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12-5. 夕陽に染まる繁昌の都・開封

 詩作大会から二日が過ぎた朝、燁華と趙普が宿で目を覚ますと、街の様子が一変していた。


 窓の外から聞こえてくるのは、いつもの穏やかな市井の音ではない。重い足音、馬のいななき、そして金属のぶつかり合う音。


「これは……」


 趙普が窓辺に駆け寄ると、江寧府の街を囲むように、無数の軍旗がはためいているのが見えた。


 宋の大軍が、南唐の都を包囲していた。


「きたか」


 燁華の声は、驚きではなく確認するような響きだった。


「君が呼んだのか?」


 趙普が振り返ると、燁華は静かに頷いた。


「ああ。詩作大会で李煜の人柄を確認した後、密かに曹彬(そうひん)潘美(はんび)に連絡を送った」


 燁華の冷静な様子に、趙普は感心した。


「さすがだな。タイミングも完璧だ」


李煜(りいん)という人物が分からないうちは、軍を動かすわけにはいかなかった。だが、彼なら必ず理解してくれる」


 燁華の表情に、強い確信があった。


 ――あの詩のやりとりで、李煜の心を理解できた。彼は血を流すことを望まない。


 ◇


 その頃、宮殿では李煜が玉座に座り、深い絶望に沈んでいた。


「陛下……宋軍が都を包囲しております」


 臣下の報告に、李煜は静かに頷いた。


「そうか……ついに、この時が来たのだな」


 李煜の声は、驚くほど穏やかだった。


 ――詩作大会から二日。楊華の美しい詩が、今でも心に響いている。


 あの女性の「文化幾多の栄えあり」という言葉が、今の李煜の心の支えとなっていた。しかし、宋の皇帝がどのような人物なのかは全く分からない。


「抵抗いたしますか?」


 臣下の問いに、李煜は静かに首を振った。


「無駄な血を流すことはない。民を巻き込むわけにはいかない」


 李煜は立ち上がり、窓の外を眺めた。


 ――この美しい都も、もう自分のものではなくなる。宋の皇帝は、果たして文化を理解してくれるのだろうか。



 ◇



 昼過ぎ、宋軍から使者が派遣された。


「宋の皇帝陛下が、直々にお越しになります」


 その報告に、宮廷内がざわめいた。


「皇帝が直接?」


「……はい、そのようです」


 李煜も驚きを隠せなかった。普通なら、将軍などが派遣されるはずだ。なぜ皇帝自らが?


 ――どのような人物なのだろうか。武骨な軍人だろうか、それとも……



 ◇



 夕刻、宋の皇帝が南唐の宮殿に到着した。


 李煜は正装で宮殿の入り口に立ち、来訪者を迎える準備をしていた。


 そして、宋の皇帝一行が現れた時——


「……え?」


 李煜の目が大きく見開かれた。


 宋の皇帝として現れたのは、詩作大会で大賞を受けた美しい女性、楊華だった。いや、正確には、男性の装いに戻った彼女だった。その後ろには、曹彬(そうひん)潘美(はんび)という名将たちが控えている。


