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1-3.白天の強奪

 昼下がりの洛陽(らくよう)。春の陽光が石畳にきらめき、街のあちこちから商人の声が響いていた。


 長身の青年が、肩をややすぼめて通りを歩いていく。粗末ではあるがきちんと整った服をまとっている。


「……まったく、わざわざ洛陽まで珊瑚を買いに行けだなんて。とんだ使いっ走りだ」


 ブツブツと文句を言いながらも、その足取りは決して重くなかった。

 彼は趙普(ちょうふ)――最近、下級官吏になったばかりだ。


 通りすがる若い娘たちが、その姿をちらちらと振り返り、ひそひそ声でささやき合っている。一人の娘と目が合うと、趙普はわずかに口元を緩め、にこりとほほえむ。


「きゃあっ……!」


 娘たちは顔を赤らめて笑い声をあげ、その場を小走りに去っていった。



 その頃、通りの一角の露店では、雲瑶(うんよう)燁華(ようか)翠琴(すいきん)の三人が品定めをしていた。


 今日の雲瑶は、どこかいつもと雰囲気が違っていた。薄水色の絹の装いに、揺れるかんざしをいくつも重ね、柔らかな化粧も施している。陽光を受け、姿全体がひときわ華やかだった。


「見てくださいお嬢様方、この珊瑚(さんご)のネックレスは絶品ですぞ! 地中海産の紅珊瑚(べにさんご)、シルクロードを越えて届いた逸品。数が少なく、滅多に手に入りません!」


 店主が声高にすすめる赤いネックレスを、翠琴は目を輝かせて見つめた。


「すてき……!」


 だが、雲瑶は隣の品に目を留めていた。目立たない位置にひっそりと置かれた珊瑚のブローチ――蓮の花をかたどった、繊細な細工の美しい逸品だ。


 手を伸ばしたその瞬間、別の手が同じブローチに触れた。


「……失礼」


 落ち着いた低い声が頭上から降りてきた。


 趙普だった。彼もまたそのブローチに心を引かれたらしい。


「どうぞ」


 雲瑶に一歩譲ると、静かに微笑む。


 雲瑶は軽く会釈を返し、手に取ったブローチを店主に見せた。


「このブローチ、いただけますか? 一点ものかしら?」


 店主は渋い顔で答える。


「ええ、それは一つしかないんですよ。あまり品質が良くないので、そちらより……」


 彼は再びネックレスを押し出そうとする。


「いえ、これで結構です」


 雲瑶がはっきりと告げると、店主はしぶしぶ金を受け取り、ブローチを差し出す。


 そのやりとりを見ていた翠琴が、不思議そうに首をかしげた。


「雲瑶姉さま、どうして店主さんのおすすめを買わなかったんですか?」


 雲瑶はにこりと微笑む。


「あれは粗悪品よ」


「ええっ!? そうなんですか?」


 思わず声を上げた翠琴の隣で、趙普も苦笑した。


「あの言い方。売るのに必死だ」


 気になった翠琴は、こっそり店主に近づき、袖の端をそっと触れた。


 ——“ちっ、質のいい方を買いやがって。儲けが減ってしまったじゃないか”


