地球閉鎖
〝あなたは、誰?〟
それは簡単な問い。けれど難しい問い。
名前を問うているわけではない、存在そのものに対する問い。
答を見つけられる人は、一体どれだけいるのだろう。
答を探す少女の物語。
答へ導く少女の物語。
そう遠くない未来。
地球はすっかり温暖な気候へと変貌を遂げ、人類はそれをすでに受け入れ抗うこともせず、滅びのときを恐れながらも無気力に生きつづけていた。
そしてこの異常な気候は、彼らの身体に奇妙な変化をもたらしはじめていた。
〝―あなたは、誰?〟
1
20××年、8月1日。
彼女は、ふいに「食欲」を失った。
一般的な年頃の女子らしく、彼女には己の体重を気にかける習性があった。
事実彼女は決して細身ではなかったのだが、とはいえ他人の目をひくほどふくよかな身体をしていた訳でもない。
しかし少しでも余分に肉がつこうものなら、痩せなくてはという意識がはたらくのはごく自然な流れである。
彼女も同様であった。
体重の減量を試みた場合、まず大抵思いつくのは食事量の制限である。彼女は翌朝、これまでは毎日けして欠かすことのなかった朝食を抜いた。母親は不審に思ったが、自分にも昔経験のあったことなので水だけでも飲むよう勧めるのみにとどめてしまった。
―きっかけは、そんな些細なことだった。
部活を終えて帰宅し、さぞ空腹であるはずの彼女が、いつになっても食卓へ降りて来ないのである。心配に思って彼女の部屋へおもむき理由を問いただす母親に対して、彼女はただ一言、「おなかすいてない。」とだけ。
しかしおにぎりを差し出すと、一応は全てたいらげるのである。だが彼女はひたすら、空腹感を感じないことをうったえ続けていた。どうやらそれは本心から言っているらしかった。
それから彼女は食欲を感じることがなくなり、医師を訪ねてもたいした答は得られることなく数日が過ぎた。
しかし彼女は食事を摂っていないにもかかわらず、相変わらず健康な身体を保ち続けているようだった。
「食事を摂取せずとも、自ら養分をつくり生きる身体。」
そうとしかいいようがない。しかしそんなことがありえるのか。
―あるとすれば、これほど素晴らしいことはない。
それが学者たちの結論だった。人類進化の瞬間が、訪れようとしていた。
それから数日、彼女は貴重な実験体として研究室でいくつもの検査をうけることになる。
ありとあらゆる分野の人間がひしめくその部屋の中央に、彼女はいた。
―変調。
彼女は、「枯れた」。
『人類植物化』と呼ばれた、いや現在でもなおそう呼ばれているその現象は世界各地の人々の身体を進化へと導いた。
自ら養分をつくり生き続けるその姿は、まさに植物だった。
かくして完全自給自足のある意味非常にエコロジーな植物の身体を手に入れた人類だったが、彼女の末路のようになんらかのウイルスに感染すると「枯れて」死んでしまうという難点があった。そのウイルスは人々の間に急速に広がり世界中を震え上がらせた。調査の結果そのウイルスは植物化した人間にしか感染しないことが分かったのだが、もう人類のほとんどは植物化しており、またウイルスに対抗できるワクチンも作り出せぬまま数年。
人類の約三分の一を葬り去った『植物の災厄』
そして国際連合や医療機構の協議の結果、ある方策がうちだされた。
それが、『地球閉鎖』である。
〝あなたは、誰?〟
声が、聞こえた。
2
いつからだろう、誰とも会話をしなくなった。
いや、できなくなったのかもしれない。
それが当たり前になっていた。毎日の平凡な日常となり、一日一日を意識することすらなくなっていた。
・・・だから。
「あなたは、誰?」
・・・そんなことを訊かれても。
「・・・わたしは、誰?」
分かるはずがなかった。
暗い部屋。ただひたすらに暗い部屋。四角く狭いその空間の中に、膝を抱えてうつむいている少女がひとり。
「自分の名前が分からないの?」
「・・・うん」
少女はただ、それだけ答えた。
「じゃあ、そうね・・・私が考えてあげる」
ふと現れたその子。声で、なんとなく女の子ではないかと見当をつける。
・・・なんだろう。
少女は色々なことへ考えをめぐらせる。
この子は、何をしているのだろう。
わたしは、何をしていたのだろう。
この子は、どんな姿をしているのだろう。
わたしは、どんな姿をしていたのだろう。
わたしは、誰だろう。
コノコハ、ダレダロウ。
「・・・あなたは、誰?」
「―へ?」
その子が変な声を上げた。
なにかおかしなことを訊いただろうか。
「・・・ああ、私もね、自分のことがわからないの」
「―へ?」
今度は少女が変な声を上げる。
「あ、そうだ、今思いついた!うん、これがいい!」
聞いているだけでうきうきしているのがわかる。
楽しそうだな。ふと少女がそう思ったとき、
「―わたしがIで、あなたがYね!」
