序章 ブルーリキッド
この世界では、悲しみは存在しない。
そう“処理されている”だけだ。
この街では、誰も泣かない。
――悲しみが処理されているからだ。
「それでは、回収局の方。後はよろしくお願いします」
初老の医師が淡々と告げ、部屋を出ていく。
「えーっと、これから、回収処理を行います」
ぶっきらぼうに言う。返事はない。
そもそも、求めてもいない。
俺はポケットから、使い古した《シンクロナイズ・デカンタ》を取り出す。
俺はシリンダーをデカンタのスロットに差し込み、ロックを回す。
起動。
「キィィィィィン――。」
耳の奥をかき乱す不快な高周波が、防護グローブ越しに腕の骨を震わせる。
手に持った真鍮製シリンダーの中で、さっきまでこの老人が抱えていた「人生の重み」が、どろりと青い液体に姿を変えていく。
――老人のブルーリキッドには、75年分の未練が詰まっていた。
失った家族、叶わなかった夢、淡い恋、ささやかな日常の悔い。
それらすべてが、骨にまで響く冷たい重みとして、俺に跳ね返る。
振動の合間に、泣き声にも、笑い声にも似た輪郭のないノイズ。
ピッ!
完了音。
先端を引き抜き、汚れた布で拭う。
内部に残った“滓”を吐き出させる。濁った青がわずかに滴る。
「……残響感情、0.03%か」
こんなものだ。
「最近この地域、多いよな」
小さく舌打ち。
「ったく、人をこき使いやがって――」
言いかけたところで、俺の腕に巻かれた管理端末が。
『お疲れ様でした』
抑揚のない音声。
『次の指示を送信します。残り三件』
『地図データ、およびブルーリキッドの成分を転送』
視界の端に情報が流れ込む。
座標。数値。波形。
どれも意味はある。だが――
さっきの“それ”とは、関係がない。
「……了解」
短く返す。
俺は無機質な工具箱の奥へと、抽出したばかりのシリンダーを投げ入れた。
窓の外には、AIが計算し尽くした「完璧に幸福で、退屈な夜景」が広がっている。
誰も、泣かない。
だから、
誰も、壊れない。
――壊れる必要が、ないからだ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
もし「悲しみを消せる」としたら、
あなたはそれを選びますか?




