4-6.開封への凱旋、その先に
──反乱は、鎮圧された。
夕日が照らす戦場に、郭威軍の勝鬨が響き渡る。
「勝ったぞ!!」
歓声が怒涛のように巻き起こり、兵たちは剣を掲げ、泥と血にまみれた顔に、確かな笑みを浮かべた。
反乱軍の中核であった李守貞が討たれたことを知り、他の節度使たちは追撃を恐れて霧散した。
この戦で、郭威は確かな勝利を手にしたのだった。
◇
日が沈みかけた頃、懐徳は、ふらりと本陣の天幕に戻った。
ぼろぼろの鎧に、まだ乾ききらぬ血がこびりついている。
そこに──翠琴の寝顔があった。
薄い布にくるまり、乱れた髪を頬に落とし、無防備に眠る翠琴。
かすかな寝息に合わせて、肩が上下している。
懐徳はそっと膝をつき、彼女のそばに座った。
その柔らかな表情が、眩しいほどに愛おしい。
「……生きて、帰ったぞ」
誰にも聞かせぬ声で、呟いた。
手のひらで、翠琴の髪をそっと撫でると、翠琴は夢の中で微かに微笑んだ。
懐徳の胸に、じんわりと温かいものが満ちた。
◇
勝利の報は、瞬く間に開封へ届いた。
郭威の名は、英雄として人々に讃えられた。
市中では旗が掲げられ、歌が生まれ、彼の凱旋を待ち望む声が溢れていた。
民は、郭威を希望の光として見上げ始めていた。
◇
だが、帰路の途中で。
郭威たちに、衝撃の報せがもたらされた。
──郭威の親族が、劉承祐の命により、虐殺された。
「……っ!」
郭威は書簡を握り潰し、地に膝をつく。
苦しみを押し殺すような呻き声が、絞り出される。
周囲の者たちも息を呑み、何も言えずに立ち尽くしていた。
翠琴が、そっと郭威の背に手を添える。
「……郭威様。どうか、しっかり……」
だが郭威は、その手を振り払った。
怒りと絶望に顔を歪め、刀を携え一人川岸へ向かっていった。
◇
郭威は、怒りのまま、空を斬った。
振り下ろすたびに、無力な自分を叩き斬るかのように。
──俺が守ったものは、何だったのか
──罪のない親族にまで手をかけるとは
やりきれなかった。
刃が空を裂き、息を切らしながらもなお、剣を止めることはできなかった。
ふいに背後に気配を感じ、そこへ刃を向ける。
黒い服の男が立っていた。
「何者だ」
郭威が刃を突きつけると、男は両手を挙げた。
「あ……怪しいものではありません」
「今、私はとても気が立っている。速やかに立ち去らねば斬るぞ」
「郭威様。私は、家族をあなたに助けられた者です。御恩に報いるため、急ぎ馳せ参じました。どうかお話を聞いてください」
男の目はまっすぐに郭威を見据えていた。
そこには敵意も恐れもなかった。
「わかった。ついてこい」
郭威は刃を振り下ろすと、すぐに踵を返す。
◇
郭威は天幕に側近を集める。
男は郭威の前に頭を垂れ、粛々と語り始めた。
「私は、天子より郭威様を討てとの密命を受けた刺客でございます」
一瞬にして緊張が走る。
郭威を除く全員が、刺客に刃を向けた。
「自ら名乗り出る刺客があるか」
郭威はガハハと笑う。
わずかに空気に緩みが生じるものの、刃を収める者はいない。
「しかし私は、それに従うことができません。それは天の意に背くことでございます」
刃の輪が少し広がり、男が身動きできる程度の空間ができる。
「劉承祐はすでに枢密使の楊邠ら重臣たちを殺害し、郭威様と柴栄様も逆賊と喧伝しています。
このまま開封に戻れば、間違いなく、命を落とされるでしょう」
そこにいた全員に、別の緊張感が走る。
「すでに私以外の刺客も多数放たれております。どうか開封に戻ることなく、しばしお隠れください。民には、あなた様が必要です」
郭威は沈黙した。
◇
燁華は、宿の一室から窓の外を見ていた。
黄河が、夕陽を受けて、金色にきらめきながら悠然と流れている。
柴栄と趙普は同じ室内で、深刻な面持ちで思索を巡らせていた。
口を開いたのは燁華だった。
「……もはや劉承祐に皇帝はつとまらないな」
「俺も、同じことを考えていた」
趙普が言うと、柴栄が深く頷く。
自分の保身のために、忠臣を殺してしまうなんて、そんな人物が人の上に立つ、よもや国を背負って良いわけがない。
「だが、劉承祐を亡き者にしたところで、その先はどうする」
三人の思考は、そこで止まる。
劉承祐の親族を皇帝に据えたところで、同じようなことが繰り返されないという保証はない。すでに中華は、五十年近くこのようなことを繰り返しているのだ。
「どこかで、終止符を打たなければならない。これからの中華を確実に治められる人を皇帝に据えなければ……」
三人の脳裏には、ある人物の顔が浮かんでいた。
しかし、それを口にする者はいなかった。
◇
郭威は開封への歩みを止めなかった。
なぜか、そうすべきだという思いに突き動かされた。
行く先々で民たちが歓呼し、花を撒き、涙を流した。
「郭威様、万歳!」
反乱の鎮圧もさることながら、荒れ果てた世を正してくれる強き指導者への渇望が、郭威を英雄化したのかもしれない。
街中からの熱烈な声に、翠琴は笑いながら言った。
「郭威様が皇帝になれば良いのに」
郭威は「バカなことを」と笑った。
しかし、開封が近づくにつれ、郭威に従いたいという武官や民衆が列を成して続き、いつしか十万人ほどの大行列を作っていた。
郭威は、すでに腹を決めていた。
劉承祐だけは、生かしておくわけにはいかない。
たとえこの手が血にまみれ、どんな報いを受けようとも──それが正しいと、全身が訴えていた。
◇
皇宮では、劉承祐が恐怖に陥っていた。
「誰でもいい! 余を守れ!!!」
皇帝の椅子の隅でガクガクと震えながら叫ぶ劉承祐は、いかにも小物であり、滑稽だった。
金をばら撒いて集めた兵たちは、郭威軍が城門をくぐるや、蜘蛛の子を散らすように逃げ散った。
劉承祐は宮中を逃げ回ったが、最後は一兵卒の刃によって絶命した。
その死に顔には、王としての誇りも、最後の矜持もなかった。ただ、怯えた少年のような表情が残されていた。
裏で手を引いていた宰相も、自害した。
◇
劉承祐、崩御。
その報せが舞い込むと、開封は喜びに沸き立った。
「郭威様、万歳!! 万歳!!」民衆の大合唱の中、黄色い布が持ち上げられる。
黄色──それは皇帝だけが纏うことを許された、天子の色。
燁華と柴栄は、そっとその布を郭威の肩にかけた。
一瞬、郭威は布に触れたまま、立ち尽くした。
自分が、これほど重いものを背負う時が来るとは思ってもいなかった。
だが──この国を導く者がいなければ、また同じ悲劇が繰り返される。
趙普が笑った。
「郭威様、もう腹を括ってくださいね」
「……そうだな。受け取ろう」
低く、しかしよく通る声で郭威は言った。
空には、雲一つない青が広がっていた。
こうして──
後周が建国された。
そして、幾星霜を越えて、後世に名を遺す名君が、このとき誕生したのである




