊っていただけませんか?」
リラの鋭い視線に他の貴族たちがリラを敬遠している中、その青年はさほどリラの事を気にしていないように見えた。世間知らずの馬鹿な貴族たちと同じように笑う青年にリラは身構えた。
ある程度の魔力があれば、自らのそれを隠す事は簡単だ。気配を消すのと同じように、魔力を相手に悟られないようにする事も、弱く見せかける事も容易だ。そしてそれを見極める事が出来るのは、より強い魔力を持つ者だけ。
だが、この青年は魔力だけじゃない何かを隠し持っている気がした。
鋭い視線を向けるリラに青年は二コリを笑った。
リラの眉が怒りに動く。
「貴方には心を許せる人はいないのですか?」
顔は笑っているのに、青年から発せられたその言葉はリラにとって、とてつもなく重いものだった。
「先ほどから、貴方はそうやってここにいる全員を睨みつけていましたね。まるでこの国にいる全ての人間を敵だと言わんばかりの恐ろしい形相でしたよ。」
男はそう言って肩をすくめた。ちょうどこの青年がカイラと同じくらいの年齢だったからかもしれない。男の言葉を聞いて真っ先に頭に浮かんだのはカイラの笑顔だった。
「いましたよ……私にも。」
遠くを見つめるリラのその言葉に青年は微笑むと、恭しく頭を下げ、右手を差し出した。
その光景にその場にいた貴族たちの視線が集まる。戸惑うリラだったが、ここで無下に断るわけにもいかず、リラは渋々左手を伸ばした。
「ほう……。」
大広間に流れる優雅なオーケストラの音楽に合わせ、流れるようにステップを踏むリラたちを見たヨハンは、感心したように声を漏らす。リラが軽やかにステップを踏むたびに鮮やかな金色の髪が宙を舞っていた。