9-3.疑心と、たった一つの証明
燁華は執務机の前に腰かけたまま、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
胸の奥に、名のつけようのない感情が溜まっている。
ここ三日続けて、趙普からの書類を届けにきたのは、あの文官――姚玲璃だった。
彼女が確認したという書類は、どれも驚くほど整っていて、誤りもない。
だが、燁華が気にしているのは内容ではなかった。
なぜだ。
これまで趙普自身が直接持参していたのに、急に姿を見せなくなった。そしてその代わりに、あの新人が通うようになった。
あの日、廊下でふたりは――なぜ見つめ合っていたのか。
考えれば考えるほど、心の中に黒いもやが広がっていく。
まるで答えのない沼に、足元から沈んでいくようだった。
「……はあっ」
小さく息を吐き、机の上に置かれた石駒を指先ではじく。
その瞬間、扉を叩く音が響いた。
「入れ」
燁華がそう答えると、扉が開き、趙普が姿を現した。
手にしていたのは、昇進候補者のリストだった。
黙ってそれを受け取り、目を走らせていく燁華。
だが、ある名前の行で手が止まる。
――姚玲璃。
「新人を、そう簡単に昇進させるのはどうかと思うが」
淡々とした口調に、微かなトゲが混じる。
「は……しかし、姚玲璃は実に優秀で、すぐに陛下のお役に立てるかと」
“新人”としか言っていないのに、即座に玲璃の名を挙げてきた。
燁華は無意識のうちに眉をひそめる。
胸の奥で、得体の知れない感情がじわりと膨れあがった。
「……他の者は認める。だが、そいつは却下だ」
そう言い放つと、リストを乱暴に押し戻した。
バサリと落ちた書類を拾い、趙普は部屋を出ていった。
◇
翌日。
またしても趙普が執務室にやって来た。
手には、昨日と同じような昇進の嘆願書を抱えて。
「姚玲璃を――どうか、昇進させていただきたい」
その言葉に、燁華はこめかみをぴくりと震わせた。
喉元まで込み上げる苛立ちを、なんとか飲み込もうとしたが、限界だった。
「新人が……!」
言いかけたところで、趙普が一歩前に出た。
真っ直ぐに燁華を見据えるその瞳に、わずかも揺らぎはなかった。
「姚玲璃は、右腕になれる器です。今の陛下には、信頼して任せられる人間が必要です。あなたは、なんでも一人で抱えこもうとしてしまう。私は……それが心配です」
その言葉が、胸の奥に鋭く突き刺さった。
だが――
「姚玲璃を昇進させたいのは、そのためだけか!?」
声が、はっきりと怒気を含んだ。
「私が、自分の仕事もろくにこなせないと思っているのか? 余計なお世話だ!」
そして燁華は、手にした嘆願書を勢いよく破り捨てた。
紙片が音を立てて宙を舞い、床へと落ちる。
一瞬の静寂。
趙普の表情には、怒りでも戸惑いでもない、何か別の色が浮かんでいた。
しかし彼はそれを口に出すことなく、バラバラになった嘆願書をかき集めると、スッと部屋を出ていった。
◇
午後、燁華はふらりと文官たちの執務室に姿を見せた。
足取りは普段通り、けれど胸の内では、答えの出ない想いがずっとくすぶっている。
姚玲璃――
確かに、あの文官は優秀だ。間違いなく将来性もある。
権限を与え、仕事を任せれば、きっと誰よりも伸びていくだろう。
……だが。
どこか、自分の中にひっかかりがある。
それが何なのか、うまく言葉にはできなかった。ただ、どうしても、心のどこかが許そうとしなかった。
部屋の隅で帳簿をめくっていた韓珪を見つけると、燁華は声をかけた。
「韓珪、ちょっと来い」
人気のない廊下に連れ出し、低い声で問いかける。
「姚玲璃の仕事ぶりはどうだ」
韓珪は一拍置き、わざとらしく空を見上げてからニヤリと笑った。
「完璧よ〜。事務能力は言うことなし、交渉もお手のもの。さすが大商家の娘ちゃんだけあるわね。相手の思考を読んで先回りして動けるし、頭の回転も速いの。ちゃんと育てれば……宰相候補になるかもね」
「……そうか」
韓珪の言葉は、燁華の評価とズレるところはなかった。いや、燁華に見えていた以上に、姚玲璃は優秀らしい。
だが――
韓珪は声をひそめ、少しだけ真面目な表情で続けた。
「ただね、陛下。私、別の意味で玲璃ちゃんには気をつけた方がいいと思うの」
燁華はその言葉にぴたりと動きを止め、韓珪に目を向ける。
韓珪はその視線に気づきながらも、ひそひそ声で話した。
