湖畔の小屋
「リラ、少し髪が伸びてきたんじゃない? 顔にかからないよう整えるくらいしなさい。みっともないわ。」
リラはいつも左右に分けた鼻の頭にかかるほどに長い前髪の片方を垂らしていた。そこから覗く鳶色の大きな瞳に不安の色が見え隠れする。シーナの忠告など聞きもしないで、リラは家を出た。
町の中央の丘の頂上にそびえるアルレラント城を横目に、リラは森の脇にある湖畔に建てられた小屋へと向かった。
「リラ、よく来たわね。」
小屋に住むカイラという名の女性は、肩で切りそろえられた艶のある黒髪を揺らしながら、小屋の戸をあけ、現れたリラを振り返った。小屋は決して広くはなかったが、それでも女性が一人で住むには充分で、カイラは突然の訪問者に驚きもせず、柔らかい笑顔でニコリと笑った。
「相変わらず、ここは迷路みたいね。」
リラはいつもと変わり映えのしない、床と四方の壁と天井しかないような板張りの粗末な小屋を見渡しながら言った。中央には小さな丸テーブルと椅子が二脚が置いてあった。
「あら。リラには簡単すぎたかしら?」
そう言って笑うカイラは、流し台に置かれたグラスを二つ、テーブルの上に置いた。グラスにミルクがそそがれ、リラは椅子のひとつに腰を下ろした。
カイラは貴族ではないが、リラと同じで魔法を使うことができる。そして、この小屋にはカイラによって一種の結界のようなものが張り巡らされているのだ。外から小屋に入ると、そこに扉が二つ。その扉を開けるとまた扉。それが何回も繰り返され、正解の道順は一つしかない。それを知るのは結界を張った本人だけ。そしてその迷路から抜け出せるのはより強い魔力を持つ者だけ。一つでも扉を間違えると永遠に結界の迷路の中を彷徨うことになる。
「それで? 今日は何の用なの?」
その言葉にリラは少し迷うように目を泳がせた。表情を包み隠すような長い前髪をおもむろに耳にかけると、恐る恐る口を開いた。
「『王家の血を引く者がいる』」
「え……?」
グラスを手にしたカイラは、いきなりの事に状況が理解できていないといった様子で、まるでワインの味を確かめるようにじっとグラスを眺めていた。しかし一瞬、そこに映り込むカイラの口元が微かに笑う。
「噂が広がってるみたい……。」
リラはそんなカイラの表情の変化には気づいていないようだった。怯えるように縮こまるリラにカイラは、さもこの状況を憂いているような深刻な表情で言った。グラスを静かにテーブルに置いた。
「噂? ……そう。私が見たのはそう遠くない未来の映像だったのね。」
「ねぇ、カイラ。私はどうすればいい?」
すると、カイラは黙ってスッと立ち上がり、右手を前に出した。そして、その手を左から右へと宙を滑らすように動かしていく。たちまちカイラの手が通った所には、大きな水たまりが現れた。
水たまりに映るのは、そう遠くはない未来の映像。カイラの得意とする水魔法のひとつだ。
そこには、黒いビロードのドレスを着て、ヨハン邸の大広間でタキシード姿の男性とダンスを踊るリラの姿が映し出されていた。
「これは来月の初めにあるヨハンの舞踏会ね。貴方も参加するの?」
カイラは再び右手を水たまりの上を滑らすと、水たまりはあとかたもなく消え去った。
「分からない。招待状は来たけど……。」
「行きたくないのね。」
浮かない表情のリラの思いを代弁するかのようにカイラは言った。そしてすがるようにリラはテーブルから身を乗り出した。
「ねぇ、どうすればいい?」
すると、カイラはため息をつきこう言った。
「リラ。少しは自分の決断を信じなさい。今の私にもはるか先の未来なんて分からないわ。」
カイラは胸を抑え、歯がゆそうに言う。カイラは生まれつき体が弱かった。 そんなカイラをいつまでも頼っていてはいけないと分かっていても、リラは何かに迷ったり不安に押しつぶされそうになった時、どうしてもここにやって来てしまうのだ。
「ごめん。」
リラは言った。
「勘違いしないで。体の事ももちろんそうだけど、私は貴方に自信を持ってもらいたいのよ。」
カイラはリラの手を包みこむように握ると、「大丈夫。大丈夫。」と繰り返した。
まるで愛しい我が子を千尋の谷へ突き落す決心をした母親のにも似た眼差しに、リラは一筋の涙を流した。
「大丈夫なんかじゃない! 一人じゃ、きっと耐えられない。カイラがいてくれないと、私きっと自分が誰なのかも忘れてしまうわ!!」
絞り出すようなリラの言葉にカイラは静かに首を振った。そしてリラの目をまっすぐに見つめ力強く言った。
「ねぇ、リラ。これだけは覚えておいて。魔法に頼る未来が必ずしも、正解だとは限らないわ。」