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12-4. 詩が結んだ、二つの心

 春の陽光が宮廷の玉座を照らす中、南唐(なんとう)皇帝李煜(りいく)は深いため息をついていた。


「……はあ」


 黄金に彩られた玉座に身を沈め、李煜は窓の外を眺める。長江の向こうには、いつものように穏やかな春景色が広がっているが、その心は重く沈んでいた。


 ――宋が攻めてくる。


 その事実が、李煜の気持ちを憂鬱なものにしていた。荊南(けいなん)後蜀(こうしょく)も、南漢(なんかん)も、あっという間に併呑されてしまった。今度は、我が南唐の番だ。


 李煜は、もともと皇帝という座に興味はなかった。


 南唐の第2代皇帝の六男として生まれた彼は、幼少期から詩文や書画に秀でており、政治よりも文学や芸術に心を奪われていた。兄たちが健在であれば、自分が皇位に就くことなど考えもしなかっただろう。


 しかし、兄たちが次々と早世し、気がつけば太子となり、そして皇帝として即位することとなった。


 即位後、政治は臣下に任せ、自らは華やかな宮廷文化を築き上げてきた。詩作に明け暮れ、美しい音楽に耳を傾け、絵画や書道に親しんできた。それが李煜にとっての幸福だった。


 しかし今、自身の身体は次第に衰え、国家もまた衰退の一途を辿っている。


 ――今年も、詩作大会がやってくる。


 李煜は再び、深いため息をついた。


 ――これを開催できるのは、今年が最後かもしれない。


 ◇


 詩作大会当日。


 南唐の都、江寧府(こうねいふ)中央にある大講堂(こうどう)には、千を超える人々が集まっていた。


 全国各地から集った詩人、学者、文人たち。商人や農民の中にも、詩心を持つ者たちが数多く参加している。会場は熱気に包まれ、文学への情熱が空気を満たしていた。


 その中に、燁華と趙普の姿もあった。


「すごい人だな」


 趙普が会場を見回しながら呟く。


「ええ。これほど関心が高いとは……」


 燁華も感嘆の声を漏らした。


 予選は朝から始まっていた。参加者たちは即興で詩を作り、審査員たちがその出来栄えを評価する。


 燁華は、有名な武家の出身として一通りの教養教育を受けていたため、予選を順調に通過していった。


 「次、高楊華(こうようか)殿」


 燁華が偽名で呼ばれ、前に進み出る。審査員の前で詩を朗読すると、彼らは感心したように頷いた。


 「見事な出来栄えです」


 「文字の選び方、韻律、すべて申し分ない」


 燁華の詩才は、確実に認められていた。


 ――意外と、詩作は楽しい。


 燁華の心に、新たな発見があった。言葉を紡ぎ、感情を表現することに、予想以上の喜びを感じている。


 ◇


 夕刻、決勝進出者が発表された。


 皇帝と面会できる決勝戦には、十名が選ばれる。


 「高楊華(こうようか)殿」


 燁華の偽名が呼ばれた瞬間、会場にどよめきが起こった。女性の決勝進出者は珍しく、しかもその美貌は一際目を引いていたからだ。


 「やったじゃないか!」


 趙普が小声で祝福する。


 「ええ。何とか……」


 燁華も安堵の表情を浮かべた。


 ――これで李煜に直接会うことができる。


 ◇


 その夜、李煜は再び玉座に一人座っていた。


 明日は決勝戦。自分も詩を披露し、参加者たちと文学的な交流を楽しむ予定だった。


 ――だが、これが最後になるかもしれない。


 李煜の胸に、深い寂しさが広がる。


 宋軍の侵攻は時間の問題だった。この美しい文化も、華やかな宮廷も、やがてはすべて失われてしまうのだろう。


 窓辺(まどべ)に立ち、月明かりに照らされた庭園を眺めながら、李煜は心の内で詩を詠んだ。


 ――春の花、秋の月、いつまで続くのだろうか……。


 ◇


 翌日、決勝戦の会場となった宮殿(きゅうでん)の大広間は、豪華絢爛な装飾に彩られていた。


 決勝進出者十名が一列に並び、玉座に座る李煜を仰ぎ見る。


 燁華は李煜の姿を見て、軽い驚きを覚えた。


