13-3.遠い日の約束と、今を生きる決意
紅蓮の間で、趙普は一人ぼんやりと座っていた。
この部屋は、かつて燁華が私的な政務を行う際によく使っていた場所だった。赤い絨毯、美しい調度品、窓からは開封の街が見える。
――ここで、燁華と何度政策について議論を交わしただろうか。
趙普の胸に、懐かしい記憶が蘇ってくる。しかし、それと同時に深い喪失感も押し寄せてきた。
「趙普」
扉が開き、翠琴が姿を現した。
「翠琴……いや、陛下」
趙普が立ち上がろうとすると、翠琴は手を振って制した。
「ここでは翠琴で構いません。疲れてるわね」
「まあな」
趙普は再び椅子に座った。
「翠琴、報告がある」
趙普が懐から書状を取り出す。
「呉越と清源から、使者が来た」
「帰順の件?」
「それもあるけど……」
趙普の表情が曇る。
「賄賂を送ってきた。争いを避け、穏便に併呑されたいので、俺に口添えしてほしいと」
翠琴の顔が強張った。
「賄賂?」
「金品だけでなく、美女や珍しい品々も含まれてる」
趙普が書状を翠琴に差し出す。
「俺は、これを受け取って、彼らの要求を聞き入れるべきだと思う」
「なぜ?」
翠琴の声に、困惑が込められていた。
「血を流さずに済むからだ。燁華……いや、先帝もそれを望んでいたはずだ」
「でも、そのようなやり方をする人たちは忠義に欠けるわ」
翠琴が立ち上がる。
「今回賄賂を送ってくるということは、今後も同じことを繰り返すでしょう。私が直接行って、彼らの真意を確認します」
「それは危険すぎる」
趙普も立ち上がった。
「燁華だったら、こう言うはずだ。『民の安全が第一、皇帝の安全はその次』と。だから、使者との交渉で十分だ」
「いえ、お姉さまなら、きっと直接相手と向き合って、心を通わせることを選んだはずよ」
翠琴の声に熱が込められる。
「お姉さまは、いつも人を信じることから始めていたわ」
「それとこれとは別だろ。燁華だったら、そんな無謀な判断はしない!」
趙普の声が大きくなった。
「もう、お姉さまの治世じゃないのよ!」
翠琴も負けじと声を上げる。
「今は私が皇帝なの。私の判断で国を治めているのよ!」
二人は睨み合った。
しばらく重い沈黙が続いた後、翠琴が深くため息をついた。
「私たち、だめね。あなたとこうやって向き合っていると、お姉さまのことばかり考えてしまうわ」
「ああ……」
趙普もふうと息を吐き、肩の力を抜いた。
――燁華と議論を交わした日々。窓際で人目を忍んで交わした口づけ。すべてが昨日のことのように思い出される。
思い出すたびに、胸が苦しくなり、眉間には深い皺が寄る。
「俺を、田舎にやってくれないか」
趙普の静かな声が、部屋に響いた。
「ここには、彼女との思い出がありすぎる」
翠琴は無言で頷いた。
その目にも、涙が浮かんでいた。
◇
夕方。
皇宮の最も高い楼閣で、趙普は一人開封の街を見下ろしていた。
夕日に染まった街並みは、相変わらず美しかった。しかし、もうそこに燁華の姿はない。
――二人でここに並んで夕日を見たことが、まるで昨日のことのように思い出される。
「宋は、美しい国だな」
燁華の声が、ぬるい風に混じって聞こえてくるような気がした。
「俺の人生全てだった……」
そうつぶやくと、皮肉に笑う。
――これからどう生きていけばいいのか、分からない。
趙普は欄干に寄りかかりながら、ぼんやりと夕日を見つめた。
孤独感が、胸の奥深くに沈んでいく。
ああ、いっそ俺も、燁華のいるところに行こうか。
その時、ふっと後ろから声が聞こえた。
「趙普」
その声は、懐かしい声にあまりにもそっくりで、趙普はびっくりして振り返る。
――まさか……燁華?
