11-2. 二万の宦官を擁する国
一方、遥か南方の南漢。
広州の宮殿では、皇帝劉鋹が朝議を開いていた。といっても、居並ぶのは全て宦官ばかりである。
「陛下、宋軍の南下が続いております」
報告するのも宦官、記録するのも宦官。
この異常な光景に、劉鋹は満足していた。
南漢は中国大陸の南に位置し、現在の広東・広西地方を中心とする小国だった。領土は六十州二百十四県、戸数十七万あまり。決して大国ではない。
この地は元々、唐代の中央での権力争いに敗れた官僚たちの左遷先だった。当時は未開の地であったが、左遷された後も住み着いた者の子孫たちが南漢勢力を形成した。
領土が狭く天然資源に乏しかったが、南方交易のハブとして機能し繁栄していた。広州は商人の街として栄え、東南アジアとの貿易で富を築いている。
しかし、958年に即位した劉鋹は、猜疑心が非常に強い男だった。
「官僚は家族や子孫を大事にするから信用できない。子孫を作れない者なら皇帝に忠義を尽くす」
この独特な理論に基づき、劉鋹は文官を次々と殺害し、代わりを全て宦官で埋めた。
宦官の数は異常な勢いで増加していた。約七千人から二万人へ。成人男性の一割近くが宦官という異常な状況だった。
登用したい人物がいれば、わざわざ去勢してから登用する。この狂気じみた政策により、南漢の朝廷はほとんど宦官で占められていた。
「陛下、このたびの宋軍南下により、民心に動揺が……」
「民など関係ない!朕に忠誠を誓う者だけがいればよい!」
劉鋹の叫び声に、宦官たちは萎縮した。
しかし、この異常な政治が続いたために、人心は完全に離反していた。もはや南漢という国は、内部から腐り果てていたのである。
◇
970年春。
高家の門前に、見慣れぬ男が立っていた。
南方訛りのある中国語で、荒く息をつきながら告げる。
「私は南漢の将軍です。高懐徳様にお会いしたく……」
まもなく懐徳が姿を現すと、男は膝を折り、深々と頭を下げた。
その背中は、長年の重荷に押し潰されているようだった。
「劉鋹の暴政により、我が国はもはや国の形を保てません。
二万もの宦官が跋扈し、まともな政は一切行われていないのです」
顔を上げた将軍の目には、疲労と焦りが色濃く滲んでいた。
「お聞きしたところによると……荊南や後蜀では、略奪もなく、民は宋の民として豊かに暮らしていると」
懐徳は静かに頷く。
「それは事実だ」
懐徳の答えに、将軍の目に希望の光が宿った。
「どうか……南漢の民をお救いください。このままでは、あの狂気に押し潰されてしまう」
懐徳は一瞬だけ翠琴と視線を交わした。
「なぜ、わが家を訪ねた?」
「高懐徳様は徳あるお方と聞きました。……同じ軍人として、我が立場を分かっていただけると」
懐徳は少し表情を和らげた。
「将軍のお噂は、宋にも届いている。国のために忠義を尽くす方だと。だが――いずれにしても陛下の判断を仰がねばならぬ。しばらく、ここで待っていてくれ」
懐徳の目配せに、翠琴が優しく微笑む。
「お部屋をご用意しますわ。子どもが多くて賑やかですが……」
将軍は初めて笑みを見せた。
「いいですね……私は、戦場の悲鳴より、子どもの声の方がずっと好きです」
翠琴は将軍の袖口にそっと触れると、目線で”この人は大丈夫”と懐徳に伝えた。
◇
紅蓮の間。
いつもの四人に曹彬を加え、卓を囲んで夕餉が進んでいた。
湯気と香りが部屋を満たす中、燁華が盃を置く。
「そうか、南漢がそこまで」
「探らせたところ、軍はほとんど機能していないようだ」
趙普は、近隣諸国の情報をどこかから常に得ていた。
「ただ、今の皇帝である劉鋹は非常に猜疑心が強い。別の形で何か仕掛けてくるかもしれん」
懐徳は深く息をつき、こう言った。
「……俺が行こう」
その声に、翠琴がすかさず続く。
「私も行きます」
「危険だ。お前は子どもたちを――」
懐徳が言いかけた時、翠琴は静かに遮った。
「……胸騒ぎがするの。だから、一緒に行った方がいい」
翠琴の勘は、これまでも幾度となく危地を避けさせてきた。
「それに……」
翠琴は振り返って、燁華と趙普を見た。
「お姉さまと趙普、高家に泊まってくださいな。南漢征討の間だけでも」
懐徳は翠琴の真意を理解した。
燁華と趙普に、我が子たちとの時間を作ってやりたいのだ。
「……それは、良い考えだ」
こうして、懐徳と翠琴の南漢行きが決まった。




