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5-5.高平(こうへい)の戦い──絶体絶命の中で **

 ──北漢(ほくかん)軍、侵攻。


 それは、まだ新しい後周(こうしゅう)にとって最大の試練だった。


 重臣たちに啖呵を切って親征を決めた柴栄(さいえい)は、進軍の途上、緻密に戦略を練った。自身は中軍の中央に陣を張り、燁華(ようか)趙匡胤(ちょうきょういん))を左翼、高懐徳(こうかいとく)を右翼に配置。そして後方からは禁軍が遅れて到着する段取りとなっていた。


 春風に揺れる草原、巴公原(はこうげん)


 三月、ここに後周軍と北漢軍が、ついに対峙する。


 ドドドドド!


 馬蹄が大地を震わせ、両軍の距離が縮まっていく。燁華は手綱を握る手に汗を感じながら、眼前に広がる敵軍を見据えた。


「構えろ!」


 燁華の号令に、左翼の兵士たちが槍を構える。鉄の穂先が朝日に煌めき、殺気立った空気が戦場を支配した。



 開戦の狼煙が上がった、その直後──


「うわあああああ!」


 右翼から響いた、悪夢のような悲鳴。


 老将が、戦闘を前に完全に恐怖に支配され、隊列を崩壊させていた。


「退けぇぇえ! 敵が来るぞ!」


 ガシャン!ガシャン!


 武器を投げ捨てて逃げ惑う兵士たち。その音が金属の雨のように戦場に響く。


「おい! 待て!」


 燁華の血が逆流した。右翼の三分の一が、戦わずして崩壊している。


 ズザザザザ!


 雪崩のような敗走が始まる。土煙が舞い上がり、戦場が混沌に包まれた。


「くそっ!」


 左翼を見ると、あちらでも動揺が広がっている。恐怖が伝染病のように兵士たちを襲い、隊列がグラグラと揺れ始めた。


 まずい。このままだと全軍が崩壊する。

 燁華の脳裏に、最悪の結末が浮かんだ。



 ◇

 

「皆のもの、聞け!」


 燁華が剣を抜き放った瞬間、刀身が太陽光を反射してまばゆい閃光を放った。


「──逃げる者の足を斬る!!」


 その声は、雷鳴のように戦場に響き渡った。


 兵士たちの動きが、一瞬で凍りついた。


 ヒュン!


 燁華の剣気が空気を裂く音。逃げかけていた兵士の足元に、剣先が一閃した。


 ザシュッ!


 地面に深々と刺さる刀身。あと数寸ずれていれば、兵士の足首を斬り落としていただろう。


「ひっ!」


 兵士が青ざめて立ち止まる。


「次は外さん!」


 燁華の眼光が、逃げ惑う兵士たちを射貫いた。殺気が渦巻き、空気そのものが重くなる。


 ゴクリ…


 兵士たちが生唾を飲む音が聞こえる。


「槍を取れ! 隊列を組み直せ!」


 燁華の命令に、震える手で兵士たちが武器を拾い上げた。恐怖はまだ残っているが、燁華への畏怖がそれを上回っている。


「よし!」


 何とか左翼の隊列を立て直したが、それでも全軍は崩壊寸前だった。


 北漢の皇帝・劉崇(りゅうそう)は、後周軍の混乱を見て高笑いした。


「ハハハハ! 後周の軍勢など、この程度か!」


 勝利を確信した劉崇は、重大な判断ミスを犯す。


「遼軍には帰還を命じよ。我が軍だけで十分だ!」


「陛下、大丈夫でしょうか……」


「黙れ! 後周軍は既に瓦解している。金のかかる援軍は返してやれ!」


 劉崇の傲慢な命令により、遼軍が戦場から撤退していく。


 しかし、この判断が後に命取りとなることを、劉崇はまだ知らない。



 ◇



 中軍で、柴栄は冷静に戦況を分析していた。北漢軍の気配が変わった。その空気を読み取り、彼の眼光は鋭さを増していく。


「陛下、援軍を待つべきでは…」


 重臣の進言を、柴栄は手で制した。


「いや、今こそ攻めどきだ」


 柴栄の声に、確固たる意志が込められていた。


「逃走した兵は士気の低い老兵ばかり。膿を出し切った今の我が軍の方が強い」


 柴栄は矛を高々と掲げた。


 キラリ!


