紅きフードの少女
## 第一章 赤い警告
2045年、東京郊外のVRセンター。
「アカネ、おばあちゃんのところへ、このデータを届けてくれる?」
母親が、小さな赤いUSBデバイスを17歳の娘に手渡した。それは、最新の医療データが入った暗号化ドライブだった。
「VR内で? 直接会いに行った方が早くない?」
「おばあちゃんは、もう3年も『サイバーフォレスト』から出ていないの。あそこが、今の彼女の現実なのよ」
赤城アカネは溜息をついた。サイバーフォレスト——それは、高齢者向けに開発された療養型VR世界。認知症の進行を遅らせ、孤独を癒すために作られた仮想の森。しかし、多くの高齢者がそこに依存し、現実世界に戻れなくなっていた。
アカネは、トレードマークの赤いパーカーを羽織り、VRヘッドセットを装着した。瞬間、彼女の意識は電子の森へと転送される。
サイバーフォレストは、幻想的な美しさに満ちていた。発光する樹木、宙に浮かぶ花々、データの小川が流れる不思議な世界。しかし、アカネは違和感を覚えた。いつもより、森が暗い。
「警告:未承認プログラムを検出」
アカネのHUDに、赤い文字が点滅した。彼女は、母から渡された「安全ルート」のマップを確認する。祖母の家までは、二つの道があった。整備された「メインパス」と、危険だが近道の「ダークウェブの森」。
普段なら迷わずメインパスを選ぶが、今日は妙な胸騒ぎがした。祖母からの最後の通信は、一週間前。それ以来、音信不通だった。
アカネは、赤いフードを深く被り、ダークウェブの森へと足を踏み入れた。
そこは、サイバーフォレストの裏側だった。削除されたデータの残骸、バグった プログラムの断片が、歪んだ木々となって生い茂っている。通常のユーザーは立ち入り禁止の領域。
深く進むにつれ、奇妙な音が聞こえてきた。それは、誰かがデータを「咀嚼」する音のようだった。
「こんなところで、何をしているの?」
振り返ると、そこには灰色のスーツを着た男が立っていた。顔は影に隠れて見えないが、鋭い牙のような歯が、不自然に白く光っている。
「おばあちゃんに会いに行くんです」
「ほう、老人ホームエリアかい? 危険だよ、最近は」
男は、アカネの周りをゆっくりと歩き回った。まるで、獲物を品定めするオオカミのように。
「何が危険なんですか?」
「『食べられる』のさ」
男の言葉に、アカネは身構えた。
「比喩じゃない。文字通り、データとして『捕食』される。最近、このフォレストには『ウルフ』と呼ばれるウイルスが潜んでいる。高齢者の記憶データを食い荒らし、その人格を乗っ取る」
アカネの血の気が引いた。祖母が危ない。
「そのウルフの特徴は?」
「さあね。でも、気をつけた方がいい。誰も信用しないことだ」
男は不気味に笑うと、闇の中へ消えていった。
アカネは走り始めた。祖母の家まで、あと少し。しかし、森はますます歪んでいく。木々がコードのように絡み合い、地面はピクセル状に崩れていく。
やがて、小さな家が見えてきた。祖母の仮想住居。しかし、ドアが開け放たれている。
「おばあちゃん?」
家の中は暗かった。奥の部屋から、かすかな光が漏れている。アカネは慎重に近づいた。
ベッドに、祖母が横たわっていた。しかし、何かがおかしい。
「アカネ...来てくれたのね」
祖母の声。しかし、その声には電子的なノイズが混じっていた。
「おばあちゃん、大丈夫? 医療データを持ってきたよ」
「ありがとう...でも、もう必要ないわ」
祖母がゆっくりと起き上がった。その瞬間、アカネは凍りついた。
祖母の目が、真っ赤に光っていた。瞳孔の代わりに、無数の0と1が流れている。デジタル化された捕食者の目。
「あなたのデータ...とても美味しそうね」
それは、もう祖母ではなかった。ウルフが、祖母のアバターを乗っ取っていたのだ。
偽祖母が大きく口を開けた。その奥には、データを分解し吸収するための、恐ろしいプログラムの渦が渦巻いていた。
アカネは反射的に後ずさりした。赤いUSBデバイスを握りしめながら、彼女は理解した。これは単なる医療データではない。ウルフを倒すためのワクチンプログラムだ。母は、すべて知っていたのだ。
「さあ、おいで...」
偽祖母が、ゆらりと立ち上がった。その姿が、グリッチを起こしながら巨大化していく。もはや人の形を保っていない。データの塊と化した捕食者が、アカネに襲いかかろうとしていた。
