12-1. 美しき文化の都へ
春。
南唐の都、江寧府。
ここはかつて、三国時代の呉の孫権が都とした地であり、現在の南京市にあたる。
長江から枝分かれした水路は、いくすじも碧玉のように光り、白壁の町々を静かにつないでいた。
岸辺では柳が淡く芽吹き、絹糸のような枝が風に泳ぎ、日の光を受けてきらめく。
行き交う舟がすれ違うたび、橙色の灯籠が水面にゆれ、櫂が川をなでる音が、まるで織機の杼が糸を渡すように町を包んだ。
この光景が、豊穣と安らぎに満ちた南唐の春を物語っていた。
その人波の中に、商人姿の趙普と、薄紅の裙を揺らす燁華がいた。
趙普は粗布の衣に腰帯を締め、肩から荷袋を下げた、旅慣れた商人そのもの。
一方、燁華はこの旅で初めて女の衣装をまとい、水色の上着を春風になびかせて歩いている。
――久しぶりに纏う女性向けの外出着の感触に、燁華の身体は微かに緊張していた。知らぬ間に強張っていた肩の力が、意識するたびに引き締まる。公の場で女として歩くことは、彼女にとって全くの未知の領域であり、その一歩一歩に恐れと期待が入り混じっていた。
素朴な町並みにあっても、その立ち姿は隠しようもない気品を帯びていた。
「お前がこうやって外を歩くの、初めて見るよな」
隣を歩く燁華の横顔を盗み見ながら、趙普が口元をゆるめる。
――ふと横を見ると、趙普の穏やかな笑顔が燁華の心の重圧を和らげた。夫である彼の存在が、この緊張の中でただ一つの救いだった。
「ああ。女の姿で人前を歩くのは、これが初めてだ」
そう言いながらも、燁華の頬にはわずかな紅が差した。
――裙の裾が風に揺れるたび、燁華は不思議な感覚に襲われた。女性の装いはただの偽装ではなく、自分自身の新たな側面を発見する契機でもあるのかもしれない。
「似合いすぎて、ちょっと困るな」
「何がだ」
「行く先々で、男どもが君を盗み見る。俺は落ち着かない」
わざとらしいため息とともに荷袋を担ぎ直す趙普。
声色には、嫉妬よりも戯けた響きがあった。
◇
白壁と黒瓦が連なる市街に入ると、軒先に吊るされた染布や陶器が風に揺れ、香辛料と茶葉の香りが鼻をくすぐる。
「ほら、あれ見ろ。唐三彩の壺だ」
「……荷物が増えるだけだろう」
「俺の目の保養になる」
「しょうがない奴だな」
宿に荷を預け、二人は江寧府の中心街へ向かった。
「緊張してるな」
趙普が振り返ると、燁華は裾を気にしながら、やや硬い足取りで歩いている。
「当然だろう。こんな格好で敵地を歩くなど……」
――燁華の脳裏には、常に任務への緊張が渦巻いていた。この美しい街並みの裏に潜む敵意を見逃してはならない。それなのに、趙普の軽やかな様子に、時として自分も心が軽くなってしまう。この矛盾した感情に、燁華は戸惑いを隠せなかった。
「敵地って言うな。今は南唐の美しい都を散策してるんだ」
趙普の軽やかな口調に、燁華は眉をひそめた。
「……まさか本当に観光気分なのか?」
「半分は、ね」
趙普がにっこりと笑う。
「だって、あなたと二人きりで旅をするなんて、結婚してから初めてじゃないか。しかもあなたの女装姿を独り占めできるなんて」
「女装って言うな」
燁華の頬が赤くなる。歩くたびに揺れる裙の感触が、いまだに慣れない。
――任務の重圧の中で忘れかけていたが、これは確かに二人だけの特別な時間でもあった。
「歩き方がぎこちないぞ。もっと自然に」
「自然にって言われても……」
その時、向こうから楊柳ー織物売りの老婆がやってきた。燁華の美しい姿を見て、目を細める。
「まあ、美しい奥さま。旦那様がお似合いで」
「あ、ありがとうございます」
燁華が慌てて頭を下げると、声が少し上ずった。老婆が去った後、趙普がくすくすと笑う。
「声まで女らしくしなくていいぞ」
「うるさい」
◇
石畳の道を進むうち、燁華は次第に南唐の街の美しさに心を奪われていった。
