10-3. 勝利の裏で、流された血の雨
966年12月
雪が舞う寒い朝、開封の宮殿に蜀征討軍からの第一報が届いた。
「陛下、蜀征討軍より急報!」
伝令が駆け込み、朱印の押された文書を捧げる。
燁華は玉座から身を乗り出した。
「読み上げよ」
「はっ。『王全斌、蜀の都・成都を陥落せしめ、孟昶降伏いたしました』」
大殿にどよめきが広がる。
「ついに成都が……」
「さすが王全斌将軍」
だが、燁華の胸には喜びと同時に不安が走った。
報告があまりにも短い。戦況の詳細も、民の安否も記されていない。自らの厳命――「降伏者は殺すな」が守られたのかもわからない。
「他の報せは?」
「詳細は後日とのことです」
「……そうか。まずは勝利を祝おう」
口ではそう言ったが、胸の底に重いものが残った。
◇
三日後、開封に衝撃が走る。
「……陛下」
兵部尚書の声がかすれる。
手の中の文書を一度見下ろし、深く息を吸った。
「成都陥落後、降伏した蜀兵三千名を……処刑、とのことにございます」
大殿が凍りつく。
燁華は聞き間違いかと疑った。
「……もう一度」
「『降伏した蜀兵三千名を処刑』と」
燁華の指先が肘掛けを握りしめ、爪が木に食い込む。
低く問いかける。
「誰の命令だ」
「王全斌将軍の……独断により」
「……何だと!」
立ち上がった燁華の怒りが大殿を揺らす。
「私は何と命じた!『降伏者は殺すな』と明言したはずだ!」
声が割れる。
「三千の命だぞ!家族のいる者たちだ。それを……!」
拳が肘掛けを叩き、鈍い音が響いた。
「すぐに王全斌を呼び戻せ!私が裁く!」
「陛下……まずは経緯を――」
「経緯など関係ない!」
趙普への視線も容赦なく鋭い。
「命令は絶対だ。それを破った者は、理由を問わず処罰する!」
沈黙が落ちる中、別の伝令が駆け込んだ。
「陛下、曹彬将軍からも報告が!」
「読め」
「『婦女子二百余名を保護し、全員を親元に帰しました。また、降兵処刑命令への署名を拒否。証拠文書を保管しております』」
燁華の表情がわずかに和らぐ。
少なくとも一人、命令を守った者がいた。
「曹彬は王全斌と共に帰還中とのことです」
「急ぎ呼び戻せ」
重い空気の中、燁華は頭を抱えた。
――三千の命。これが理想の統一の姿なのか。
◇
夜。
男装を解いた燁華は、ろうそくの火を見つめていた。
「燁華」
趙普が入ってくる。
「私は……間違っていたのか?」
「王全斌を任命したことか?」
「もっと監視すべきだった」
「結果論だ。あなたは最善を尽くした。曹彬にも密命を出したじゃないか」
「でも……三千人が死んだ」
涙がこぼれる。
「私を信じて投降した人たちが」
趙普は抱き寄せた。
「あなたのせいじゃない。王全斌の独断だ」
「私は皇帝だ。責任は私にある」
燁華は拳をギュッと握った。
手の甲に青筋が浮かび上がる。
「曹彬を見ろ。彼は忠義を貫いた。そんな部下がいる限り、あなたは間違ってない」
燁華は涙をぬぐい、小さく頷いた。
「王全斌は処罰する」
「そうだな」
「……雲瑶に会いたい」
趙普は優しく燁華の髪を撫でた。
◇
翌朝の朝議。
燁華は静かに口を開いた。
「王全斌は明確な命令に背き、降伏兵三千を殺害した。軍令違反として処罰する」
すぐに重臣の一人が進み出る。
「しかし陛下、蜀征討は大勝利に終わっております。降兵を殺していたとしても、今は見逃すべきかと。士気に関わります」
燁華の目が鋭く光った。
「見逃せば、今後も同じことが繰り返される。河東も江南もまだ帰服しておらぬ。この時に放置すれば、再び民を乱殺する者が出るだろう」
重臣たちは黙り込む。
燁華は続けた。
「調査を行い、関わった者全員を呼び出せ」
◇
数日後。
蜀から戻った将たちが、大殿に並んだ。冬の冷気がまだ残る広間に、緊張が満ちる。
「なぜ人を乱殺したのか」
燁華の声は低く、鋭い。
誰も答えられない沈黙の中、燁華の視線が曹彬に向けられた。
「曹彬は下がってよい。これはお前の件ではない」
名を呼ばれた曹彬は、一歩前に進み出る。
かつての快活な少年の面影を残しながら、今は落ち着いた自信をたたえる将に成長していた。
「はっ……しかし、下がるわけにはまいりません」
深く叩頭し、声を張る。
「私は降兵三千の処刑に反対しましたが、その場に居合わせ、論議に加わった罪は免れません。処罰をお受けいたします」
その言葉に、大殿がざわめく。
曹彬は懐から一通の文書を取り出し、両手で差し出した。
そこには王全斌らの署名が並び、ただ一人、曹彬の名だけが欠けている。
燁華はそれを受け取り、しばし目を通した後、問いかけた。
「なぜ署名しなかった?」
「陛下の『降伏者は殺すな』という御命令に背けなかったからです」
燁華の表情がゆるむ。――やはり、この男は信頼できる。
「では、なぜ文書を保管していた?」
曹彬は深々と頭を下げた。
「陛下が私を処罰されると思っておりました。その時、老母の命を守るために差し出すつもりでした」
静まり返る大殿。
燁華はその言葉に胸を打たれた。母を想う一途さ。そして信念を曲げない強さ。
「……そこまで考えていたのか」
「はい。母だけは、何としても守りたかったのです」
燁華は歩み寄り、曹彬の肩に手を置いた。
少年時代にあった尖りは消え、確かな重みがそこにあった。
「今夜、私の部屋に来てくれ」
曹彬がわずかに目を見開く。
肩に触れられた手と、柔らかな香り。
女を知った今の曹彬なら、それに気づかないはずがなかった。
もしかして――
燁華は、微笑んだ。




