第三章:ジャンク街の共鳴
この世界では、悲しみは存在しない。
そう“処理されている”だけだ。
「……あの、レイ先輩。……さっきの男の子。『楽になる』って、言ってなかったですか?」
助手席でエナが、壊れ物を扱うような声で問いかけてくる。
レイはハンドルを握る右手の震えを、無造作なシフト操作で誤魔化した。
「……さぁな。……ノイズだろ。コンデンサが古くなると、そんなこともある。ただの容量抜けだろ」
レイは吐き捨てるように言った。
ほんの一瞬だけ、言葉が喉に引っかかる。
――「楽になる」
同じ音の並びを、昔どこかで聞いた気がした。
「……ただの電気信号の乱れだ」
「……でも先輩。……あの時の声、確かに——」
「聞き間違いだ」
被せるように、短く切る。
一拍遅れて、
「……お前のセンサーが狂ってんだよ、エナ。……キャリブレーションでもし直してこい」
言い直した言葉の方が、少しだけ荒い。
短い沈黙。エナは、何か言い返そうとして——
「……っあの実——」
その瞬間だった。
ダッシュボードの影に隠した「薄青のリキッド」が、
カチリ、と音を立てた気がした。
一度、淡く明滅する。
「……何だ?」
もう一度。
今度は、明確に“呼吸するみたいに”脈打つ。
「……レイ先輩、これ——」
三度目の瞬き。
霧の向こうで、“何か”がこちらを見た。
ズルリ。
音を立てて、影が滲み出してくる。
さっきまで“話そうとしていたこと”が、
そのまま置き去りにされる。
「……ちっ。……間が悪い」
レイは舌打ちして、ドアロックに手をかけた。
「……エナ。……しっかり抱えとけ。……『客』だ」
霧の向こうから、ズルリ、と影が這い出してきた。 それは単なる『感情ジャンキー』じゃなかった。防護服を継ぎ接ぎしたような、下層区の武装集団——『スクラッパー』だ。
「ギャハハ……おい。……そのネーちゃん。……『生』の匂いがプンプンするぜ」
リーダー格の男が、歪んだ電子声で嗤った。
彼らが狙っているのは、リキッドだけじゃない。
この街で、まだ感情を一度も剥離されていない、純粋な「個体」そのものだ。
「……レイ、先輩……っ!」
「……エナ、ハコから出るな! ……ちっ、囲まれたか」
レイはデカンタを構えるが、多勢に無勢だ。 一瞬の隙——。
路地裏からハコの中へ飛び出したワイヤーがエナの細い首を絡め取り、彼女は叫び声を上げる間もなく、霧の奥へと引きずり込まれた。
「……エナ!!」
スクラッパーたちの動きは、取り囲む動きに、無駄がない。
誰も声を出していないのに、
全員が“同じタイミングで止まり、同じタイミングで動く”。
呼吸が、揃っている。
「——イ——、 先——っ!」
ワイヤーに引かれながら、エナの手が一瞬だけ空を掴む。
レイは迷わずハコを飛び出し、デカンタを構えた。立ち塞がるスクラッパーたちの首筋、その「チップ」が埋め込まれた急所を正確に狙い撃つ。
「……どけッ! 掃除の時間だ!」
デカンタのトリガーを引き、強制吸引を開始する。
「同じ…色…??」
だが、襲いかかるスクラッパーたちの体内を流れる「透明な廃液」は、上層部のガキから吸い上げたものと同じ色で遥かに高濃度で、粘り気があった。
「ブゥゥゥン……!!」
高圧電磁トランスが、これまでにない悲鳴を上げる。
シリンダーに逆流してくる透明な液体が、まるで生き物のようにデカンタの内部回路を侵食していく。
「……っ、シンクロ率が……高すぎる……!?」
ノズルを通じて、スクラッパーたちの「空腹」と「殺意」が、レイの脳内に直接流れ込んできた。
視界が真っ白に弾け、思考がノイズで塗りつぶされる。
その時だった。
——パチンッ!!
手元で、乾いた破裂音が響いた。
オーバーロードに耐えかねたメインコンデンサが火を噴き、真鍮の筐体から黒い煙が立ち昇る。
「……が、……っあ!?」
握り慣れたはずの重さが、
急に“よそよそしく”なる。
手の中のそれは、もう道具じゃない。
ただの、冷えた金属の塊だった。
吸引が止まり、逆にスクラッパーたちの「透明な毒」がレイの右腕へと逆流し始める。
激痛が走り、レイは膝をついた。
「クッッソおおおお…………。……っあああああ!……」
視界の端で、エナを乗せたコンテナが、重々しい金属音を立てて閉じるのが見えた。
「……レイ、せんぱ……っ!」
霧の向こうで、彼女の声が完全に遮断される。
立ち上がろうとするレイの前に、新たなスクラッパーの群れが「透明な涎」を垂らしながら迫っていた。
「……ちっ、……退くぞ。……ハコに戻れ、俺の身体……ッ!」
レイは動かなくなった右腕と、煙を吐くデカンタを抱え、這うようにしてハコへと転がり込んだ。
背後で、エナを連れ去った連中の排気音が遠ざかっていく。
ハコの運転席に倒れ込み、レイは血の滲む唇を噛み切った。
「……っ」
次の瞬間、左拳がピラーに叩きつけられる。
ガンッ!!
鈍い音が、車内に跳ね返る。
——ピッ。
『警告。精神安定指数の急激な低下を検知。
作業員レイ。感情値が許容値を超過しています』
レイは、拳を離さない。
『推奨:キャリブレーションの実行。または鎮静プロンプトの再投入。もしくは補助人員の再投入——』
「……——せぇな」
低く、吐き捨てる。
「……ただのノイズだろ。……コンデンサの容量抜けだ」
自分に言い聞かせるように、同じ言葉をなぞる。
ピラーから拳を離し、何事もなかったかのようにハンドルを握る。
「……仕事は続行だ。文句あるか」
『……記録します』
無機質な声だけが、静かに残った。
レイはアクセルを踏み込む。
レイは震える足でアクセルを踏み込んだ。
助手席には、彼女が抱えていたはずの空のシリンダーだけが、冷たく転がっていた。
カラリ、と乾いた音が一度だけ鳴る。
それきり、何も言わなくなる。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
もし「悲しみを消せる」としたら、
あなたはそれを選びますか?