書院からは学生たちの朗読する声が聞こえ、茶館では文人たちが熱心に議論を交わしている。壁には見事な書法で書かれた詩句が掲げられ、通りを歩く人々の衣装も洗練されていた。
――華やかな南唐の町並みの中に身を置きながら、燁華の胸には複雑な感情が交錯していた。この美しい文化を武力で制圧するのは惜しい。だが、統一という大義のために、自分は何をすべきなのか。
「文化の薫り高い国だな」
燁華が感嘆の声を漏らす。
「ああ。武力で制圧するには惜しい」
趙普も同感だった。
その時、魚売りの声が響いた。
「新鮮な鯉だよ!長江で捕れたばかり!」
燁華が振り返った瞬間、魚売りの男と目が合った。男の目が一瞬見開かれる。
「……見とれられてるぞ」
趙普が小声で囁く。
「そんなに目立つか?」
――燁華の心臓がまた早鐘を打った。注目を集めることの危険を、改めて思い知らされる。
「君の美貌もそうだが、俺たちの身長が問題だな」
確かに、二人とも南唐の人々より頭一つ分は高い。人混みの中でも自然と視線を集めてしまう。
「もう少し猫背になれないか?」
「それは無理な相談だ」
燁華が苦笑いを浮かべた瞬間、趙普が彼女の手を取った。
「なっ……何をする」
「夫婦なんだから、手を繋いで歩こう」
温かい手のひらが、燁華の緊張を少し和らげる。
――趙普の手の温もりが、燁華の不安を静かに包み込んだ。任務の重圧も、女装への戸惑いも、この人がいれば乗り越えられる気がした。
「これで少しは自然に見えるだろう」
「……まあ、そうかもしれないが」
二人が手を繋いで歩く姿は、確かに仲睦まじい夫婦に見えた。しかし、その美男美女ぶりは相変わらず人々の注目を集めている。
◇
絹市の前を通りかかった時、美しい錦を売る女商人が燁華に声をかけた。
「奥様、この錦はいかがですか?お似合いになりますよ」
錦は確かに美しく、燁華の目を引いた。
「綺麗だな……」
――一瞬、燁華は純粋にその美しさに見惚れた。皇帝としての重責も、任務への緊張も忘れて、一人の女性として美しいものに心を奪われている自分がいた。
「お求めになりますか?」
女商人の熱心な勧めに、燁華は戸惑う。
「いや、私たちはただの行商で……」
「遠慮しなくていいぞ」
趙普が横から口を挟む。
「妻に似合いそうなら、奮発してもいい」
「……」
「旅行の記念だ」
趙普の言葉に、燁華の心が温かくなる。
結局、小さな錦の帯締めを買うことになった。女商人が包んでくれる間、趙普が燁華の耳元で囁く。
「君が喜んでくれるなら、安い買い物だ」
「……ありがとう」
燁華の頬が再び赤らむ。
――この瞬間、燁華は自分が確かに一人の女性でもあることを実感していた。私の中にもこんな気持ちがあったのか。
◇
日が傾き始めた頃、二人は小さな茶館で休息を取った。
「思ったより楽しいな、この任務」
燁華が茶碗を口に運びながら呟く。
――任務と呼びながらも、燁華の心は不思議な充足感に満たされていた。趙普との時間、女性としての新しい体験、南唐の美しい文化——すべてが貴重な宝物のように思えた。
「だろう? 俺は最初からそう思ってた」
趙普が得意げに微笑む。
「でも、やはり目立ちすぎる。もう少し注意深く行動しないと……」
その時、茶館の外で男たちの話し声が聞こえた。
「あの夫婦、見たか?」
「ああ、この辺で見ない顔だ」
「商人にしては身なりが良すぎる」
「怪しいと思わないか?」
燁華と趙普の視線が交わる。二人の表情が、一瞬で引き締まった。
――現実が、一気に燁華を引き戻した。束の間の幸福な時間は終わり、再び任務の緊張が心を支配する。
「……どうやら、思った以上に注目を集めているようだな」
趙普の声が低くなる。
「このまま宿に帰った方がいいかもしれない」
燁華が立ち上がろうとした時、茶館の扉が開いた。