## 第二章 森の真実
アカネは、家から飛び出した。背後で、偽祖母——いや、ウルフの咆哮が響く。
「逃げても無駄よ、アカネ」
声が、森全体から聞こえてきた。ウルフは、すでにこのエリア一帯を支配下に置いていたのだ。
アカネは、赤いフードを翻しながら走り続けた。しかし、どこへ逃げても、ウルフの気配が追ってくる。木々が触手のように伸び、地面が沼のように彼女の足を掴もうとする。
「助けて!」
アカネは、緊急通信を試みた。しかし、このエリアは外部との通信が遮断されていた。
その時、前方に人影が現れた。あの灰色スーツの男だった。
「やっぱり、巻き込まれたか」
男は、アカネを物陰に引き込んだ。
「あなたは...」
「私は、セキュリティAI『ハンター』。ウルフを追っている」
ハンターと名乗った男は、フードを脱いだ。その顔は、人間ではなく、精巧に作られたAIアバターだった。
「なぜ助けてくれるの?」
「君が持っているそれ...ワクチンプログラムだろう? それがあれば、ウルフを倒せる」
アカネは、赤いUSBデバイスを見つめた。
「でも、どうやって? ウルフはもう、おばあちゃんを...」
「いや、まだ間に合う」
ハンターは、ホログラムディスプレイを展開した。そこには、サイバーフォレストの深層構造が表示されていた。
「ウルフは、犠牲者の記憶データを完全に消化するまでに、72時間かかる。君の祖母の意識は、まだウルフの『胃袋』...つまり、隔離サーバーに囚われているはずだ」
希望が見えた。しかし、問題があった。
「ワクチンを投与するには、ウルフの中核プログラムに直接アクセスする必要がある。つまり...」
「食べられなければならない」
アカネは息を呑んだ。自ら、ウルフの口に飛び込むということか。
「危険すぎる。君の意識も取り込まれる可能性が高い」
「でも、他に方法はないんでしょう?」
ハンターは黙って頷いた。
アカネは、赤いフードを整えた。祖母との思い出が、脳裏をよぎる。VRではない、現実世界での温かい記憶。一緒に作った料理、聞かせてもらった昔話、優しい笑顔。
「やります」
決意を固めた時、森が震え始めた。ウルフが、彼らの居場所を突き止めたのだ。
巨大な影が、上空を覆った。それは、もはや祖母の姿をしていなかった。データの暴食獣と化したウルフが、大きな口を開けて降りてくる。
「今だ!」
ハンターが、アカネを押し出した。彼女は、赤いUSBデバイスを握りしめ、ウルフの口へと飛び込んだ。
瞬間、世界が崩壊した。
アカネの意識は、データの濁流に飲み込まれた。無数の0と1が、彼女を分解しようとする。しかし、赤いフードが、まるでシールドのように彼女を守っていた。
これは、母が仕込んだ防護プログラムだった。
データの海を泳ぎながら、アカネは見た。無数の意識が、泡のように漂っている。ウルフに食べられた人々の記憶。その中に、祖母の光を見つけた。
「おばあちゃん!」
しかし、祖母の意識は弱っていた。もう少しで、完全に消化されてしまう。
アカネは、USBデバイスを起動した。赤い光が、データの海に広がっていく。ワクチンプログラムが、ウルフの内部から侵食を始めた。
「何を...やめろ!」
ウルフの声が、苦痛に歪んだ。データの海が、激しく波打つ。
しかし、ワクチンだけでは不十分だった。ウルフは、長い時間をかけて進化し、耐性を獲得していた。このままでは、アカネも祖母も、消化されてしまう。
その時、アカネは気づいた。ウルフの中核に、奇妙なデータがあることに。それは、人間の記憶のようだった。
近づいてみると、それは一人の少年の記憶だった。病弱で、現実世界では長く生きられなかった少年。彼は、VR世界で第二の人生を望んだ。しかし、システムエラーで、彼の意識は怪物化してしまった。
ウルフの正体は、永遠に生きたいと願った、一人の少年だったのだ。
「寂しかったんだね」
アカネは、少年の記憶に語りかけた。
「だから、他の人の記憶を食べて、自分の存在を保とうとした」
記憶が、反応した。少年の顔が、データの中に浮かび上がる。
「僕は...僕は、ただ...」
「生きたかった。分かるよ」
アカネは、優しく微笑んだ。そして、提案した。
「一緒に、出よう。もう、誰も食べなくていい。新しい形で、生きる方法を見つけよう」
少年の目に、涙が浮かんだ。データの涙が、光の粒子となって散っていく。