 矛先が陽光に煌めく。


「──余に続け!」


 おおおおおっっっ!!!!


 中軍から雷鳴のような雄叫びが上がった。


 ドドドドドド!


 柴栄を先頭に、中軍が一気に前進を開始する。馬蹄が大地を蹴り、土煙が舞い上がった。


 ヒュンヒュンヒュン!


 空を覆うほどの矢が、雨のように降り注いだ。


「盾を上げろ!」


 ガンガンガン!


 盾に矢が突き刺さる音が連続して響く。


「うわあああ!」


 盾の隙間を縫って飛んできた矢が、兵士の肩を貫いた。血しぶきが飛び散る。


「前進! 前進だ!」


 柴栄は矢の雨をものともせず、愛馬を駆った。


 ザシュッ!


 一本の矢が柴栄の上腕を掠める。鮮血が飛び散ったが、柴栄は馬を止めない。


「陛下!」


 兵士たちの心配の声に、柴栄は力強く応えた。


「構わん! 進め!」



 ◇



 左翼は、燁華が柴栄の勇姿に心を打たれていた。


「──我らも続くぞ!!」


 剣を抜き放ち、馬を蹴る。


 ドドドドド!


 左翼が一丸となって突撃を開始した。


「うおおおお!」


 兵士たちの士気が一気に高まる。燁華の勇気が、軍全体に波及していた。


 ガキン!ガキン!


 敵兵との白兵戦が始まる。剣と剣がぶつかり合い、火花を散らした。


 ズバッ!


 燁華の剣が、敵兵の胸を深々と貫く。


「ぐあっ!」


 血を吐いて倒れる北漢兵。


 ザシュッ!ザシュッ!


 燁華は次々と敵を斬り倒していく。血飛沫が宙を舞い、戦場が地獄と化した。



 ◇



 右翼では、懐徳が一人で数十人の敵と戦っていた。


 老将らの敗走により兵数が激減していたが、懐徳の奮戦によって右翼は辛うじて機能していた。


「そこだ! 後周の将軍を討ち取れ!」


 北漢兵が群がってくる。


 ヒュン!


 懐徳の剣が唸りを上げて振り下ろされる。


 ズバッ!


 最初の敵兵の首が宙に舞った。


 ザシュッ!


 二人目の胸を貫く。


 バキッ!


 三人目の腕を切り落とす。


「ぐわああああ!」


 敵兵たちの悲鳴が響く中、懐徳は冷静だった。


 ──翠琴、俺は必ず帰る。


 妻の顔を思い浮かべながら、懐徳は次の敵に向き直った。


 シュッ!


 背後から迫った敵の攻撃を、振り返りざまに払い除ける。


 ザシュッ!


 反撃の一閃が、敵の脇腹を裂いた。



 ◇



「後周の皇帝がいるぞ! 討ち取れ!」


 中央で、柴栄に敵兵が群がり始めた。


 矛で必死に敵の攻撃を受け流すが、数が多すぎる。


 ザシュッ!


 脇腹に敵の剣が掠め、血が滲んだ。


「陛下!」


 護衛の兵士が駆け寄ろうとするが──


 ドスッ!


 北漢兵の槍が護衛の胸を貫いた。


「ぐあっ!」


 血を吐いて倒れる護衛兵。


 柴栄は完全に孤立していた。



「──柴栄様が危ない!」


 燁華は血相を変えて叫んだ。

 と同時に馬首を中軍に向けると、敵陣に突っ込んでいく。


 同じ瞬間、右翼からも懐徳が馬を駆っていた。


「兄さん!」


「燁華!」


 二人の視線が戦場で交錯する。


 ──今、守らなければ。


 左から燁華、右から懐徳。


 ザシュッ!ザシュッ!


