seekers in the shadow
「seekers in the shadow」
静謐な空気に包まれた美術館。そこでひとりの青年が、魂を抜かれたかのように棒立ちしている。
小窓から微かに差す光は赤々として、じきに閉館時間が訪れることを物語っていた。が彼はそこから一歩も動く様子はなく、視線を動かしそうにもない。
切れ長の目は一点を見たまま。高く筋の通った鼻頭と、そこに深く刻まれた一文字の傷には大粒の汗が浮いている。
間を置かない呼吸に合わせて目を覆い隠す長髪が揺れ、その一部が額に張り付く。しかし彼は、そんな些事など気にも留めていなかった。
彼の目の前に展示されている作品は、人間と同じ大きさの、少女を模した人形。
髪の色は人間ではあり得ない、空を融かしたような透き通った薄い蒼。腰まで伸び、一部を三つ編みに結わえられたそれは、へたり込んでいる彼女の太腿に落ち、足下へと垂れている。紫蝶の意匠を凝らした大きな髪飾りをつけていて、その落ち着いた艶が髪の色とひどく調和していた。瞳は鮮血を思わせる真紅で、俯いて前髪が顔を隠していながらもその存在感を強く主張して光る。
しかし顔には何らの表情も、生気もない。完璧に白く、それでいて血管の一つも透けて見えない肌も、そういった被造物的な印象を強めている。淡い桃色のゆったりしたドレスに身を包んでいるため、体のラインがあまり伺えない。けれど肋骨の中程に赤いリボンがきつく巻いてあり、調度良く膨らんだ胸部が強調され、理想を超えて細い腰だということは一目で判ぜられる。
そこにあるのは、少女像のひとつの終着点。それを、青年――矢崎紘玄は我を忘れて見つめていた。
大学から自宅へ帰る際の寄り道として、趣味の彫刻を暫し眺めるだけでそれなりに満足して帰る。それが彼の常なのだが――いつもの鑑賞を終えた後、不意に「人形展」という張り紙と、場所を取っている割に作品が少ないホールの一角が目についたのがいけなかった。普段人形など見もしないのに、ほんの興味本位で展示ホールに立ち入り、そしてこの「リオン」と題された少女人形の姿をまともに目にしてしまい、今に至る。
「お客様。まもなく、閉館時間となります」
長い沈黙を破ったのは澄んだ少女の声。信じがたいことに、目の前の人形が顔を上げて矢崎に声を掛けてきた。
「っ!?」
はっ、と我に返り、反射的に後ずさる矢崎。いきなりのことで状況を理解しきれていない。突然の声に反応してしまったが、さっきのは本当にこの人形のものか? ……今にも喋り出しそうなほどよく出来た造形ではあるが、流石に本当に口を開くはずはないだろう。だが彼女の紅い眼はこちらを見据えており、少なくとも頭を動かしたのは確かだ。
「…………」
矢崎の目つきが鋭くなり、眉間に深く皺が入る。
そうしているうちに、
「お客様。まもなく、閉館時間となります」
二度目の声。今度はしっかり目が合い、口の動きも目撃してしまった。間違いなく、この人形は喋っている。
肌が総毛立ち汗が沸きだすのを感じた。
「…………」
「お客様?」
矢崎は押し黙る。真実味の無い現状についていけないのではなく、彼の稀有な思考回路は既にある程度の冷静さを取り戻し、素朴な疑問を抱いていた。
――――この人形を切り刻んだら、出血はあるのか、叫び声を上げるのだろうか。
ポケットに仕舞ったナイフを握りしめながら、矢崎紘玄が気にしているのはその二点のみだった。
(side Kougen,end)
◆
つい先日までしがない大学生だった九重神(しん)太郎は、都心の高層ビル最上階にある事務所はいつまで経っても慣れ親しめるものではないな、と指令を受けた帰りのエレベーターでひとりごちる。だがそんな些細な愚痴を聞いてくれる気のいい先輩など職場にはいないし、そもそも愚痴を言っていられるほど、彼の就く仕事は暢気な職務でもない。
特殊非常時独立戦略執務部、通称特務――――彼の現在の職業だ。その存在は非公開であるため一般人が名前を耳にすることはほぼないが、国から手厚い保護を受け、現在この国の重要な防衛を担う組織である。それを知る民衆はいない。
では特務は人々に気付かれることなく、一体どのような脅威を取り除いているのか。
それは『カゲビト』と呼称される、姿のない侵略者達。
彼らはこことは逆位相に存在する、影に満ちた「陰世界」という場所に住まう存在だ。彼らの侵攻方法は、陽世界の人間の影を支配し、魂に憑依する、というもの。
変死事件や、人が変わったような突然の凶行が取り沙汰されることが多い昨今だが、その犯人はカゲビト憑きの人間であることが多く、人智を超えた力を持つカゲビトは、事情を知らない人間の手には負えない。
「……」
神太郎は、自分が一番最初に担当した事件を思い出す。
某県某所、オフィスビルでの立て籠もり事件。犯人は新入社員の女性だった。
彼女は普段、大人しく引っ込み思案だったというが、事件の当日、突然ドアを蹴破って現れた彼女は、男性的な口調で社員を皆殺しにすると宣言したのである。見た目は全く彼女のままで、だ。
この事件を聞きつけ、特務が事態を収束させるまでに、9人の社員が犠牲になり、ビルの一室は燃えた。
事態が収束した後、生き残った社員に事情を伺っても、彼女は前日まで変わった様子など無く、いつも通り同僚とも上司とも必要以上の会話をせず帰ったというのだ。
……これだけなら、ただの気の触れた女の凶行として片付けられるのだが、犯人の女性は「直接手で触れずに人を燃やし」ていた。
通報した社員はそう言ったそうで、それが切っ掛けで警察から特務に出動要請が来た。
「陽世界」にいる人間の人格を追いやり、肉体を得たカゲビトは超常の能力を使う。それらの多くが影を操り、その影に何か特殊な力を宿らせるものだが、その時のカゲビトは、中でも危険な『炎熱』の能力を有していた。影に触れた生物を発火させることができる、極めて殺傷力の高いカゲビトである。
要請を受けて、神太郎は特務入隊後間もない身でありながら、現場に連れて行かされたのだが――……彼は、『炎熱』のカゲビトの声と、彼女が作り出したオフィスの惨状が忘れられない。
完全に男の喋り方で奇声を発する犯人の女性。「カゲビトは対となる人間とは性別と性格が逆転する」――カゲビトの前に跪き、狂ったように叫び声を上げながら、男か女かもわからない姿なった火達磨を見て、入隊後の講義で聴かされていたことをぼんやりと思い出した。
連絡を受けた後、即駆けつけた筈なのに/(間に合わなかった)、自分の力があれば、助けられたかも知れないのに/(見殺しにした)……そう、いつも悔いる。
……かようにして、カゲビトの侵攻は突発的で察知しがたく、対処が非常に難しいのであるが、国家としては「姿形では判別の付かない侵略者が存在する」という事実を広めたくはない。故に特務は秘密裏にカゲビトの調査、対処を行っている。今し方神太郎が受けた指令も、そのような調査の一環であった。
「嗣楼館大學……」
携帯端末を操作しつつ、調査にと受け取った文書ファイルを読み込んで、今回の事件現場の名を呟く。ここ一ヶ月の内に三人の死者が出ているこの大学は、現在は休学している、自分が通っていた学校だった。
今回神太郎が受けた指令は潜入捜査である。在校生の身分を利用し、復学を装い嗣楼館大學付近で多発している変死事件について調べ、それがカゲビトによるものであれば犯人の特定、捕縛まで行う。これが仕事内容だ。
かつて友人だった人達にも疑いの目を向けなければならない、ということを考えると多少気が進まないものの、そうも言っていられない。手をこまねいていたら、それこそ旧友が被害に遇う可能性だってある。尤も、陰気な学生だった彼の友人と呼べるような人間は、極僅かだったが。
「……」
あまり愉快でないことを思い出したな、と後悔する。エレベーターが静かに降下する音が重苦しい。軽く溜息を吐いて、文書をまた見直す。
カゲビトによるものと疑われる連続殺人。報告書の表紙はその一文から始まる。
そう物々しく表現されているのは、亡くなった三者に共通点があるからである。それは、遺体に無数の切り傷が、奇妙なかたちで付けられているということだ。傷口から相当な業物で切られた、ということは判明したのだが、どうも犯行に使われた刃物の形状が特定できないらしい。「仮に一つ凶器を想定しても、それではつけることの出来ない傷が存在する」、などと報告書にはある。
「カゲビトだとしたら、どんな能力だ……? お前はどう思う? 由依」
報告書に目を落としたまま、そこにいない誰かを由依と名付けて神太郎は喋りかける。狭い個室に吸われていく声。それに答える言葉もまた、神太郎の口から出る。
「さあね。流石に私も、どんなカゲビトがいるかを細かく知ってるわけじゃないってば」
声のトーン、口調が一転し、快活で女性的な喋り方になる。神太郎の影の向こうに存在するカゲビト、「朝比奈由依」の言葉だ。
通常、カゲビトが人間の影を通じて陽世界に訪れる際、元々陽世界にいた人間の人格は深層意識に沈み、カゲビトがその体を完全に支配する。しかし神太郎の場合は、何故か彼が上位人格となり、ほぼ完全にカゲビトをコントロール出来ている。このような事例は確認されている数が少なく、平凡な大学生だった神太郎がこんな物騒な仕事をしているのも、この奇特なカゲビトのせいである。「カゲビトに対抗しうるカゲビト」として、本来討伐される立場でありながら、彼は特務に存在することを許されているのだ。
神太郎は嘆息混じりに「それもそうだな」ともらして携帯の電源を切る。じきに一階に着く……一人芝居を誰かに見られることのないよう、大人しくしておこう。と神太郎は人格の所有権を取り返して仏頂面に切り替わる。
神太郎は特務入隊以降、仕事中は常に冷静でいることを努めている。それが、いつやってくるかわからないカゲビトから人々を護るための、彼なりの処世術であった。自分は唯の学生ではない、と。
エレベーターを出て帰途につく。今度の職場は、現住所からほど近い場所にあるのが楽でいい。ここに来るよりも気負わなくて済む。
何気なく腕時計に目をやるとPM4:00と示していた。不意に去年の、まだ自分が大学にいた頃のことを思い出す。いつも閉館前に少しだけ、学校近くの美術館に寄っていたあいつ――――今からうまく電車に乗れれば、奴に会うことが出来るかも知れない。復学前の挨拶代わりとして、会ってみるのもいいだろう。
影を通して感覚を共有している由依は、自分の半身が静かに、しかし素直に昂揚しているのを感じてわずかに驚く。彼女がやってきて以来、神太郎がこういう感情になるのは初めてのことだった。
(由依、今日は、)
(近道して美術館を通るんでしょ。もう、学校の子達に見つかる心配しなくてもよくなったんだし)
流石半身、以心伝心というか、思うのと伝わるのは彼らにとって同義だ。神太郎の思いつきに、由依は異論を唱えない。
駅へと急ぐ道で、また数少ない友人のことについて考える。
あの乱暴なくせに正義感の強いあいつが、変なことに首を突っ込んでいなければいいが――――
(side Shintarou & Yue,end)
◆
専攻人型自律機構、number006-リオン。人類の叡智を集結して完成された蝶モデルのアンドロイドである彼女。その製造目的は「美」の追求。学習機能を備えたAIと膨大なパターンの合成音声、そして自在に形状を変化できる人工骨格と、陶磁器に似た材質の滑らかで艶のある素体……その他様々な機能、機構は、全て彼女が「美」に到達するためだけに搭載された。
生身の人間との接触を繰り返し、その反応を記録、対象との会話、対象の視線等を人間のサンプルとして保存し、そうして蓄積されたデータベースから「全ての人間が美しいと感じる」姿、声、喋り方に己を変えていく。 現在美術館に「作品」として展示されているのは、人間の反応を調査したい、という彼女自身の希望によるものだ。
……などと。
「っていってもなぁ。俄には信じがたい」
矢崎は眉根を寄せ、頭を掻きながら目の前にいる少女のようなモノを見やる。
「現にこうして発話しているのを目にしてもですか?」
「そう言われればそれまでなんだが」
小首を傾げるリオン。仕草一つ一つが様になり、服装と髪色も相まってなんてことない挙動からも神聖さをイメージさせる。
だからといって矢崎がなにか思うことはないのだが。
先刻の衝撃的な出会いから数分が経ち、もう窓から光が漏れなくなった頃。閉館時間間近の美術館で、矢崎はリオンの語りにつきあっていた。こんな精巧なロボットを唯の鑑賞用として造った経緯を知りたかった、という欲求もあり、当初は彼も彼女の身の上話に耳を傾けていたが、聞けば聞くほど胡散臭くなる物語にうんざりしていた。
「……なんつーか……世界は広いんだな、あんたみたいなのもいるってのが知れて良かったよ。じゃあな」
強引に話題を切り上げて帰ろうとする矢崎。
「待って下さい」
「いや、もうそろそろホントに閉館時間だろ」
「この後、少しお時間頂けないでしょうか。ここの向かいに喫茶店があるので、よければそこで」
「……」
ロボットにナンパされてるぞ、俺! 矢崎は軽い恐怖を覚えた。
「悪ぃが、俺も暇じゃねぇんだよ」
「小一時間以上わたしの前に居続けたのにですか?」
「……っ」
ロボットに論破されちまいそうだ……と若干自信を失う。
「とにかく、会ったばかりのロボットとお茶するほど心広くはねぇ」
「そう言わずに。ほんとうに、ちょっとした質問に答えて頂くだけですので」
生気の無い実直な視線が今は鬱陶しい。
「質問だぁ? なんで俺がそんな、」
「若い男性のサンプルは私には足りませんから。特に、貴方のようにあれだけ長くわたしを見てくれた男の人は」
矢崎のコートの裾を摘まみ、上目遣いで矢崎を見つめる。見るためではなく魅せるために造られた赤い眼は、初めて彼がそれを目にしたときのように鮮やかに輝く。
「何故、貴方はあれだけ長くわたしを見ていたのでしょうか。そのときあなたは何を思ったのか、それを私は知りたいのです」
声の調子はずっと変わらず、眼差しも真剣そのもの。「美」を追求するのが彼女の製造目的だとするならば、こういった問答は彼女が高みに至るために必要なものなのだろう。必死に、これ一つだけ、というものを求める姿勢に、矢崎は内心尊敬した。
そのせいで自分が今迷惑を被っているわけだが。
「……今はここに置いてもらってんだろ、あんた。ここに来る奴ん中に若い男の客なんて幾らでもいんじゃないのか」
「美術館にそんなお客様はあなたくらいしかいません。毎日ここにいらっしゃるあなたならおわかりかと思っていましたが」
確かに、今は閉館時間ぎりぎりということもあって客は矢崎一人だけだが、早い時間に来たからといってここが賑わっている所を、矢崎が目にしたことはなかった。今日の今日まで「人形展」の張り紙にも隅の特設ホールにも気付かなかったくらいだ。
「つーか、もしかして来てる客のこと逐一チェックしてるのか? このホールに来ない奴も含めて」
「それもわたしの仕事ですから。失礼ながら、監視カメラの画像をわたしがチェックしお客様の嗜好等を調査し、そのパターンを17種類に分類すると共に、それぞれの方がわたしに対してどういった反応を示すのか調べています」
特に大したことでもなさそうに答える。彼女の目はその二つの赤いモノだけでなく、この美術館全体というわけか。
というか、そこまでしても若い男のサンプリングに困るとは……。
通い詰めているだけに、矢崎はこの美術館の経営と進退が心配になってきた。
「だからわたしはずっと――ずっと遠くであなたを見ていて、やっと……直接言葉を交わすことが叶ったんです」
ほんの少しだけ、裾を掴む力が強まる。
「気になっていたんです、毎日ここにやってきては、つまらなさそうに数作の彫像だけ眺めて帰るだけのあなたのことを――それなのに、わたしを見た時にはあれだけの反応を見せた――どうしてですか? その理由をもう少しだけ、あなたの口から聞かせてほしいです……いけないでしょうか?」
涙を流す機能など無い筈なのに、矢崎の目には、彼女の瞳が潤んでいるように見えた。
古来から男は女の涙に弱い。それは目の前の女性に興味があるとかないとか、人間だとかアンドロイドだとか、そういった垣根を越えた男の性で、この矢崎紘玄も、その例に漏れない。
「……遅くなる前に帰してくれるなら」
「ありがとうございます」
僅かに頬を上げた笑顔。それは矢崎の胸を強く拍つもので、やはり数瞬、言葉を失う。
そして、そんな顔が出来るなら、きっと逆に苦痛で顔を歪ませることもできるだろう、と彼の中にある暗い部分が大きくのたうつように呻いた。
閉館時間が訪れると、リオンは自分を囲っていた柵を踏み越えて、矢崎の背を追い、並んで歩く。
「いいのかぁ? あれで」
「ええ。わたしはもともと市井に出て生身の人間の反応を収集するのが任務ですので、特に外出は制限されていません」
「…………」
もう今更、何も驚くまい。隣に少女人形を連れるのはどうかと思うが、飯時には調度いい時間だ。矢崎はそう思い込むことにした。
(side Kougen & Rion,end)
◆
リオンと矢崎が喫茶店に入って、暫く経った頃。
彼らが赴いた喫茶店とは大学を挟んで反対側――神太郎の家の傍――には、最大手チェーンのハンバーガー店がある。駅から多少離れているためそう客は多くなく、そんな中で、赤茶けた髪色かつ真っ赤なドレスを身に纏った妙齢の美女が、笑顔でハンバーガーをぱくついていたら、注目の的にならない方がおかしい。
彼女の名は霧生朱。職業は殺し屋だ。身も蓋もない言い方をすれば、汚れ仕事で得た金で彼女はハンバーガーを食べている。もし他人からそう言われたら、彼女は「お金に汚いも綺麗もないしハンバーガーは美味しいじゃない」、と答えるようにしている。周囲から遠慮無く向けられる好奇の視線もものともせず、幸せそうに租借する様は、見ている者まで喜ばしくさせるようであった。
