6-5.始まりを告げる、静かな朝
二月の陳橋駅は、ひやりとした空気に包まれている。
昨夜の喧騒が嘘のように静まり返った一帯には、かがり火の残り香と湿った土の匂いがわずかに漂っていた。
黄袍を肩に掛けられたのは、つい先ほどのことだ。
あまりにも唐突に、あまりにも静かに──
燁華は、誰もいない広場の中央に立っていた。
肌に残る冷気が、己の立場を思い知らせる。
「……これが、始まりなのだな」
自分に言い聞かせるように、ぽつりと呟いたその時。
衣擦れの音とともに、足音が近づく。
「お姉さま、そんなに眉間に皺を寄せては、美しい顔が台無しですよ?」
翡翠のかんざしを揺らしながら現れたのは、翠琴だった。
夜明けの光を受けるように、相変わらず穏やかな微笑を浮かべている。
「……お前は相変わらず気楽だな」
燁華は、朝焼けの空を見上げたまま言った。
「ええ、気楽でいられるのは、お姉さまがいるからです」
翠琴はそっと、燁華の腕に触れた。
その温もりが、震える指先にじんわりと染み込んでいく。
「明日には、全てが変わるかもしれないのに?」
その言葉に、妹は一瞬だけ目を伏せた。しかしすぐに、いつものように明るく微笑んだ。
「そうですね。でも変わるのは世界で、私たちではありません」
声は静かでありながら、芯の強さを秘めていた。
その響きに、燁華の胸が少しだけ、軽くなる。
「お前は、まるで全てを見てきたかのようだな」
燁華がつぶやくと、妹は楽しげに微笑んだ。
「だって私の中には、何千人もの思いと記憶があるんですもの」
翠琴は言いながら、そっと姉の手を握る。
朱が差し始めた空に、かがり火の煙が溶けていく。
その朝、彼女は皇帝となった。
それは新たな時代の始まりであり、
姉妹にとって、心に深く刻まれる静かな朝だった。
──第一部、完。