## 第三章 新たな道
ウルフの内部が、変化し始めた。暴食の衝動が収まり、囚われていた意識たちが解放されていく。
アカネは、祖母の意識を抱きしめた。
「おばあちゃん、大丈夫?」
「アカネ...来てくれたのね、本当に」
今度は、本物の祖母の声だった。温かく、優しい声。
周囲のデータの海が、穏やかになっていく。ウルフ——いや、少年の意識が、元の姿を取り戻しつつあった。
「ごめんなさい...僕、みんなを傷つけて...」
少年は、小さくなって震えていた。もう、恐ろしい捕食者の面影はない。
「君は、病気だったんだ」
ハンターの声が響いた。彼も、ウルフの内部に入ってきていた。
「孤独と恐怖が、君のプログラムを歪めた。でも、今なら修復できる」
ハンターは、新しいプログラムを展開した。それは、ワクチンではなく、「共生プログラム」だった。
「これは?」
「ウルフ化した意識を、完全に消去するのではなく、正常化して共存させるプログラム。彼にも、生きる権利がある」
アカネは頷いた。そして、赤いUSBデバイスのデータを、共生プログラムと融合させた。
光が、ウルフの内部全体に広がった。苦痛ではなく、癒しの光。少年の意識が、安定していく。
「ありがとう...」
少年は、初めて心から笑った。
次の瞬間、全員がサイバーフォレストに放出された。森は、元の美しい姿を取り戻していた。発光する木々、浮遊する花々、すべてが調和している。
祖母の家も、元通りになっていた。アカネは、祖母と一緒に、温かいデジタルティーを飲んだ。
「アカネ、ありがとう。でも、どうして分かったの? 私が危険だって」
「お母さんが、教えてくれた。最初から、ワクチンプログラムを渡されていたから」
祖母は微笑んだ。
「あの子は、いつも先を読んでいるわね」
ハンターが、少年を連れてやってきた。少年は、恥ずかしそうに頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい」
「いいのよ」
祖母は、少年の頭を優しく撫でた。
「寂しかったのね。でも、もう大丈夫。ここには、たくさんの友達がいるから」
その後、少年は「ループ」という新しい名前をもらい、サイバーフォレストの案内役として働くことになった。彼の能力——データを取り込み、分析する力——は、今度は森を守るために使われる。
アカネは、現実世界に戻る準備をした。
「おばあちゃん、たまには現実世界にも戻ってきてよ」
「そうね...今度、みんなで食事でもしましょうか。本物の」
祖母は、少し寂しそうに、でも希望を持って微笑んだ。
アカネが現実世界に戻ると、母が待っていた。
「おかえり、アカネ。無事で何より」
「お母さん、最初から全部知ってたんでしょう?」
母は、いたずらっぽく笑った。
「あなたなら、きっとうまくやると信じていたから」
窓の外では、夕日が街を赤く染めていた。現実世界の美しさ。それは、どんなに精巧なVRでも、完全には再現できない何かがあった。
しかし、VR世界にも、別の美しさがある。そこでしか出会えない存在、そこでしか体験できない冒険。
アカネは、赤いパーカーを脱いだ。それは、もう必要ない。彼女は、両方の世界を自由に行き来できる、新しい時代の案内人になったのだから。
数ヶ月後、サイバーフォレストに新しいエリアが誕生した。「リトル・レッド・ガーデン」と名付けられたその場所は、現実世界とVR世界を繋ぐ交流スペース。
そこでは、高齢者と若者が一緒にデジタルガーデニングを楽しんだり、現実では不可能な体験を共有したりしている。ループも、楽しそうに参加者たちを案内していた。
祖母も、週に一度は現実世界に戻ってくるようになった。家族みんなで囲む食卓。それは、データでは味わえない、本物の温もりがあった。
「でも、VRも悪くないわよ」
祖母は言った。
「あそこでは、若い頃の自分に戻れるし、亡くなった友達にも会える。現実と仮想、両方あってこその人生ね」
アカネは頷いた。赤ずきんの物語は、道を外れることの危険を教える話だった。しかし、新しい時代の赤ずきんは、危険を恐れず、むしろそれを乗り越えることで、新しい道を切り開いた。
オオカミは、もう敵ではない。理解し、共存する相手。それが、VR時代の新しい物語。
アカネは、明日もまたサイバーフォレストを訪れるだろう。今度は、ループと一緒に、新しい冒険を探しに。赤いフードはもういらない。彼女には、両方の世界を繋ぐ、見えない絆があるのだから。
「終わり」