だが、はたハンバーガーを平らげると憂いを帯びた表情に一転する。それは豹変と言ってもいいくらいの変わりぶりで、遠目から彼女を眺めていた男達もその様子に何かしら不穏な空気を感じた。しかしそのような顔も様になってしまうのが霧生朱という女で、彼女の放つどこか謎めいた雰囲気に男共は惹かれていた。
本人は、口座に金が残っていない、という至極惨めな状況を悲嘆していたのだが。
フリーランスで殺しを仕事にしている彼女は、仲介業者を通さないため依頼料は比較的安く、彼女自身に組織的しがらみがない。その上仕事の成功率も抜群に高いものだから、裏社会では重宝される存在であった。
しかし、それ故に問題も起きやすい。二つの暴力団間の抗争に利用され、金を貰うままに両者の人間を殺し続けた結果、信用を失い根城としていた地域から放逐されてしまった、というのが現状だ。
自分の名――主に悪名――があまり通っていない所までやってきたはいいものの、そうすると後ろ盾のない彼女には仕事が舞い込んでこない。そんな二律背反を抱え込んでいた。今までは何とか貯金を切り崩して誤魔化しながら生活をしてきたが、そろそろそれも出来ない、というところまできていた。
怪訝そうな顔を浮かべて、新品の手帳を開く。まだページの最初の方しか使われていないそれには、新聞の切り抜きが貼られていた。記事は全て、ここで起こっている連続殺人事件についてのもの。
……こんなものが町に蔓延っている。朱がやってきてから、立て続けに3人も殺されているのだ。
(莫迦ねぇ。そんなに殺したいなら、あたしに頼めばいいのに。ていうか頼んで、頼むから)
残り少ない珈琲を啜る。プロとして殺しをしている朱には、事件の犯人像がある程度浮かんでいた。
この事件の犯人は、十中八九、素人だ。死体を処理しないなんて、事後処理がお粗末過ぎる上に、殺し方に無駄がある。複数の刃物で滅多刺しなど、まずプロのやることではない。怨恨や享楽を持ち込んで仕事をする人間はいないし、人一人を殺す加減などその道の誰もが心得ている。
殺るときはすぱっと。金にならないことはしない。同業者に迷惑を掛けない。それが、職業殺人者の不文律だ。
明らかに異常で、不可解な殺し方。それは不用意な警戒を、不本意な団体にさせる。……察するに、犯人は朱と同じなんらかの「異能」持ちなのだろう。おそらく、発現したての。自分の得た新しいオモチャを試したくてしょうがないといったところだろうか。それとも、突然得た力を振りかざして今までの鬱憤を晴らしているのだろうか――と考えてみて、前者については何となく理解できる心情だが、後者は、朱にとってまるで別の世界に住む人間のやることのように思われた。
霧生朱は人を憎む事が無く、他人の憎悪が理解できない。それがどういった感情なのか、何故そういった感情が芽生えるのかも解らない。殺しを職にしてきたからそうなってしまったのか、そんな性格だから殺しを仕事として行えるのかは、彼女自身も本当のところが言えない。
何にせよ、流石に今回の殺しは悪目立ちが過ぎて、動くべき人間達がうようよと巡回している。そのため、職探しどころかおちおち夜出歩くことも出来ない始末だ。一時期は転職まで考えたが、それも莫迦莫迦しい。こちらはずっと殺しを職にしてきたのだ。どこぞの下手糞の不始末のせいで職を追われるなんて理不尽極まりない。
理不尽の塊のような仕事を長年やってきた彼女は、無自覚に、自分勝手にもそう思った。
このままこの出来の悪い事件が続くと、とても生活がし辛い。ゆくゆくはハンバーガーが食べられなくなる。
それは困る。困る困る。
「……よし」
残りの珈琲を飲み干して、コップを机に強く置く。小気味良い音が鳴って、気持ちを切り替えるのにいい切っ掛けになった。黙っていても、財布の中身は減るばかり。幸い時間だけは与えられているのだし、食いっぱぐれないように最善を尽くすべきだろう。
まずは……現場を見てみることにしよう。幸いこの周辺に場所が集中していて、確認は一晩あれば事足りる。お巡りが掴みきれなかったことも、自分の「能力」なら何か得るものがあるかも知れない。
住所不定無職、年齢不詳本名不明、霧生朱はそう決意し、血色の良い唇から短い桜色の舌を僅かに覗かせながら、郊外の闇に融けた。
(side Akari,end)
◆
外もそうだったが、内装も力が入っていて、良い雰囲気の喫茶店だな、と普段こういったところに足を運ばない矢崎でもそう思った。
彼はボックス席に腰掛け、ジャケットを脱ぎ、裏返して畳む。その挙動を終始向かいに座るリオンが観察しており、矢崎は言いようのない居心地の悪さを感じる。が、こいつの無遠慮で無機質な眼差しにいちいち何かを感じても疲れるだけだ、と、いい加減何も言わなくなり、黙って視線を受け止める。
無造作にメニュー表を摘まんで取り出し、斜め読みする……表越しにリオンと顔が合い、彼の中でひとつ気になることが生まれ、
「そういやあんた、ものは食えるのか」
「咀嚼と嚥下は可能ですが、消化器官はありません」
「目に見えるとこだけヒトの再現してるわけか」
「そうです」
そんな中途半端な……と矢崎。
腹を割いても何も出ないというのは、味気ないものだ。
「? どうかされましたか?」
「いや、何でも無い」
食事中に考えることではなかったな。
「捕捉しますと、一応味覚はあります。匂いや味は人の意識を強く刺激し、それを分析することもまた、わたしの仕事ですので」
「なんだか色々考えてんだか考えてないんだかわかんねえな……それより、何も注文しないでいいのか」
「はい」
なら、俺の分だけ選べば良いか、と矢崎は弄んでいた表を両手で持って、軽食はないかと探し始める。
程なくしてピザトーストが目に入った。これならぎりぎり夕食と言えるだろう。値段もしっかりと確認し、ある程度妥協して、注文しようとしたが――
「……いや」
思い直し、表を見返す。デザートの欄を眺め、リオンと見比べる。それからややあって、矢崎はウェイトレスを呼び止めた。
「……ピザトーストひとつと、ストロベリーパフェひとつ。以上でお願いします」
注文の品はすぐに届いた。矢崎はピザトーストを自分のもとへ寄せると、ストロベリーパフェをリオンのもとへやる。
「これは、どういった意図でわたしのもとに置きなさっているのですか?」
「あんたが何も食わず喋ってる時に、俺だけ飯食ってるとなんか気まずい」
「わたしは大丈夫です。気になりません」
「そうは言っても、俺が気になる」
そこまで矢崎が言うと、リオンは俯き、血の通っていない目で苺とホイップクリームとアイスの塊を見つめた。
「わかりました。折角の機会ですので、ありがたく頂きます」
急に神妙な顔つきになり、スプーンを手に取ったかと思えば、改まって合掌した。
矢崎も行儀良く手を合わせ、ピザトーストを手で裂く。あまり畏まったテーブルマナーなど頭に叩き込んでいない矢崎だが、最低限の事は守って食事にありつく。それなりの教育をされてきたことが窺い知れる。常に険しい顔をしている為、周囲からは不味そうなのかと誤解されそうだが、それ以外は特に問題の無い動作だった。
リオンはといえばスプーンを持つ手の角度から、苺を口に運び、噛み潰しそれが喉を通るまでの一連の所作に一点の無駄もない。お茶汲み人形はあったが、ロボットがお茶をする時代になったとはな、などと食べさせた本人は皮肉に思う。
食事、とは言うが成人男子にとってトースト一枚などオブラートと大差ない。それなりに美味かったんじゃないかという錯覚だけ感じて、矢崎は素早く完食した。もちろんリオンはまだ食べきっているわけもない。
結局、手持ち無沙汰になるかさせるかの違いでしかなかったようだ。一つ一つ確かめるようにして味わうリオンをよそに、矢崎は少し考え事をする。
「美」の追求。彫刻を趣味とする矢崎も、そのことについてぼんやりと考察したことはある。流石に目の前の人形のように、己の全存在を掛けてまで打ち込んだわけではない。が、彼も多くの他人とは方向性を異にする美観を持っていたが為に、考えずにはいられない問題であった。そんな壮大な問いに答えを見出そうとし、それをそのまま体現させようと試みたこの人形と、製造者には感服する。
現在のリオンがどの程度まで「それ」に近づいているのかわからないが、今のままでも彼女の容姿は、100人が見ても美しくないと答える者はいないだろう……という所にまできている。店の薄明かりを透かしては反射する、彼女の空色の髪を見て思う。
しかし彼女のとる方法で、本当に「美」に到達できるのだろうか? 現状「美」のようなものであるモデル、リオンを遍く人間の目に触れさせ、その反応を調査し、あらゆる人間がそれより好反応を示す容に己を造り替えていく……そういうやり方で進化してく「美」というのは、至ったところでそれは頂点のほんの一部分でしかないのではないか?
あらゆる「美」の最終地点のようなものを、リオンという素体を通して、全ての人間が感じ得るようになれば、それはリオンとその制作者にとって、「美」に至ったことになるのだろうか。だが俺のような感覚を持つ人間はどうなる? そもそもリオンのような進化の結果得られる「美」と、俺の嗜好は――――
「……ご気分が優れませんか?」
深刻な表情を浮かべていた矢崎にリオンが声をかける。彼はふと意識を戻し彼女の手元を確認したが、そこには大きなグラスがあるだけだった。食べ終わったことにも気付かなかったのか、と少し驚く。
「あぁ、平気だ。それより食い終わったし、話始めるか」
「はい。お待ちしておりました」
「聞きたいのは……俺があんたをあんな長い間見っぱなしだった理由だな」
「そうです」
曇りのない声。普段女の声、いや誰の言葉にも気圧されない矢崎だが、こと今回に限ってはややたじろぐ。
彼女に見とれた理由。
それを根っこの部分から十分に説明するには、自分の嗜好を明かさなければならない。今まで誰にも教えたことのない事情を、会ったばかりの相手に……。
幼い時分から染みついてきた心の深い部分に巣くうモノを、こんな場所でこんな相手に。そう思うと、口を開くのが躊躇われる。
適当に話を合わせて、納得してもらうしかないだろうか。
「なんつーか……何から話したらいいやら……」
「もしかするとその理由には、他人に話すのが憚られる内容を含んでいるのですか?」
図星を突かれ、ほんの一瞬だけ動揺する矢崎。しかしそれをおくびにも出さず、
「そういうわけじゃねえ」
「それは嘘ですね」
が、誤魔化しはきっぱりと、柔らかい涼やかな声で一刀両断された。
「……なんでそう言える」
「わたしは人間の反応を調査するために、体温、心拍数、呼吸などバイタルを読み取る機能があります。それを利用し――、」
「嘘発見器機能もついてんのかよ、お前……」
「はい」
いよいよもって厄介な奴に捕まったな、と今更ながらに後悔する矢崎。
「どうか遠慮なさらずに、出来るだけ思ったままのことを教えてください。人に言い辛いことだったとしても、口外してはならないとなれば絶対に喋らないように出来ていますし――大体わたしは、人ではありませんし」
リオンは目を伏せ、たおやかな指先でグラスに掛かったスプーンを撫でる。金属とガラスがぶつかり鳴る音は、酷く乾いていた。
しばらくの沈黙。
矢崎は腕を組み、いつも以上に眉根を寄せた。リオンは垂れた前髪の隙間から、彼の胸中を覗き込む。彼女に心は無く、実感を伴って理解することも出来ない。
「……俺は、」
しかし常にそれに近づこうとする直向きさが、人の心を動かす時もある。そうして間接的に、彼女は心に触れ、それを知っていくのだ。
「俺は、あんたを見てる間に――――あんたを壊す方法を127個考えてた」
生身の人間に見えたあんたを、バラバラにしたくて堪らなかったんだ、と明かす。
正義漢の殺人志向者と、無垢な少女人形の会談は、物騒な切り口から始まった。
「バラバラ、ですか」
完全に殺意の告白であったが、リオンは何でも無かったかのように平然と自分の胸元、両手の甲に視線を落とす。
「では何故、わたしの体をそんな風にしようと思ったのですか?」
「俺の嗜好からだ。俺は……猟奇的な光景に、昔から憧れていた」
「猟奇的な光景、というと。人体を著しく損傷し、埒外の苦痛を与えて死に至らしめるようなものですか」
「それ以外に何がある?」
何故それを好むようになったか、何時からそうだったか、それはもう誰にもわからない。物心ついた頃には、彼はそういった光景を見たくて堪らなかった。切っ掛けとなり得るような出来事も記憶にはない。
「成程。ではスプラッタのどういう所に魅力を感じているんですか?」
「はっきりとはいえないが……人体が炸裂する様は、花火と一緒なんだと思う。人間は、少し手首を深く切っただけで綺麗に血飛沫を上げる。まるで壊すために造られてんじゃねぇか、って考えることがたまにある」
「形を壊すことに美を見出す人もいるのですね、興味深い。……普段からそういうことを考えているのですか」
「しょっちゅうだ。頭から離れることはない」
「それを実践に移したことは?」
「……一度もねえ。俺はおかしいが、終わってはいないつもりだ。命あるものに対する敬意はある」
矢崎紘玄は間違いなく異常者である。が、彼が未だに表の世界で生活していられるのは、最後の一線を越えていないからであり、彼の並外れた規範意識がそうさせた。彼の美観は倫理に反するが、ある点では人並み以上に倫理的な男なのだ。
「ならば今度、わたしを壊して欲しい、と言ったらどうしますか。命あるものを大切になさっているのはわかりました。ですがスプラッタを望まれているというなら、わたしは適任だと思うのですが」
「……なんであんたがそんなことまで言うんだ?」
突然の常識外な提案に矢崎は困惑する。確かに、リオンを壊したところで、それは人殺しにはならない、といえるかも知れない。法的に言えば彼女はモノなのだろう。が、
「現在のわたしは、世界のあらゆる美的な容貌、造形を吸収して形作られたモノです。しかしそれでも「美」には到達できない。行き詰まっているのです」
「だからいっそ壊してくれ、ってのか?」
それは余りにも投げやり過ぎるのではないだろうか。こんな技術の粋を集めて造られた人形を、一般市民の矢崎が壊してその後の責任がとれるとは思えない。それに――――、そこまでで、思考は声に遮られる。
「そうではありません。自己の身体を欠損させることで生まれる美というものを、今までわたしは追求してきませんでした。自暴自棄にになっているのではなく、単純に新しい「美」への活路として、わたし自身の体でスプラッタを試みたいのです」
「……」
「どうですか?」
「……嫌だ。それは俺が求めるモノじゃない」
「どういうことです?」
「スプラッタが綺麗なのは、有限の命を容赦なく形も残さず破壊するからだ。だがあんたにはそもそも命が宿ってねえだろ」
「見た目が殆ど人間と区別が付かなくてもですか」
「そうだ。俺には……うまく言い表すことは出来ないが、その二つには埋めようのない差がある、と思う。結局、あんたを殺しても人殺しにはならねぇが、それはかえって問題なんだ。やっても、虚しいだけだろう」
それに――――矢崎にとっては、リオンが生身の人間でないと判った今、殺意は立ち消え、この挑戦的な想像理念をした人形の行く末に、純粋に興味が沸いていた。その意味でも、今この段階で彼女を壊そうという気はもう無い。
ふとリオンから顔を背ければ、窓から町明かりと控えめな月の光が見えた。
「……このぐらいでいいか? あとは特に、話すことはねぇよ」
立ち上がり伝票を引っ掴む矢崎。リオンは両手でグラスを持って、
「……そう、ですね。わかりました、今日は、ここまでで」
――今日「は」と言ったか? 矢崎はリオンの言い回しから面倒な気配を察知する。
「ちょっと待て。まだ何かあんのか?」
「ええ。様々な思考をしてみたのですが、やはりあなたの仰ることにどうしても納得がいきません。最初は生身の人間に見えたわたしを壊すことを考えていたのに、わたしが人形だと判った途端、その意志を失っている――その間わたしの体は何も変化しておらず、もとのあなたが壊したいと思った形象のままであったのに」
「…………」
言われてみれば、と矢崎は気付く。それに対する理に適った説明がすぐ浮かばないのが悔しかった。
「今度あの美術館にいらっしゃる際に、またそれについてのお話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか」
リオンの積極性には恐れ入る。躊躇いなど何一つ宿っていない真っ直ぐな目線も、鬱陶しく感じつつ耐性が出来たようにも思う。
この変な人形がいるからといって、己の日課をやめるのも阿呆らしい、と、
「まあ、少しくらいなら」
と鼻の頭を掻きながら、矢崎は答える。
「ありがとうございます――そういえば、お客様の名前を未だ聞いてませんでした。伺ってもよろしいでしょうか」
「矢崎紘玄だ」
「矢崎様。以後ご助言、宜しくお願い致します」
出来れば、こんな関係は長続きして欲しくないものだ、と辟易する矢崎。しかしこんな形で出来た繋がりがそう途切れる筈もなく、奇縁はふたりを思わぬ未来へ導く。
その先で彼は、自分の倫理観に沿って、かつ満足のいく陰惨な光景を繰り広げる事が出来るのか、彼女はまた一歩、新たな道を通って「美」に近づけるのか。
(side Kougen & Rion,end)
◆
結局電車は遅延した。京桜線の常である。神太郎が自宅の最寄り駅に着いたのは、美術館が既に閉館してしまってしばらく経った後であった。矢崎が美術館にいるかどうかも不確定事項であったわけであり、会えれば幸運、くらいの気持ちでいたので、神太郎はそれに関して落ち込んだりはしなかった。
しかし、その矢崎紘玄が――同級時代、その荒々しさから女子に煙たがられていた彼が、異様なまでに美しく、目立つ少女と並んで喫茶店を出るのが目に入ったときは、流石の神太郎も冷静ではいられなかった。
「ええええ!?」
(ちょっと、駅前で大声出さないでよねみっともないなあ!!)