 翠琴は驚いたように口を開けたまま、燁華の方を見る。燁華も、翠琴の様子を見てすべてを察し、目を見開いた。


 少し離れた場所まで来ると、雲瑶は手にしたブローチを陽にかざし、二人に見せた。


「ほら、色が濃くて色ムラもないでしょ。こうやって光に当てると、内側から滲み出るような深い輝きが見えるわ。本物を見分けられるようにならないとね」


 二人に目をやり、ほほえむ。


「それに、相手に侮られないように、装いもふるまいも強くなきゃだめ。品を見る目と同じくらい、自分を見せる力も大事なの」


 趙普はうなずきながら、穏やかに言った。


「あなたが選んだそれは、間違いなく上等な品だ。……見事な目利きですね」


 雲瑶は少し照れたように微笑んだ。



 ◇



 その時、遠くから甲高い悲鳴が聞こえた。砂塵が舞う通りの向こうから、複数の馬の蹄音(ひづめ)が近づいてくる。その音に混じって、男たちの乾いた笑い声がこだました。


「まずい、契丹(きったん)のやつらです。隠れて!」


 趙普は低く鋭く告げると、三人を暗い路地へと押し込んだ。雲瑶は二人を腕の中に抱きしめ、かばう。


「金目のものはすべて出せ!」

「抵抗するやつは斬るぞ!」


 通りでは、民衆が悲鳴を上げながら逃げ惑っていた。


 やがて、契丹の騎馬兵の一人が、三人が潜む路地の前に差しかかった。蹄が石畳を叩くたびに、三人の体がびくりと震える。


 雲瑶は二人を強く抱きしめ、目を閉じて祈るように耐える。翠琴は姉の胸に顔を埋め、肩を小刻みに震わせた。燁華は歯を食いしばりながら、じっと気配をうかがった。


 パカ、パカ、パカ——

 近づいていた蹄の音が、しだいに遠ざかっていく。


 ……通り過ぎた。


 雲瑶はようやく息を吐き、胸に手を当ててそっとなで下ろした。


 ——が、その刹那。

 蹄の音が、ぴたりと止まる。


 後ろを振り返った騎馬兵は、目の端に、水色の絹の裾が風に揺れるのを捉えた。


 男の口元に、にやりと卑しげな笑みが浮かぶ。

 手綱を引いて馬を転回させると、路地の方へと引き返す。


「こんなところに隠れていやがったか」


 男は躊躇なく雲瑶の腕をつかみ、路地から引きずり出した。その拍子に、姉妹も路地から通りに転がり出る。

 姉妹は道の隅で抱き合い、震えながら契丹の男と雲瑶を見つめる。


「上等だな。どこぞの金持ちの娘か? 耶律堯骨(やりつぎょうこつ)様に献上すれば、さぞ喜ばれるだろうよ」


 男が手首をぐいと引っ張ると、雲瑶は一瞬顔をしかめた。しかし、すぐにキッとにらみ返す。


「私を誰だと思っているの? すぐに将軍である父が駆けつけて、あなたたちを懲らしめるわ」

 声が震えそうになるのを必死でこらえ、力強く言い放つ。


 男は鼻で笑った。

「へっ、威勢のいいことだな。だがな、今日はあらかた獲り尽くしたんでな。そろそろ引きあげる頃合いさ」


 そう言うや否や、雲瑶の身体を軽々と担ぎ上げた。


「きゃっ……放して!」


 雲瑶は肩に担がれ、男の背を必死で叩きながら足をバタつかせて抵抗する。しかし男はびくともせず、苛立ちをにじませた声で叫んだ。


「大人しくしろ。落ちるぞ……こら!」


 そう言うや否や、男は雲瑶のうなじを素早く押さえつけるように一打を加えた。その瞬間、雲瑶はぐったりとうなだれる。


「やっと大人しくなったか」


 男は馬の背に雲瑶の身体を横たえると、道端で身を縮めていたふたりに目をやった。


 燁華は男を真っ直ぐ見たまま、翠琴をギュッと抱きしめる。


「お前ら、上等な服を着ているな。脱いでここに置いていけ。俺が脱がせようか、自分で脱ぐか」


 男が二人ににじり寄る。


 燁華は目を見開いたまま男を見つめ、肩を上下させて激しく呼吸している。

 翠琴は泣き止み、燁華にすがりながら男をにらむ。


 その時、道の曲がり角から蹄の音が響き、馬がこちらへと駆けてきた。


「あそこです!」

 武人の馬に二人乗りした趙普が、先導しながら指を差す。


