第一章:補充される「部品」
この世界では、悲しみは存在しない。
そう“処理されている”だけだ。
管理局が指定した、いつもの回収ルート。
骨まで響く振動と、耳の奥をかき乱す「キィィィ――」という不快な高周波。
「……残響感情、0.05%か……今日も“平穏”だな」
ピッ、とデバイスの完了音が鳴る。 抽出を終えた依頼主——二十代の女性は、さっきまでボロボロと流していた涙を、不思議そうに指先で拭った。
「……あれ? 私、なんで泣いてたんだっけ」
彼女は、足元に転がっている使い古した犬のリードを、まるで「見覚えのない不衛生な紐」でも見るような目で一瞥した。
そして、迷いのない足取りでそれを拾い上げると、カサリ、と何の躊躇もなくゴミ箱へ放り込んだ。
「……あ、そうだ。死んじゃったんだ、あの子。」
「……でも、なんだか急にどうでもよくなっちゃった。不思議。すっごく身体が軽いんです!」
ゴミ箱の中のリードには、まだ犬の毛が数本こびり付いている。だが、彼女の瞳には、一ミリの「陰り」も残っていない。
「ねえ、これから新しい子を買いにペットショップへ行くんです! 今度はもっと、手のかからない最新型のバイオ犬にしようかな!」
新しい犬を買いに飛び出していった女性の部屋。
静まり返った空気の中で、キーンと《シンクロナイズ・デカンタ》コンデンサのチャージ音が響く
俺の腕に巻かれた管理端末が、突如として不快な電子音を鳴らした。
『——警告。第06区画、作業効率の低下を検知。精神摩耗率が規定値を超えました。補助人員を追加投入します。——』
「……あ?」
カチャリ、と部屋のドアが外側から開いた。
そこに立っていたのは、子供のような背丈の少女だった。
どぎまぎしながらも、ブルーリキッドの予備シリンダーを必死に抱えている。
「……今日から配属されました! 新人のエナです、……補助員です!」
「おいおい、……子守りかよ」
つい、ぶっきらぼうな声が出た。
AIにとって、俺が「飼い犬の死」に当てられるのは、ただのエラーだ。
だから、熱を持っていない「新品のパーツ」を即座にねじ込んで、全体の温度を下げようとする。
「レイ先輩、手伝います! 効率、上げたいんで!」
少女は真剣だった。だが、ゴミ箱に捨てられてる使い古した犬のリードを、彼女は俺や、あの女性とは違う、
どこか「痛みを堪えるような目」で見つめていた。
「なんで俺の名前知ってるんだ? まぁいい……勝手にしろ。足だけは引っ張るなよ」
俺はわざと重たい工具箱を床に引きずり、乾いた金属音を響かせた。
目の前の新人と、床に滴った青い液体。二つの「生きた感情」が、完璧に管理された俺の日常を、じわじわと侵食し始めていた。
部屋を出て、無機質なコンクリートの廊下を歩く。背後からは、新人の少女が抱える予備シリンダーの金属のようなキンキンという震えが絶えず聞こえていた。
「……あの、レイ先輩」
エレベーターを待つ間、少女が消え入りそうな声で口を開いた。 彼女の腕の中、抱えられた予備のシリンダーが、微かに「キン……」と金属特有の冷たい音を立てる。
「さっきの人……本当に、新しい犬、飼うんですかね?」
その問いに、俺はエレベーターの『下』ボタンを無造作に押し、デジタル表示の数字を眺めた。
正直、説明すること自体がひどく面倒だった。
この街のシステムがどうだとか、感情を捨てた人間が次に何を買い求めるかなんて、そんな「理屈」を言葉にする労力が惜しい。
「……さぁな。……興味ねぇよ」
吐き出すようにそう言うと、エナはそれ以上何も言わなくなった。
ただ、予備シリンダーを抱える彼女の指先に、さっきよりも少しだけ力がこもったのを、俺は見逃さなかった。
チーン
と無機質な音がして扉が開く。
乗り込んだ箱の中、鏡に映った俺の顔は、さっきゴミ箱に捨てられたリードと同じくらい、色のない無表情をしていた。
エナが抱えたシリンダーの中に、「捨てられるはずだった青」がまだ残っていることにも気づかない振りをしながら、俺はただ、地下駐車場へと向かった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
もし「悲しみを消せる」としたら、
あなたはそれを選びますか?