 ――思っていたより若い。そして、憂いを帯びた美しい顔立ちだ。


 李煜は四十歳前後だが、詩人特有の繊細さと、皇帝としての威厳を併せ持っていた。しかし、その目の奥には深い悲しみが宿っている。


「皆の者、よく集まってくれた」


 李煜の声が会場に響く。


「今年もまた、このような素晴らしい詩作大会を開催できることを、心から嬉しく思う」


 李煜は一呼吸置いてから続けた。


「まずは、朕が一首披露させていただこう」


 李煜が立ち上がると、会場が静寂に包まれた。


 李煜は目を閉じ、深く息を吸った。そして、心の奥底から湧き上がる想いを、美しい声に乗せて詠み始めた。


「春の花 秋の月 何時(なんどき)()わる

 往時(おうじ) 知らぬ多少(いくばく)

 小楼に昨夜又も東風

 故国 回首するに堪えず 月明の中


 雕欄(ちょうらん) 玉砌(ぎょくぜい) 依然として在るに

 只だ是れ朱顔のみ改まりぬ

 君に問う (すべ)幾多(いくた)の愁い有りやと

 恰も似たり 一江の春水の

   東を()して流るるに」


(日本語訳)

   春の花、秋の月、それらは昔も今も変わることなく、

   尽きることを知らずめぐりきて季節をいろどる。

   それにひきかえ変わりはてたこの身、

   花を見るにつけ、月を見るにつけ、過ぎし日の思い出のみは数限りない。

   このわびしき高殿に、昨夜ましてもそよぎくる春風。

   はるかなる故郷、

   眺めやりてものおもう悲しさにどうして堪えられよう、

   さえわたる月明りの下に。


   美しい彫刻が施された手すり、美しい石材でできた階段、

   豪奢な宮殿は今もそのままに在るだろうに、

   ただこの身だけは、若き日の輝かしい容姿はどこへやら、

   みじめに変わりはててしまった。

   わが胸に満ちる悲しみはいったいどれほどといえばよかろうか。

   長江に満ち溢れる春の水が、東を指して流れてゆくさまをそのままに、

   こんこんと流れて尽きるときを知らないのだ


              (出典:村上哲見「中国詩人選集・李煜」・一部改)




 李煜の声が会場に響く中、参加者たちは息を呑んでいた。


 ――なんと美しい詩だろう。


 燁華も、その詩の美しさと、込められた深い悲しみに心を打たれていた。


 李煜の詩には、失われゆく故郷への愛、時の流れへの嘆き、そして自分自身の衰えへの哀愁が込められていた。まさに「詩人皇帝」と呼ばれるにふさわしい、魂を揺さぶる作品だった。


 詩を終えた李煜は、静かに玉座に戻った。会場は重い沈黙に包まれている。


「素晴らしい……」


「陛下の御心が、痛いほど伝わってまいります」


 参加者たちから、感嘆の声が漏れた。


 しかし、燁華の心には別の想いが生まれていた。


 ――この人は、本当に絶望している。しかし、それで良いのだろうか。



 ◇



 他の参加者たちが次々と詩を披露していく中、燁華は静かに考えを巡らせていた。


 李煜の詩は確かに美しく、感動的だった。しかし、そこには希望がない。ただひたすらに、失われゆくものへの嘆きだけが込められている。


 ――私なら、どう答えるだろうか。


 燁華の番が近づいてきた。


「次、高楊華(こうようか)殿」


 名前を呼ばれ、燁華は前に進み出た。


 会場の視線が一斉に集まる。美しい女性の参加者として、既に注目を集めていた燁華だったが、この瞬間、空気が一変した。


 李煜も、玉座から燁華を見下ろしている。


 ――この人に、希望を伝えたい。


 燁華は深く息を吸い、李煜の詩に応えるように詠み始めた。


「春虫秋風 何時か生きん

 往歳 短しと(いえど)

 小楼に昨夜も()た東風

 故郷 依然として月明の中


 雕欄(ちょうらん)玉砌(ぎょくぜい) (まさ)お在らん

 只だ是れ朱顔のみ改まると

 君に告ぐ 文化幾多の栄えありと

 恰も似たり 一江の春水の

   世々(よよ)東に向かって流るるに」


(日本語訳)