突然に。
けれど、ゆっくりと溶け込むように。
・・・ユウ。わたしの名前。
違和感はなかった。しっくりきた。
なぜだかずっと前から、その名で呼ばれていたような気がした。
「・・・うん」
「あなたは、誰?」
「わたしは、ユウ。」
3
気がついたら、いた。
そんな少女。それだけの少女。
それだけ、だった。はずだった。
けれど彼女が今、
「ユウ。ねえ、きいてきいて!」
わたしを見て。
「今日ね、」
わたしへ会話を投げかけて。
「すごくいいことがあったの!」
わたしに笑顔を向けている。
・・・そんな気がした。
「・・・そう。」
ユウはいまだに、アイの顔を見ることが出来ないままだった。
一体何年の年月を、ここで、独りで過ごしてきたのだろう。狭く暗い部屋の中でずっと独りでいたユウにとって、アイの存在は眩し過ぎた。うつむいている顔を上げることも出来ずに、ユウはただアイの言の葉を拾っていくだけだった。
「・・・いいことって、なに?」
「あのね・・・」
アイがさもおかしそうにくすくすと笑う。
「ユウが楽しそうなの」
「・・・・・・・・!」
ユウは慌てて顔を引き締めた。アイにその顔が見えているはずはないのだが、不思議とそうしていた。
「・・・ハズカシイ?」
思わず口に出ていた。
「なにが?」
きょとん、としたような声を上げるアイ。
「・・・〝ハズカシイ〟って、何?」
忘れてしまった記憶。
自分のあるべき姿。自分が持っていたはずの感情。全部全部、
「わたし、は・・・?」
わからない。わからない。忘れてしまった。
〝あなたは誰?〟
わたしは、ユウだ。
〝あなたは誰?〟
・・・わたしは、ユウだ。
〝あなたは誰?〟
・・・・・・・・・。
「ねえ、ユウ」
静寂。
「・・・ねえ、ユウったら。」
静寂。
「・・・」
身動きひとつ。
「・・・」
もうひとつ。
「ユウのばかっ!」
びくんっ、と背中がはねた。ユウはおののいた。
「私のつけた名前を嫌いになったっていうの?」
「・・・違う、けど・・・」
「じゃあなんで、あなたがあなたをわからなくなっちゃうのよ?」
ユウには、アイの言動のほうがわからなかった。いきなり声を尖らせて、そもそも何に対してそうなったのかもわからなくて、ただ、
「・・・なんで恐いの?」
率直に、そう訊いてみた。
「・・・それ。どういう意味?」
そのアイの声は恐くなかった。単純に、ユウの言葉を疑問に思っただけらしい。
「・・・よく、わかんないけど・・・アイの声、恐いよ」
微かな物音と声でしかアイの存在をわかれないからかもしれない、耳がひどく敏感になっているようだった。声だけである程度表情を測れるほど、アイの感情表現が豊かだともいえるけれど。
「・・・ごめんなさい」
「え?」
「・・・認めるわよ。はい、怒ってましたごめんなさい」
「・・・なんで」
「なんで、じゃないでしょう。私のつけた名前が気に入らないかこんちくしょう、てこと。あと、もうひとつ」
アイは躊躇うように一瞬言葉を止めて、しかしちゃんと、はっきりと言った。
「自分を見失うな」
「・・・え」
「・・・自分のことがわからないのが不安なのは、わかるつもりよ。私も、同じだから。・・・でも今のあなたまで見失わないで。〝ユウはユウ〟これ覚えときなさい。赤線引っ張って死ぬ気で覚えなさい。そしてずっと忘れないでいて」
「・・・アイ」
「あなたは真っ白なの。何にもないただの画用紙。でもだからこそ、これから新しい自分を描けるのよ。全てを失くす前のあなたが分からなくても、あなたは「ユウ」っていうその名前さえあれば、もう十分なの。それだけで今のあなた、「ユウ」なのよ。
いい?」
最後はとても強い、けれど嫌味のない言い方だった。
「・・・・・うん」
でも。
「・・・強引だよ、アイ」
「笑った」
「え?」
「今、笑ったでしょう、ユウ」
「・・・笑ってないよ」
もう、〝ハズカシイ〟がわからないなんて言わない。今、わかったから。
きっと、ちょっとくすぐったいような、こんな気持ちのことをいうんだ。
〝あなたは誰?〟
「わたしは、ユウ」
4
ふいに。
「つまらないわ・・・」
「・・・アイ?」
「とてつもなく、壮大に、気が遠くなるほど暇、ね!」
「・・・壮大?」
「無駄に広い宇宙空間を感じるくらいになんっっにもなくて暇!てことよ」
あいかわらず感情表現豊かなアイは、率直過ぎるともいえる態度でそう漏らす。出会って間もないが、ユウはそんなアイの波長をなんとなくではあるが掴んでいた。
不謹慎極まりないその台詞の中に、少し気になる単語があった。
「・・・宇宙空間?」
「ああ、ええ、そうよ、宇宙空間。え、まさか知らないとか」
「・・・ううん、知ってるけどでも、なんか・・・気になるような」
宇宙。なんだろう。なんだろう。わくわくするような・・・わくわく?