しかし、そこに立っていたのは十三歳の少女だった。
「なんだ……」
趙普は肩の力を抜いた。
「お父さま」
少女が言った。
趙普は改めて少女を見つめ、息を呑んだ。
「……雲瑶?」
「はい。母……いえ、翠琴おばさまから全て聞きました」
雲瑶が一歩前に出る。
「お父さまの力になるようにって」
趙普は雲瑶をじっと見つめた。
――燁華に生き写しだった。初めて出会った時の燁華にそっくりだ。
同じ凛とした目、美しい面立ち、気品ある立ち振る舞い。
趙普はふらふらと雲瑶に歩み寄った。
娘の前でひざまずくと、そっと雲瑶の頬に手を触れる。
「……こんなに大きくなって……」
趙普の手が、声が、震えていた。
雲瑶はにっこりと笑った。
その笑顔は、燁華の笑顔と同じだった。
趙普も、久しぶりに心からの微笑みを浮かべた。
「お父さま、寂しかったでしょう」
雲瑶の優しい声に、趙普の目に涙が浮かんだ。
「ああ……とても寂しかった」
「私も寂しかったです。でも、翠琴おばさまが、お母さまのこと、お父さまのことをたくさん話してくださいました」
雲瑶が趙普の手を握る。
「お父さまが、どれほどお母さまを愛していたか。どれほど国のために尽くしてきたか。私は、そんなお父さまを誇りに思います」
趙普は雲瑶を抱きしめた。
「ありがとう……雲瑶」
――この子がいる。燁華の血を引く、大切な娘がいる。
趙普の心に、久しぶりに温かいものが流れた。
◇
数日後。
皇宮の正門前に、質素な馬車が停まっていた。
趙普と雲瑶が、荷物を積み込んでいる。
「本当に行ってしまわれるのですね」
翠琴が見送りに来ていた。その隣には、高懐徳の姿もあった。
「お呼びがあれば、戻ってきますよ」
趙普が振り返る。
「呉越と清源の件、よろしくお願いします」
「ええ。お姉さまの意志を継いで、必ず平和的に解決してみせます」
翠琴が深く頭を下げる。
「趙普殿」
高懐徳が一歩前に出た。
「長い間、ご苦労様でした。先帝陛下と共に、この国のために尽くしてくださった功績は、決して忘れません」
「高懐徳殿こそ、これからも翠琴陛下、そして徳昌をお支えください」
趙普が丁寧に一礼する。
「もちろんです。先帝陛下の遺志を継ぎ、必ずや中華統一を成し遂げてみせます」
高懐徳の目に、静かな決意が宿っていた。
「趙普、長い間お疲れ様、ありがとう」
翠琴が改めて言った。
「こちらこそ」
趙普も一礼する。
「陛下のご健勝をお祈りしています」
雲瑶も翠琴と高懐徳に向かって丁寧にお辞儀をした。
「お母さま、お父さま、お世話になりました」
「雲瑶、趙普と二人で、助け合って暮らすのよ」
翠琴が雲瑶の頭を優しく撫でる。
「元気で育つのだぞ」
高懐徳も温かい笑みを浮かべて雲瑶に声をかけた。
馬車が動き出すと、趙普は窓から顔を出した。
「翠琴、懐徳殿、燁華の意志を……頼みます」
「必ず」
翠琴が力強く頷く。
「お任せください」
高懐徳も深く一礼した。
馬車は開封の街を抜け、郊外へと向かっていく。
翠琴と高懐徳は、その姿が見えなくなるまで見送り続けた。
「懐徳、これからも支えてくださいね」
翠琴が振り返る。
「もちろんだ」
高懐徳が頭を下げる。
「お姉さまが築かれた基盤を、必ず完成させましょう」
二人は宮殿に向かって歩いていく。




