9-1.雪の降る夜に *
紅蓮の間には、薪のはぜる音だけが響いていた。趙普は机に向かい、静かに筆を走らせながら、思案を重ねていた。
これからの国の仕組みをどう整えるか——。もう二度と反乱が起きぬよう、あらゆる権力を最終的に皇帝・燁華へと集中させねばならない。だが、ただ一つにまとめればよいという話でもない。宰相が力を持ちすぎれば、それもまた危うい。そこで、宰相の権限を分散し、互いに牽制し合うよう仕組んでおくのがよいだろう。
「……軍事権は、枢密顧問官に預ける……これで、皇帝の命なしには兵が動かぬ。うん、それでいい……」
そうつぶやきながら、趙普は一人、満足げに頷いた。
だが、ふと顔を上げると、部屋は静まり返ったままだった。思いのほか、皆の到着が遅れている。窓際に立って外を覗くと、降り積もる雪に目を奪われた。
「……こりゃ、今夜はかなり積もるな」
吐く息が白く曇る。しばしその景色に見入っていたが、突然、扉の向こうでコツン、と何かが当たる音がした。趙普はすぐさま音の方へ向かい、扉を開けた。
「うわっ……!」
開いた先に立っていたのは、雪にまみれた燁華だった。髪にも肩にも、白い雪が積もっている。唇はわずかに紫がかり、鼻をすすっている。
「燁華! どうしたんだ、こんな雪の中……!」
震えながら、燁華は手に持った袋を差し出した。
「……うまい肉が食べたくて、ちょっと買いに出たら……降ってきて……」
冷えきった肉の包みを、遠慮もなく趙普の手に押しつけると、燁華は雪を滴らせたまま部屋の中へ入ってきた。
「だ、大丈夫か? 風呂、先に入ってくるか?」
「うん、大丈夫……へくしっ!」
盛大なくしゃみが響く。趙普は思わず眉をひそめた。
「翠琴と懐徳も、もうすぐ来るって言ってたし……」
そう言いながら、燁華は濡れた上着を脱ぎ、女性用の衣服に着替える。趙普は慌てて自分の着ていた上着を脱ぎ、着替えが終わった燁華の肩にそっとかけた。
「これ着てろ。風邪ひくぞ」
「ありがとう」
そして、受け取った肉を火盆の上に置き、火の加減を見ながら温め直し始めた。赤く灯る炭火に肉がじわじわとあぶられ、やがて香ばしい匂いが部屋に漂い始める。
ほどなくして、翠琴と懐徳が紅蓮の間に姿を現した。彼らは執務を終え、皇宮から直接やってきた。扉を開けた翠琴が、入るなり鼻をクンクンさせた。
「こんばんは〜。……あっ、いい匂い!」
その声に、趙普が笑いながら手元の串を振った。
「ちょうど良いタイミングだ。焼けたところだぞ。——なんと、こんな天気なのに、燁華がわざわざ買いに行った肉だ」
燁華は気まずそうに咳払いをひとつして、差し出された串をを受け取った。そして、勢いよく一口頬張る。
「うまっ!」
その声に翠琴の目がぱっと輝いた。
「あ、それって……肉林軒の羊串じゃない! 私にも、ね?」
手を差し出す翠琴に、趙普は苦笑しながら2本の串を手渡す。
「はいはい、どうぞ」
翠琴は受け取ったうちの一本を、懐徳の手に渡す。
「私、この串大好き!」
四人は卓を囲んで、あたたかい肉を頬張った。雪の夜に立ち上る串焼きの香ばしい匂いが、心まであたためてくれるようだった。
串を一本平らげたところで、燁華がふと真剣な表情になり、口を開いた。
「なあ趙普。国内の脅威がひとまず落ち着いてきたし……そろそろ国外にも目を向けたいと思ってる。やっぱり、北漢からおさえるべきだよな?」
その言葉に、趙普は口にしかけた串をゆっくりと下ろし、まっすぐ燁華を見た。
「……俺は、そうは思わんよ」
周囲の空気が、すっと引き締まる。
「北漢を攻め落とせば、その北にいる遼と直接国境を接することになる。防衛線が伸びて、かえってこちらの負担が増えるだけだ。下手をすれば、望まぬ戦を招くことにもなりかねない」
その言葉に、翠琴も懐徳も、黙って頷いた。
「それよりもまずは南だ。まだ平定されていない小さな国を先におさえて、国力をじっくり蓄えるべきだ。そうすれば、北漢なんて小さな領土は、いずれ逃げ場もなくなる」
そう言って趙普は、卓の上の地図を指さし、南に位置する石をひとつずつ転がしながら説明を重ね、最後に北漢の位置に串を突き立てた。
「……ふっ、はははは!」
燁華が声を上げて笑い出した。天井に届くほどの朗らかな笑いに、火の揺らぎが呼応するように揺れた。