「……趙普と、仲が良すぎるのよ。よくふたりで密室で話してるの。しかも、けっこう長い時間……」
ズキン、と何かが胸に突き刺さった。
燁華の心臓が跳ね上がる。喉の奥が苦しくなり、顔から血の気が引いていくのがわかる。
「……ありがとう」
絞り出すようにそう言うと、燁華は韓珪の肩に軽く手を置き、ふらりと踵を返した。
その足取りはまっすぐなようで、どこか不安定だった。
去っていく背中を見つめながら、韓珪はぽつりと呟いた。
「……あら。ちょっと余計なこと、言っちゃったかしらね」
韓珪の視線には、旧友への静かな気遣いが滲んでいた。
◇
夜――
燁華はひとり、寝台に身を横たえていた。
この一週間、趙普は遅くまで執務に追われていた。
それが本当に「仕事」なのかは、もう確かめる勇気もなかった。
けれど、どこかで信じたくて。
まぶたが閉じかけるのを何度もこらえながら、今日も燁華は彼の帰りを待っていた。
――姚玲璃が優秀なことは、もう十分にわかっている。
それに異を唱えるつもりはない。むしろ、自分より冷静で、正確で、仕事もできるのかもしれない。
それに――美人だ。
周囲の女性にはない華やかさと独特の魅力がある。
そんな彼女に心惹かれる男がいても、何の不思議もない。
でも。
「あの趙普が、女をつくった――?」
そう思った瞬間、胸の奥に、ひゅっと冷たい風が吹いた。
いや、自分にはそんなことをとがめる資格などないのかもしれない。
恋は理屈ではなく、ある日ふいにやってきて、誰かの心をさらっていく。
そして、すべてを変えてしまう。
だからこそ、余計に――苦しかった。
信じていた。
何も言わなくても、彼だけは自分を裏切らないと、どこかで信じていたのだ。
その彼が、今は、別の誰かの隣に立っているかもしれない。
その思いが胸を締めつける。涙がこぼれ、止めようとしても止まらなかった。
声を押し殺そうとするほどに、嗚咽は深くなる。
どれほどそうしていたのか、自分でもわからない。
気づけば、頬を涙で濡らしたまま、眠っていた。
その夜遅く、ようやく寝室に戻った趙普は、布団の中で静かに眠る燁華を見つけた。
「……今日も、話せなかったな」
落ちかけた掛け布団をそっと引き上げてやる。
ふと目を落とすと、燁華の頬には乾きかけた涙の跡が残っていた。
枕も少しだけ、しっとりと濡れている。
趙普はわずかに表情を曇らせた。
「……ごめん」
そう呟いて、そっと燁華の頬に触れた。
自分が思っている以上に、彼女は寂しかったのかもしれない。
そう思いながら、静かに隣へと身を沈めた。
◇
翌朝。
薄い帳越しに、やわらかな朝日が差し込んでいた。
涼やかな風が吹き抜け、鳥のさえずりが遠くで響く。
燁華は静かに目を開けた。
昨夜あれほど泣いたのに、心の奥には、不思議なほどの静けさがあった。
隣を見れば、趙普の姿はもうなかった。
顔を洗い、衣を整え、鏡の前に立つ。
自分の両頬をぴしゃりと叩いて、息を整える。
「……よし」
小さく、けれど芯がある声で気合を入れる。
澄んだ朝の光のように、気持ちもすっきりと晴れている。
燁華は、もう心を決めていた。
◇
文官の執務室。
書類に目を走らせていた趙普のもとへ、一人の文官が足早に近づいてくる。
一礼の後、少しだけ声をひそめる。
「顧問官、陛下がお呼びです。……私室のほうに、とのことです」
最後の一言は、ほとんど囁きのような声だった。
まわりに聞かれないようにという気遣いと、そこに含まれる“意味”を、彼なりに察していたのかもしれない。
「……わかった」
趙普は短く答えると、読みかけの書類を机に置いたまま、すぐに立ち上がった。
◇
紅蓮の間に、燁華はひとり静かに座っていた。
昼膳の支度を終えた下女は、すでに下がらせてある。
室内には、ぬるい風と、重たい沈黙だけが漂っていた。
しばらくして、扉の外から足音が近づく。
趙普が姿を現し、きちんと臣下の礼をとる。
「お呼びでしょうか、陛下」
「……ああ。今この場には、私たちしかいない。楽にしてくれ」
その言葉に趙普は軽く頷き、顔を上げる。
「姚玲璃の件だが――昇進を、認めることにした」
「そうか。それは良かった」
趙普は、ほっとしたように微笑んだ。
「彼女は、必ずあなたの助けになる」
その笑顔が、燁華の胸の奥にズキンと突き刺さる。
“力になる”、そう言った。
――つまり私は、もう力になれないということか?
