1-2.二人の教育係
趙家の長い廊下を、翠琴は書物を抱えて軽やかにスキップしていた。白い衣が揺れ、金の髪飾りが陽を受けてきらりと光る。その後ろを、姉の燁華が穏やかな足取りでついていく。
「そんなに歴史の授業が楽しみなのか?」
燁華が苦笑混じりに尋ねると、翠琴は振り返りながら明るく答えた。
「だって、唯一お姉さまと一緒に受けられる授業なんだもん!」
書庫の扉を開けると、もう卓には先生が座っていた。“先生”とはいうものの、実際は彼女たちの従姉——十五歳の王雲瑶だ。
「こんにちは、燁華、翠琴」
雲瑶はやわらかく微笑み、立ち上がって二人を迎えた。上品な仕立ての衣に身を包んだ彼女は、知性と温かさを同時に湛えている。趙家の秘密を知る数少ない人物の一人であり、父から二人の教育係兼、話し相手として任じられていた。
「雲瑶姉さま、今日もよろしくお願いします!」
翠琴は弾む声とともに雲瑶に飛びつく。雲瑶はやさしくその頭をなで、笑みを深めた。燁華はその後ろで静かに拱手し、一礼した。
三人がそれぞれ席につくと、雲瑶は帳面を閉じ、落ち着いた声で口を開いた。
「前回は、唐が滅んだところまでお話ししたわね。さて、唐が滅んだ理由は何だったかしら?」
「節度使が起こした安史の乱がきっかけで国力が衰え、各地の節度使の力が強くなってしまったこと。そして、財政難で税を増やしたら、農民たちが反乱を起こしてしまったことです」
燁華が答えると、雲瑶は目を細めてうなずいた。
「よく覚えているわね」
「わたしも知ってる!」
翠琴が勢いよく立ち上がる。
「朱全忠って人が、唐を滅ぼしたんでしょう?」
「そう、その通りよ」
雲瑶がうなずくと、翠琴は胸を張って得意げに笑った。
「その後、朱全忠は後梁を建てたの。でも、それと同じような立場にあった他の節度使たちも、それぞれの地で力を蓄え、やがて自ら国を建ててしまったのよ」
雲瑶の声は、静かに、けれども確かに空間に響いた。
◇
書庫の小さな窓から、春の風がそっと吹き込む。淡い日差しが帳面に広がり、午後の静かな空間にやさしい光を注いでいた。
すー、すー……と、穏やかな寝息が響く。
机に突っ伏して眠る翠琴の横で、燁華は姿勢を正したまま、雲瑶の話に耳を傾けていた。
「二年前に、石敬瑭という人が後晋を建てたわ。そのとき、契丹から軍事援助を受ける代わりに、燕雲十六州を渡してしまったの」
雲瑶は広げた地図の上に指を滑らせ、その地をなぞる。
「この場所を明け渡したことで、長城の防衛線は形だけのものになってしまったわ。侵攻の足がかりを、わざわざ与えてしまったのよ」
言葉を結ぶと、窓の外に目をやりながら、雲瑶は短くため息をついた。
「契丹の動きには、これからも注意が必要ね。……さて、今日の授業はこれで終わりにしましょうか」
燁華が隣で眠る翠琴の肩を軽く揺する。
「んあっ……」
翠琴は短くうめいて顔を上げ、あわててよだれをぬぐう。
「じゃあ、今日のまとめをお願いできるかしら?」
雲瑶が柔らかく微笑むと、燁華は帳面を両手でもち、要点を端的に述べた。それを翠琴が寝ぼけ眼で一生懸命に写す。
「ばっちりね。今日で歴史の授業はおしまい。次からは“今の世の中”を学びましょう」
その言葉に、翠琴は机に手をつきながらぴょんと立ち上がり、目を輝かせる。
「それって、どんな勉強をするの?」
雲瑶は一瞬だけ考え込み、やがて笑みを浮かべた。
「そうね……次は洛陽の街を歩いてみましょうか」
「わあい!」
翠琴は両手を天に伸ばしてはしゃいだ。
燁華は表情を変えぬまま、静かに口を開く。
「先生。ひとつ質問があります」
「どうぞ」
「先生は、これからの世の中がどうなっていくと思われますか?」
雲瑶は少し目を細め、答えを選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「うーん、そうね……どうなっていくかはわからないのだけど、中央集権的に統治できる指導者は必要だと思うわ。そうでないと、中華はずっとバラバラのままよ」
「中央集権的……それは、どんな指導者なのでしょうか」
「まずは、中央で強固な組織を作る必要があるわよね。自分に権力を集中させ、政敵や派閥を排除し、忠誠心の高い側近で組織を固めれば、政策の実行スピードは上がるわ。そのためにも、強い決断力と迅速な実行力が必要ね」
燁華は頷きながら必死で筆を動かしている。
雲瑶は、視線を燁華から翠琴へと移す。
「ただ、必ずしもリーダーが正しい判断をできるとは限らないから、周りに信頼できて、耳が痛いこともはっきり言ってくれる側近が必要よね。そして最終的には、人の力ではなく“制度”で国を治められるようにしなくてはね」
翠琴は眉間にしわを寄せながら、真剣な目で雲瑶の言葉を追いかける。
「そして……これが一番大切かもしれないけれど、民の気持ちが分かる人でなければ、良い政治はできないわ。民の声に耳を傾けられる人が、長く続く国をつくるの」
燁華は筆を止め、そのまま雲瑶の顔を見つめた。雲瑶の穏やかな顔は、午後の穏やかな光に照らされて輝いていた。
「先生は、女でありながら、どこでそのようなことを学ばれたのですか?」
雲瑶は少し微笑んで首を傾げた。
「うーん。教えてもらったというよりも、自分で書物を読んだわ。書物で読んだことと、自分の目で見たこと。この2つを行ったり来たりすると、いろいろなことが分かってくるの。それは、男でも女でも変わらないわ」
そして、真っ直ぐに二人を見つめる。
「だから二人とも、書から学ぶこと、人から学ぶこと、世の中から学ぶこと——どれも等しく、大切にしてね」
燁華と翠琴は、肩を並べて深く頷いた。