「・・・〝わくわく〟って何?」
「なに、またそれ?」
瞬時に声が尖るのがわかる。恐い。
「いや、そうじゃなくて・・・」
以前のやりとりが脳裏に浮かんで怖くなった。
・・・そういえば、あの時何を〝恐い〟と感じたのだろう。
「・・・宇宙って聞いたらなんかわくわく?して、何にわくわくしてるんだろう、って」
アイの尖った空気が、消えた。
「そうね・・・好き、だったのかもしれない」
「・・・〝スキ〟?」
またわからない言葉。まあ〝わくわく〟もはっきりとわかっているわけでは無かったのだけれど。
「わからないの?」
アイの声は尖ってはいなかったが、また恐くなっても嫌だったので適当にごまかしておく。
「・・・まあ、それならいいけど」
アイが恐くならなかったことに、とりあえずほっと胸をなでおろす。
「あなたが星、とかね、宇宙に関するものが好きだったんじゃないか、っていう可能性よ。いえもう絶対好きだったわね。私が保証するわ。あれだけ美しいものは他にないもの」
・・・断言されてしまった。
「・・・星か・・・」
アイは知っているようだが、ユウにはぼんやりとしかみえない。ただ、頭の片隅で少しひっかかった。
〝宇宙〟・・・。
〝スキ〟・・・。
結びつきそうな、そんな気が、した。
そのふたつの単語が頭の中を七周ほど走り終えたとき、ふいにもうひとつ、浮かんできたものがあった。
〝わくわく〟
「・・・〝わくわく〟」
「なに?」
「・・・そうだ」
「なによ」
「星だ・・・」
「だから何がよ!」
しびれをきらしたように、アイが抗議の声を上げる。その剣幕に気圧されかけつつも、
「・・・ああ、うん、えっと。
なんとなく、思い出した。わたし、〝宇宙〟が〝スキ〟だったんだ」
ひとつひとつ、ゆっくりと確かめるように。
漆黒のビロードに散りばめられた輝石。
あの煌きが、ひとつひとつの物語が、好き、だった。夜が来るだけでわくわくした。
それは、
〝タノシイ〟
「楽しい」
ふわりと、でも確かに浮かんでくる景色が、あった。
「ユウ?」
「・・・星を観るのが、すごく、楽しかったんだ」
そう。あのきらめきが、胸の高鳴りが、確かに自分の中によみがえってくる。
「・・・そう、ね。星は、全ての終わりを飾るように・・・美しいものだわ・・・」
「アイ?」
「・・・いえ、何でもないわ」
〝あなたは誰?〟
「わたしはユウ。星が好き。」
5
「朝よ、ユウ起きて」
「・・・寝てないよ。黙ってただけ」
朝か。
アイと過ごすようになってから、一日一日をちゃんと認識するようになってきた。
もとより寝る必要もない身体である。
真っ暗な部屋の中でただうつむいているだけのユウには時間など認識する必要もなかったのだが、アイといることで時間というものを大分思い出せてきた。
「朝はなぜ来るのか、って、考えたことがあるわ」
ふと思い出したように、アイがそうもらした。
「・・・なんで」
「太陽の働きと地球の自転が―」
・・・せっかくの言の葉も、意味が分からなければ全くの無駄だ。そんな言の葉ではなく、
どうしてそんなことを考えたのか、ということを訊きたかったのだが、どうも言葉が少なかったようだ。
「・・・それ、知ってる」
「え?」
「・・・知ってた、気がする。ううん、きっと知ってたんだ」
「太陽にまで知識が及んでいたのね。地球の自転程度なら学校で習ったんでしょうけど」
「・・・〝ガッコウ〟・・・?」
「・・・また?」
「・・・ごめん」
またアイが恐くなるのかもと一瞬思ったが、
その言葉への興味のほうが勝った。
「・・・嘘つかれる方が嫌だから別にいいけど。本当に覚えていないの?」
ユウはこくっとうなずいた。