由依の文句にも反応できず、衝撃的現場を目の当たりにして愕然としている。
自分に似た日陰者だと、放つ雰囲気からすぐ親近感を覚えた数少ない友人の一人。そしてその中のまた少数の、親友と呼べるくらいにまで親交を深めていたはずの矢崎が、自分の不在中に女子とよろしくやっていたこと。
そのような友人の変化は、望まぬ形で現在の職に就き、大学を離れる羽目になった神太郎にとっては相当堪えるモノだった。
矢崎を見つけて、挙げようとした手が空を掴む。声を掛けるべきかどうか逡巡して――そのうちに、矢崎の方がこちらに気付く。
「神太郎か?」
駅から喫茶店までは、歩いて行けるとはいえそれなりの距離がある。神太郎はカゲビトの力により暗視が効く体になっているため矢崎の姿が確認出来たが、一般人の矢崎が神太郎を見つけられたのは僥倖だ。よお、と矢崎は気さくに神太郎の方へ向かっていく。
傍につく少女は当然神太郎のことを知らず、矢崎とこちらを見比べるように首を動かす。その動きに合わせて色素の薄い髪が揺れ、やはり規格外の美少女だ、と神太郎は気後れする。
「久しぶりだなァ、神太郎」
「ああ、百年振りだな紘玄。まあ……ビックリしたよ、お前がそんな綺麗な彼女を連れてるようになるなんて」
「……はあ!?」
矢崎は信じられないといった風に顔をしかめる。神太郎が見当外れのことを言ったときにはよくしていた表情だ。どうやらこの少女と矢崎が付き合ってるわけではないようだが――
「矢崎様。この場合は彼女、というのは矢崎様の交際相手、というのを意味し、わたしがそれに該当する、という解釈で――」
なにか物々しい言い方をする彼女を、矢崎はちょっと黙ってろと小声で制止して口を塞いだ。鼻頭についた傷に汗が滲んでいる。彼は焦っている時、大抵そうなる。
「いやァ、違う違う、こいつは別に、そういうんじゃねぇよ」
言うや否や、急に矢崎は彼女に帰るよう促し、彼女も渋々、といった様子で受け入れていた。去り際、彼女が「また今度お話を伺ってもよろしいでしょうか」としきりに聞いていたのが妙に印象に残ってしまう。
……ひょっとすると、そんな簡単な関係では済まない――もっとヤバい間柄なのかも知れない、と、神太郎はそれ以上詮索する気にはなれなかった。
(……んん?)
神太郎の影に潜む由依は、そういった眼差しとは別の視点で、リオンの後ろ姿と、街明かりに照らされて伸びる彼女の影を観察していた。
「それよりお前、飯まだか」
神太郎が何も言えないでいると、矢崎からそんな質問。
「いや、まだ」
「じゃあ久々に一緒にどうだ?」
「いいのか? さっきあの娘と食べたんじゃ」
「ちょっとだけな。足りねぇからどうせ後でなんか食い足そうと思ってたし」
そういうことなら、と気兼ねする必要も無く、再会を祝したいところだ
「わかった。で場所は」
「さっき俺が行った喫茶店で構わねぇか? 今日初めて入ったんだが、結構よくて」
へぇ、それは楽しみだ。と神太郎は快く返答した。
神太郎も、こういった小綺麗な店には縁が無かった男である。
「そういやお前、授業ちゃんと出てるのか」
イカとイクラのスパゲティを音を立てず食べながら、神太郎が切り出す。
「学芸員関連のはァしっかりな。あとは騙し騙しだ」
言いつつ、兎肉のパイを大口開けて味わう矢崎。
「つうかよ、お前が学校の事について口出しするなんてお笑いだぜ。急に休学して今何やってんだ? 別に病気ってわけでもなく、此処居るところ見ると留学とも違えし」
「まあちょっと、家庭の事情でね。今は仕事の手伝いしてるよ」
などと、探りを入れ辛い種類の嘘を吐いてみる。
「……ふうん」
神太郎の思った通り、そこから矢崎は立ち入ったことを聞かなかった。お互い、調度いい距離感を心得ている者の遣り取り。
「ま、俺としては元気そぉに見えるからそれで良かったわ」
パイ生地をリズミカルに噛む矢崎。
「そっちこそな。最近はこの辺も物騒になってるから、結構気をつけないとな」
何気ない風を装って放たれた神太郎の言葉に、矢崎の口が止まる。食いかけのパイを皿に置いて、神太郎の額を見据える。
「物騒って、何がよ」
「知らないのか? この付近で、嗣楼館の学生が殺される事件が三件も続いてんだよ」
眉をひそめる矢崎。聞いてねえぞ、の形に口元が動く。目は据わっていて、神太郎はその様子に不穏なものを感じた。
「かなり話題になってるんだがな……聞いたことなかったか?」
「俺ん家にはテレビもねえし新聞も取ってねえからな。初耳だ」
パイにフォークを何度も浅く突き立てる矢崎、ぱりついた表面が全て崩れて見た目に悪い。神太郎は、また矢崎の正義癖が始まったか、と焦った。
学生だった頃、矢崎と連んでいた神太郎の印象に残っているのは、何よりも彼の義心の強さだった。例えばこんな話がある。
去年の夏頃、校内に烏の死体を撒き散らすという、悪趣味極まりない事件が発生していた。矢崎はその噂を聞きつけるや否や、学校中の人間に聞き込みをして回り、果ては張り込みまで行ったのだ。神太郎も手伝いとして付き合わされたのだが、その時の矢崎の顔は尋常でない怒りを湛えていて、犯人が見つかったらそいつを殴り殺しそうなほどの剣幕だった。ついぞ犯人は見つからないまま盆に彼が帰省するとなって、歯が欠けるのではないかというくらい歯ぎしりしていたのをはっきり覚えている。夏休み明けにはそんな事件もパタリと止んで捜査をすることはなくなったのだが、矢崎は時偶その事を思い出しては、顔を歪めていた。
極端に義憤に駆られやすい性格をした矢崎の前で、開けっぴろげに殺人事件の話などするのではなかった、と後悔する。てっきり烏の件のように、一人でそういった事を嗅ぎ回っているのではないかと心配して話を振ったが、完全に裏目に出てしまったようだ。
「いや、まあ知らないなら良いんだ。危険な目に遭ってないってことだしな、うん。……食事時の話題じゃなかった、すまん」
(ほんと。心配するにしてももっと聞き方ってもんがあるでしょ? この人と付き合い長いんなら考えなさいよ)
由依は神太郎の迂闊な言動に呆れていた。彼女が神太郎に憑いたのは去年の秋口、大学の後期日程が始まる前であり、その直後に神太郎は特務に入隊したため、由依は神太郎の大学の友人を直接見たことはなかった。脳――記憶を共有して、他人事のように、「九重神太郎にはこういった友人がいる」といった理解しかしていない。
しかしそんな由依でも、海馬に残った字面でしか矢崎を知らない彼女でも、神太郎の発言は矢崎を無駄に刺激するものだということくらいは判断できた。
案の定、矢崎は逸らそうとしたその話題に食いついてきて、
「構わねぇよ。お前、事件のことについては詳しいのか」
普段から鋭い目つきが更にきつくなる。神太郎は観念して、
「……まあ、一通りのことは知ってる」
溜息混じりに白状した。
(ちょっとお! 此処で特務の機密とか洩らしちゃだめだからね!!)
(判ってる。普通に報道されてるレベルの情報を少し教えるだけだ。とにかくこうなったら奴は止まらん)
仕事では常に冷静に、という自戒を守り、この半年間数々の死線をくぐり抜けて経験を積んだ筈なのに、いざ旧友に出会うと去年とほとんど変わらないことをやってしまっている。
神太郎は自嘲気味な笑みを一瞬だけ浮かべて、紅茶を注文する。
湯気を燻らせるアールグレイをほんの少し啜って短い溜息を吐き、連続殺人事件の概要を語り始める。
パスタと紅茶の組み合わせは最悪だな、と苦い顔をしながら。
(side Kougen & Shintarou,end)
◆
話を聞き終わるやいなや、矢崎は簡単に別れの挨拶と会計を済ませて、一人で帰ってしまった。
(あーあー、ご丁寧に矢崎君に火をつけちゃったね)
(もう言うな。それより明日からのことだ)
神太郎は仕事の時のように冷静な表情をつくる。何でも無いような顔で紅茶を飲み、カップを持つ手も落ち着いている。だが内心を共有している由依には何の意味もない。
(って言ってもさ、学生のフリして聞き込みするだけでしょ?)
(問題は誰に聞くかだ。入ってるときは知らなかったが、この大学にはだいぶ闇がある。下手にそこを突くとトラブルが起きかねないんだよ)
(……? どういうこと?)
(前に特務の資料を漁ってた時も、うちの学校についての報告書を見かけたことがある。それによれば、この大学を拠点にかなりでかい新興宗教が根付いてて、反社会的活動をしてるんだと。で問題なのが、その宗教団体のなかに、相当数カゲビトと思しき人物がいるってことだ)
(ああー、確かにカゲビトの超能力って、演出によっては神の奇跡っぽく見せられるもんね。教祖様が集めたがってるのかも知れないね)
(そうだな。下手すりゃ教祖がカゲビトって可能性もある)
いや、むしろその可能性は高い方なのではないだろうか、と神太郎は考えてしまった。
(うあ……ぞっとしないね。でも、そんなヤバそうなグループがあるのに、なんで潰さないの?)
由依の疑問は尤もである。国家が後ろ盾につく特務にかかれば、いち国立大学に潜む宗教団体を壊滅させることくらい造作も無い筈なのに。
(表向きはその宗教団体は存在しないことになっている。その母体となる組織は、いくつかの部活やサークルの代表や責任者で構成される連合体で、ぱっと見ただの学生団体だ。そこに公権力が大挙して奴らをしょっ引くなんて事があったら、カゲビトや特務の事が隠しきれなくなるかもしれん……そういったことを上は憂慮してるんだろう。)
それに、と神太郎は続ける。
(これは単なる俺の想像なんだが。この嗣楼館大學は国立大学だ。そこで国から食わせて貰ってる特務すら、手を出せないことが裏で行われてるってことはだ、)
(もっとヤバいのがこの大学を守ってるってわけ? なにそれ。そうやってビビってるから、こんなヤバそうな事件にも派手に人数使った捜査させないんだ。それで苦労するのはいつだって現場の人間なのに!)
