第1話――人間より強い必要はあるのか
「……ここですか?」
男は、少し古びた建物の廊下を見回した。
手にはノートパソコンと、資料の入った鞄。
三十代半ばくらいだろうか。
ロボット開発会社に勤める技術者だという。
「ええ。古谷先生の部屋は、こちらです」
男は、案内された部屋の扉を軽く叩く。
「どうぞ」
中から声がした。
扉を開けると、古谷学は机に向かって本を読んでいた。
部屋には専門書が何冊も並んでいる。
ただし、ロボット工学の本ばかりではない。
生物学、建築、医学、哲学、民俗学。
一見すると、何を専門にしている教授なのか分からない。
「失礼します。突然すみません」
「いやいや。どうぞ、座って」
男は向かいの椅子に腰を下ろした。
「実は、相談したいことがありまして」
「私に?」
古谷教授は少し笑った。
「私はロボット工学の専門家じゃないよ」
「はい。分かっています」
「それでも?」
「はい。むしろ、専門外の人の意見を聞きたくて」
「なるほど」
古谷教授は本を閉じた。
「それなら、私でよければ」
男はノートパソコンを開いた。
画面には、人間そっくりのロボットの設計図が表示されている。
「今、うちの会社では人型ロボットを開発しています」
「ほう」
「人間が生活する場所で、人間と一緒に作業することを想定しています」
「具体的には?」
「工場や倉庫だけじゃなく、将来的には家庭や介護の現場も考えています」
「なるほど」
古谷教授は画面を眺めた。
「それで、何が問題なんだい?」
男は少し迷ってから答えた。
「性能です」
「性能?」
「人間と同じ程度では、ロボットとしての価値が低いんじゃないかという話が社内で出ています」
「具体的には?」
「人間より強く、速く、正確にする」
古谷教授は頷いた。
「なるほど」
男は続けた。
「例えば、人間なら持てない重量物を持てる。人間より速く移動できる。疲れずに作業できる」
「うん」
「AIで動作を判断して、必要な力を計算して……」
男は資料をめくった。
「そのためには、かなり高出力のアクチュエータが必要になります」
「そうか」
古谷教授は、しばらく画面を見ていた。
そして、ふと尋ねた。
「そのロボットは、何を持つんだい?」
「何を……ですか?」
「例えば、家庭で使うとしたら」
「荷物とか、掃除道具とか……」
「コップは?」
「コップ?」
「うん。コップを持つときにも、そんな大きな力が必要かな?」
男は少し考えた。
「……いえ」
「卵は?」
「もっと弱い力でいいです」
「お年寄りの身体を支えるときは?」
「……」
男は画面から顔を上げた。
「強ければいい、という話ではないですね」
「そういうことだね」
古谷教授は笑った。
「人間の生活の中に入ってくるなら、最大出力よりも、必要な力を必要なだけ出せることのほうが大切な場面も多い」
「力の制御ですね」
「うん」
男はメモを取った。
「そこはもちろん研究しています。接触センサーや力覚センサーを使って、相手や物に合わせて出力を変えるようにしています」
「ほう」
「ただ、その分だけ制御が複雑になります」
「全部AIに判断させるのかい?」
「基本的には、その方向です」
古谷教授は少し首を傾げた。
「全部?」
「はい」
「人間は、全部を頭で考えて身体を動かしているのかな?」
男は黙った。
「例えば、コップを持つとき」
教授は机の上のコップを手に取った。
「『右手のこの筋肉を何ニュートン、次に指をこの角度で……』なんて考えないだろう?」
「……考えませんね」
「でも、身体はちゃんと動く」
「はい」
「生き物は、ずいぶん昔からその問題を解決しているんだよ」
男は教授を見る。
「どうやって?」
「そこが面白いところだね」
古谷教授はコップを机に戻した。
「全部を一か所で管理しなくてもいいんじゃないか、ということだよ」
「分散させる……」
「そう」
「それは、昆虫の研究でも言われていることですか?」
「そうだね。昆虫の足なんかを見ていると面白い」
教授は指先で机を軽く叩いた。
「足の一本一本が、中央から細かく命令されて動いているだけじゃない。接地したときの反応や、周囲の状態に合わせて、それぞれがある程度自律的に動く」
「局所的な制御……」
「人間だって似たところがあるだろう?」
男は画面に何かを書き込んだ。
「実は、今、人工筋肉の研究もしているんです」
「人工筋肉?」
「はい。モーターのような一つの駆動装置で全部を動かすのではなく、小さな駆動ユニットを複数組み合わせて、筋肉のような動きを作ろうとしています」
「なるほど」
古谷教授は頷いた。
「一つひとつは、それほど強くない?」
「そうです」
「それなら、そのほうが生き物に近いかもしれないね」
「そう思いますか?」
「うん」
教授は少し考えた。
「そういえば、カメレオンの舌って知っているかい?」
「舌ですか?」
「うん」
古谷教授は笑った。
「あれ、面白いんだよ」
「どういうところが?」
「ものすごい勢いで舌を伸ばして獲物を捕るだろう?」