若く、優秀で、血縁も残せる女をそばに置く。
それが当然だと、そう思っているのか?
燁華は黙ったまま、指先で机をコツコツと叩く。視線は窓の外。
怒りとも悲しみともつかない感情を、必死で押し込める。
(……落ち着け。許すと決めたじゃないか)
だが、思考は勝手に走っていく。
「おまえも、もう立派な高官だ。妾の一人や二人、かこっていてもおかしくはないだろう」
趙普は目を見開いた。
「――はっ!? なんのことだ? 」
その反応で即座に、彼は気づいた。
燁華の思考が、あらぬ方向に進んでいたことに。
燁華の胸の奥では、冷たい理性と熱い感情がぶつかり合っていた。
わかっている。
彼ほどの人間であれば、立場的にも年齢的にも、妾を持つことは珍しくない。
私のような年長で、公に子をもうけられない女との関係など、趙家の将来のためには何の意味もない。
それでも――。
それでも、どうしても。
燁華の気持ちは収まらなかった。
「妾を迎えることは許すが、その前に……」
燁華は低くそう言うと、鋭い視線を趙普に向けた。
ゆっくりと、獲物ににじり寄るように彼に歩み寄っていく。
「お、おい……何をする気だ」
趙普はたじろぎながら両手を上げ、なんとか制止しようとするが――
「一発、殴らせろ」
言うが早いか、燁華は彼の胸ぐらを掴み、足を引っかけて思い切り押し倒した。
「うわっ……!」
趙普は盛大にしりもちをつき、そのまま床に倒れ込む。
その上に、まるで馬乗りになるように燁華がのしかかった。
「ちょっ……!」
彼女が拳を振り上げた、その瞬間――
パサパサと、彼の上着から何かがこぼれ落ちた。数枚の絵が床に散らばる。
「あっ!」
趙普は慌てて手を伸ばすが、素早さでは燁華の方が一枚上手だった。
彼女はすばやく絵を拾い集め、一枚ずつ手に取って確認し始める。
「……これは……私か?」
目を細め、疑うように眺める。
そこには――
黄袍をまとって玉座に座る燁華。
馬にまたがり剣を掲げる燁華。
紅梅の下で、女性らしい装いで微笑む燁華。
さまざまな姿の「彼女」が、繊細な筆致で描かれていた。
「はい、あなたです」
趙普は観念したように、素直に答える。
「な……なんでこんなものを……!」
燁華は顔を真っ赤にし、思わず絵を抱えるようにして震えた。
「姚玲璃が描いたんだ。あまりに上手だったから……つい、分けてもらって」
「……はぁ!? じゃあ“密会”っていうのは、これのことだったのか?」
「そうだ。絵を描いてもらってただけ。あなたが想像していたようなことは、何一つない」
その言葉を聞いた燁華は、ますます恥ずかしくなり、絵をにぎりしめて思いきりうつむく。耳まで赤い。
「……すまん」
ぽつりと呟いた燁華に、趙普はそっと手を伸ばし、彼女の髪を撫でる。
「俺が愛するのは――生涯、あなただけだ」
その静かな言葉に、燁華はしばらく目を合わせられなかった。けれど次第に、そっと彼を見つめ返す。
胸の奥にあったわだかまりが、少しずつほどけていく。
「……嫉妬するあなたも、可愛いけどね」
趙普が悪戯っぽくそう言うと――
「……っ!」
燁華の平手が、容赦なく彼の頬を打った。
「いったっ!」
「……私の気持ちを弄ぶのはやめてくれ」
ふくれた顔のまま、燁華は絵を手に取る。
「これ、没収する」
その一言に、趙普の表情が一変する。
「だ、ダメだ!!」
慌てて絵を取り返そうとする彼と、恥ずかしいから嫌だと絵を離さない燁華。
ひとしきり揉めたあと――
「じゃあ、趙普の絵も描いてもらう!」
「くそっ……しょうがない」
そう言い合い、ようやくふたりは折り合った。
*−メモ−*
五朝名臣言行録〜趙普の項には下記のような記述があります。
「麗しの新人文官」は下記の記述にヒントを得たお話です。
(現代語訳)
ある日、趙普はある人を任用したく上奏を行った。
太祖(趙匡胤)は許可しなかった。
翌日また同じ上奏を行った。
太祖はまた却下した。
さらに翌日、また同じ上奏を行った。
太祖はついに怒りその上奏文を引き裂いて投げ捨てた。
趙普は顔色一つ変えず、おもむろに上奏文をを拾い、帰宅してからそれを補修して翌日またそれを上奏した。
太祖は悟ってその人を任用すると適職であった。




