1-7.塀の向こうに
──宴の翌朝。
翠琴は朝からどんよりとした気持ちだった。
夜はほとんど眠れず、目を閉じるたびに昨日の光景が頭をよぎる。
──あの冷たい目。無表情。声まで氷のように冷たかった。
枕に顔を埋め、うんうんとうなる。
(あんな人にお嫁に行ったら、私はどうなるの!?)
無視され、
虐待され、
蔑まれ、
最後には無惨に捨てられてしまうかもしれない!!
たくさんの人の心のうちを見てきた翠琴のなかには、数多の悲惨な人生が蓄積されている。
夫婦で良好な関係を築けず、さんざんな人生を送っている人は世の中にたくさんいるのだ。
うう……私もかわいそうな妻の一人になってしまうなんて!
翠琴は、自由気ままに生きるつもりだった人生が、急に灰色になったような気がした。
(どうにかして、この婚姻を解消する方法はないかしら……)
真剣に考えるけれど、父に「怖いから」という理由で訴えても、絶対に取り合ってもらえない。
(それなら、いっそどこか遠くに逃げてしまおうか……)
(もしくは、私も実は男でした!ってカミングアウトしてみる?……)
どちらも現実的ではない。
(どうしよう……どうしよう……)
悶々と考えていた翠琴だったが、ふとひらめいた。
そうだ!
翠琴は燁華の部屋に元気よく走っていく。
◇
「お姉さま!」
──バンッ!!
勢いよく燁華の部屋の扉を開けた。
「な、なんだ突然」
部屋では燁華が本を読んでいた。
目を丸くして翠琴を見つめる。
しかし、翠琴はお構いなしに ずいっと詰め寄った。
「お姉さま、結婚して!!」
「……ぶっ!!!」
燁華は 驚きすぎて、口にしていた茶を盛大に吹き出した。
いきなり妹に求婚されるとは、朝からどうかしている。
「お前、何を言ってるんだ……?」
「古代エジプトでは、兄妹で結婚したこともあったって聞くし!」
翠琴は 本気の顔で訴える。
「だから、お姉さま! お願い!!」
燁華は呆れたようにため息をつき、本を閉じた。
「……落ち着け。何があったんだ」
翠琴は姉の手をグッとつかむ。
「私、あんなに怖い人と結婚するのは嫌!」
いつも強気な翠琴が、
急に涙をぽろぽろとこぼしながら訴える。
「どうにか、婚姻を取り消してもらわないと……!」
「私の人生、めちゃくちゃになっちゃう!!!」
燁華は 困ったように眉をひそめると、静かに翠琴の肩を抱いた。
「わかった、わかったから、落ち着け」
そう言いながら、妹の背中をそっとなでる。
「一緒に解決策を考えよう」
「いつも私たちは、二人で何だって解決してきただろう?」
翠琴は鼻をすすりながら、小さくうなずいた。
◇
朝の騒動がひと段落し、落ち着いてこれからのことを話し合おうとしたまさにその時──、
屋敷の廊下がざわめいた。
「……なんだ?」
燁華が眉をひそめる。
やがて現れたのは、侍女だった。
「翠琴様の婚約者の高懐徳様が、お父上にごあいさつにいらっしゃるそうです」
翠琴の顔色が一瞬で真っ青になった。
「準備をして、翠琴様も同席するようにとおおせです」
翠琴の体が小さく震えた。
「あの……私……」
燁華は翠琴の肩を抱く手に力をこめ、迷うことなく告げた。
「……すまん、妹は体調が悪いんだ。昨日無理をしてしまったようで。同席はできないと伝えてくれ」
侍女は、「わかりました」と一礼し、去っていく。
翠琴は、ほっと息をつくものの、まだ震えていた。
「お姉さま、私、この屋敷にいるのも怖い……あの人が来ると思うと……」
「あの人、肌に触れたのに全く心が読めなかったの。
あんな人初めてで……私、どうしたらいいか……」
燁華は、そんな妹の様子を見て少し考えたあと、
ぽん、と翠琴の頭に手を置き、言った。
「よし、じゃあ今日は開封の街を見て回るか?」
翠琴は 顔をぱっと輝かせた。
「お姉さま、ありがとう!そうする!!」
◇
とはいえ、正門から出ていけば すぐに足がつく。
二人は、裏の塀の低いところを超えて外に抜け出すことにした。
燁華は 軽やかに身を翻し、塀を飛び越える。
「ほら、こっちに手を伸ばせ」
翠琴は 姉の手を借りながら、一生懸命塀をよじ登る。
(よし、あと少し……)
しかし、その瞬間、はた……とある男性と目があった。
──高懐徳だった。
翠琴の全身が凍りつく。
な、なんでこの人が、今ここに!?
翠琴は驚きすぎて手をすべらせた。
──落ちる!
「きゃっ!」
間一髪、燁華が受けとめる。
「ったく、おまえな……」
「ご、ごめんなさい……」
しかし、それよりも翠琴は目の前の人物を見上げて、顔を真っ赤にした。
──高懐徳が、ぷっと笑ったのだ。
……え?
彼はほんの一瞬、子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
それが、あまりにも意外すぎて、翠琴は唖然とする。
(何よ、笑えるのね……)
しかも 悔しいことに、その笑顔は、ちょっと可愛かった。
◇
高懐徳が屋敷に到着すると、趙弘殷が出迎えた。
「せっかくお越しいただいたのに、すまない。娘は体調が悪く、床に臥せっている」
高懐徳はさっきのことを思い出し、またふっと笑う。
(……元気に塀を登っていたが?)
だが、何も言わず、微笑だけを残して、軽くうなずいた。
「……いや、いいんです。お大事になさってください」
高懐徳は趙弘殷に促され、屋敷の奥へ入っていく。
俺の婚約者は、面白い人だな。
気づけばこの頃から、懐徳は翠琴に振り回され始めていたのかもしれない。
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