 群がる敵を切り伏せながら、二人は柴栄の元へ向かった。


「邪魔だ!」


 燁華の剣が敵兵の首を跳ね飛ばす。


「どけぇ!」


 懐徳の剣が敵の胸を貫く。


 北漢兵の海を切り抜けると、ついに柴栄の姿が見えた。


 二人の馬が、柴栄の左右にぴたりと並ぶ。




「柴栄様、ご無事ですか!」


 息も絶え絶えに問う燁華。


「ああ、大丈夫だ」


 柴栄の上腕には複数の矢が刺さり、血が滲んでいる。


 ……ッ!!


 燁華の心臓が跳ね上がった。


「兄さん、柴栄様を守りきってくれ!!」


「無論だ」


 懐徳の冷静な返答。


「ここに敵の大将がいるぞ! 討ち取れぇ!!」


 次から次へと押し寄せる北漢兵。


 ヒュッ!


 燁華が馬上から弓を引き絞り、矢を放つ。


 ズドッ!


 矢が敵将の喉元を正確に貫いた。


「ぐぼっ!」


 血を噴き出して倒れる敵将。


 ザシュッ!


 懐徳の剣が血飛沫を散らしながら、別の敵兵を切り伏せる。


 ドスッ!ザシュッ!


 二人の息の合った攻撃で、柴栄の周囲が一気に開かれた。


 その時──


 雲が晴れ、日の光が戦場全体を照らした。


 光に照らされた東の高地に、禁軍の旗が翻る。


「禁軍到着!」


「援軍だ!」


 後周軍から歓声が上がった。


 瞬く間に高地を制圧した禁軍の弓兵たちが、無言で矢をつがえる。


「引け──!!」


 将軍の合図で──


 ヒュンヒュンヒュンヒュン!


 禁軍弓兵が一斉に矢の雨を降らせた。


「うわああああ!」


「逃げろ!」


 北漢軍がなすすべもなく崩壊し、兵らは背中を見せて逃げまどう。


 敗走する北漢軍の馬蹄音が、遠ざかっていく。


 後周軍は、奇跡のように戦況を立て直したのだ。



 燁華は荒れた呼吸のまま、柴栄の背中を見つめた。


 ──柴栄様は、まだ倒れていない。


 安堵すると、一気に疲れが押し寄せてきた。


 ハァ……ハァ……ハァ……


 三人とも、息を切らしている。



 ◇



「クソッ! どういうことだ!」


 自軍の敗走を知った劉崇は激昂していた。


「兵は何をしている!?」


「敵の皇帝が先頭に立ち全軍を鼓舞し、そこに後続軍が──」


「ええい! 将軍はどこだ!?」


 劉崇は最後の望みを託して、将軍に突撃を命じた。


 しかし──


 ドスン!


 将軍の馬がつまずいて転倒し、そこを後周兵に討ち取られてしまった。


「将軍が討たれました!」


「もうだめだ!」


「逃げろ!」


 主将を失った北漢軍は完全に瓦解。


 劉崇自身も、わずかな騎兵と共に惨めに敗走していった。


 遼の軍勢は、ただ遠巻きにそれを眺めるのみだった。



 ◇



 勝った。


 退いていく北漢軍を見ながら、柴栄は静かに勝利を噛み締めた。


 ザクッ!


 血と泥にまみれた矛を地に突き立て、天を仰ぐ。


 ──郭威様の遺志は守られた。


 燁華も懐徳も、ぼろぼろになった身体でその姿を見守っていた。


「柴栄様を失わずに済んだ」──その事実だけが、今は救いだった。


 やがて、自軍から勝鬨の声が上がる。


「勝ったぞ!」


「後周の勝利だ!」


「万歳! 万歳!」


 戦場に歓声が響いた。



 ◇



 しばらくして、戦の序盤に逃げ出した老兵たちが、一人、また一人と戻ってきた。


 しかし、柴栄は彼らを許さなかった。


「全員、軍法会議にかける」


 厳しい声で全員に厳罰を言い渡す。


「陛下、お慈悲を…」


「黙れ。軍規を破った者に情けは無用だ」


 柴栄の鉄の意志に、誰も逆らえなかった。


 この一件以降、この軍で軍規を破る者は、二度と現れなかった。


 戦場に夕日が沈む中、後周軍は確固たる勝利を手にしていた。

 そして燁華は、柴栄という名君への忠誠を、心の奥深くに刻み込んでいた。


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