2-1.石敬瑭(せきけいとう)崩御
梅の宴からしばらく経ち、洛陽には静かな春が戻っていた。
洛陽――かつて九つの王朝が都と定めた、天下に名高き古都。
東周より始まり、後漢、魏、西晋、北魏、隋、唐、後梁、後唐へと至るまで、九つの王朝がこの地を拠点とし、栄枯盛衰の歴史を刻んできた。
四方を高く堅牢な城壁に囲まれた洛陽の街並みには、今なおかつての宮殿や仏寺の輪郭が残り、広々とした街路には青々と茂る槐の並木が影を落としている。柔らかな陽光がその葉の間から地に差し、木陰には荷車を引く商人、馬に乗った役人、旅装束の者たちが絶え間なく行き交っていた。東西南北を貫く大道は、その賑わいで常に人の気配に満ちている。
姉妹の暮らしのまわりには、変わらぬ日常の風景が広がっていた。しかし、その穏やかな日々の中に――ひとつ変化があった。
高懐徳から、ときおり翠琴へ文が届くようになった。
文面はどれも短く、不器用なほどさらりとした言葉だ。だが、一粒も抜けおちのない手紙に、字の書き方まで高懐徳の気言が表れているようで、翠琴は毎回、読むたびにその気配を探ろうとしてしまっていた。
「開封は春めいてきた。そちらも健やかであるよう願う」
「府中にて見事な翡翠の簪を見かけた。翠琴殿に似合うと思ったが、選び違えでは失礼になるため控えた。もしお好みがあれば、次回にでも教えていただきたい」
社交辞令と言えばそれまでだが、それらを定期的に送るだけの関心をもたれていることに、翠琴はどこかほっとしていた。
自分も同じように、素っ気ない返信を送った。
「洛陽の市場は花があふれ、人々も浮き立っています。どうぞご自愛ください」
「あなたが私を思い出してくれたことが、何より嬉しいです。簪の話、次にお会いする日を楽しみにしています」
文のやり取りを重ねるうちに、懐徳のことを“怖い”とは思わなくなっていた。
まだよく知らない人。でも、“無機質な人”ではないことだけは、わかってきた気がする。
そして、次の文が届く日を、密かに待つようになっていた。
◇
そして、変わったのは懐徳と翠琴だけではなかった。
洛陽の街で、二人の周りに集う者たちが増えていた。
これまで、二人が助けた者、あるいは家族を救われた者が「ぜひ一緒に街の問題を解決したい」と志願し、次々に仲間に加わっていった。
最初は五、六人だったが、今や三十人を超えている。
それぞれが役割を持ち、街の様子を聞き込む者、解決の方針を考える者、割り振られた案件に対応する者と、組織だった活動へと変貌していた。
その中心にいるのが、趙匡胤(燁華)だった。
彼の指示は的確で、すべての行動が効率的に進んだ。
「いつの間にか、洛陽の影の役所みたいになってるわね」
翠琴がくすくす笑いながら言うと、燁華はため息をついた。
「私は別に役人になりたいわけではない」
「でも、お姉さまって、きっと誰かの上に立つ運命なのよね」
燁華は、そう言われると少しこそばゆい感じがして、「ふん」とだけ答えた。
翠琴はそれを気にする様子もなく、にこにこと笑っていた。
◇
洛陽に初夏の風が吹き始め、街路樹の葉がみずみずしい緑に染まり始める頃だった。
市場には新鮮な野菜や果物が並び、人々は夏支度を始めていた。
それまでの爽やかな風に混じり、ときおり、湿った空気が流れる。
遠くで雷鳴が響くこともあり、梅雨の足音が近づいていることを感じさせた。
そんなある日、洛陽に一つの知らせが届いた。
「石敬瑭崩御」
その知らせは洛陽の街だけでなく、すぐに姉妹の耳にも入った。
「えっ、お姉さま! 梅の宴にいた、あのおじちゃん、死んじゃったの?」
「そうだ」
翠琴は、そのしらせに耳を疑った。
「あんなに元気だったのに……」
洛陽の庭で梅の花を愛でながら、朗々と演説をしていたあの姿が、脳裏に浮かぶ。
「うーん…… でも、憤死って、つまり、怒りすぎて死んじゃったってことでしょ? そんな死に方することある? こう……ふんっ! って叫んだ瞬間、バタッと倒れたのかしら?」
翠琴は倒れる真似をする。
「おい、不敬だぞ」
燁華は笑いをこらえながら翠琴をたしなめた。
「みんなバタバタして大変ね」
「帝が変わるというのは、ただの一つの死ではなく、国の命運を揺るがす出来事だからな」
◇
石敬瑭の死は、後晋の朝廷に混乱をもたらした。
彼は、契丹の力を借りて皇帝の座についた。
その代償として、中華の北部——燕雲十六州を契丹に明け渡した。本来は北方の脅威を防ぐための要衝だったその地を、長城を越えて差し出したのだ。
「国土を切り売りした皇帝」
「契丹の走狗に成り下がった男」
この烙印は、彼が死ぬまで、いや、死後も消えることはなかった。
それらの言葉を声に出す者は少なかったが、心の奥底でそうつぶやく者は、決して少なくなかった。
石敬瑭自身、おそらくそれをよく理解していたのだろう。
だからこそ、彼は常に国内の不満と向き合い続けた。
だが結局、彼は国内をまとめきれず、重圧の中で憤死という幕引きを迎える。
燁華はふと、梅の宴での石敬瑭の言葉を思い出す。
——「今や、北の憂いは消えた。これからは内政に注力し、国力を増すのみ」
だが、実際にはその「北の憂い」は、決して消えてなどおらず、石敬瑭は、契丹からの圧力に生涯苛まれ続けたのだ。
◇
新たな皇帝、石重貴が即位した。
燁華は静かに息を吐いた。
「……すでに割譲された土地を、どう契丹と折り合いをつけていくのか。後晋は難しい局面にあるな」
後晋がこのまま持ちこたえるのか、それとも——
燁華は、洛陽の空を仰いだ。
「私たちは、この国がどうなるのか、しっかり見極めなければならない」
「……じゃあ、お姉さま」
翠琴はふっと笑う。
「次の皇帝の宴には、また招待されるかしら?」
「……その前に、皇帝が変わってるかもしれんな」
そういって、燁華は皮肉っぽく笑った。
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