「そう・・・。でも私が知識だけ与えても、あなたの記憶が戻るわけではないわよ。この間のように思い入れの強いものは特別。それはわかってるわね」
「・・・う、うん」
妙に含みのある言い方に、少しひるむ。
記憶。感情。
なにも考えずにいたせいで、ユウの奥底にしまいこまれてしまったもの。
アイと話すことで、いくらか麻痺していた感覚が戻ってきている。
「〝成長〟、わかる?」
「・・・ま、まあまあ・・」
ユウの頭の中にぽんっ、とひとつ芽が出た。
その上方にじょうろ、肥料。
じゃあ~~~。さらさらさら。
じゃあ~~~。さらさらさら。
そして日光がさんさんとふりそそぐ、日当たり良好な丘の上。
ある意味での理想郷ともいえる土地でぐんぐんと伸びてゆく茎。
・・・あ、花が咲いた。
「・・・何なの、その単純明快な発想は!」
太陽のあたりをびりびりと引き裂きアイが怒鳴り込んでくる。
「え、ちがった?」
「間違ってはいないけれど・・・」
アイがため息をつく。
「・・・とにかく学校っていうのは、自らと周りの友人や教師とが互いに成長し合うための場所なのよ」
ユウの頭の中にぽぽぽんっとたくさんの芽が出た。
それぞれの上方にじょうろ、肥料。
じゃじゃじゃあ~~~。さらさらさら。
じゃじゃじゃあ~~~。さらさらさら。
そして日光がさんさんとふりそそぐ、日当たり良好な
「・・・その辺でやめてもらいたいのだけど」
「・・・あれ」
「ほら、どうせ想像出来ていないんでしょう。やっぱり知識だけじゃ無理があったわ」
アイがさっきよりもっと深いため息をつく。
そういえば、さっきのアイの台詞の中に少し気になる言葉があった。
〝ユウジン〟
「・・・そういえば、〝ユウジン〟って何?」
「え、友人?」
そういうアイは、もう言葉の意味を訊いても尖ることはなさそうだった。
「〝友達〟のことよ」
〝トモダチ〟・・・・・
そう聞いても全くわからない。
黙ってしまったユウを見てか、アイが先回りして教えてくれる。
「スキ、に近いかもしれない。一緒にいて楽しい、そう思える人。何があっても一緒にいたいと思える人。
・・・多分そんな感じだったんでしょうね」
「・・・・・」
「どうしたの?」
「・・・いや、それって、アイのことかな、って」
なんとなくそう思った。なんとなくだけど、そう思えた。
一緒にいて楽しい。これはアイの事だ。
一緒にいたい。これもアイの事だ。
なら、アイは〝トモダチ〟なんじゃないのだろうか。
「・・・・・・」
「・・・アイ?」
「・・・そんな、単純なものだったらよかったのだけど・・・」
アイは、静かにそう言った。
ユウは少し動きを止める。
アイ・・・・・・・?
6
アイは、すごい人だ。
最近ユウはそう思い始めていた。
〝ハズカシイ〟
〝宇宙〟
〝スキ〟
〝わくわく〟
〝楽しい〟
〝ガッコウ〟
〝成長〟
〝トモダチ〟
アイは全部知っているのだ。ユウと同じように自分のことがわからないのに、ユウよりずっと多くのことを知っている。
アイは、すごい人だ。
本当にそう思い始めていた。
それが、どんな現実を裏付けるものかも知らずに。
「・・・でも、わからないとなると余計に気になるよ」
「学校のこと?」
「・・・うん。やっぱり見てみないとわからないのかなあ」
「それは無理じゃない?とうの昔に閉鎖されたわよ」
その言葉を聞いた瞬間。
「・・・〝ヘイサ〟・・・?」
アイがはっとしたように息を詰める。
ヘイサ。閉鎖・・・。
「・・・地球、閉鎖・・・」
「・・・・・!」
アイが言葉を発しなくなった。
ユウはアイの気配を探ってみる。
「・・・アイ?」
「・・・・・・」
何も感じられない。いなくなって・・・しまった・・・・?
