4-3.夜襲、翠琴の提案
冷たい風が、草原を吹き渡っていた。
雪解けの泥に馬蹄がぬかるみ、遠くには黒く焼け焦げた村が点々と見える。
行軍の列の前方、三騎の馬が並んでいた。
柴栄。
趙匡胤(燁華)。
趙普。
彼らは寡黙に馬を進めながら、時折、険しい目を交わしていた。
「……ひどいな」
燁華が低く、吐き捨てるように言った。
彼女の視線の先には、瓦礫と化した家々。
首のない屍。泣き叫ぶ子供。焼け落ちた田畑。
高懐徳の馬に同乗する翠琴は、震える手で口元を覆った。
嗚咽をこらえるその肩が、小刻みに震えている。
嗅ぎ慣れない焦げた匂いが、鼻をつき、涙腺を刺激する。
心が悲鳴をあげるような痛みを、翠琴は必死に押し殺していた。
「これが……奴らのやり口か」
柴栄もまた、怒りを滲ませながら呟いた。
趙普が、冷静に口を開く。
「反乱軍といっても、半数以上は烏合の衆。節度使たちの私兵や、略奪目的の暴徒にすぎません。 ──本当に厄介なのは、李守貞、王景崇、趙思綰……三節度使の連携です」
「連携を断ち切るしかないな」 燁華がきっぱりと言った。
柴栄も頷いたが、言葉を継がなかった。
──どうやってそれを実現するのか。答えは、誰にも見えなかった。
兵は五万。
いや、そのうち半数は郭威の私兵であり、正規軍は三万に満たない。
行軍は重苦しい沈黙に包まれていた。
◇
夜。
軍は小高い丘の麓に野営した。
月は薄雲に隠れ、周囲はひどく暗かった。
その静寂を破ったのは、突如、闇から飛んできた火矢だった。
──パァン!
乾いた破裂音とともに、テントが燃える。
「敵襲だ!!」
叫びが轟き、混乱が広がった。
暗闇の中、敵兵がなだれ込んでくる。
味方の顔すら見えぬ中、兵たちは恐慌に陥った。
「隊列を守れ! 慌てるな!」
柴栄が声を張り上げる。
燁華も剣を抜き、隣の兵士を叱咤する。
だが、混乱は広がるばかりだった。
「ひっ、敵だ!」
「無理だ、逃げろ!」
怯えた叫びとともに、兵たちが四散する。
後ろ盾のない不安と、先の見えぬ恐怖。
それらが、兵たちの心を一瞬で瓦解させた。
やがて、夜明けとともに、敵の姿は消えた。
だが、残った兵は四万──五万から、さらに一万を失ったのだった。
◇
「くそっ……」
燁華は、握った拳を小刻みに震わせた。
このままでは、戦う前に負ける。
趙普が静かに口を開いた。
「李守貞の弱点を、必ず見つけなければなりません」
燁華も柴栄も、黙って頷いた。
何か、打開策が必要だった。
そうでなければ、この軍は……いずれ崩壊する。
◇
郭威軍は、李守貞の本拠地の近くに迫っていた。
そこに本陣を構える。
沈黙の続く本陣。
夜襲で兵を四万まで減らした今、まともにぶつかれば敗北は必至だった。
地図を囲んで、燁華、柴栄、趙普、高懐徳、三臣が集まっていたが、誰も決定打を出せずにいた。
郭威は、ぼんやりと虚空を見ている。翠琴は郭威の横で皆を見ていた。
「連携して動く李守貞、王景崇、趙思綰……まとめて来られたらひとたまりもない」
趙普が静かに言った。
「分断するしかないな」
柴栄が腕を組む。
「だが……どうやって?」
確かに、この軍容で戦うなら、敵の分断は必須だ。
しかし、どうしたらそれができるのか、その糸口を見出せずにいた。
その場の全員が、深く黙考し、口を開く者はいなかった。
その静寂を破ったのは、翠琴だった。
「私が、行きます」
全員の視線が、翠琴に集まる。
彼女は、柴栄をまっすぐに見て告げた。
「李守貞の陣へ、私が潜り込みます。敵の懐に飛び込めば、連携の糸口を断つ弱点が見つかるかもしれません」
燁華の顔が強張った。
高懐徳は驚きの表情で翠琴を見ている。
「馬鹿な。危険すぎる」
燁華は首を横に振る。
「危険だからこそ、やるんです」
翠琴は一歩踏み出した。
その小柄な身体に、隠しきれない強い意志が宿っていた。
「誰もが全力を尽くさなければ、この戦に勝ち目はないでしょう? 私は、自分にできることをします」
一瞬、沈黙。
重苦しい空気を破ったのは、高懐徳だった。
「……俺も行く」
ぼそりと呟くように言ったその声に、翠琴が振り向く。
「お前を一人では行かせない。俺が必ず守る」
その言葉に、翠琴は目を細め、優しく笑った。
燁華は、強く拳を握り締めたが、やがて静かにうなずいた。
「行け。ただし、無茶はするな。危険を感じたらすぐに引き返せ」
◇
潜入の夜。
翠琴は、装束を着替えて現れた。
普段とは違う、胸元の大きく開いた衣。
刺繍の施された、華やかな翡翠色のドレス。
髪は豪華な飾り櫛やかんざしで彩られていた。
その姿を見た懐徳は、思わず目を逸らし、顔を赤らめた。
「そんな格好……」
小声で呟きながら、彼は翠琴の肩にそっとローブをかけた。
翠琴はくすりと笑うと、ローブを整えた。
「ありがとう。懐徳」
準備は整った。
二人は、李守貞の陣へと、夜の闇に紛れて消えていった。