「そんな……まさか……」


 李煜は完全に言葉を失った。


「お初にお目にかかります、李煜陛下」


 燁華が深々と頭を下げる。


「楊華殿……いや、まさか……宋の皇帝陛下が……」


 李煜の声が震えていた。


「はい。偽りを申し、申し訳ありませんでした」


 燁華の言葉に、李煜はようやく現実を受け入れた。


「あの美しい詩を詠まれた方が……まさか宋の皇帝陛下だったとは」


 李煜は深く頭を下げた。



 ◇



 二人は宮殿の奥で、静かに向き合った。


「南唐の併合について、お話ししましょう」


 燁華の提案に、李煜は頷いた。


「……一つお願いがあります」


「何でしょうか」


「この国の文化と、人々を守っていただきたい」


 李煜の切実な願いに、燁華は深く頷いた。


「もちろんです。それこそが、私が望んでいることです」


 燁華の言葉に、李煜の表情が明るくなった。


「あなたはおっしゃった。『文化幾多の栄えあり』と。あの言葉が、今の私の支えとなっています」


「李煜陛下の詩もまた、素晴らしいものでした。そのような才能を失うことは、宋にとっても大きな損失です」


 二人の間に、静かな理解が生まれていた。


「では……」


 李煜が立ち上がる。


「南唐は、宋に帰順いたします。民の安全と文化の保護を、どうぞよろしくお願いします」


「お約束します」


 燁華も立ち上がり、深く一礼した。


 こうして、南唐の併合は一滴の血も流すことなく実現した。



 ◇



 一月後。


 燁華と趙普は、無事に開封へと帰還していた。


 南唐の併合は、順調に進んでいた。李煜は宋の客員として厚遇され、南唐の文化人たちも多くが宋に残って才能を発揮していた。


 ——夕暮れの皇宮。


 燁華と趙普は、宮殿の高台に立っていた。眼下には、夕日に染まる開封の街が広がっている。


 宋朝になり、開封は飛躍的な発展を遂げ、今や世界で最も活気に満ちた都市となっていた。大通りには夜市(よいち)灯籠(とうろう)が連なり、商人たちの声が夜遅くまで響いている。(きぬ)香辛料(こうしんりょう)茶葉(ちゃば)陶磁器(とうじき)——世界各地からの商品が行き交い、人々の笑顔と活気が街全体を包んでいた。


「宋は、美しい国だな」


 燁華が、沈む夕日を眩しそうに見ながら呟いた。


 ――南唐の風景も美しかったが、開封には開封の良さがある。文化と商業が見事に調和した、理想的な都市だ。


 趙普は、そんな燁華の横顔をふっと微笑みながら見つめていた。


「見て。街は賑わい、大人も子どもも元気だ」


 燁華が指差す方向には、色とりどりの灯籠が星のように輝いている。商人たちの呼び声、子どもたちの歓声、楽器の音色——それらすべてが混ざり合って、生命力溢れる都市の交響曲を奏でていた。


 趙普は、そっと燁華の肩を抱いた。


「……趙普」


 燁華が趙普を見上げる。その目には、深い愛情と信頼が宿っていた。


 趙普の腕が、燁華をより強く抱きしめる。


「愛してる」


 趙普の静かな言葉に、燁華の心が温かく満たされた。

 ふっと、肩の力が抜ける。


「私も……」


 燁華は静かに微笑み、趙普の胸に頭を寄せた。夫の心臓の鼓動が、安らぎのリズムとなって伝わってくる。


「あなたがいてくれるから、私は皇帝でいられる」


 燁華の小さな告白に、趙普の胸が熱くなった。


「俺の全ては、君のものだよ」


 二人は、夕日の沈む美しい開封の街を皇宮から眺めている。


 ――この平和を、ずっと守っていきたい。


 燁華の心に、静かな決意が生まれていた。


 南唐との出会いで学んだことは多い。武力だけでは真の統一は成し得ない。人々の心を理解し、文化を尊重し、共に歩んでいくこと。そして何より、愛する人と共にその道を歩むことの大切さ。


 夕日が地平線に沈み、街に夜の帳が下りていく。

 夜市の灯りが街を明るく照らし始める。


 燁華と趙普の後ろ姿が、オレンジ色の空と夜市の灯火を背景にシルエットとなって浮かび上がっていた。


 趙普が燁華の額に優しく口づけをする。燁華は目を閉じ、その愛情を全身で受け止めた。


 ――明日もまた、この国を、この人々を守るために歩んでいこう。


 燁華の胸に、温かい想いが満ちていた。夫の腕の中で感じる深い愛と、皇帝としての責任。その両方を胸に抱きながら、燁華は新しい明日を見つめていた。


 開封の夜が、静かに二人を包み込んでいく。


 遠く夜市から聞こえてくる人々の声、灯籠の暖かな光、そして愛する人の温もり——すべてが完璧に調和した、至福の瞬間だった。





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