大げさに頭を揺らす怒声を脳内で響かせる由依。
(何言ってんだ。お前別に、それ悪く思ってないだろ)
(まあね~。単独行動で好き勝手やらせてもらえるし)
一瞬で由依の語調は切り替わり、暢気に言う。
(…………頼むから俺の体で喧嘩なんかふっかけないでくれよ。ただでさえどこにどれだけいるかわからないカルトの混じる中、聞き込みするのはストレスなんだよ。必要以上の面倒事は背負い込みたくない)
(そう思った矢先に矢崎君を巻き込んじゃったんだけどね)
(ああ……だがまあいい、向こうも何のバックアップもない普通の学生に、尻尾を掴まれるなんてことはないはずだ。紘玄には悪いが、奴の調査が無駄に終わることを祈ろう)
(まるで自分が普通じゃないみたいな言い草だね)
(まるで、も何も、そうだろう。もう違うさ――お前に会った時からな)
その返答に由依は何も答えない。
共有する意識の中で、彼女がどう思ったのかを感じ取ることのないよう、神太郎は何も考えないように努めて紅茶を呷った。
(side Shintarou & Yue,end)
◆
饐えた臭いが立ちこめる路地裏で、慣れない街なのにも関わらず、霧生朱の歩みに迷いはなかった。
それもその筈、道を引き返しているからである。
思い立ったが吉日、とばかりに始めた事件の調査だが、意外にも収穫はあった。三件の殺人事件の現場と、事件当時の大まかな状況を知ることは、彼女の「異能」にかかれば容易なことである。そうして得た情報を手帳にメモしたまでは良かったのだが、順調な滑り出しが出来たことで気が緩んでいたのだろう、あろうことかそれを落としてしまっていたのだ。
そうしてつい先ほどまで自分が歩いていたところを戻る途中、一人の青年が走ってこちらにやってくるのが彼女の目に止まる。青年は二十歳前後で、走って顔を歪めているということを差し引いても人相は悪かった。鼻頭にある深い傷痕も柄の悪さを印象づける。
しかし彼の顔の特徴など朱の眼中にはなく、彼が手に持っている使い古されてない手帳のみが、立ち止まり獲物を見据えるような目つきになった彼女の関心事だった。
言うまでもなくこの青年は矢崎紘玄だ。神太郎と別れた後、すぐに夜の街を駆けた彼は、事件がどこで起きたか、どんな風に被害者が殺されたか、そんな情報の他には何の手掛かりも無く、ただ己の裡にある声に突き動かされて走っていた結果、幸運にも朱が落とした手帳を拾うことが出来たのである。
手帳を読んだ瞬間に、矢崎はこれの持ち主が事件に深く関わりがあるか、もしくは関わりを持とうとしているかのどちらかだと察した。
最初のページはただ事件に関する新聞の切り抜きが貼られているだけで、情報レベルとしては矢崎の知識と大差なかったが、そこからは、三つある殺害現場、被害者の状態など事件当時その場にいたかのような克明な記録がなされていた。その場で全て書き留めておきたい衝動に駆られたが、それなら書いた本人を見つけた方がいい。
突然降り注いだ好機を逃さぬよう、持ち主を何が何でも探し出して、話を聞こうという決意で必死に走っていた。
息を切らせて走ってきた矢崎を迎え入れるように、朱は大げさに手を広げた。狭い路地はそれだけで塞がってしまう。
「っ!! 何だあんた……っ、邪魔だっ」
矢崎は朱の目の前で急停止せざるを得なかった。手を膝に付け息を整える。苦しげな表情の彼に向かって朱は暢気な声で、
「どうも、お兄さん。今日びわざわざ落とし物を届けてくれるなんて、ありがとう」
「……っ……この手帳、あんたのなのか」
「ええそう。気付かないうちになくなってたから困ってたんだよね」
朱が右手を差し出す。数瞬あって、矢崎はそこに手帳を置いた。
「助かったよ。それじゃあ、さよなら」
「……ちょっと、待ってくれ」
手早く立ち去ろうとする朱の背中に、矢崎は声を掛ける。
「……あんた、連続殺人事件を追ってるのか」
そうして発したのは、およそ初対面の人間に向けるものではない口調。
不躾なそれを、朱は何の意にも介さず、
「あ、手帳見ちゃった? そう。あたしね、一身上の都合でその犯人を追ってるんだよね。何か知ってることない?」
飄々とした朱の語り口は、矢崎の耳には過度に白々しく、嘘っぽく聞こえる。
「…………奇遇だな。俺もそいつを探してんだ」
額の汗が矢崎の頬を伝う。歯噛みしながらの返答。
「あ、そうなの? じゃあ私たちって、同業かな。霧生朱って言えばわかってもらえる?」
「いや、俺はあんたの職業なんて知らんが」
「……お兄さん、名前と所属は?」
「、宍戸裕次。嗣楼館大學の学生だ」
とっさに偽名を答える。
「ああ早とちりかぁ。お兄さん、カタギだったんだ」
ばつが悪そうに女は後頭部を掻いた。
「じゃあ色々まずいことも知らせちゃったなー。どうしよかなぁ」
そう都合が悪いことをこの女は話しただろうか。自分の名前くらいしか言わなかったような気がするのだが――
「……あんた、名前が知られちゃまずいような仕事なのか? それとも俺があの手帳を読んだのが、そんなに不都合だったか」
自分が汗をかいてるのかどうなのか、それすらわからない。全身は総毛立ち、目の前の女を見据える。
「後者のほう。名前くらいで二流じゃあないよ」
不敵に笑う女の酷く落ち着いた声に、柄にもなく戦慄する。女はまた、「別にゲンバやタネを見られたわけでもないし……」、と早口で呟いて、
「よし、決めた!」
いきなり快活な声でを上げたかと思うと、晴れがましい表情で俺のほうを向いた。
「……何を?」
「今晩は、あたしも君も、お互いのことを見なかったってことにしましょ」
他人に話すな、ということなら特に問題は無いように思える。そもそも矢崎の調査は一人で行っているものだ。
「……ああ、いいぜ。けどよ、」
「なに?」
「ここ最近起きてる殺人事件――ひょっとして、あんたの仕業ってわけだったりするのか」
「――――」
虚を突かれたような表情に変わる朱。
「っあはははははは! ……いやお兄さん、結構イイね君」
「……」
コケにされたようでとても腹立たしい。
「ホントに犯人だとしたらそれを言うはずないし、もし言っちゃったとしたら、君を殺さなくちゃならなくなるねぇ」
「……俺も、場合によってはあんたを殺さなきゃならねぇ」
矢崎の目線に殺気が籠もる。
「…………へぇ? 言うねぇ――どうして?」
その遠慮の無い意志を突きつけられて、この子やっぱりカタギには見えないよなぁ、と思いながら、朱はそれ以上の殺意を声に、吐息に、込める。
「もしあんたが犯人だったとしたら、俺が八つ裂きにする必要がある」
「被害者に縁者でもいたの?」
それとも、この子は――と、朱は矢崎の手元、腰に視線を落として考える。
「違う。俺は何であれ命を大切にしない輩ってのを絶対に許さない。そんな奴を、片っ端から殺してやりたいって、殺し尽くしてやりたいって、そう思ってる。……あんたは、そういう人間か?」
矢崎の表情に浮かぶのは憎悪。
生あるモノを軽んじ弄ぶ、自分以外の人間に対する激しい怒り。
それが霧生朱にはないモノだから、彼女は唇を薄く歪めて、
「さあ、自分がどんな人間かなんて、自分じゃわかんないよ」
「っ! そういうことを聞いてるんじゃ――、」
「少なくとも、」
のらりくらりとした朱の口上に耐えかねて怒号をあげそうになるが、遮る。
「ここらの連続殺人犯ってのはあたしじゃないし――それが証拠に、君とあたしの進もうとしてた先にほら――、死体があるじゃない?」
くすり、と唇を歪ませて、朱は路地裏の行き止まりを指差す。
そこには血も流さずに倒れ、目を剥き泡を吹いている若い男性だったものが横たわっていた。
「…………っ」
絶句、とは正に今の矢崎のような様を指す。幾度となく映像としての死を見て、それを好んでいた彼だが、人間の死体を直接目にするのは生まれて初めてのことだった。
死体からは矢崎の距離は数十歩分離れているが、夜目が利く矢崎は不運なことに、死体の状況を克明に捉えることができた。何の苦痛も感じた様子もなく、眠るように倒れている男性の顔が目に入った瞬間、かつてないおぞましさを感じた。
足が根を張ってしまった矢崎を通り過ぎて、朱は死体へと向かう。
「……おい、触れて良いの、」
「黙ってて」
死を飯の種にする人間特有の空気が、矢崎の口出しを許さない。
倒れ込んでいるモノに手を翳して、
「出血がない……? 流れも死ぬ直前まで問題無かったみたいだし、血の中の汚れもない……どうやって殺ったっていうの」
整った眉を歪める朱。呟き声は矢崎には聞こえない。
「……ひょっとしたら、この前までのとは全く別件? 少なくとも同じ犯人ではなさそうだけど」
「あんた、何やってるんだ」
「お兄さん、君は警察に連絡お願い。あたしはちょっと用事が出来たから」
言うとともに朱は路地を抜けていく。何かを思い返して振り返り、
「通報する前に、ポケットにしまってるものとかはどこかに隠したほうがいいよ」
そして今度こそ矢崎の前から立ち去った。
(side Kougen & Akari,end)
◆
四人目が出た、という報告を神太郎が受けたのは、就寝前の午前二時のことである。今回の第一発見者が矢崎紘玄だ、という話を聞かされ、いよいよもって自分の浅はかな行動を呪いたくなりつつ、定時連絡に耳を傾けた。三人目までと遺体の状況が全く違うことから関連性が疑われているが、それにしても矢崎を厄介事に巻き込んでしまったのは間違いない。
それが昨晩のこと。
今は、事情聴取を終えて大学に戻ってきた矢崎と学食で昼を摂っている。
「なんというか、お疲れ」
「…………ああ。真夜中に質問攻めだったから流石になァ」
矢崎の目の下にはっきりとクマが出来ていて、悪人面の印象を強めているな、と神太郎は思う。
「お前も大分眠そうだけど、何かあったのか?」
「は?」
だが矢崎ほど酷くないにせよ、クマができているのは神太郎も同じであった。
「……休学明けで面倒な手続きとかがあってな」
「なるほどねェ」
会話は途切れ、二人とも食を進めはじめる。食べ慣れている学食が、今日は殊更無味に感じられた。
(…………考えうる中では、かなり悪いケースね)
由依の呟きが神太郎の心中に吸い込まれていく。殊更答えることはせず食事を続ける神太郎だが、そのことは重々承知だった。犠牲者が増えたというだけにとどまらず、矢崎を事件に深く関わらせることになってしまったこと、そこが大きな問題だ。
(ああ。悠長なことは言ってられない。一気に切り込むぞ――この大学の闇に)
(side Shintarou & Yue,,end)
◆
授業も終了して日が傾きつつある頃。神太郎と別れた矢崎は帰路につく。
流石に今日は日課をこなせるような精神状態ではなかったため、美術館をそのまま通り過ぎようとしたが――ガラス戸越しに、美術館から出ようとするリオンと目が合ってしまった。
「……」
矢崎を見つけた赤い眼は数瞬丸を描いて、心なしか弾んだ足取りでこちらへ歩み寄ってくる。展示はいいのか、と言いそうになったが、やはりそういったことには触れない方が良いのだろう。彼女の頭越しに美術館の奥の方まで目をやってはみたが客は矢崎しかいないようだった。
そうやって冷静に周囲を確認している頃には戸が開けられ、
「お待ちしておりました、矢崎様。今日もお話をお願いします」
どこまでも澄んだ声音で、機械である事を微かに実感させる妙に澄ました口調。
出会い頭にそれだったので、矢崎の表情も苦々しいものになる。舌打ちすらしかねない様子でリオンを睨んでいるが、精神の困憊は隠せない。
「…………」
「どうなさいましたか?」
「いや……少し疲れててなァ」
「何かあったのですか?」
「あったかって言えば……」
あった。他殺死体を見るなど、人生を揺るがしかねない事態である。猟奇を望む身でありながら、間近で人の死を見る機会が無かった矢崎にとっては、昨夜の光景は想像以上に衝撃的だった。
バラバラにされた体、肉片と化した人間――殺しすぎている、偽物のそういったモノに憧れ、悪い意味で慣れ、そちらには異様なほどの関心を寄せる矢崎であるが、昨日のはそれらとはわけが違う。
外傷は一切無く、安らかな表情を浮かべた貌。そのまま目を覚ましそうでいて、本能的にそうならないことが察せられる、圧倒的な停止性。死体であることは間違いなく判るのだが、どこかで納得できない違和感。そして――殺人を止めきれなかった自分への、激しい怒り。それは酷い嘔吐感を伴う。事情聴取の最中も、胃の中のモノを戻さないかだけが気がかりだった。
仮眠を取った後、講義に出ている途中、神太郎と昼食を摂っている間……そして今も、その感覚は拭えないままでいる。
それを、リオンに吐き出した方がいいのだろうか。が、他人に話したところで有意義な助言が得られるとも思えない。問題を発生させているのは矢崎自身の美的感覚と義心であり、それらに関しては直しようがないのだから。
しかし、自分一人で抱え込んでいても仕方の無い問題ではある。だいたい目の前の彼女は、自分のそういう感覚の問題を重要視し、話を聞き出そうとしているのではなかったか。
「あったんですね」
いや、そもそも彼女には隠し事などできないのであった。色々と無駄な思索を巡らす必要もあるまい。
「……ああ。ちょっとな」
観念しよう。リオンに話をすると言った以上、何から何まで話してやった方が彼女のためにもなるだろう。
「長い話になるから、移動してもいいか。いつまでも入り口でやりとりするのはマズかろう」
「かしこまりました。今回はまだ閉館時間まで間がありますので、館内のカフェテリアが使用可能です」
「死体……ですか」
西日が差し込むカフェテリアで、矢崎は連続殺人事件の存在と、昨日自分が死体を発見したこと、そして自分がその犯人を追っていることをを明かした。
「あァ。この目で見たのは初めてだった。なんつかーそれが、自分の思ってるモンと違って」
「その死体には美しさを感じなかったのですか?」
言われてみれば、と矢崎は、
「……そうだな、感じてねェ」
リオンは怪訝げに、
「死体であれば何でもいいわけでは無いのですね」
「ああ。昨日わかったが、俺は死体そのものに惹かれてるわけじゃねェらしい。綺麗過ぎる死体は気分が悪くなる程だった」
「その死体を解体しようとは思わなかったのですか」
不意を突く質問。
そう言うリオンの無機質な瞳は、人として大切な何かを宿していなかった。
「……その考えは浮かばなかったな」
浮かんだとしても、それを実行することはないだろう。それは自分の思い描く猟奇ではない。
矢崎の返しにリオンは、
「そもそもどのような死体に、矢崎様は「美」を見出すのでしょうか」
「……」
根本的な問い掛けだが、それに即答できるようであれば、矢崎はとっくにそれを実現している。
「……何がそうなのかははっきりわからねェが、一つ一つの事例を挙げて『これは違う』って判断は出来る。今回のはその事例の一つだ」
苦し紛れの返答であったが、リオンはそれを非難するでもなく、成程と相槌を打って、
「興味が沸きました。私も、その殺人事件の調査をお手伝いさせてもらっても宜しいでしょうか」
「興味って、何に対して」
「人を殺す人間の気持ちと、人を壊す人間の気持ち、それと死体の美しさ――主にはそんなところです」
今までは押されるままに彼女の要求を呑んできた矢崎だが、今回はあまりにも突飛すぎてついていけなかった。
「…………」
「どうかされましたか?」
「念のため聞くが、それは俺の調べ物について回るってことか?」
「そのように換言可能です」
「却下だ。あんたがいて俺のメリットになることがない。意味不明だ」
「恐らく、わたしに備わった機能を最大限に応用すれば、この町で起こっている事件ならほぼ確実に解決できます。必ず、矢崎様のお役に立てるはずです」
リオンは特に自慢するでもなく、単なる事実としてそのことを言ってのける。
「いや、だが……あんたこの前、自分に搭載された機能は全て、「美」の追求の為にあるとか言ってなかったか?」
「今はそれに行き詰まっていて、かつ壊すことによる「美」の可能性を今まで追ってこなかった、という話もしていた筈です。その手掛かりになるのなら、わたしはわたしを最大限活用できます」
「…………」
「矢崎様も猟奇殺人とその光景を求めながら、殺人事件の犯人は捕まえようとしています。その両方の意志が矛盾しないように、私の行動原理も一貫しているのです」
「…………はァ」
矢崎の溜息でなみなみと注がれたお冷やの水面が揺れた。鼻頭の傷を撫でて、
「……絶対邪魔はするな。あと危なくなったら逃げろ」
「わかりました。では今後とも宜しくお願いいたします」
「……はん」
カフェテリアの卓上で深々と礼をするリオン。
言うまでも無いかも知れないが、矢崎紘玄がリオンと協力したことは結果的に大成功だった。彼女のおかげで、二人は登場人物中最も早く、もしくはそれと同時にこの事件の真相に辿り着くことになる。
(side Kougen & Rion,end)
◆
仕事には自分の実力と関係なしにうまくいく時が何故か存在する。昨日がそうだったのねぇ、としみじみ思いながら、朱は空腹に耐えつつ商店街を彷徨いていた。
昨日の死体を調べ上げて、この事件には少なくとも二人の「能力」持ちが関わっていることまでは察しはついた。
とはいえその能力者達の足取りを掴もうとなると調査は一気に難航する。ある程度の情報収集のノウハウを身に刻んでいるとはいえ、この地に根を張っていない朱では、表沙汰にならない連中の調査は困難だ。手当たり次第に、かつ嗅ぎ付けられないように慎重に聞き込みと巡回をしてはみたものの、そう簡単に当たりを引ける筈もない。
そもそも釣りをやっている余裕は朱の口座にはない。そのための餌代すら惜しいくらいなのだ――業界屈指の殺し屋が形無しである。 調査二日目にして朱の空腹とフラストレーションはかなり高まっていた。生活が立ち行かない、とまではまだいかないが、それもいつまで保つか。
特に収穫もなく一日が過ぎそうになるあたりで、朱は後にまで取っておきたかった手を使うことを決めた。背に腹は替えられない、ていうかおなかすいた。
携帯端末を取り出し、慣れた手つきで電話を掛ける。暫くあって相手が出た。
「あ、もしもし、氷坂クン? 久しぶり。そう、霧生。今大丈夫?……うん、そう。前のシマで一悶着あって、最近君の管轄内に移ってきたんだよねぇ。で、頼み事なんだけど……え? いまはもうそこに事務所無いの? 引き払った? うそ!? じゃあキミ今何してるの?……旅!? はぁちょっと訳わかんないんだけど。どういうこと?………………ああ……キミも色々大変なんだね。まあ、それはともかく、ちょっとこの町の事で知りたいことがあってさ、お礼は弾むからちょっと調べ物を頼まれてくれないかな? キミがこの町にいた頃に集めた資料とかを見せてもらえたら一番良かったんだけど……うん……うん、あ、できる? じゃあよろしく。ええとねえ、多分カタギ。で「異能」持ち。分類までは絞れないけど、どういう能力かはわかるから。今から言うね……」
氷坂、という男は数少ない朱の知人だ。昔は有名な軍人だったらしいが、「異能」を得たと同時にその職を辞し、今は情報屋兼荒事解決人、みたいな胡散臭い仕事をやっていると聞く。
知り合ったのは彼がそのキナ臭い職務に就いてからで、完全な同業ではないにせよ、同じ裏世界に生きる「異能」持ちのフリーランサーというよしみで、お互いコネの少ない中情報交換などを行っていた仲だ。氷坂のテリトリーの中心はこの町で、ここで彼が収集していた「異能」持ちの情報は、そのまま今回の「異能」によると思われる連続殺人の何らかの手掛かりになるだろう。運が良ければ当たりを引くかも知れない。彼の事務所に直接赴くことが出来れば理想的だったのだが、こうして連絡が取れるだけでも御の字だろう。
「あ、調べ終わった? はやいねぇ……二人ともいた!? うん……わかった。名前は…………はい。じゃあ詳しい資料は今から言うところに届けてくれるかな。うん、うん……いや、わざわざありがとう。それじゃ」
またね、とは言わずに切る。
仕事には自分の実力と関係なしにうまくいく時が何故か存在する。一つは運に恵まれていた時。あと一つは当然ながら、他人に仕事を任せた時だ。
朱の読み通りの「異能」持ちの人物は数人いたそうで、それについての情報はまた氷坂から後日資料が送られてくるという。
とりあえずこれで一段落ついた。もうそろそろお腹に何か入れてもいいだろう、と食事処を探す。
商店街を抜けていつものハンバーガー屋に向かう途中で、協会を通りかかる。歩道から繋がる石段は汚れておらず、それなりに新しい建物であることがうかがえる。そこを通り過ぎる際、一瞬だけとても惨めな想像が頭を過ぎったが半笑いでそれを振り払った。人殺しが協会で物乞いなど冒涜もいいところだろう、と。しかしつい協会の名前を確かめておきたくて、大きく掲げられた看板を振り返って見上げる。それは宝光寺協会とかいう、宗教観を揺るがすネーミングだった。
……そういえば、さっき氷坂の口から名前の挙がった「異能」持ちの一人にも、そんな名字の人間がいた。下の名前は星奈だったか静香だったか、どことなく高貴で上品な印象を受けるモノだった気がする。
そう、調度今門前で掃き掃除をしているシスターのような――――
と、そこで二人の目線が交差する。朱の暗い血を思わせる瞳は、シスターの碧眼に潜む微かな驚きとそれ以外の複雑な感情を吸い込む。
「……ま、いいか」
今日は進展があったわけだし、変に動くのも良くないだろう。ハンバーガー屋への道へ向き直り、もう振り向くことなく進んでいく。背中に向けられた尋常でない想念の籠もった視線に気付いてはいたが、それに笑顔を浮かべて平然としていられるのが、霧生朱の彼女たる所以である。彼女は嬉々として、手帳に大きく協会の名前を書き付けた。
◆
矢崎と別れた後、神太郎は適当な空き教室を見繕って、一休みがてら今後の予定を立てる。
(四人目の殺され方は、今までとは違った意味で異様だ。外傷もなく毒物も発見されず、医学的には何故死んだのか不明だと来たものだ。遺書も見つからなければ持病もないから、推定突然死、という扱いだが)
今朝受けた報告を思い返しつつ、
(……とはいえ、今までの殺人と全く無関係だとも思えん)
(どうして?)
