9-4.湖南からの頼みごと
それから、姚玲璃は皇帝直属の書記官として、燁華のそばで執務を補佐するようになった。
玲璃は、驚くほど仕事ができた。
燁華の指示を待つまでもなく、次に必要になる資料を用意していたり、周囲との段取りを済ませていたり――まるで、思考を先読みされているかのようだった。
燁華でなくても対応できる業務は、気配を察してすっと引き取ってくれる。
そのおかげで燁華自身は、より大局的な判断や、他国の要人・有力官吏との会談に時間を割くことができるようになった。
心配していた趙普との関係についても、すぐに誤解は晴れた。
何よりも――玲璃のふるまいが、すべてを物語っていた。
燁華と目が合うだけで、彼女は慌てて目を逸らし、耳まで赤く染める。
書類を手渡すとき、指先がふと触れるだけで、まるで火でも触れたかのように、玲璃は顔を伏せ、息を詰めて部屋を飛び出していってしまう。
まるで、少女のようだった。
◇
ある日の午後。
燁華と玲璃は、執務室に二人だけで、並んで書類の確認をしていた。
静かな時間が流れるなか、ふいに玲璃が声を落とした。
「陛下……ひとつ、お尋ねしてもよろしいですか?」
「なんだ」
燁華は書類から目を離さず、茶を一口すすると同時に、玲璃が放ったひと言が耳に飛び込んできた。
「……陛下って、女性ですよね?」
「ぶっ――!?」
思わず口に含んでいた茶を吹き出してしまい、机の上に小さな水滴が飛んだ。
燁華は胸元を押さえ、手元の布巾で飛んだ水滴をぬぐう。
「……な、なんでそう思った」
玲璃は申し訳なさそうに肩をすぼめつつも、目だけは真剣だった。
「私、家族の仕事の関係で、昔から花街によく出入りしていたんです。その……女性特有の香りとか、雰囲気とか、そういうのわかっちゃうんです。陛下からは、“女性の匂い”がします」
「……そ、そうか」
燁華は戸惑いながらも、なんとか態度を崩さぬよう努めた。
「で? 私が“女”だったら、どうするつもりだ」
すると玲璃は、頬をほんのり赤らめながら、はっきりと言った。
「どうもしません。陛下は陛下ですもの。私の、陛下への気持ちは変わりませんわ」
その一言に、燁華は思わずため息をついた。
「はあ……いろんな意味で、あなたの期待には応えられそうにないんだが」
玲璃は小さく笑って首を振る。
「もちろんです。陛下には、趙普様がいらっしゃいますもの。私なんかが入り込める余地は、ありませんわ」
言葉には少しだけ切なさが混じっていたが、それよりも大きかったのは――笑顔だった。
「それに、安心してください。この秘密は、私が墓まで持っていきます。こんな大事なこと、誰にも言ったりしませんから」
とびきり誇らしげな顔で、玲璃は胸を張ってみせた。
燁華は黙ったまま、その表情をじっと見つめる。
――不思議な気持ちだった。
秘密を知られてしまったのに、不安はなかった。
むしろ、こうして一回りも年の離れた少女に向き合っていると、胸の奥にこびりついていた重さが、ふっとほどけていくような気がした。
◇
定時の報告を終え、執務室に二人しかいないことを確認すると、
趙普と燁華は窓際の椅子に並んで腰を下ろした。
趙普は、何気ない口調で尋ねる。
「どうだ、姚玲璃は」
燁華は窓の外で練兵を終える武官たちを見遣りながら、口元をゆるめた。
「……期待以上に働いてくれているよ。おかげで、ずいぶん助かってる」
「よかった」
趙普は短く頷いて、どこか満足そうに目を細める。
だが次の瞬間、燁華がぽつりと漏らした言葉に、彼の動きが止まった。
「女だということに、気づかれた」
趙普は眉をひそめたが、すぐに肩の力を抜く。
「そうか。でも……彼女は大丈夫だ。口の堅さは俺が保証する」
「“女でも好きです”なんて言われて……どう返していいのか、正直困った」
燁華がぼやくように言うと、趙普は堪えきれずに吹き出した。
「はははっ」
そして、茶目っ気たっぷりにこう言い放つ。
「あなたが一人で二人を相手できるなら、俺は三人でしてもいいけどな」
ニヤニヤしながら、こちらを見ている。
「は……!? なに言ってるんだ……!」
突然の暴投に、燁華は声を上げ、頬を真っ赤に染めた。
趙普はますます楽しそうに笑いながら、肩をすくめる。
「……いつも俺の相手だけでいっぱいいっぱいだもんな」
「~~っ!」
燁華はムッとして立ち上がり、腕を組んで窓辺に寄りかかった。
その反応に、趙普は何も言わず、ただ静かに笑っていた。
窓の外では夕陽が穏やかに地平線に差しかかり、片づけをしていた武官たちも見えなくなる。
「それより……湖南の楚から、援軍要請が届いた」
趙普が顔を上げる。
「新しい統治者――周保権だ。臣下が反乱を起こしたので、助けてほしいと」
趙普は腕を組み、しばし思案するように黙った。やがて、低く呟く。
「ふむ……これは、好機かもしれないな。そのまま派兵して、状況を見て制圧まで視野に入れるか?」
「私も、同じことを考えていた」
燁華は静かに頷く。
窓の外では、仕事を終えた官吏たちが帰宅していく。
「援軍という名目なら、大軍を送っても警戒されにくい」
「ただし、途中で荊南を通る必要があるな」
「……ああ。荊南の様子を探らせるために、すでに使者を出してある」
さらりと語る燁華に、趙普は思わず感嘆の声を漏らした。
「さすがだな、燁華。行動が早い」
だが、燁華は少し眉をひそめ、目を伏せた。
「これは戦になるかもしれない話だ。軍を動かせば、人が死ぬ。敵であれ味方であれ、できるだけ傷つけたくないんだ」
その声には、静かだが揺るぎない意志が込められていた。
趙普は、しばらく黙って燁華の横顔を見つめる。
そして、ゆるやかに微笑んだ。
国の頂点に立ちながらも、決して人の命を軽んじない。
歴代の皇帝たちを見てきたからこそ、それがいかに難しいことかを、彼は知っていた。
燁華は、ただ優しいのではない。
己を律し、私情を排し、理想を貫いてきた――その積み重ねの上に、今の彼女がある。
そんな彼女を、趙普は心から――愛おしく思っていた。
窓の外はすっかり暮れ、室内の蝋燭がやわらかな光でふたりを包んでいた。