「・・・アイ?」
「アイ!」
だめ。
「アイ!」
いかないで。
「アイ!」
わたしをまた、独りにするの?
「アイ・・・っ!」
だめ。だめ。だめ、だめ、だめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめ
「アイ!」
「・・・へ、は、何よ?」
ふいに、答えた声があった。
「アイ・・・」
もう、だめなんだって、ひとりじゃだめなんだって、ふいにそう、気付いた。
ずっと、ずっとひとりでいたはずなのに、もう、それにたえられそうにないんだってこと。
アイと出会ってしまったから。アイの温かさを知ってしまったから。触れてしまったから。もう、離れられないんだってこと。
それを今、思い知ったから。
「アイ!」
ばっ、と。
ユウは、顔を上げた。
7
地球閉鎖。
ただ、人々を絶望のどん底に叩き落しただけの残酷な方策。
感染病、たとえばインフルエンザなどが流行した場合、全国の小中学校などで実施される方策の中に、〝学級閉鎖〟がある。
集団の中を避けて感染を少しでも抑えようとするものだが、子どもにとっては、合法的に平日を休めるという楽しみを与えられたに過ぎない。家でじっとしているという言いつけなど守る子どもはほとんどなく、せっかくの休日を有意義に過ごそうとあちこちへ遊びに出かけるのが普通だ。
そんな〝閉鎖〟を、地球規模で行おうというのはかなりの無茶、というか無理である。
そもそもひとりの人間の生活というものは、かなりの人間が関わって初めて成り立つものだ。
〝閉鎖〟とはあくまでも感染病流行を抑えようとするためのものなので、出来るだけ他の人間と会わないようにする必要がある。
自らの肉体ひとつで、誰とも会わず関わらずに生きていく。それは絶対に不可能だ。
この方策にはいくつもの矛盾がある。
確かに感染はある程度食い止められるだろうが、その状況を知ることが出来ない。あらゆる人間との関わりを断つため情報を得ることが出来ないのだ。
また、この方策は「植物化」なくしては成立し得ないものだ。植物化を迎えられなかった者は交流を断たれ、家族から引き離され飢えて死んでいった。
それを悔やんで死んでいく者もいた。
結果感染とは関係なく死にゆく者が圧倒的に増え、人口の半分以上が削り取られたという。
もっとも、それすら知らずに人々は無気力に生きていたわけだが。
結局は、初めから「枯れる」か飢えかもしくは自ら選び死ぬか、それでも生き続けるかしか選択肢はなかったのである。
これらの問題に誰もが気付かぬほどに、事態が大きく不可解だったともいえるが。
かくしてその、あまりにも酷な方策は今も地球をとりまいていたわけだ。
そして、その方策からすれば「アイ」は、ここに存在していてはならないはずなのだ。
それなのに、アイはここにいる。
なぜ?
それを追求する余裕は、少なくとも今のユウにはなかった。
精一杯の勇気、だったんだ。
アイは自分とは違う、高いところにいる存在なのだと、そう、思っていたんだ。
でも。
「アイ!」
わたしはもう、アイを見失いたくない。
「ユウ・・・!」
一人の女の子が、驚いたような表情でこちらを見ていた。
〝ナツカシイ〟
「・・・〝ナツカシイ〟?」
つぶやいた。
「・・・は?」
「い、いや、〝ナツカシイ〟って何だったっけ、と」
せっかく出した勇気だったのに、ちょっとした興味でなんなくしぼんでいってしまった。ユウはまたゆっくりと顔をふせる。
「・・・な、何かと思ったらまたそれなの?」
アイは驚きつつも呆れたような声をかける。
〝ナツカシイ〟
一瞬アイの顔を垣間見た瞬間、ふと浮かんできた言葉だった。
なんだかどこかで見たような、遠い昔にどこかで会ったことのあるような、そんな顔をしていた。
「〝懐かしい〟ねえ・・・ごめんなさい。知らないみたいだわ」
「・・・え?」
ユウはすっかり拍子抜けしてしまった。
