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9-5.流されぬ血と、静かなる勝利

 湖南(こなん)の宮廷——


 玉座の上で、周保権(しゅうほけん)は小さな背を伸ばし、重たく静かな沈黙に身を委ねていた。


 彼は、選択を迫られていた。


 父である先帝がこの世を去ったのは、一年前のこと。保権はそのとき、わずか十一歳。父の死を受け止めるには、あまりにも幼すぎた。


 湖南——かつて楚と呼ばれたこの地は、もともと馬殷一族が支配していた。だが951年、南唐の侵攻によって楚国は滅び、混乱の中で先帝が武安軍節度使として、この地の実質的支配者となった。


 父が治めた十数年の間、湖南は小国ながらも穏やかな独立勢力として存続していた。しかし、父の死後——その均衡は脆くも崩れた。


「父上の言った通りだ……」


 保権は何度もそう呟いた。


 生前、父は言っていた。「余が死ねば、必ず宮中で争いが起こる」と。その言葉通り、彼の死から間もなく、重臣の一人が謀反を起こした。あまりにも若きこの後継者に、忠誠を誓おうとする者は多くなかった。


 保権は、反乱鎮圧のために自軍を動かす一方、宋にも援軍を求めた。国の大義を盾に、大国の力を借りようとしたのだ。


 返ってきた宋からの使者の言葉は、丁寧でありながら冷ややかだった。


「宋は周保権殿を湖南の正統な主と認め、援軍を派遣する」


 けれども宋の援軍が到着する前に、保権は自力で反乱を鎮圧することに成功した。少しばかり胸を張りたくなる成果だった。しかし、それがさらなる動揺を招いた。


「宋軍は、援軍などではない。これは、この湖南を奪う口実だ」


 そうささやく声が、宮廷のあちこちから上がった。


 実際、宋の兵は湖南をめざして進軍していた。援軍の名のもとに、彼らは容赦なく駒を進めてくる。保権のもとには、すぐに対応を迫る声が飛び交った。


「もはや逆らっても無意味です。ここは潔く降伏を……」


「いや! 湖南にはまだ兵がいる。簡単には屈せぬ!」


 老臣たちは降伏を唱え、若い将軍たちは牙をむいた。保権は悩んだ末、父のように力で守る道を選んだ。自ら軍を率い、宋と戦うことを決意する。


 だが——その戦いは、あまりにもあっけなかった。


 宋軍は整然と進軍し、湖南軍は崩れ、逃げ、やがて敗走した。保権自身も捕らえられ、最後には、宋の将の前にひざまずくこととなった。


 ◇


 開封の宮廷——


 燁華は、執務室でその報せを受けた。

「湖南が陥ちました」


「よし!」

 燁華は立ち上がり、拳にぐっと力を込める。

「周保権は――生きているな?」


「はい。ただいま護送中にございます」


「……それでいい」

 燁華は短く息をつき、静かに椅子へ腰を下ろした。張り詰めていた緊張が、わずかに解ける。


 続けて文官が口を開く。

「総司令官は湖南にとどまり、秩序の安定に努めております。副官は、主力を率いて荊南方面への進軍を開始いたしました」


 燁華は机に肘をつき、指先を組んだまましばし沈黙する。

「……あとは、荊南がこちらの思惑どおりに動くか、だな」


 事前に送り込んだ間諜たちが、すでに荊南国内の詳細な情報を報せてきていた。


 荊南はもとより軍備が脆弱で、周辺国に頭を下げることで延命を図ってきた小国である。だが、いまの王は酒色に溺れ、政に興味を持たず、住民は重税と腐敗にあえいでいるという。国の体を成していない。