「はい」
「機械屋なら、どう考える?」
男は少し考えて答えた。
「強いモーター……でしょうか」
「そうだろうね」
教授は笑った。
「もっと強いモーターを使って、もっと大きな力を出せばいい、と考えがちだ」
「はい」
「でも、生き物は必ずしもそうしない」
教授は机の上に指を置いた。
「筋肉だけで、あの動きを最初から最後まで全部やろうとすると、大きな筋肉と大きな力が必要になる」
「……そうですね」
「だから、別のやり方をする」
「エネルギーを蓄える?」
「そう」
教授は頷いた。
「バネのような仕組みにエネルギーを蓄えておいて、必要な瞬間に一気に放出する」
男は黙っている。
「カタパルト(射出装置)みたいなものだよ」
教授は続けた。
「そして、ここが面白いんだよ。普段からものすごい力を出している必要はないんだ」
「……」
「必要な瞬間だけ、大きな力を出せばいい」
男の表情が変わった。
「つまり……」
「うん?」
「常に強いアクチュエータを用意する必要はない」
「そう」
「必要なときにだけ、蓄えたエネルギーを使えばいい」
「そういう考え方もできる」
男は画面を見つめた。
「……私たちは、出力そのものを上げることばかり考えていました」
「人間はそう考えやすいからね」
古谷教授は笑った。
「でも、生き物は『どうやって強くするか』より、『どうやったら強くする必要がなくなるか』を考えているように見えることがある」
「……」
「力を大きくするんじゃなくて、構造を変える」
男はゆっくり頷いた。
「小さな人工筋肉をたくさん組み合わせるという発想とも、つながりますね」
「そうだね」
「一つをものすごく強くするんじゃなくて、小さな力を組み合わせる」
「うん」
「必要な場所だけが反応するようにする」
「うん」
「そうすると、全部を中央のAIで細かく制御しなくても……」
男は途中で言葉を止めた。
「……いや」
「どうしたんだい?」
「そもそも、全部を人間のように動かす必要があるんでしょうか?」
古谷教授は微笑んだ。
「そこだね」
男は設計図を見た。
人間とほとんど同じ形をしたロボット。
二本の足。
二本の腕。
胴体。
頭。
「先生」
「うん?」
「人型である必要って、本当にあるんでしょうか?」
「どう思う?」
「……分かりません」
「じゃあ、目的から考えてみよう」
教授は設計図を指した。
「二足歩行で、速く走らせたい」
「はい」
「だったら?」
男は少し考えた。
「……タイヤ?」
「そう」
「速く走ることだけなら、タイヤのほうが効率はいい」
「うん」
「重いものを持たせたいなら……」
「なら?」
「リフト型のロボット」
「そうだね」
教授は頷いた。
「わざわざ人間の形をしていなくてもいい」
「瓦礫の中ならキャタピラ」
「うん」
「細い配管の中なら蛇型」
「そう」
「足場の悪い場所なら、多脚型」
「そういうこと」
男は苦笑した。
「なんだか、人型ロボットそのものを否定されているみたいですね」
「いやいや」
古谷教授は首を横に振った。
「人型が悪いと言っているんじゃない」
「……」
「人間が作った環境の中で、人間と同じ道具を使うなら、人型には意味がある」
「階段やドア、机……」
「そう。人間用に作られたものを、そのまま使える」
男は頷いた。
「ただね」
古谷教授は設計図を見た。
「人型であることを目的にしてしまうと、そこで思考が止まる」
「目的のための形ではなく、形のための目的になってしまう……」
「そういうことだね」
男はしばらく黙っていた。
そして、設計図を閉じた。
「……じゃあ、人型ロボットを作るなら、人型である意味そのものを考えないといけない」
「うん」
「ただ人間の形を真似るだけじゃなくて」
「そう」
古谷教授は少し考えてから言った。
「だったら、もう一つ考えてみようか」
「はい?」
「人間らしさって、形だけかな?」
男は教授を見る。
「人間らしさ……」
「人間の身体って、金属みたいに硬くないだろう?」
教授は自分の腕に触れた。
「柔らかい。温かい。押せば少し沈む」
「はい」
「誰かを支えるときには、相手の身体の重さも感じる」
「……」
「抱きかかえたとき、相手の身体に力が入っているか、抜けているかだって分かる」
男は黙って聞いている。
「もし、人間と一緒に暮らすロボットなら、そういうところまで考えてもいいんじゃないかな」
「触覚……」
「うん」
「温度」
「うん」
「柔らかさ」
「そう」
「相手の状態を感じ取る」
「そういうことだね」
男は腕を組んだ。
「でも、それを機械だけで作るのは難しいですよ」
「だから、別の分野を見るんだよ」
「別の分野?」
「医療や介護。義肢。素材工学。衣服」
教授は指を折る。
「伝統工芸だっていい」
「伝統工芸?」
「和紙の繊維の重なり方。布地の重ね方。漆の表面の作り方」
「……」
「最新の機械だけが技術じゃないからね」
古谷教授は笑った。
「何百年も使われてきたものには、何百年分の試行錯誤が詰まっている」