(……お前、俺と意識を共有しているんじゃなかったか)
(聞き流したわ。考えるのは私の仕事じゃないもん)
神太郎は短く溜息を吐く。落胆とまではいかないが、こう開き直られると少々気が削げる。
(今までに殺されていた三人だが、身元を洗っていくうちに共通性が見えてきた)
(どんな?)
(全員、同じ宗教団体に属していた。この前話題に上げた所だな。それで四人目だが――これがわからない。その団体の構成員でなかった事は確かなんだが、どうも殺された三人とは頻繁に会っていたらしい、というところまでしかわかっていない)
(四人目の人は、その宗教団体関連のトラブルにまきこまれて殺されたってこと?)
(その先は不明だ。調べないことにはな)
(で神太郎。意気込んでるところ悪いんだけどさ、調査の方法って具体的には何やるの?)
(考えがある。潜入捜査だ)
(ふむぅ)
(もうほぼ間違いないと思うが、この事件にはその宗教団体が絡んでる)
(カゲビトを大勢抱え込んでるってところね)
(ああ。そこに俺、というかお前が入れば、間違いなく重用されるだろう)
(大した自信ね)
(お前のことを言ってる)
えへへ、と由依。神太郎は鋼の意志力で仏頂面を保った。
(ある程度の信頼を勝ち取ったら、うまいこと内部情報を手に入れよう)
(でもそれって大丈夫かなぁ。ミイラ取りがミイラになる、みたいなことになったりしない?)
由依の心配はもっともである。殺人を指示するような団体だ。もし入団などすれば、自信が命の危険に晒される事は勿論、手を汚す事を命令されることだってあるだろう。長居と加担は絶対にしてはならない。
(そうならないように細心の注意は払うさ。表向きその宗教団体に入る振りをしながら探りを入れていって、今回の犯人と思わしき人間が見つかれば本部連絡の後即捕縛、大まかな流れとしてはこんなところだ)
(そりゃそうなるだろうけど、その為の手段はどうするの? まずその団体に入んなきゃならないわけだけど)
(そこなんだがな。実は意外と、簡単に案内してくれるみたいだ)
立ち上がり教室の外へ向かう。戸を開けてすぐ、目の前にあったサークル紹介のためのビラ、そのなかの一つを無造作に掴んで剥がす。セロハンテープで留められた四隅は壁に残ってしまったが、神太郎はそんなことを毛ほども気にする様子はない。取ったビラを裏返し、そこに書き込まれた小さな文字には「◆◆館学生棟◆階◆◆◆」とあった。
(これを学校中のビラにやってんだから、ほんとうに驚きだ)
(……なにこれ?)
(例の宗教団体の場所だ。活動内容が不明なダミーサークルの部室を隠れ蓑にしているわけだが……。この宗教団体の名前は「無明浸会」。今からお世話になるところだから、しっかり覚えておけ)
(まあぶっ壊すんだけどね)
彼の中の影が前向きな意志を持って揺らめくとき、遠くでその波を感じ取る者がいた。それを知らずに、神太郎達は学生棟に向かう。
学生棟は全七階に及ぶ建物で、基本的には文化系サークルの部室があてがわれている。しかし、中には誰が部員なのかもわからないサークルが多々あり、最上階に居を構える「第六感研究会」もそのひとつだ。
そして其処こそが、無明浸会の拠点だった。
(ビラによれば、無明浸会に入信するにはいくつかの手順を踏まなければならないらしい)
(即日即入りってわけにはいかないわけね)
(ああ。ええと……)
陽に焼けた紙に目を落とし、
(このビラの表面に名前と学籍番号を書いて、裏面が見えるように畳んでドアの隙間に挟む、か)
(どっちが表で裏?)
(偽広告の面が表で此処の場所が書かれてるのが裏だ)
(ふうん)
(ま、どういうアプローチが来るかはわからないが、これでとりあえず入信の準備は出来たって所だろう、帰るぞ)
(ええ。やっと始まったって感じね)
どういうアプローチが来るかはわからない――そう言ったはいいが、実際どんな風に無明浸会が接触してくるかについて、神太郎は想像していなかった。
殺人まで行うと噂されるカルト教団を相手取る、ということがどんなことなのか……その認識が甘かったと言う他ない。
(side Shintarou & Yue,end)
全ての機能を「美」の追求の為に費やされいるリオンだが、他のアンドロイドに比べてスペック面で劣っているなどということはない。単純な比較は出来ないが、むしろ彼女を構成する機構一つ一つの高性能さ、汎用性の高さは同系統機体でもダントツである。尖っているのは製造理念のみで、想像以上に彼女には出来ることが多い。
「矢崎様。この事件について、貴方が知る限りの情報を提供してもらえないでしょうか」
「わかった。つっても俺も動いてるのは昨日からだから、大したことは掴めてねェんだが――」
とそこまで言って、昨日会った女性のことに思い至る。矢崎に人並み以上の情報が得られているとすれば、それは「四人目」を間近で見た時の事と、彼女の手帳の内容くらいだろう。女性には、あの晩の事は他言無用と釘を刺されたけれども、リオンに明かしたところでこいつが通報をかますとも思えない。
「……これがどう事件に関わってるのかはわからねェが、一応関係あるとは思うから言っておく」
そう切り出し、彼は昨夜見た真紅の女性について語り始めた。
「――――成程。話を聞く限りでは、その女性は我々よりも先んじて捜査を行っているようですね。話にあった手帳の内容は、どのくらい覚えていますか?」
「かなり細かい事が書かれてあって全部は見きれなかった。内容もはっきりとは覚えていない」
「それでは、もう一度その女性にコンタクトを取ってみる、というのはどうでしょうか」
「……できるのか? 所在なんか何も聞き出せなかったんだが」
「ええ。名前がわかっているなら市内の戸籍かホテルの記録を漁れば大丈夫でしょう。服装、体系、髪型も割れているなら、、町中の監視カメラ映像を取り込んで、条件に合う人物を探します」
流石に矢崎もちょっと退いた。ただの道楽で造られた人形かと思えば、事も無げに情報兵器のような振る舞いも見せる。それも急に。
「……実際にあんたが、どういう機能を使ってそれを調べるのかは聞くまい」
聞きたくない、というのが彼の本音であった。
「――――検索中――――」
「早いなオイ」
「――結果、出ました。霧生朱と思しき女性の現在位置が特定完了。ここから程近い、ハンバーガーショップです」
(side Kougen & Rion,end)
◆
霧生朱は相席に憧れている。
映像作品などではちらほら目にするのだが、自分がそんな場面に出会ったことは一度も無かった。一人でハンバーガー屋に赴くとき、偶にそのことについて思いを巡らす。調査に一区切りがついたため、それくらいしか今の彼女にはやることがなかった。ハンバーガー屋で相席というのも格好つかない話ではあるが。
たとえばこう、見知らぬ謎めいた女性と食事をしてみたいものだ。ちょうど今入店してきたような、白い肌で空色の髪が美しい――
「んん?」
「異能」によるモノか殺し屋の嗅覚か、朱は一瞬で違和感に気付く。この子、人間じゃあない? 精巧に人に似せた造りをしているが、よくよく目を凝らせば肌の質感が微妙に硬質な気もするし、そもそも髪と眼の色が人間離れしている。いや、趣味でそういう風に装っているだけなのかも知れないけれども。
「んんんん?」
そうこう考えているうちに、昨日出会った青年も店に入ってきた。彼は店内を一覧すると朱の姿を認め、すぐに眼を逸らす。
注文を終えた二人は何かを話し、こちらにやってくる。
声をかけてきたのは、気まずそうに顔をしかめる青年の方だった。鼻の傷に見覚えがある。
「……相席いいっすか」
いや、これはいくらなんでも謎めきすぎだろう。
「どうぞ。……一日ぶり。宍戸クンだっけ? どうしたの?」
どうして自分が此処にいるってわかったの? 真っ先にそう問いたかったが堪えた。
矢崎は朱の向かいに座り、彼右隣にリオンが控える。リオンには、矢崎が朱に対して偽名を使ったことも説明してある。
「……例の事を調べようと思ったら、あんたの手帳に重要そうな事が書いてあったのを思い出して……で、なんつーんだ、その、」
「?」
要領を得ない。どういうことだろう。
「宍戸様。わたしに説明させていただけないでしょうか」
「この子は?」
と朱。渋い顔をして答えに窮する矢崎に先んじて、
「わたしは宍戸様の知人で、この事件を協力して調査することになった、リオンと申します」
「……ふうん」
数瞬の間。朱梨は表情こそそのままだったが、一気に眼の色が変わり、視線を矢崎に向ける。
「…………宍戸クン。あたしと会ったことは誰にも話さない、って言わなかった?」
「……それは」
「そのことについてなら問題ありません。事件の調査はわたしと宍戸様だけで行われていて、これ以上貴女の名前が広がることはありませんし、何があってもわたしがその情報を漏らすこともないです」
「どうしてそんなこと言えるの?」
「平たく言うと、わたしがロボットだからです。そう命令されれば従います」
朱は、ああやっぱりこの子人間じゃなかったんだ、と勘が当たった事を素直に喜ぶ。
自分も「異能」持ちで真っ当な人間ではないから、異質な存在と出会うこと自体にそこまで驚きもない。そういうのもいるんだぁ、といった風だ。
「じゃあまずはお願いしとくよ。あたしの名前は他の人には喋らないでね」
「畏まりました」
「で、話の続きだけど、どうしてまたあたしの所に来たの? このロボットちゃんも連れてさ」
「わたし達は例の事件を追っています。昨晩宍戸様が貴女に会った時に見た手帳の中には、この件に関する詳細な情報が記載されている、という話でした」
「まあ一応書けるだけのことは書きとめといたからねぇ」
「ですので、差し支えなければ、その手帳の中を見せて貰っても構わないでしょうか」
「え?」
突然の提案。矢崎はまたか……と頭を抱える。
朱は暫く固まっていたが、ううん……とひと唸りし、あ、そうかと何かに気付いたらしく、
「そうだなー、いいよ」
と余りにも軽く返答。
「ありがとうございます」
「マジかよ!!!」
「えー別にいいよー。あたしとしては、犯人が大人しくしてくれればそれでよかったから、君たちが探して捕まえてくれるんなら手間が省けて得なんだよね。いやでも……宍戸クンはあれかな、八つ裂きにするんだっけかな」
「…………」
「ここでの無言は肯定だよねぇ」
「…………」
「まあホントに犯人をヤっちゃうかはともかくとしてさ、なんで君たちみたいなのがこんな事やってるの? そこはすごく気になる――特に、リオンちゃんの動機が」
これはもう仕事を離れた、霧生の個人的な興味だった。矢崎については昨夜の会話の中で、ある程度事件を追う理由がわかったものの、この人形がそれを手伝う道理は想像がつかない。
「先ほど申しましたが、わたしは人間ではありません。アンドロイドであるわたしの製造目的は「美の追究」です。今までは世界のあらゆる美しい造形に触れてインプットし、それを取り入れつつ自分の体を造り変えていました。しかし宍戸様に出会ってからは――――」
「ッオイ!」
そこから言うか――そこまで言うか、と形相を変えて遮る。
「宍戸様。ここは包み隠さず全てを話した方が賢明かと」
「んなわけねーだろ。見たいモン見せてくれるっつーんだからこれ以上の話なんかいらねぇよ」
「そうカッカしないでよ。まあ手帳を見せる代金代わりとでも思ってさ」
「ぐ――、」
そう言われては黙るしかない。コーラの入ったカップの蓋を開けて、氷ごとがぶ飲みした。空になったカップをテーブルに叩き付けるように置いて、矢崎は立ち上がる。
「宍戸様。どちらに行かれるのですか?」
「……知るか」
言わせるな、とでも吐き捨てんばかりに、トイレへ向かっていった。
二人は矢崎を見送り、
「リオンちゃんって、宍戸クンくんと仲良いんだね。付き合いは長いの?」
「仲が良いか、という付加疑問には、他の基準を持っていないため答えられません。付き合いについての返答ですが、長くはないです。知り合ったのは昨日からですので」
「ホント?」
それにしては、お互いなんていうか、馴染んでるような気がするよ、と呟く。
「それで、リオンちゃんが彼の手伝いをしてる理由だけど。さっきはどこまで話してたっけ――」
「わたしの製造理由です」
「ああ、そうだった。何だっけ、「美」の追求?」
「はい。私の全機能は、最も美しい形象に至るために造られました。例えば私の目は何かを見る為に造られているという意味以上に、他人がわたしをどう見ているかを観察するためにあり、素体を構成する材質は、そうして得た情報を基に、柔軟に体を造り変えることが出来るようになっています」
「へえ……」
「美」の追及。その道と、自分が人らしい感情を発露するのとでは、一体どちらの方が困難なのだろうか。
明確なゴールがない——もっと言えば、例え自分が答えにたどり着けたとして、それを実感できなさそうな点は同じかもしれない。そのようなことを考えながら、朱はハンバーガーを食べ終える。
「これ以上は宍戸様の許可がないとお答えできないことなのですが、」
「ああ、ならあの子が帰ってきたら聞くから、今話せる分だけでいいよ」
「了解しました。——端的に言えば、「美」追及するその方法論が間違っているのではないか、という疑問を、わたしは宍戸様の交流によって持つことができたのです。また、わたしや、わたしの創造主が想定していなかったパターンの行動原理を持つ宍戸様に興味が向いたので、彼の挙動を観察できる立場にいようと判断しました」
流石に抽象的過ぎて、彼らの間で実際にどういうやり取りがあったのかが、朱には全く連想できなかった。今の話だけで十を知る程、朱はリオンと矢崎、両者の七面倒な精神構造に対する事前了解はない。
「うーん、もやっとしてて核心の部分が捉えにくいんだけど」
苦笑混じりにもう少し具体的な話を要求しようとするが、