「私も、まったく同じ考えだったよ」
ニヤリと笑って、燁華は趙普を見た。
「……人を試すなんて、悪い皇帝だな」
趙普は言いながら、二本目の串を手に取り、一つを燁華に、そして翠琴と懐徳に一本ずつ配った。
「……すまん。だが、お前を信じてこその確認だ」
燁華はくすぐったそうに笑いながら、新しい串にかぶりついた。
翠琴が、口の端を拭いながら訊いた。
「じゃあ、最初に狙うのは、どこ?」
趙普は地図の上に手を滑らせながら、即答した。
「荊南だ。ここを取れば、十国の連携を断ち切れる。まさに分断の要になる」
懐徳もそれにうなずく。
「あそこは兵も少ない。懐柔策も使えるかもしれない」
「戦わずして屈服させられる可能性がある、というわけだな」
燁華の声に、翠琴が口をもぐもぐさせながら言う。
「ふうん。それができたら、一番いいわね」
「問題は、それをどう実現するか、だな……それに、他の地域の平定も順番を誤れば、思わぬところで足元をすくわれるかもしれない……」
燁華は串を片手に地図を見つめたまま、眉間にしわを寄せてつぶやき始めた。
こうなると、しばらくは一人の世界に入ってしまう。
趙普がそっと翠琴に目配せを送ると、翠琴は小さく頷いた。すぐに懐徳の腕に自分の腕を絡ませて、軽やかに言う。
「……いきましょ」
懐徳が目を瞬かせる間に、翠琴は彼を立たせる。趙普はさっと火盆の横にあった残りの串と酒瓶を懐徳に押し付けた。
「いい夜を」
懐徳が何か言いかける前に、趙普は軽く手を振り、二人を扉の向こうへ送り出した。
◇
どれほど時間が経っただろうか。
燁華がふと顔を上げると、室内は驚くほど静かだった。翠琴と懐徳の姿はすでにない。火盆の中で炭がパチパチと小さく弾け、部屋の空気にわずかな炭の香りを漂わせていた。
静けさに包まれた空間で、燁華はぽつんと座っていた。
ふと、背中に広くてあたたかいものが触れた。振り返るより早く、そのぬくもりが肩越しに降りてきた。
「……ここにいるよ」
落ち着いた声が耳に届くと同時に、両腕をそっと抱きとめられる。彼の温もりに、心がほっと安らいでいく。
「……荊南の次は、どこを攻めるつもりなんだ」
趙普がすぐ耳元でつぶやく。
「次は、後蜀かな。後蜀の豊かな物資は、魅力的だ」
「そうだな、四川盆地は肥沃で実りが多い」
そう言いながら、趙普の指がゆっくりと胸元に触れてくる。
「……ひゃっ……!」
思わず声が漏れる。燁華は肩をこわばらせるが、趙普は気にする様子もなく、低く甘い声で続けた。
「どうした。続けてくれよ、皇帝陛下」
その声音に背中がぞくりと震え、思わず息が詰まる。意識的に呼吸を整えながら、燁華は言葉をつなげた。
「……南で一番の勢力は……南唐だ。あそこを従えられれば、中華統一はぐっと近づく」
「南唐は文化的にも栄えているから、ぜひモノにしたいな」
趙普の唇が、首筋をそっと吸った。そこからじわじわと熱が広がり、内側の芯に火が灯るような感覚が走る。
「……あとは……南漢と……呉越が……」
震える声の合間にも、趙普の手は一度も離れなかった。指先が、燁華の形をなぞるように、ゆっくりと肌の上を滑っていく。思考はかすみ、身体は恍惚にほどけていった。
「……もう……やめて……」
燁華がかすれた声でそう告げた瞬間、趙普の手がすっと離れた。重なり合っていたぬくもりがふっと消え、ぽっかり空いた空気のなかに、ただ一人、置き去りにされた。
「やめていいの? いいところだったのに」
ふざけたような口ぶりに、燁華はキッと睨むように顔を上げたが、すぐに視線を逸らして顔を伏せた。
「……ここじゃ、いやだ」
その一言を聞いた趙普の顔に、いたずらを成功させた子どものような笑みが浮かぶ。
——はあ、なんで私は、いつもこうして流されてしまうんだろう。
燁華は心の中でぼやきながらも、抗えない自分を知っていた。
火盆の炎がゆらゆらと揺れ、赤く差す灯りが部屋の空気を染めていく。外の雪はますます音もなく降り積もっていった。
*−メモ−*
このお話は太祖雪夜訪普という、中国の歴史に登場する有名なお話……をもとにしたフィクションです。
先南後北策とは、中国・北宋初期に趙匡胤(宋の太祖)と宰相の趙普らによって採用された全国統一の軍事・政治戦略です。この戦略は「先易後難」とも呼ばれ、戦略的な合理性を重視した方針です。