「・・・アイにも知らないことってあるんだ」
「・・・・・あなた私をどんな目で見てるのよ」
アイはジトッとした声でそういった。
特に深い意味がある訳ではなく、単純にユウは驚いているのだ。
アイも完全ではないのだ、やはり同じ人間なのだとユウは失礼にもそんなことを考えた。
「・・・とにかく、私には教えられません。自分で考えることね」
そういってアイは匙を投げた。
匙を投げた瞬間、
「・・・アイ」
「何度も言わせないで!教えないって言ってるでしょう!」
激しい口調でそう叩きつけるアイの声にも怯まず、ユウは震える声で叫ぶ。
「・・・そんなんじゃ、ないよッ!」
そうじゃないんだ。そうじゃなくて。
もっと、もっと大事な・・・
「・・・アイ」
こみ上げてくる想い。
もう離れては生きていけないんだってことを、はっきりとわかったから。どんなに痛いのか、わかったから。
「・・・どこにも、行かないでっ・・・」
「ユウ・・・?」
「・・・わたしをひとりにしないで・っ」
そして、気付いた。
「ユウ・・・、あなた、泣いてるの・・?」
こんなにも。
「ユウ、ねえ大丈夫よ?」
想いは、大きくて。
「私はどこにも行ったりしないわよ」
あふれそうになるくらいに。
「・・・大丈夫よ、ユウ」
こんなにも大きな想いが、わたしには、あったんだ、って。
「約束するわ。私はけして、あなたをひとりにしたりしない」
わかったから。
「何があっても、何に阻まれようともあなたの傍にいる」
「・・・うん」
触れたわけでは、ないけれど。
そのとき確かにユウは、アイの温もりに包みこまれたかのような感覚を感じとっていた。
「だって、私は・・・」
「・・・何?」
「・・・いえ、何でもないわ・・・」
8
失いたく、ない。
ユウにとってそれほどに大切な存在となったアイ。
だけど。
アイはここにいていい存在なのか、という問題があらためて浮かんできた。
「・・・あの」
そこまでいいかけて、ふと考えた。
確かに地球閉鎖が行われている限り、アイはここにいるはずのない存在だ。
アイのやっていることは「罪」なのだ。
だがそれを指摘したら、アイは、ここからいなくなってしまうんじゃないか、って、そんなことを、考えた。
「・・・いや、なんでもない」
それは、嫌だった。
もう、嫌だった。
だけど、そうなると。
この子は、なぜここにいるのだろう。
出会ったときには全く感じなかった疑問に行き着いた。
考えてみれば不思議だった。普通ならそれこそが、一番に行き着くべき疑問だったはずだ。
疑問に思わなかったのは。
・・・それが、当然だったからだ。
「・・・え?」
「へ?何、どうしたのよ?」
アイが怪訝そうな声をかける。
当然?どういうこと?
アイは、ここにいて当たり前の存在だって、わたしは知っていたのか。
つまりわたしは、
アイのことを、知っているのだ。
「・・・そうか」
名前も知らない少女としての彼女ではなく本来の彼女を、知っていたのだ。
・・・多分、ずっと前から。
もしかしたら、お互いすごく大切な存在だったのかもしれない。だから今全てを失くしているユウも、アイのことを大切に思っている。心のどこかで、分かっているからだ。
「ユウ?」
アイの声がする。
ほどよく耳に馴染んだ、よく通る声。もしかしたらずっと昔から、聞いていたのかも知れない声。
「・・・アイ」
「何よ」
「・・・わたしのこと、知ってる?」
「またそんなこというの?・・・言ったでしょ、〝ユウはユウ〟赤線引っ張って死ぬ気で覚えなさいって」
記憶は、ない。
当たり前のことだった。自分と同じ、全てを失くしてしまっているのだから。
でも、忘れていた。アイが記憶をなくしてるってことを。
それを感じさせないくらいに、アイが自然体で色々なことを知っていたからだが。
・・・この子は、どうしてこんなに色々なことを知っているのだろう。
ユウとは違う。アイはユウとは全然違うのだ。
・・・なぜ?