 力で潰す必要はない。

 危うき楼閣は、押さずとも崩れる。


 だが、ただ倒すだけでは意味がない。

 無理な征服は、大義を失い、いずれ民の恨みを買うだけだ。


「犠牲を出すな。なるべく血を流すな。できるならば、彼ら自身の手で城門を開かせよ」


 地元の上層部に投降を促し、秩序はそのまま活かす。そのうえで、宋の統治に自然と移行させる。

 無理なく、しかし確実に。


 燁華は、慎重に策を重ねていた。


 ◇


 荊南(けいなん)の都・江陵(こうりょう)――


 この地は、かつて秦の時代に南郡の治所が置かれ、三国時代には軍略の要衝として幾度も争奪の舞台となった。兵家にとっては、まさに“必争の地”。


 その江陵の宮廷で、今まさに運命を左右する大議論が巻き起こっていた。


 荊南の国主、高継沖(こうけいちゅう)は、玉座からその光景を見下ろしていた。


 先帝――叔父が病没したのは、ちょうど昨年の冬。若干十九歳で即位してから、まだ半年にも満たない。


 若さゆえか、それとも気質か。彼は未だ政の重みに耐える器ではなく、多くの決裁を先帝からの重臣たちに任せ、自らは贅沢な日々に身を沈めていた。

 この日も、豪奢な衣をまとい、美女を侍らせ、重要な軍議の最中でさえ、玉盃(ぎょくはい)の酒に口をつけていた。


 議場では、その重臣たちが声を張り、激しく意見を戦わせている。


「宋軍は、湖南を併呑した。今や我が国のすぐ西まで迫っております。これは通過などという名目では済まぬ、次は我らだと見て間違いありません!」


 声を張ったのは、老練の武官だった。年老いた体に鞘を下げ、未だ戦場の気迫を漂わせる男だ。瞳には警戒と覚悟が宿っていた。


 だが、彼の言葉を遮るように、文官の一人が穏やかな声で反論する。


「宋軍司令は、湖南から従軍していた兵をすでに段階的に帰郷させております。街道沿いでの掠奪も示威(じい)もありません。これは明らかに、通過の意思を示すものでしょう。無用な対立を避け、友好をもって応じるべきです」


「それが罠であればどうする!?」と武官が吠える。


「罠でないと信じる根拠も、罠であると断じる証拠も、どちらも乏しいのです。ならば、民を戦火に巻き込まぬ道を選ぶべきでしょう」

 文官は怯まず言い放った。


 論がぶつかり合うたび、議場の空気は熱を増し、だが結論の出ぬままに膠着していた。


 そのとき、新たな報告が届けられる。


「陛下。宋の将軍が、主力の大半を解散させたとの報せが入りました」


 高継沖は、酒を口に含んだまま、ちらと使者を見た。

 やがて盃を空けると、ゆるりと顔を上げ、薄く笑った。


「……宋軍に、我らを討つ意志はない。これは“通過”だ。間違いない」


「殿下……!」


 武官がかすれた声で進言しようとしたが、高継沖はそっと片手を上げて制する。


 ちょうどそのとき、雲が陽を隠し、正殿(せいでん)は静かにかげり始めた。

 その薄闇のなか、誰もが――いや、少なくともひとり、確かに不安の予兆を感じ取っていた。



 ◇



 初夏の風が、高台の草をゆらしていた。


 その高台に立つ男――宋の将軍潘美(はんび)は、遠く荊南の都・江陵の城内を静かに見下ろしていた。視界の中で、荊南軍の兵たちがゆるやかに城門の内へ引き上げていく。


「殿。荊南より、牛と酒が届いております」


 背後から声をかけたのは副官だった。潘美は、わざとらしく眉を上げ、肩をすくめる。


「ほう……“宋の友軍”への歓待というわけか。ありがたく受け取ったと伝えよ。礼を尽くしてな」


 副官は将軍の表情から何かを察し、一礼してその場を離れる。


 潘美の唇が、わずかに釣り上がった。


「完全に、油断しておるな。宋が攻めてこないと、本気で思っている……」


 彼は出陣前に下された命令を思い出す。


 ――兵の半数を早い段階で帰還させよ。


 当初はその意図が読み取れなかった。だが今なら、はっきりと分かる。


 潘美はニヤリと笑うと、あえて少数精鋭の兵を率いて、江陵へ馬を走らせた。


 城門、役所、軍営。江陵の中枢は、荊南軍が隊列を整えるより早く、次々と彼の手に落ちていった。

 敵は油断しきっており、“友軍”を名乗る小部隊を、なんの抵抗もなく城内へ迎え入れてしまったのだ。


 異変に気づいたときには、すでに遅かった。


 玉座にいた高継沖が異常を察知したころには、江陵の城門は宋の旗を掲げ、要所という要所には、宋軍が静かに槍を構えていた。指揮を失った荊南の兵たちは、混乱のなかで武器を手放すしかなかった。


 その夜、都は沈黙に包まれたまま、宋に降った。


 潘美は、ろうそくの揺れる幕舎で戦略図を眺めながら、つぶやいた。


「無血開城……理想的な成果だ。――匡胤の慧眼には、恐れいるよ」


 ふっと肩を揺らし、潘美は満足げに笑った。




*――メモ――*

実際に出陣した将軍は李処耘(りしょてん)でした。

ここでは潘美(はんび)が出陣したことにしています。

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