「何の話をしてっかと思えば……あんた、流石に喋りすぎだ」
矢崎がトイレから戻ってくるなり、リオンに厳しい視線を向ける。
「まあそんなに怒んないでよ、宍戸クン。あまり込み入った話は聞いてないからさ」
ひらひらと手を振り、人を食ったような笑みを浮かべる朱。
「……ちっ」
最近こんなんばっかだ、とぼやいて座る。
「宍戸様。先程霧生様との会話において、宍戸様の主義に関する情報を開示しなければならない事態が発生した為、貴方に是非を問うまで待機していたのですが」
「それは、」
猟奇嗜好。
今まで誰にも打ち明けなかった――親友さえ知らない心の奥底にあったモノ。
会った間もない人形の少女に知られ、今こうして、目の前の女性にも話す羽目になった。
リオンに言うのとは訳が違う。相手が生身の人間だから。
……だがまあ、この女性と長く付き合いが続くわけでもなし、それで事件の真相に近づけるというのなら、ここは自分が折れるべきなのだろう。
「いや、いい。わかった、話して構わない」
恐れ入ります、と軽く礼をしてリオンは語り始める……先日自分がそうされたように。
矢崎紘玄という男に潜む、殺人への強い憧憬と、それと対立する殺人者への憤怒。
「それで――――わたしが宍戸様の調査に協力するのは、それによって、人を殺し、人体を壊して創り上げた陰惨な光景を美徳とする人間の心に迫りたいからです」
「――っ!」
「――――…………」
余りにも包み隠すもののない、いや殆ど最悪な誤解を生み出しかねないリオンの言い回しに、矢崎は目を剥き、絶句する。
呼吸と思考が凍り付いたように一瞬停止し、朱が目を細め何も返さないのも手伝って、場には緊迫した空気が漂った。
しかし、
「っあはははははは! 宍戸クンもだけど、リオンちゃんも相当キてるね! いいよ君たち!」
堰を切ったように朱が大笑いし、一気に雰囲気が弛緩する。リオンは真顔のまま。矢崎はといえば、苦虫を噛み潰したかのような表情で、俯いて貧乏揺すりをしていた。
ひとしきり笑いが収まると、朱はどこからか手帳を取り出す。
「うん。見せてあげるよ、私の調べた事。まだ使うかも知れないから、この場で覚えて貰うしかないけど」
「十分です。スキャンしますので」
手帳を受け取ったリオンは凄まじい早さでページを捲り、文字情報を取り込む。
「流石。……そうだなあ、あたしの連絡先も、一応教えておくね。何かわかったら連絡してよ」
「かしこまりました」
「うん。じゃあね」
朱は店を出る。足取りは全くもって軽く、人殺しの話をした後のそれではないな、と矢崎のような一般人の目にはそう映る。
「…………」
「――――」
「あァ……」
沈黙を破ったのは矢崎の方だった。
「……なんつーか、助かった。あんたがいなけりゃこうはならなかっただろう」
手帳を難なく見せてもらえたのは良いが、自分の心の内まで晒すこともなかった、という意味も含まれているが。
「恐縮です。それでは、私たちも出ましょうか」
「ああ。今度はどこに行く?」
「嗣楼館大學のPC室です」
「はあ? なんだってわざわざそんなところに」
「犯人像がもう見えてきています。恐らくこの大学の学生です」
「……何?」
「殺された場所と人間、それと、霧生様が独自ルートで手に入れたという要注意人物のリストを照らし合わせると、自ずと見えてきました。学内ネットにハック出来れば、その裏付けは取れると思います」
「ほォ……」
「最初の被害者三名は、全て霧生様の保っていたリストに名前が載っていました。また彼らは全て、嗣楼館大學の学生だったのです」
「それは俺も調べた。でも被害者が学生だからって加害者も学生だって判断するのは無根拠だろ」
「ええ。被害者の方々にはこの大学の学生である、というだけではなく、もうひとつ共通点がありました。それは、ある宗教団体に入信していたということです」
「宗教団体、ねェ」
矢崎にも少しは聞き覚えがある。自称超能力者を集めた新興宗教が大学内に潜んでる、という噂程度なら。しかし、実在するとは……。
「もっと言うと、その新興宗教に対抗する、また別の超能力者の集団もあるのです。察するに、今回の事件はその二つのグループによる抗争の結果でしょう」
「今の話の真偽はともかくとして、それと学内ネットとは何の関係があるんだ?」
「学生名簿を入手し、学内のローカルネットワーク内に、宗教団体、ないしその対抗組織に関するデータが残っていないかを洗いたいのです。わたしの推測が正しければ、何らかの手掛かりが出てくる筈ですので」
「……バレないようにやるんだろうな」
「勿論です。痕跡は何一つ残しません」
「…………わかった。で、俺は何をすればいい」
「見張りをお願いできますか。作業中のPC画面を見られたら完璧なハックも何もないので」
「了解した」
(side Akari, Kougen & Rion,end)
◆
一瞬の出来事だった。
大急ぎでPC室が使用可能な時間ぎりぎりに滑り込み、あと数分で閉室というところだったが、見張りなど必要も無いくらいの速度でリオンは作業を終える。
「ありがとうございました」
「いや、別に俺は何もしてねェ」
「見えてきました、この事件の全容」
「本当か」
「ええ。やはり最初の被害者3人は、例の宗教団体――『無明浸会』――に属していました」
「4人目は?」
「予想通り対抗組織、『特定風紀委員』の構成員です。名前は遠見和真。彼についての情報は霧生様の資料の中にも無かったのですが、見つけることが出来ました。それで――――」
「それで?」
「わたしには意味のわからない単語でしたが、彼は『切断』のカゲビト――だそうです。此処に記載されている事が本当ならば、彼にかかれば手を翳すだけでどんなモノでも切り裂く、とのことです。……矢崎様は「カゲビト」というモノについて、何かご存じですか?」
「いや、知らんな……こいつらの超能力ってのは、あくまで「自称」じゃないのか?」
「わかりません。ですが本当にそういった力を彼が持っていたのだとしたら、」
……その切断の力を振りかざして無明浸会に攻撃を仕掛け、最終的には返り討ちになったというところだろうか、と矢崎は事件の流れを想像する。確かに話としては通るが、そもそもの前提がおかしい。
「カゲビトねぇ。あんた、それもっと詳しく調べられないか」
「やってみます」
リオンはPCに向き直り、文字通り機械的な動作でカゲビトに関する情報を探る。
「――何件か出てきました、「カゲビト」。自分の影を自由に操り、人格が反転する――」
めぼしいモノが出てきたらしい。いよいよ真相に迫ってきた――
「矢崎じゃないか。それと昨日の」
かもしれないというところで、神太郎から呼びかけられる。血相を変えて振り返った矢崎だが、そこにいたのは平静な顔色の神太郎だった。
「神太郎? なんでこんな所に」
「いや、PC室に通りかかったら目立つ頭があったからな」
神太郎はリオンに眼を向けて言う。
「……あァ」
確かに彼女の髪色は人目につく。
「何かの調べ物か?」
「そうだな」
「……事件か」
神太郎は一段声を落とし、微かに目を細める。
「おう。そうだ神太郎、お前「カゲビト」って知ってるか」
矢崎がそう質問したのはほんの軽い気持ちだった。勿論有力な情報が得られるなどハナから期待していない。
「!?」
だが神太郎は予想外の反応を見せる。なぜお前が、と言いたげな表情。
(落ち着いて神太郎。単に「カゲビト」について聞かれただけ。別にあなたが疑われてるわけじゃない)
由依が慌ててフォローに入るくらいには、神太郎は動揺していた。
「何か知ってるのか」
「……いや。なんなんだ? それ」
仕事に関わるときは冷静に。
それを思い出し、無知を装う。
「超能力者? の一種らしい。影を動かしてどうこうする事ができるみたいなんだが」
「……超能力者ねぇ、ちょっと信じがたいな。それで、その「カゲビト」とやらがどう事件と関わってるんだ」
「「カゲビト」の中には、何でもズタズタに出来る奴がいて、そいつはここの学生だったらしい」
『切断』のカゲビト、ってところかしら、と由依が心中で呟く。
「なるほど、そうすると三人目までの被害者が、普通ではあり得ない切り刻まれ方をしたことの説明がつく、というわけだ」
「まァ、そんな奴がホントにいればだけどな。しかもそいつは昨日殺されてる」
「……四人目だったのか? とすれば三人目までと今回の犯人は違うと考えていいのか」
「手口が全く違ェしそうだろう」
「……四人目は確か、全く外傷もなく毒物を使われた形跡もない、だったか……」
(何考えてるの、神太郎)
(これは根拠のない予感だが、多分当たってると思うから言うぞ)
(なに)
(二人目の加害者も、「カゲビト」なんだろうな)
(でしょうね。「カゲビト」同士で宗教戦争でもやってるんじゃない?)
由依はせせら笑いながら言い放つ。
彼女がそう茶化してしまったら、神太郎からはもう何も言えない。
「カゲビトね」
神太郎が一呼吸置いて、切り出す。
「お前がそれを追うなら、調べられる限りのことは調べておくよ」
「そォか、助かる」
「ただ危ない橋は渡るなよ」
「そう務める。……保証は出来ねェがな」
「……まぁ、それでいいさ。何かわかったら教えるから、そっちからも連絡を寄越してくれ」
この辺が落としどころだろう。
「そろそろここも閉まるだろう。それじゃあ、失礼する」
「そういやァお前、どっか行く途中じゃなかったのか? たまたま通りかかっただけって話だったが」
「いや――用は済んで、もう帰る途中だったんだ」
(side Kougen & Rion,end)
◆
(side Another)
宝光寺教会。
山を切り崩して建てられた集合住宅地と、昔ながらの商店街……両者を結ぶ大きく長い石段を登って、すぐ目の前にそれはある。教会そのものの歴史は古いが、ここにあるのは道路敷設と宅地開発の影響で移転したもので、まだ建てられて数年しか経っていない。
真新しい純白の壁に包まれた外観は清潔な印象を与え、信者でなくても拝みたくなるような気持ちにさせる。それに対して教会内は質素な造りで、特別広いわけでもない。務めているのは隣町から通ってくる老神父と、この町に住む若い修道女のみだ。
そして、今この場に居るのは修道女の方だけである。
彼女の名は宝光寺聖良。名が示すように、建物が変わる遙か昔からこの教会を守ってきた、宝光寺の血を引く人間だ。イギリス人の祖父を持つクォーターで、目鼻がはっきりした顔立ちとマリンブルーの瞳、そして修道服のベールから微かに光る金砂の髪は、誰の目も惹く。
聖良は携帯で誰かと連絡を取っている。すらりとした長身の彼女が電話口でぺこりぺこりと頭を下げる様は、第三者の目には少し滑稽に映るだろう。
事実、彼女の傍で長椅子に腰掛けるスーツ姿の青年は、腕組みをしながらずっと半笑いで彼女を見ている。
「はい……はい。わかりました。いえ、とんでもございません……! 必ず成功させてご覧に入れますので、今しばらくお待ちくださいませ……はい。では、失礼します」
ぷつり、と切る。
電話も、聖良も、同時に切れた。
「っつああああああああああチクショウ!! オレらに全部やらす気かよこのカスがああああああ!!」
あまりに唐突な激憤の叫び。
それまで浮かべていた、申し訳なさげな人の良い笑顔は立ち消えたかと思えば、スマートフォンを力一杯床に投げつけた。その後それがどうなるかなど、一切気にしていない。
が、聞こえてくるのは液晶の割れる鋭い音ではなく、何か柔らかいモノが弾む音。
スマートフォンが叩き付けられていた床……の上には、分厚いマットレスが敷かれていた。床が先ほどまでと同じ板張りだったのならば、スマートフォンの大破は避けられなかっただろう。通常ならあり得ない事だが、そのことについては聖良も、青年も何も思わない。
何が起きたか――誰が何を起こしたかをわかっているからだ。聖良は床に視線を向けずに、即座に目の前に居る青年を射殺さんばかりに睨む。
「戸上ぃ……テメェこんなことしてオレを宥めてるつもりか? ああ!?」
戸上と呼ばれた青年は、聖良が声を荒げようと平静を保ったまま。糸のような細めた目が何を見ているのか、いつも半笑いで固まった口でどんな思いでいるのかは、外目からは察せられない。
「落ち着いてくださいよ雪司くん。指令を全うするにしても反抗するにしても、連絡手段は必要でしょう?」
白い手袋に包まれた両手を突き出し、聖良を制す――彼女を雪司と呼んで。
「っるっせ!! 舐めたことばっか言ってっと、」
聖良は右腕を振り上げて、意識を自分の足下と、目の前の戸上に向ける。
彼女の影がたちまち伸び、戸上の体に触れ――
「言ってると、どうなるのでしょう? このまま続けるとその続きが確かめられますかね」
――る前に、戸上は右手にあった銃を聖良に突きつける。指は引き金に添えられ、一息で発射出来る所まできている。
「…………っ」
忌々しげに顔を歪め、影を自分の方まで引き戻す聖良。俯く彼女に戸上は、
「あなたが、教会の汚れ役を一手に引き受けざるをえない現状を苦に思っている、ということは承知です。しかし親愛なる信徒が3人も殺されてしまっては、こちらとしても黙っている訳にはいかないのですよ。そうでしょう?」
「っからオレが昨日殺っただろ!? もうそれでいいじゃねえか!」
昨日殺った、というのは、勿論『切断』のカゲビト、遠見和真のことを指す。
彼らが、「四人目」を生み出してしまった無明浸会の人間。
宝光寺聖良――カゲビト、式平雪司。
更科充――カゲビト、戸上絢奈。
「ええ。我々の最優先事項であった、特定風紀委員による攻撃の排除は成りました。でもですね雪司くん。
……あらゆる出来事に於いて、その解決方法に殺人を選んでしまった以上――一人では足りないんですよ」
戸上の糸目が一瞬開く。その眼光が雪司を捉えたのはほんの数分の一秒に過ぎないが、雪司がたじろぐには十分に鋭かった。