なぜアイは、こんなにたくさんのことを知っている?わたしとは違って。
ユウが物を知らないのは、忘れてしまったからだ。
反対にアイが物を知っているのは、
忘れていないからではないのか。
「・・・え?」
「もう、さっきから何なのよ?」
その声でユウは我に返った。
・・・いけない。アイの声が尖り始めている。
「・・・い、いや、あの・・・」
少しおかしなことを考えていたので、アイに対して上手く言葉が出てこない。
「いい加減にしなさいよ?」
恐かった。アイが、ではない。
アイが自分のことを嫌いになってしまうことが、だ。
ずっと、このままでいたいのだ。
このまま、ずっと二人一緒にいたいのだ。
ユウを嫌いになったら、きっとアイは、ここからいなくなってしまう。またひとりぼっちになってしまう。
「・・・約束、したよね・・・?」
「はあ?・・・ええ、そうねしたわ」
「・・・じゃあ、ずっとそばにいるよね・・・?」
声が、震えていた。
怖かった。嫌われていたらどうしよう、と。
「・・・そういったはずよ」
尖ってはいたがその答に、ユウはとりあえずほっとする。
・・・そうだよね。
約束してくれたのだ。アイが確かに言った言葉なのだ。
だったらそれを、誰よりもユウ自身が信じなくては意味がない。
・・・だから、それだけで終わりにしておけばよかったのに。
「・・・じゃあ、わたしのこと、嫌いにならないんだよね」
・・・やめておけば、よかったのに。
「そこまで保障できないわよ」
「・・・・・・・え?」
ユウは一瞬自分の耳を疑った。
〝ずっとあなたのそばにいる。それは約束するわ。だけど・・・〟
〝わたしはあなたのことが嫌いだわ〟
そう、いわれた気がした。
自分と同じようにアイも、ユウの事を大切に思い続けてくれると信じて疑わなかった。
だがなぜ、そう言い切れる?
ユウの事を大切に思ってくれていたからこそ、アイは罪を犯してまでここに来てくれたんじゃないか。なんとなくそう思い始めていた。
地球閉鎖が発動する前、二人はそれほどの強い絆で結ばれていたのではないか、だからこそアイは、ここへきたのではないか、と。
そしてユウが全てを忘れてしまっていたから、アイは自分もそうだと嘘をついたんじゃないか。
ぼんやりと、そんな風に思っていた。
思っていた。
だがそう言い切れる理由はどこにもないのだ。
〝そこまで保障できないわよ〟
アイがわたしを〝スキ〟でいてくれる保障なんてないのだ。
いや、もともと〝スキ〟ではなかったのかもしれない。
ここへ来たのはユウの為なんかではなくて、アイ自身になにかしらの理由があってのことだったのかもしれない。
ユウとアイは、もともと何の関係もない人間だったのかもしれないのだ。
そう思った瞬間。
じゃあ、ここにいるのは、誰?
「あ・・・」
「・・・ユウ?」
そうだ。アイがユウの大切な人だったという保証はどこにもない。まったく知らない赤の他人かもしれないのだ。
じゃあこの赤の他人さんは、ここで何をするつもりなの?
心。どろりと、新しく生まれたように、元々隠れていたように突然現れた、黒くて赤くて、醜く美しく繊細に乱雑に、本当が嘘が混じり合い溶け合った、恐怖の天空、快楽の地獄。
それは、混沌。疑う心。猜疑心。
怖くなった。アイが自分のことを嫌いになってしまうことが、じゃない。
アイ自身が、だ。
「ねえちょっとユウ?どうしたのよ」
いかにも心配そうな声をかけてくるアイ。
・・・そうだ。
ユウは声でしかアイを捉えていない。
優しく声をかけている時彼女がどんな顔をしていたのか、全く知らないのだ。
疑う心は、ときに強い行動力を生む。
もういちど、ユウは顔を上げた。
しっかりとその眼で、アイを見据えた。
失いたくないからではない。
今度はしっかりと、アイ自身を捉えるためだ。
「・・・ねえ」
「なに?」
「あなたは、誰?」
幾度、この問いを繰り返しただろう。
けれどそのほとんどは、ユウに向けての問いだった。アイに対して問うたことはこれまで一度しかなかった。
「わ、私はアイよ。言ったでしょう」
けれどそれは、ただ名を訊くためだけに必要な問いだった。
これは、違う。
「アイ」という存在そのものにたいする問いだ。
「本当のあなたは、誰なの?」
アイの色素の薄い瞳が揺れる。
「わ、私は・・・・」
「・・・ねえ」
ユウは、アイの方へと手を伸ばす。
その手が、指先が今、
「アイ」に、触れた。
「・・・・・思い出さなければ、良かったのに」
「・・・あ、・・あ、・・・」
「気付かなければ、私はずっとここにいられたのに」
「・・・そんな・・・嘘・・・」
気付いてしまった。思い出してしまった。
―「アイ」は、わたし自身だ。
9
