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12-3.詩人皇帝

 数日をかけて、二人は江寧府(こうねいふ)・南京の隅々まで歩き回った。


 書院では学生たちが声高らかに古典を朗読し、画院では絵師たちが山水画の技法を競い合っている。街角では書道家が揮毫(きごう)を披露し、茶館では詩人たちが即興で詩を詠み上げる。


 どこを歩いても、文化の香りが漂っていた。


「すごいな、この国は」


 趙普が感嘆の声を漏らす。


 二人が立ち止まったのは、とある書院の前だった。門前には「南唐文華院」という立派な額が掲げられている。


「文華院……文化の華、という意味かな」


「そのようだね」


 中からは、学生たちの議論する声が聞こえてくる。


杜甫(とほ)の詩における自然描写について……」


「いや、李白(りはく)の豪放さこそが詩の真髄だ」


 熱心な討論に、燁華は耳を傾けた。


 ――これほど文化が発達した国を、武力で制圧してしまうのは惜しい。だが、統一という大義を考えれば……


 燁華の心は複雑だった。


「あなた方、文学にご興味がおありですか?」


 不意に声をかけられ、二人が振り返ると、白髪の老学者が立っていた。


「はい、少々」


 燁華が答えると、老学者は嬉しそうに微笑んだ。


「それは良いことです。我が南唐は、文化こそが国の誇り。武力ではなく、文の力で人々を感化するのが、真の統治というものです」


 老学者の言葉に、燁華はぎくりとした。


「文の力で……ですか」


「そうです。我らが皇帝陛下、李煜(りいく)様も、まさにその体現者。政治のことはよく分かりませんが、詩人としては天下一品。『詩人皇帝』と呼ばれるほどです」


 老学者の顔が誇らしげに輝く。


「李煜様の詩は、人の心を揺さぶる力があります。一度お聞きになれば、きっとお分かりいただけるでしょう」


「機会があれば、ぜひ」


 燁華が社交辞令で答えると、老学者は目を輝かせた。


「それでは、良いお話があります。来月、陛下主催の詩作大会が開催されるのです」


「詩作大会?」


「はい。毎年恒例の催しで、全国から詩人たちが集まります。陛下も直々にご参加されますし、優秀な作品には褒美も出ます」


 老学者が興奮気味に説明する。


「商人の方でも、詩心がおありなら参加できますよ。いかがですか?」


 燁華は趙普と視線を交わした。


「……検討してみます」



 ◇



 老学者と別れた後、二人は近くの茶館で休息を取った。


「詩作大会、興味深いな」


 趙普が茶をすすりながらつぶやく。


「ええ。李煜に近づく絶好の機会かもしれない」


 燁華も同感だった。


 ――詩人皇帝として名高い李煜。直接会えば、その人柄も分かるだろう。そして、どのような方法で併呑(へいどん)を進めるべきかも見えてくるかもしれない。


「でも、詩なんて作れるのか?」


 趙普の率直な疑問に、燁華は苦笑いを浮かべた。


「やってみなければ分からない」


「そうだな。君なら何でもできそうだし」


 趙普の何気ない言葉が、燁華の胸をくすぐる。

 この男は、なんでこんな、自分を喜ばせる言葉がポンポンと出てくるんだろう。

 そういえば、こういう態度を他の女性にもしているのではないかと勘ぐったこともあったっけ。

 今は、この言葉が自分にだけ向けられていることを知った。

 こういう言葉を聞くたびに、彼の深い愛に救われる。


 その時、隣のテーブルから会話が聞こえてきた。


「今年の詩作大会、どんな詩が出るかな」


「陛下の詩には、誰も敵わないだろう」


「そうですね。あの美しい言葉の数々……まさに天才です」


 文人たちの李煜への賛辞を聞きながら、燁華は考えを巡らせた。


 ――政治的には無力でも、文化的影響力は絶大。このような人物を力で屈服させれば、南唐の文化人たちは散り散りになってしまうだろう。


「何か考え事?」


 趙普が心配そうに尋ねる。


「少し……この国の文化を、どう保護すべきかと」


「保護?」


「武力で併呑すれば、優秀な文化人たちは他国に逃げてしまう。それでは、せっかくの文化的財産を失ってしまう」


 燁華の憂慮に、趙普は納得した。


「確かに、それは惜しいな」


「宋にとって、南唐の文化は大きな財産になるはずだ。詩歌、絵画、書道……これらの技術や知識を取り込めれば、宋の文化水準も大幅に向上するだろう」


 燁華は、窓から見える長江のゆったりとした流れを、じっと見ながら行った。


 燁華の分析は的確だった。


 ――だからこそ、慎重に事を進めなければならない。李煜という人物を理解し、彼らが受け入れられる形での併呑を模索すべきだ。


「詩作大会、参加してみよう」


 燁華の提案に、趙普は驚いた。


「本気で?」


「ええ。李煜がどのような人物か、直接確かめたい」


 燁華の決意は固かった。


「それに……」


「それに?」


「少し興味がある。詩を作るということに」


 燁華の素直な言葉に、趙普は微笑んだ。


「あなたらしいな。新しいことには積極的だ」


「笑わないで!」


「いや、素直にすごいなと思って」


 趙普の優しい言葉に、燁華は照れくさそうに俯いた。


 ――任務のためとはいえ、確かに詩作には興味がある。

 この地の人々に影響され、文化的なことに触れてみたいという気持ちもあった。



 ◇



 茶館を出て、再び街を歩く二人。


 夕暮れの江寧府は、昼間とは違った美しさを見せていた。提灯(ちょうちん)に火が灯り、水路に反射する光が幻想的な雰囲気を醸し出している。


「美しい街ですね」


 燁華が感嘆の声を漏らす。


「ああ。こんな街を戦火で焼くのは、確かに惜しい」


 趙普も同感だった。


 二人は水路沿いの道を歩きながら、明日への計画を練っていた。


「詩作大会の詳細を調べましょう」


「そうだな。参加方法や、どのような詩が求められるかも知っておく必要がある」


 燁華は頷いた。


 ――李煜という詩人皇帝。彼の心を掴むことができれば、血を流さない併呑も可能かもしれない。


 春の夜風が頬を撫でる中、二人は静かに宿への道を歩いていた。


 南唐の文化的豊かさを目の当たりにして、燁華の心には新たな戦略が芽生えていた。武力ではなく、文化の力で相手の心を動かす——それこそが、真の統一への道なのかもしれない。


「趙普」


「ん?」


「もし私が詩を作ったら……聞いてくれる?」


 燁華の恥ずかしそうな問いに、趙普は即座に答えた。


「もちろんだ。君の詩なら、きっと素晴らしいものになる」


「根拠なく言うのは、やめてくれ」


「君への愛情という、確固たる根拠があるよ」


 趙普の悪戯っぽい笑みに、燁華は幸せそうに微笑んだ。


 二人の影が、夕暮れの街に静かに溶け込んでいく。明日からは、新たな挑戦が始まる。詩人皇帝との出会いに向けて、二人の心は期待と不安で満たされていた。



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