   春の虫、秋の風、それらは短いいのちを精一杯に生き、

   やがては土に還りて、また新しいいのちを育む。

   過ぎ去りし歳月は確かに短いけれど、

   虫を見るにつけ、風を感ずるにつけ、季節のめぐりは永遠に続く。

   このさびしき高殿に、昨夜もまたそよぎくる東風。

   遥かなる故郷よ、

   今もかわらず月明かりに照らされて、

   さえわたる光のもとに静かに佇んでいることよ。


   美しい彫刻が施された手すり、美しい石材でできた階段、

   華麗な宮殿は今もそのままに在るだろうに、

   ただ人の容姿だけが、月日と共に移ろいゆくというけれど、

   それこそが人の世の美しき定めではないか。

   君にお伝えしよう、文化にはどれほど豊かな栄えがあることかを。

   長江に満ち溢れる春の水が、東を指して流れてゆくさまをそのままに、

   代々の人々の営みが、こんこんと流れて永遠に続いてゆくのだ。



 燁華の詩が会場に響く中、李煜の表情が変わった。


 最初は軽い興味だったが、詩が進むにつれて、その目に光が宿っていく。


「文化幾多の栄えあり」


 その言葉が心に響いた瞬間、李煜の頬を一筋の涙が流れた。


 ――そうか……国はなくなっても、人は、文化は残る。


 燁華の詩は、李煜の絶望に希望の光を差し込んでいた。


 失われゆくものを嘆くのではなく、受け継がれていくものに目を向ける。それこそが、真の文化人の心なのかもしれない。


 詩を終えた燁華が一礼すると、会場は静寂に包まれた。


 そして次の瞬間――


 李煜が立ち上がり、静かに拍手を始めた。


 その拍手につられるように、会場全体が拍手に包まれる。


「見事だ……」


 李煜の声が震えていた。


「実に見事な詩だった。朕の心に、久しく忘れていた希望を思い出させてくれた」


 李煜は燁華を見つめ続けた。


「今年度の大賞は、高楊華(こうようか)殿に授ける」


 会場から再び拍手が起こる。


 燁華は深く頭を下げた。


「ありがとうございます、陛下」


「楊華殿」


 李煜が燁華に歩み寄る。


「あなたは心も見目も美しい。どうか、朕の宮中で宮女として働いてはくれまいか」


 その申し出に、観客席にいた趙普の顔が青ざめた。


 趙普が立ち上がろうとしたその時、燁華が静かに手を上げて制した。


「陛下のお心遣い、誠にありがたく存じます」


 燁華は丁寧に答えた。


「しかしながら、私には愛する夫がおり、また果たすべき大義もございます。どうかご容赦ください」


 李煜は少し寂しそうな表情を浮かべたが、すぐに理解を示した。


「そうか……そなたほどの才能を手放すのは残念だが、仕方ないな」


 李煜は穏やかに微笑んだ。


「夫君は幸せ者だ。そなたのような妻を持てるとは」


「陛下」


 燁華が李煜を見上げる。


「またすぐに、別の形でお目にかかれると存じます」


 その言葉に、李煜は不思議そうな表情を浮かべた。


「別の形で?」


「はい。生きていれば、必ずや……」


 燁華の言葉に込められた意味を、李煜は理解できずにいた。しかし、なぜか心が温かくなるのを感じていた。


「そうだな。生きていれば、またそなたともまみえることがあるだろう」


 李煜は静かに頷いた。


「その時を楽しみにしている」



 ◇



 詩作大会が終わり、燁華と趙普は宮殿を後にした。


 夕暮れの江寧府を歩きながら、趙普が安堵の息をついた。


「一時はどうなることかと思った」


「心配かけたな」


 燁華が苦笑いを浮かべる。


「でも、李煜という人物がよく分かった」


「どんな人だった?」


「……純粋で、美しい心を持った人だ」


 燁華は空を見上げた。


「彼になら、きっと理解してもらえる。血を流さない統一の意味を」


「そう思うか?」


「ああ。今日の詩のやりとりで確信した」


 燁華の表情に、強い決意が宿っていた。



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