〝気付かなければ、よかったのに〟
これが、鏡だと。
〝思い出さなければ、よかったのに〟
わたしが、生涯孤独な存在であることを。
〝ナツカシイ〟
当たり前だ。わたし自身の顔なのだから。
〝アイは色々なことを知っている〟
当たり前だ。「アイ」は失ったかつてのわたし自身なのだから。
〝そこまで保障できないわ〟
当たり前だ。私がアイを嫌いになれば、アイも私を嫌いになるのだから。
〝教えないって言ったでしょう!〟
自分の顔だと気付かせないために。
「・・・・・・っ」
〝約束するわ。私はけして、あなたをひとりにしたりしない〟
「・・・なんで、」
わたしをひとりにしたの。
「・・・ずっとわたしのそばにいるって、約束したのに・・・っ」
〝だって、私は・・・いえ、何でもないわ〟
「あなた自身なんだから・・・」
そういう「そば」を求めていたわけではないのに。
わたし自身としてそばにいたんじゃ、意味がないのに。
〝ユウはユウ。赤線引っ張って死ぬ気で覚えなさい〟
「・・・・・・・っ」
わたしはわたし。
そう教えてくれたのは、「私」だ。
〝自分を見失うな〟
「・・・・アイ・・・っ」
アイを失いたくない。
その気持ちは、確かにユウ自身のものだったのに。
・・・ほんのささいなことで、見失った。アイを信じられなくなった。
自分を見失ってしまった。
あんなにも大切な人だったのに。ずっと一緒にいたかったのに、自分でその幸せを、捨てた。
「・・・嫌だよ・・・」
「私」は、わたしが信じていなければ消えてしまう。「わたし」も、わたしが信じていなければ消えてしまう。
〝もっと自分、信じてみたら?〟
〝きっと何か、大切なものが見つかるから〟
「アイ・・・・・」
失ったもの。手に入れたもの。それはよく見れば同じもの。違うのはただ、自分がそれに対して抱いていた想いの大きさだ。
失いそうになったとき、行動を、一歩を踏み出せるかどうかだ。
ユウは、アイを信じることが出来なかった。
ユウは、ユウ自身を信じることが出来なかった。
だから、失ってしまった。アイは、ユウの前から消え去った。
「・・・・・ねえ」
鏡の中の「私」に問いかける。
「あなたは、ずっとわたしのそばにいてくれる・・・?」
「・・・・・・・・・・・・」
つうっ、と「私」の肌に触れる。
・・・ひんやりとした、なめらかで硬い、石の感触しかしなかった。
「ねえ、星を、観に行こう・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
わたしは・・・結城愛依は・・・ユウは、「アイ」をその胸にしっかりと抱きしめて、一歩踏み出した。
「・・・ほら、アイ。星だよ」
頭上に、空いっぱいに星が、それぞれに生ける精一杯の輝きを、私たちに届けてくれている。
・・・いつも、来ていた場所だった。
星を観るときは、絶対にここと決めていた。
父と来ていた、この丘の上に。
愛依は、いやユウは風にゆれる芝生のなかに寝転んだ。
父や母のこと、生まれたばかりの弟のこと、自分に「結」とあだ名をつけた級友のこと、星のこと、太陽のこと、そして・・・・・アイのこと。
それらの想い出を胸いっぱいに抱きしめながら、ユウは目を閉じた。
〝星は、全ての終わりを飾るように・・・美しいものだわ・・・〟
「・・・アイ・・・わたしにも、そろそろ終わりが来たみたいだよ・・・」
瞼の裏側に映るのは、みんなの、そしてアイの、溢れんばかりの笑顔。
・・・もしもし、聞こえますか?わたしは元気です。
もうひとりの私へ。たくさんの想い出をありがとう。あなたがいてくれたから、わたしは一歩、踏み出すことができました。大切なものを、思い出すことができました。
本当に・・・・・・・・・・・ありがとう。
〝あなたは誰?〟
―変調。
「・・・わたしは、ユウだよ・・・」
地球へ、
届け・・・・・・・・!
10
「植物の災厄」最後の生き残り、結城愛依は、「枯れた」。
「とうとう最後の人間が死んだわね」
「そうだね。さあ、邪魔者はいなくなったよ。これから、僕たち植物の時代が始まるのさ・・・・・」
「ふふふふふふふふふふ・・・・」
「ふふふふふふふふふふ・・・・」
そして地球は動き出す。
この場所で生きた命を背負って歩き出す。
それは、星。この「地球」という宇宙で輝きを放つ「命」という星。「魂」という星。
魂よ奔れ、そして廻れ。
駆け巡る流星。暗闇を奔る光。
やがてこの蒼い地球は光で満たされる。
宇宙の暗闇のなかで、燦然たる輝きを放つ。
流星達は、この地球とひとつになる。
光となって、答を探し続ける。
〝あなたは、誰?〟
ダメ出しをください。
そんなものを書く気も起こらないような出来ですけど(笑)