「それに、暗殺なら、組織内に置いてアナタを上回る『能力』を持った人材はいないのですから。指令の内容も、おそらくその類のものでしょう?」
「そうだよ。……今まであの野郎が殺し回ってたのと、昨日オレたちがやった分で合計4回の殺人事件。嗅ぎ回ってる奴らの中に、気づき始めてる連中が居るらしい」
「やはりそうですか。で、また君に「お仕事」が回ってきたのですね?」
「ああ。今回の目標は九重神太郎とかいう学生だ。今日の夕方に例の「入部希望書」が投函されてたらしい」
「……かなり我々のことを調べ上げてるみたいですね。大概の人間はこちらからの勧誘でしか流れてこないのに」
雪司は、脅迫か洗脳の間違いだろ、と吐き捨てたかったがすんでのところで堪えた。
「そうだな。で、『感知』の能力持ちの、あのお方がそいつの腹ん中を探ってみたら、大当たりだったってわけよ」
「大当たり、というのは、具体的にはどんな意味で?」
「その男が事件を調べていて、しかも『カゲビト』だったってことだ」
戸上は、ははは、と満面の笑みを浮かべ、拍手する。その音は酷く乾いていて、人気乏しい教会では無駄に反響する。
「これは都合が良いですねぇ。ワタシ達が探す手間が省けた」
「それは、そうだが……」
「まさか、今になって人殺しに抵抗感などを抱いているわけではないのでしょう? それともその恰好に似つかわしく、ワタシに説教でもするつもりですか」
「……はっ、それこそまさかだな」
説教などあり得ない。
宝光寺聖良が敬虔な信者だということは、その影たる式平雪司は反宗教者であることを意味するからだ。彼はあらゆる宗教、救済を否定し冷笑する――この世界に融け込む為に纏った、修道服のままで。
「なら良いのですがね。今後も無明浸会の教義へのご理解と、ご協力お願いしますよ? 本当に――本当の意味で」
「ちっ……わかったよわかった!! 教義がどうのは知らんが、適度に暴れられるってんなら、やってやるさ」
「ありがとうございます。まあ――」
ワタシも殺し足りないのでね、とスーツ姿の悪鬼は舌なめずりする。
「……急な話だが、今夜からオレらで対象に張りつく。隙があればいつでもやっていい、だとよ」
それは良いことです、とだけ言って、戸上は影を振るわせた。
「あと、「仕事」とは関係ねえかも知れねえが」
と雪司は切り出し、
「さっき教会の周りで掃除やってたんだが、そこでなんつーか、只者じゃねえ奴に会った」
「ほう。何かそう感じる部分があったんでしょうか?」
「はっきりとはわからん。一言も喋ってないしな。ただオレを見る目が完全に、こっち側の住人のモノだった。」
お前と同じだったよ、戸上。とまでは雪司は言わない。
戸上は右手で口元と鼻を覆い、軽く溜息を吐く。
「ふむ……アナタの能力を持ってして、「只者じゃない」と言わせしめる雰囲気を纏っているだけでも、十分注意に値する人物でしょうね」
戸上は会ったこともない相手を評する。
自身も、絶対に雪司に勝てる『能力』を持ちながら。
「……お前本当に、イイ性格してんな」
さて、何のことでしょうね、と戸上は半笑いで誤魔化す。
「で、その人物はどのような人相をしていたのでしょうか」
「真っ赤な服に赤茶けた短めの髪、目も紅色で、全身赤づくめの女だった」
「それは目立っていい。では、その女性に会わないよう注意しつつ、九重神太郎の調査および殺害に向けて今夜から行動しましょう」
「ああ」
ところで――と戸上。
「アナタは教会の掃除をしている時、何を考えているんでしょうか?」
「別に。ただこの建物の中に居たくないだけさ」
(side Shadows,end)
PC室を出た後、空はすでに暗く燃えていた。
リオンと矢崎は大学に備わる大庭園のベンチに腰掛けている。先刻得た情報は余りに多く、特に「カゲビト」なる超能力者たちについてのデータは大いに扱いに困ったことになった。そこで一度情報を整理しよう、という矢崎の提案によってこの場が設けられたのである。
妖精のようなリオンと悪人面をした矢崎の二人組が並ぶ様は、通りがかる学生達の注目の的となる。しかし矢崎は他人の視線など気にする質でもないし、今のリオンにとっては事件の真相解明および、犯人と――それを追う矢崎の心理分析が最大の関心事であるので、それに気付くことなく会話に没頭している。もう完全に二人の世界だ。
「先程「無明浸会」の幹部名簿をハックして入手したのですが、其処に記載された人物の中に、霧生様がリストアップしていたこの地域周辺に住む超能力者の疑いがある者がいました。さらにその人物の持つ能力は、四人目の被害者の不可解な殺害方法を実現しうるものと考えられます」
「本当か!?」
矢崎は体一つ分リオンに詰め寄る。
「はい。宝光寺聖良――影に触れた者を絶命させる、『接死』のカゲビトです」
触れた者を殺す……外傷のないあの死体の謎は、そういう形で解けた。
「さっきの『切断』といい、もうほぼ「カゲビト」って奴が本当にいると考えた方がいいだろうな」
「わたしもその方が妥当だと判断します」
「そいつの現在地は、前みたいに調べることは出来るか?」
「その必要はありません。彼女はこの時間なら、宝光寺教会に勤務していることは、もう調べがついています」
「よし、なら――」
意気込み、勢いよく立ち上がろうとした矢崎。
「お待ちください」
その彼の手をリオンは引く。いてもたってもいられない矢崎は、声音に若干の苛立ちを混ぜて、
「何だ?」
「今から宝光寺教会に向かい、彼女に会ったとして、何をなさるのですか?」
「何、って――」
「殺すのですか?」
鮮血めいた瞳は夕日を反射して一層色味を増す。嫌味なくらい邪気の無い眼差しが、矢崎の心を探ろうと彼に真っ直ぐ向かう。
「そいつが本当に犯人だってんなら殺意は湧くと思う。が、実際会ってみねェことには、俺もどうなるかわからん。それに……」
「?」
「いや、良い、何でもねェ」
数瞬あって、わかりました。とリオンは頷いた。
「では、宝光寺教会まで行ってみましょう」
祈るように手を組んだあと、ベンチから立ち上がる。
「……」
それが何への祈りなのか、矢崎は問わなかった。
彼は携帯を取り出し、神太郎と連絡を取る。
「もしもし。どうした、紘玄?」
「カゲビトについてだが、少しわかった事があるから報告しとく。影触れたものを殺せる『接死』のカゲビト、なんてのがいるらしィ」
「――っ!!」
神太郎の息を呑む声が聞こえる。
「俺はそいつが四人目を殺した犯人だと目星を付けてて、今からそいつのいる宝光寺教会に乗り込むつもりだ」
用件をすぱり、と言い放つと、神太郎は狼狽する。
「いや、まだ急過ぎ――、」
「もし――もしも、夜が明けても俺が連絡をしなかったら、警察に連絡頼む」
「おい待て! ち――」
無理矢理発言を遮り、電話を切った。
「よし、行くぞ」
意を決して、大学の外へと歩き出す。
「あの――莫迦がっ」
携帯電話の向こう側では、顔を歪めた神太郎がそう吐き捨てていた。
(由依。聞いていたか、今の話)
(まあ、さすがにね)
(俺たちも向かうぞ、宝光寺教会へ)
(side Kougen & Rion,end)
(side Shadows)
今晩から雪司は、九重神太郎の尾行調査に入る。
神太郎の生活パターンは、「無明浸会」に座する最高位の『心読』をもつ能力者によって既にリサーチ済みである。神太郎が第六感研究会で行った入部手続きには、そういった事前調査を可能とする要素が含まれている。
今夜も、その情報に従って張り込みをしているのだが……神太郎がその道を通る様子はない。その道というのは、大学と神太郎の安アパートを最短距離で歩くための路地裏――――矢崎紘玄と霧生朱が最初に出会った場所だ。
「あれ、何してるの?」
「ッ!?」
「こんなところで散歩なんて、シスターさんも乙だね」
通りの良いハスキーボイスが、耳に心地よく反響する。
鷹揚な足取りは、早鐘のように胸を拍つ雪司を嘲笑うかのごとく。
(……殺す、か?)
暗闇で覆い尽くされていても、視認はし辛いが自分の影を操ることができる。
慎重に影を確認し、ゆっくりと朱へ伸ばしていった――
だが、
「私は殺せないから、あれこれ考えない方が得よ?」
冷ややかな笑み浮かべ、視線を雪司の足下に向ける。
その表情に、初めて会った時のような形容しがたい不気味さを覚えた。
「!」
構うものか、行ってしまえ! と影を飛ばし、朱に触れる。
瞬間、朱の全挙動が止まった。
瞳孔は思い切り開き、膝から崩れ落ちる。そしてそのまま、微動だにしない――『接死』の能力が、完全に発動しきった状態。
「は――なんだよ、殺せるじゃねえか……ビビらせやがって」
一気に安心する。致死量分の吐血も見られ、ますます――吐血?
違う違うそれは違う、オレの能力は殺すだけだ。ただ殺すだけ。出血などありえない……まともに殺せていたのなら。
そこに思い至ったが遅く、ごぽん、という鈍い音が鳴るとともに、朱はゆっくりと立ち上がった。
薄明かりの下で血まみれの口許を拭う様は、寒気がするほど美しい。
「嘘だろ……意味わかんねえよ」
「いやあ、影で触るだけで殺せるってのも、大分意味不明だと思うんだけどねぇ」
さて、と咳き込んで、
「じゃあ今度は、こっちがやらせてもらおうか」
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
自棄になり、雪司は『接死』を連発する。もう効くかどうかなど問題ではない。
「いやだから、無駄なんだってば」
殺す手応えはある。一瞬動きは止まる。
だがただそれだけだ。
カゲビト・式平雪司――彼の能力、『接死』は戦闘に於いて最高位の一つと謳われる力である。遠見和真の持つ『切断』が無生物も対象に取るのとは対称的で、汎用性は若干落ちる。しかしこと一対一の勝負なら、彼が敗北することはまずないといっていいだろう。
例えば――相手が、不死身の化け物でもない限りは。
「くっ……なんだコイツ……!? 当たってる、オレの力は効いてる筈なのに……ッ!」
右手を突き出したまま後ずさりする雪司の顔に浮かぶのは、相手を倒せない焦りと、底知れないモノと対面した恐怖だった。『接死』の力を使えば使うほど後者の感情は膨れあがっている。
「ああ痛いなぁ、これで二回目だよ」
甲高い靴音を鳴らしながら、朱は歩く。
霧生朱。
業界最高峰の一人。
その所以は様々だが――大部分はその出鱈目な再生能力にあった。
これは彼女の『異能』がもたらす特異体質で、体中に弾丸を撃ち込まれても、全身の臓腑という臓腑を串刺しにされても、一度血を吹き出せば変質し、新たな肉体を構成する。それは、触れただけで心臓を止める異能を前にしても変わらない。止まった心臓は体内で爆ぜ、たちまち造り変わっていくだけ。
死なないのではない。殺しても意味がないのだ。
「うん。じゃあ今度は私の番でいいかな」
朱は手首に爪を立て、血管を巻き込んで皮膚を切り裂いた。
鮮血が勢いよく吹き出し、ソレは巨大な鎌に近い……剣の様な形状に収束していく。
これが霧生朱の能力――その神髄。
『血液操作』。
自分の血を固め、流れを操り、血に詰まった情報を読み取る……攻撃・治癒・捜査……血を使用して様々なことを可能とする、万能の力。
自分の身長と大差ないくらいに肥大した大剣を掲げ、大袈裟に靴音を鳴らし、雪司に歩み寄る。
「駄目だ、完全に誤算だ――――」
やっぱ神なんていねぇんだよ、と雪司は履き捨て、一目散に逃走し出した。
速度を落とさず走りながら器用に携帯を取り出し、手早い動作で戸上にコールする。
「オイ、戸上ィ! 九重神太郎の調査だが、一旦中止だ……例の女に出会っちまった! 今から応援を頼めるか!?」
「ああ、雪司くん。申し訳ないのですがね、」
乾いた笑い特有の息漏れが電話越しに伝わってきて、雪司を苛立たせる。
「どうも向こうの動きが思った以上に早いようですねぇ……お仲間を呼んで教会までいらっしゃいましたよ」
「ああ!?」
「というわけで、ワタシはそちらの応対に向かいます。申し訳ないのですが、例の女性については頑張って撒いて下さい。まあ、此処におびき寄せても構わないですけど――」
◆
「さて、と」
戸上は通話を切る。
「ようこそお二方、宝光寺教会へ。教会の者がいない間、留守を任されております、更科充と申します……どうされたのでしょうか?」
戸上の視界には、この世のものとは思えないくらい可憐な少女と、自分とほんの少し似た目をした青年の姿があった。
「……あんた。シスターの宝光寺聖良って奴が、今どこに居るか知ってるか」
「……? いえ、存じませんが。行き先までは聞いていなかったもので」
戸上は、小綺麗な見た目通りの人畜無害な風を装うが、
「それは嘘ですね」
とリオンが言い放った。微かに目を開く戸上。瞳には忌々しげな色が覗き、その視線は笑みを浮かべた矢崎に向かう。
「……らしィな」
「――――そう言われましてもねぇ」
「この女に嘘は通じねェ。まどろっこしいことはお互いナシにしようぜ――連続殺人事件、無明浸会……カゲビト。ここまで言えばわかるだろ。あんたも事情を知ってンなら、話を聞かせてもらうぞ」
沈黙。
矢崎はポケットをはじめ、全身に隠し持っている暗器をいつでも取り出せるよう集中する。
暫くあって、戸上が大仰に肩を竦め、溜息を吐き、
「……そうですね。粗方の調べは住んでるのでしょう」
スーツを脱ぎ捨て、ネクタイを外す。
床に置いたそれらは戸上の影の中に吸い込まれ、完全に消えた。
(――っ! コイツもカゲビトか!)
「申し訳ありませんが……教会を嗅ぎ回る犬は、追い出すようにしているのでね」
更科充――カゲビト・戸上絢奈の能力は『貯蔵』。
影が触れた物体を陰世界に貯蔵し、いつでも影から取り出すことが出来る。
例えばこんな風に――いきなり手の中に拳銃を出現させる事も!