 男は舌打ちし、「チッ、ずらかるか」と呟くと、素早く馬にまたがり、土煙を巻き上げながらその場を去っていった。


 武人が逃げゆく契丹の背を一瞥し、やがて静かに兄妹の方へと視線を向ける。

 馬を下り、兄妹に近づくと、燁華の手を取って立たせようとした。


 しかし燁華は肩を上下させ、言葉を紡ぐことすらできなかった。吸っても吸っても、酸素が足りない気がして、荒く浅い呼吸を繰り返した。


「大丈夫か?」


 手足が痺れ、汗が噴き出す。

 意識が遠のき、燁華はぐったりと倒れ込んだ。


「お兄さま!」


 翠琴が燁華を揺さぶる。


「過呼吸です。早く処置しないと」

 趙普は燁華をさっと抱き上げ、「この辺りに井戸はありますか」と武人に尋ねた。


 武人が指差すと、趙普はそちらに向かって走り出す。

 翠琴は、路地に落ちていたブローチを手に取り、趙普の後を追った。


 ◇


 目を開けると、そこは見慣れた自室だった。


 柔らかな陽が差し込む窓辺。温かい布団にくるまり、心地よい重みが全身を包んでいる。手を動かすと、指先に血の気が戻っているのを感じた。


 ——生きている。


「お姉さま、目が覚めた?」


 すぐそばから声がした。顔を向けると、布団の横で翠琴が身を乗り出していた。目は真っ赤に腫れ、頬には涙の跡がくっきりと残っている。


 燁華は、ゆっくりと上半身を起こした。


「先生は……」


 問いかけると、翠琴は静かに首を振る。


 燁華はふっと目を落とし、自分の手をじっと見る。


「……ただ、見ていることしかできなかった」


 悔しさが胸に込み上げ、ぎゅっと拳を握りしめる。


 すると、翠琴がそっとその拳を両手で包み込んだ。小さくて温かな手が、燁華の凍えた心をほぐすように寄り添う。


 その瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。


 目を閉じても、まぶたの裏から次々に涙がこぼれ落ちる。嗚咽のかわりに、静かな涙が溢れてとまらない。


 ——悔しい。どうしようもなく、悔しい。


 心から尊敬していた師。優しく、賢く、気高かった人。彼女が、理不尽にも連れ去られてしまった。どこへ行かされるのかも、そこでどんな仕打ちを受けるのかもわからない。想像するほどに、胸の奥がギュッと苦しくなる。


 祖国にいれば、まだできることがあったはずだ。伝えたいことも、叶えたい夢も、守りたかった人たちも……きっと、たくさんあったはずなのに。

 なぜ、こんなことが許されるのか。 なぜ、力のない者がこんなにも簡単に奪われてしまうのか。


 ——こんな非道が、まかり通っていいはずがない。


 人が人を奪い合い、弱き者が無慈悲に蹂躙されるこの世を、変えたい。


 そのためには、もっと強くならなければ。

 もっと、賢くならなければ。

 自分の大切なものを守るために——


 袖で涙をぬぐうと、燁華は大きく目を見開いた。


 そして、まっすぐに翠琴を見つめる。


「翠琴……おまえが無事で、本当に良かった」

「私も」


 二人は見つめ合い、涙の中に小さな笑みを交わした。


「これ……お姉さまが持っていて」


 翠琴がそっと差し出したのは、雲瑶が買った、あの珊瑚のブローチだった。


 燁華は、黙ってそれを受け取り、そっと胸元に抱きしめる。


「ああ。今日という日を、決して忘れない。これは私が持っておく」


 ぎゅっと、拳の中でブローチを握りしめた。


「お姉さま。私たち、強くならなきゃ。自分を守れるようになったら、今度は、みんなを守れる人になりたい」


「……ああ」


 

 ◇

 


 その日から、燁華はこれまで以上に、学問と武芸の稽古に励んだ。


 一方の翠琴は、市井の中へと自ら足を運び、人々の声に耳を傾けるようになった。戦や貧しさ、理不尽な仕打ちに苦しむ人々の話を聞き、ともに涙を流し、ときには手を握って励ました。





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