男は少し笑った。
「先生、本当にいろんなところから持ってきますね」
「私は専門家じゃないからね」
「それが逆に怖いんですが……」
二人は笑った。
しかし、教授はふと思い出したように言った。
「そうだ」
「はい?」
「君たちは嫌がるかもしれないけど」
「なんですか?」
「ラブドール」
男の動きが止まった。
「……はい?」
「そういうものの技術も、参考になると思うよ」
「……」
「柔らかさや温かさ、身体の重さ、肌に近い触感をどう作るか。そういうことを追求している分野もある」
男は絶句した。
「もちろん、そのまま持ってこいという話じゃないよ」
教授は笑った。
「ただ、自分たちの業界だけで全部解決しようとしないことだ」
「……」
「必要な技術が、どこにあるかなんて分からないからね」
男は苦笑しながらメモを取った。
「医療、介護、義肢、素材、伝統工芸……そして、そこまで含めますか」
「技術は技術だよ」
古谷教授はさらりと言った。
「目的に使えるものなら、どこから持ってきたっていい」
男はしばらく考えていた。
やがて、静かに言った。
「先生」
「うん?」
「私たちは、ロボットを人間より強くすることばかり考えていました」
「うん」
「でも、本当に必要なのは、強さだけじゃない」
「そうだね」
「必要な力を必要なだけ出すこと」
「うん」
「一つの強力な機械じゃなく、小さなものを組み合わせること」
「うん」
「生き物みたいに、構造そのものを利用すること」
「そう」
「そして、人間の形をするなら、人間の柔らかさや温かさまで考える」
「うん」
「さらに、それを何年も一緒に使えるものにする……」
古谷教授は少し笑った。
「そこまで考えたのかい?」
「はい」
男は手帳を閉じた。
「実は、もう一つ悩んでいたことがあります」
「なんだい?」
「ロボットって、どれくらいの期間使うものなんだろうって」
「ほう」
「技術はどんどん進歩します。三年後には新しいモデルが出る。五年後には性能が古くなる」
「うん」
「そうなると、今作っているものも、いつかは買い替えられる」
古谷教授は少し考えた。
「そういえばね」
「はい」
「私の実家に、三十年くらい前の電子レンジがあるんだ」
「三十年?」
「まだ動いているよ」
男は驚いた。
「最新機能なんて何もない。温めるだけ」
「でも、三十年使っている」
「そう」
教授は窓の外を見た。
「壊れたら直して使ってきた」
「……」
「別に高性能だから残っているわけじゃない」
「じゃあ、なぜ?」
「長く一緒にいるからだよ」
教授は静かに笑った。
「道具って不思議だね。何年も使っていると、ただの機械じゃなくなる」
「愛着……ですか?」
「そう」
「家族みたいになる?」
「そういうこともある」
男は少し考えた。
「ロボットにも、そういう時間があっていいのかもしれませんね」
「私はそう思うよ」
「新しいモデルが出たから交換するんじゃなくて」
「うん」
「壊れたら直して」
「うん」
「使い続けるうちに、相手の癖が分かってくる」
「人間だって同じだろう?」
古谷教授は笑った。
「最初から完璧に分かり合える相手なんていないよ」
男も笑った。
「……なんだか、ロボットの話をしに来たのに、人間の話をしている気がします」
「ロボットは、人間のために作るものだからね」
教授は机の上のノートパソコンを見た。
「結局、ロボットをどうするかを考えると、人間が何を求めているのかを考えることになる」
男はノートパソコンを鞄にしまった。
「今日はありがとうございました」
「いやいや」
古谷教授は首を振る。
「私は何も答えていないよ」
「でも、考えることは増えました」
「それなら十分だ」
男は立ち上がった。
扉の前で、一度振り返る。
「強いロボットを作ることが目的じゃない」
「うん」
「人間の形を作ることが目的でもない」
「うん」
「人間と一緒に働いて、一緒に暮らせるものを作る」
「そうだね」
「そのために、必要なら生物からも、伝統工芸からも、医療からも、まったく違う分野からも学ぶ」
古谷教授は微笑んだ。
「ずいぶん大きな宿題を持って帰ることになったね」
「はい」
男は頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静かな部屋に戻った古谷教授は、しばらくその扉を見ていた。
そして、机の上の本を開く。
数ページめくったところで、ふと手を止めた。
「……」
小さく笑う。
「私より、よほどいい授業をしていったじゃないか」
窓の外では、風に揺れた木の葉が音を立てていた。
強さを増やす。
速さを増やす。
性能を上げる。
それだけが、技術の進歩ではない。
力を使わなくても済む構造を考える。
一つの力を、たくさんの小さな力に分ける。
目的に合わせて、形を変える。
そして――
人間と共に生きるなら、人間の身体だけではなく、人間が積み重ねてきた時間まで考える。
古谷教授は、何事もなかったように本の続きを読み始めた。