突然銃口を向けられ、矢崎は数瞬反応が遅れた。
その隙を戸上は絶対に逃がさない。無慈悲な凶弾は彼に放たれ――
――脳天を破壊するかと思われたが、弾丸はリオンの嫋やかな指にしっかり捕まれて、煙を燻らせる。
「なッ――」
「……へえ……」
矢崎にとっては銃撃も予想外だったが、それ以上にリオンがこんなことまでできるという事が信じられなかった。戸上も、必殺のつもりで撃った弾がこんな少女に阻まれるとは考えているわけがなく、軽い驚きの声を漏らす。
近接格闘形態。
開発初期段階でプロジェクトチームが巫山戯半分で造った機構。
当初から必要最低限の自己防衛機能が搭載されていたが、それが高じて戦う姿すら美しく魅せる為に搭載された、激しい戦闘に耐えうる可動域と、形状はおろか硬度さえ自由に変えることが出来る素体。
そして何より――彼女の基本行動である、他人からの目線を分析する機能が、戦闘に於いては最適な回避・攻撃を可能にする。
「あんた、なんでそんな――」
「矢崎様。確かにわたしはただ「美」の追求の為に造られた存在ですが、」
摘まんだ弾を握り潰し、打ち棄てる。空色の髪を掻き上げ、戸上を見据えて、
「――人間より弱い機械なんているわけないじゃないですか」
涼やかな声で当然のように言ってのける。戸上は狐めいた目を更に細め、
「機械……成程。イイ……実にイイですよ、お嬢さん。ただ、カゲビト(われわれ)は並の人間ではないですがねぇ……っ!」
影が瞬く間にリオンと矢崎足下を這い、四方全て覆い尽くさんと細かく分岐する。銃弾を掴めるほどの反応速度だというのなら、反応できても対処不能な攻撃を仕掛ければ良い。
リオンは地面を瞬時に見回すと、小声で矢崎に指示を出す。
二人は逆方向に散開し、教会の両脇に走った。
「その程度ではワタシの影からは逃げられないんですよ……!」
戸上の影はカゲビトの中でも可動範囲が広く、移動速度も目を見張るモノがある。教会内にいる二人程度なら、どう攪乱されても捉えきれる自信を彼女は持っていた。
戸上が指揮者のごとく右手を振り挙げる。
それに従って、彼女の影から無数の日本刀が飛び出した。リオンと矢崎を足下から襲うそれらは、戸上に近い場所から次々に湧き出してくる。
「――相対速度、推定射出点、射出角――よし」
迫る白刃を横目に、リオンは刀が自分に追いついてくるタイミングを見計らう。そして彼女がそれを見誤ることはない。正しい姿勢で、振り返り様に影に向かって蹴りを入れる。調度刀が出現したところで、それは激しい金属音を打ち鳴らして弾き飛ばされた。
「…………」
矢崎は靴に意識を向ける。いま地を踏みしめている感触から、これから行おうとしている行動を想像する。呼吸を合わせ、一歩、深く踏み込む。そしてそのまま高く跳び上がった。すかさず、日本刀が空中の矢崎を切り裂こうと伸びてくる。
――それを退けたのは、矢崎の靴底に仕込んである刀だった。両足の爪先から足一つ分の長さがあるソレを器用に使って、こちらの着地を待つ剣山を叩き落とす。
着地をするときも影からできるだけ離れて。足下に影が潜んでいないかも忘れず確認した。
この暗器の扱いと身の熟し、そして……この状況を、微かに楽しんでいるかのような、そんな昂揚を潜ませた目――戸上には、とても目の前の青年が実戦経験の無い一般人とは思えなかった。初めて見た時にどことなく自分と似てるという印象を抱いたのは、こういった所を身に纏う空気から感じ取ったからなのかも知れない。
「いや、二人とも素晴らしい――でもですね、一カ所から出てくる刀が一本なんて誰が言ったんでしょうかねぇ……!」
戸上が遊ばせていた左手を掲げるのと、影から第二陣の日本刀が生えてくるのは同時だった。
「がっ、ぐっ――!」
「――矢崎様っ」
リオンと異なり、空中にいて硬直のあった矢崎は第二波の回避が遅れてしまい、腿に刀が掠めてしまった。日本刀の傷は、触れただけで致命傷になることもある。
矢崎は腿からとめどなく流れる血を抑え、脂汗を浮かべていた。
「はははははははっははは! とてもイイですよ、その苦悶に満ちた顔!!」
「ちィっ……このクソ野郎が!」
「クソ野郎? 心外ですねえ……ワタシはてっきり、アナタも同類だと思っていたのですがね」
「ぐ……何だと?」
「先程の貴方の目。アレは命の遣り取りを愉しんでるヒトのモノでしたよ――ワタシと同じ」
戸上の薄目がほんの少しだけ開く。澱んでぎらつく眼光は、物の怪のソレと近しいものを感じさせる。
「…………」
確かに、自分は誰かの命を奪えるかも知れない機会を待ち望んでいたのだろう。そうでなければ、普段から全身に凶器を隠し持ったりはしない――常に殺戮を夢想し希求していながら、強くそれを否定する自分自身との板挟みに苛まれることもない。
「そうかも知れねェな……あんた、今まで何人殺してきた?」
「さあ。なにぶん数が多いものですから」
億劫そうに答える戸上。矢崎の主観に於いて、初めて会う殺人者の意見……その態度と回答に、矢崎は自分と戸上との致命的なズレを実感した。
今まで殺人犯に漠然と抱いていた激しい憎しみも、消えはしないもののどこかへ場所を変えてしまったように思う。
「そォかよ」
「あなたは?」
「俺は……ねェよ、一人も――それにもう、絶対に殺すこともねェ」
生命尊重。
矢崎紘玄が固く誓っている自戒。戸上と彼を決定的に分かつ、何よりも優先したいもの。
「あんたを見ててそう決めた……人を殺すってのに、あんたはそれを、日常の雑事ぐらいにしか捉えてやがらねェ」
「ぐらい、じゃなくてまさにそうなんですよねぇ」
「俺はそれが許せねェんだよ! 人殺しってのはもっと尊くて、かけがえのないものの筈だっ!――殺したんなら、あとの一生懸けやがれってんだ!!」
叩き付けるように叫ぶ。
「だから俺は、お前みたいな奴が反吐が出るほど気に食わねえが、殺さねえ……!」
「……それは単なる根拠のない決意でしょう? 人を殺してみたいと常々思っていただけで、十分人の道から外れているんですよ……それをよくもまあいけしゃあしゃあと善人面して、ワタシから言わせればちゃんちゃらおかしいんですがね」
戸上は薄らんだ笑みを消し、眉を顰め冷淡に返した。
矢崎は一拍、答えに詰まる。
不殺の信念に根拠がない、というのは自分でもわかっていることだった。しかし物心ついた頃からその信念は彼の中に存在し、実際問題として心を強く縛ってくる。
「……殺さないとずっと思っていれば、決して人を殺すことは無い筈だろォが」
「ワタシやアナタのような人種が、一生満たされないまま生きるのを良しとできるんですか? ワタシは到底――無理だと思いますよ!!」
大量にばらまかれた刀が瞬時に消える。
教会の中心に、今まで出ていたのとは比較にならない量の刃の群れが現れ、それら全てが矢崎に向かう。わかってはいるものの、予想以上に傷が深く、身動きがとれない。
「――ッ」
終わった、と胸中で洩らす。今度こそ助からない。
そう覚悟し目を閉じた。
しかし、リオンが疾風のように手負いの矢崎へ駆け寄り、彼を抱えて横に跳んだ。
入り口付近に激突した刀達は、影に吸い込まれて消える。
「!! ホント、助かったぜ……!」
「お安い御用です。それより、彼の能力が厄介です。試算ではこのままいくと我々が消耗し、いずれ敗北する結果しか弾き出されません」
「……マジかよ」
いや、尤もな話か。自分は手負いで、リオンも戸上の攻撃を躱せはするがこちらからの有効打が無い。勿論……援軍などない。犯人もいないわけだし、出来るなら撤退するのが無難か。そう判断して教会の戸に目を遣った時、外から扉が開く。
転がり込むように入ってきたのは満身創痍のシスター、宝光寺聖良。
そしてそれを追って、余裕の表情を湛えた霧生朱が教会に足を踏み入れきた。
◆
「あれ、宍戸クンだー……って、なんか凄い大変みたいだねえ」
朱はとめどなく血を流している矢崎を見遣る。そして教会じゅうを見回し刻まれた刀傷を確認した。自分の今持ってる得物と比した時の刃渡りの差等を冷静に分析し、数が多すぎる、という事に気付く。そのわりにはこの場でそんな刀も見当たらないし――
「何で、あんたが」
矢崎のその疑問に答える者はなく、
「お疲れ様でした、雪司くん。彼女が例の?」
「そうだ……俺の『接死』が効かねえ」
雪司は床に倒れ伏し、汗だくでそう零す。言葉には平時の力強さはない。
彼の台詞に、戸上は目を丸くした。
「……そんな人がいるんですか? ハハハハハハハ! 今日は本当に面白い人が集まる!」
大口を開けて戸上は嗤う。
殺せない女性ですか、最高ですよ、と口走る。
「なんかお取り込み中のところ悪いんだけどさ――、そこのスーツの方」
朱は頭を掻きつつ、
「アタシとしてはちょっと君たちに大人しくして欲しいんだよね、商売あがったりだからさ――あと、さっきそっちのシスターに殺された二回分のお返しもさせて貰いたいかな」
「いえいえ、お返しなどと言わず……もっと受け取って下さいよ!」
雪司くん、いつまで倒れてるんですか、と批難する。
「おい、ここにいる二人はどうするんだ」
雪司は自分の近くで蹲る矢崎と、傍らのリオンを横目にそう提言するが、戸上は彼らは放っておいても大丈夫でしょう――と言ってのける。彼女の目には、もう不死身の怪物との戦いしか映っていない。
「そこの少女は機械ですから殺せませんよ。青年の方を殺ったら、ワタシに加勢して下さい」
その台詞が言い終わるや否や、リオンが立ち上がり雪司を全力で突き飛ばす。壁に叩き付けられ、雪司は強く頭を打った。ヴェールが落ち、背中一面を覆う程の見事な金髪が現れる。黄金色のそれは月明かりを反射して
「ぐっ――!」
眩み暗む視界のなか、紅い化け物と、青色の無機物が目に入る。
「クソッタレがああああああああ!!」
全ての怒りを隅にいる青年に叩き付けるように、影を飛ばした。
雪司の影の移動速度は戸上ほどではないにせよ、脚に怪我をした人間に逃れられるものではない。影は腿を押さえ駆ける矢崎との距離を着実に詰めていき、
「――そこまでだ」
あと一歩で矢崎の足を捉える、というところで微動だにしなくなった。
「神太郎っ!?」
入り口には、汗まみれの神太郎が、息を整えつつ、眼鏡を上げる。
「待たせた。が――ここまで来れば大丈夫だ」
対カゲビト戦なら、俺は負けることはない。そう自信ありげに宣言する。
「残るは奥……スーツの男の方か? 紅い女か?」
驚いたのは矢崎だけではない。
雪司と戸上の方が、彼より驚愕の度合いは強い。しかし、雪司は喋ることすら出来ず、言葉を返せたのは、朱と教会の奥で戦う戸上の方だけだった。
「嘘でしょう……!? 何でアナタがこんなとこにいるんですか!? 朝比奈由依!!」
「そういう反応するってことは、あんたのほうが目標らしいな」
陰世界最強の存在――『停止』のカゲビト、朝比奈由依。全カゲビト中最速の影、そしてひとたび影に触れれば、生物、非生物問わず、その動きを完全に封殺する、カゲビトであれば、影を動かすことさえ出来なくなる、非常に高い制圧能力。
「チィ……ッ! さすがに愉快すぎて笑いが枯れましたね!」
戸上が完全に目を剥き、怒りを露わにして吠えた。
朱の頭越し、向こう側に立つ神太郎と自分の距離を測る……いける。
朝比奈と対敵してしまえば勝ち目はない。それは陰世界の住人にとっては常識だ。しかし、ほぼ無敵の力を誇る彼女に弱点があるとすれば、能力が知り尽くされているということだ。
影の最高速度、移動範囲、最大稼働時間……その他諸々の情報を、由依ほど知られているカゲビトはいない。
「速度で劣る相手にはどうすればいいか――単純に先出しすればいいんでしょうよ!」
「俺が何の為に、敵の確認をしたと思ってるんだよ」
既に神太郎の影は動き出し、真っ直ぐに戸上へと向かう。
教会の隅で膝を抱える矢崎は、これでは間に合わない、と悟る。
戸上絢奈の能力は、直接対象を影に触れなくても有効だ。あのままいけば、奴の動きは止められても、その前に日本刀が射出されてしまう。
一回でもいい、あの影の動きを止められれば。
あの影を、止める。止める、止める……
血液が抜けきり、纏まらない思考で譫言のようにそう繰り返す。
伸ばした手に力を込めて――手と、その影を伸ばした。
手の形を取ったままの影は戸上の影を掴んで捕らえ、その横をすり抜けるように、神太郎の影が馳せる。神太郎を貫ける、と踏んで放たれた剣の山は、教会の中央当たりで無闇にばらまかれた。
神太郎は信じられない、といった風に矢崎を見る。
しかし兆候はあった。喫茶店の前で矢崎に会ったとき、カゲビトである神太郎より先に自分を見つける程の夜目の利き方。まるで正反対の信条を同時に持つ、矛盾した人格。
それらはカゲビトを胸の内に抱える人間の特徴だ。
「影すら、止める!? 冗談で――、」
戸上が言い切る前に、『停止』の能力が発動する。が、という呻き声を最後に、戸上の動きは止まった。
◆
斯くして、嗣楼館大學で巻き起こった騒乱の一つが収まった。
雪司と戸上は特務に引き取られ、今は身柄を拘束されている。重要な暗殺役を失った、という事実は無明浸会の活動を滞らせるのか、それが新たな争いの火種になるのか、それは未だ読めないところだ。
ともあれ大学周辺の治安はある程度回復し、報告書を書き終われば、神太郎も暫くの休暇を与えられる。
だが、神太郎はあの教会での一件が過ぎて五日が経って尚、筆を進めないでいた。ハンバーガー屋でPCを広げたは良いものの、キーを打つ音は一向に聞こえてこない。
ただの怠慢からではない。原因はたった一点のみ――矢崎紘玄についてだ。
カゲビトについて多くを知ってしまった人間を、特務職員は見過ごしてはならない。順当に行けば、矢崎は記憶操作の対象になるくらいには、こちらの世界に踏み込んでしまった。それに……一瞬だけ矢崎に顕現した、カゲビトの力――のようなもの。
あれが明るみに出れば、記憶操作どころでは済まない。特務に仇為すと判断されれば今回の雪司達のように処理され、益有りとなれば、俺と同じく晴れて特務の犬だ。
そのどちらも、俺の望むところではない。
(俺が特務にいるのは予期せず巻き込まれたからだが……俺が此処で働く理由は、あいつらがこういう世界を知らなくて良いようにする為だ)
(うん――知ってる。それで、どうするの?)
(だから、今言い訳を考えてる)
(『仕事の時は常に冷静に』はどうしたの。友達一人を特別扱いなんてするからこうなるんでしょ?)
(……返す言葉もない)
(つくづく神太郎ってあの子のこと気にかけてるよね。なんかもー、あっちが相棒みたい)
朝比奈由依。
絶大な力、『停止』をもってして陰世界を統べることになった少女。担ぎ上げられカゲビト達の頂点に立ち、若くして一つの世界を背負った、孤独の王。多くのカゲビトがこの陽世界を崩壊させ、滅ぼすのを最終目的としながら、彼女だけが人間に与するのは――
(ひょっとして由依、お前拗ねてるのか?)
(知らないっ)
いつもより一段子供じみた口ぶりでそう言い捨て、由依は無意識の底に沈んだ。
(……やれやれ)
一応意識を共有しているんだから、隠し事も何もなかろうに、と苦笑する。
そして真っ白なPCの画面が目に入り、引き笑いした。
(やれ、やれ……)
どうしたものか、と頭を抱えていると、上から下まで真っ赤な女性が空き席に困り、こちらへやってくるのが見えた。
「どうも、数日ぶりね、影使いのお兄さん。相席いい?」
「……どうぞ」
「うわあ、こんなところでお仕事? 大変ね。この前の後処理?」
「ええ、事後報告書なんですが……」
自分がどうやって事件を解決させたかを正直に書くと友達を仕事に巻き込むんですよ、などと、大して面識のない相手に漏らして何になる。
ってちょっと待て、何故俺の職業が割れてる。
怪訝な表情で彼女の顔を覗くが、真意の読めない微笑みを返してくるだけだった。
「どうしたの?」
「ええ、いや、あの事件は俺の力で片付けたわけではないから、ソレを書くのが恥ずかしいな、と」
誤魔化して最もらしいことを言う。
「? でもアレって、君の力で犯人捕まえたんじゃなかった?」
「そうなんですが、実は彼らの所在は、あそこにいたもう一人の男から聞いたものなんですよ」
「宍戸クンね」
宍戸――? 一瞬誰だかわからなかったが、選択肢は一択しかなかったので察せられた。アイツ、偽名まで使って聞き込みしてたのか……
あ、と朱は何か気付いたように手を打ち、
「じゃあ君にこれをあげよう」
と、少し使い込んだ感のある手帳を渡される。
「これは?」
「事件をアタシなりに調べたことのメモ。リオンちゃんと宍戸クンにも見せたよ。あとこれも――」
小ぶりなハンドバッグから、分厚い書類が詰まったファイルケースを取り出す。
「こっちはこの町の『異能』を持ってる人物がリストアップされてる資料。これらを見てあの二人は犯人に行き着いたみたい」
「こんなものが――」
「シナリオはこう。キミは、事件を独自に調査する民間人と偶然出会ってこの資料を預かる、で、犯人の居場所を突き止めたってわけ」
「いいんですか? そんなことして」
「いいよー。別にそれもう使い道無いしね。出世なりなんなり自由に使って頂戴」
「その、協力を申し出てくれるのは有り難いのですが、そういう話になれば、俺の『上』は貴女にも事情聴取を要求しに調査員を出すと思われます」
「まあ、追われるのは慣れてるし、簡単に捕まる女じゃないよ。というかもともともう、この町を離れる予定だったしね」
「……」
なんというか、生き様が鮮やかすぎて感服する。
「んーでも、タダでやっちゃうのもなんだし、えーと……じゃあ折角相席してるわけだし、雑談にでも付き合ってよ」
「それくらいで良いのなら、喜んで」
「ありがと。うーん、そうだなぁ……さっき言ったけどアタシ、怒ったことって無いんだ、誰かを愛したことも。そういうことってあると思う?」
「ありますよ」
俺の相棒は、向こうの世界をどうしても、ただの一度も愛せなかった。
「多分」
俺が思うに、と始めて、
「貴女はそういった執着の念がまだ形として現れて無いってだけで、たぶんその感情自体は存在するはずだと思いますよ――それこそ、影のように」
「ふうん。何でそう思ったの?」
「そのハンバーガーですよ」
と苦笑して、彼女のトレイを指差す。そこには安物のハンバーガーが大量に積まれ、山をつくっている。
「食べ物の好き嫌いというのは、一番根強い執着でしょう?」
「ええ? それちょっと違うと思うけどなぁ」
言いつつも、ハンバーガーを囓る朱は満面の笑みを浮かべていた。
◆
美術館の前の喫茶店。
矢崎が頼んだ頼んだローズヒップから出る湯気は、紅茶の匂いで満たされた店内の香りを一つ足していた。
リオンはストロベリーパフェを苺だけ残して食べ進める。今度は、自分で頼んだものだ。
いつものようにリオンは超がつくほど生真面目に話すが、矢崎は完全に上の空だった。
「アレは……何だったんだろォな」
矢崎は、掲げた手から落ちる影に目をやる。動かそうとしても、今はぴくりともしそうにない。
「アレ、とは、教会での伸びた影の話ですか?」
「あァ、そうだ」
「カゲビトのことについてのデータが乏しいので、確かなことは言えませんが――、矢崎様には元から、カゲビトが憑いていたのかも知れません。カゲビトとわたしたちならカゲビトの意識の方が優先して体の使用権を得るようですが、矢崎様のご友人のような例もありますし、矢崎様もそういった、特例的なカゲビトなのでしょう。たとえば、幼少期にカゲビトの矢崎様と矢崎様の人格が混ざって、矢崎紘玄という人格を作ったとも考えられます」
「あー、そういうことか。かもな」
「話を戻しますが。それで結局、これから先矢崎様は人を殺すことはない、ということですか?」
「ああ、そォだな」
成程、とリオンは呟き、
「では本当にわたししか、殺戮を実現させる対象がいなくなりましたね」
「またその話か。前に言ったろ、あんたは人間じゃない」
「紘玄様」
矢崎様、ではない。
その些細な違いの意味に、矢崎は気付かない振りをする。
「確かにわたしは人間ではありません……今は、まだ」
蒼の髪が陽に照らされ、様々な色合いに変わっていく。
「けれどわたしの自律進化機能が目指す先は、最も美しい人間に至ることです。だから――」
「いつかきっと、わたしを――認めて(こわして)くださいね?」
彼女の唇は柔らかな弧を描き、優しげな眼差しは目の前の異常者に向けられた。
「――考えておく」
もしそうなったとしたら、その時にはおそらく、127個の中から最上のものを――あんただけの為に。