3-10.趙普の熱い想い
翌朝。翠琴はひどい頭痛とともに目を覚ました。
「あいたた……」
目を開けると、そこは自室。布団をかけられており、着替えまで済んでいた。しかし、昨夜どうやってここに戻ってきたのか、まるで覚えていない。
——あっ、お姉さま!
翠琴は重大なことを思い出し、はっと飛び起きる。
酔い潰れた燁華を介抱するのはいつも翠琴の役目だった。でも……
私が介抱していない!!……じゃあ、いったい誰が!?
胸騒ぎとともに慌てて廊下を駆け出し、燁華の部屋へ向かう。
燁華の部屋の前には、答えが立っていた。
◇
趙普は、燁華(匡胤)の部屋の前に立ち、腕を組んで目を閉じていた。
彼は、これまでのことを思い返していた。
なぜ、気づかなかったのだろう……。
趙普は匡胤のことを同性として尊敬していた。
人の心をつかむ力、武勇、中華の未来を見据える知恵と勇気。
彼女はどれほど多くのものを抱え、乗り越えここまできたのだろう。
女だと分かったいま、彼女が背負ってきたもの、乗り越えてきたことの重さに驚き、 自分が守ってやらなくては、という思いすら芽生え始めていた。
あの日……他の女と一緒にいたのを見られた時、匡胤があんなに怒ったのはもしかして……
いやいや、彼女ほど完璧な人がなんの取り柄もない自分のことを好きなはずがない。趙普は首を横に振った。
一晩中そんなことを考えていて、夜が明け始めていることにも気がつかなかった。
◇
ドスドスドスという音とともに、翠琴が廊下を走ってくる。
「趙普!」
翠琴はその場に駆け寄ると、呼吸もそこそこに問いただした。
「昨夜、匡胤を介抱してくれたのはあなた?」
まるで役人が悪人を問い詰めるような勢いで趙普に迫る。
「そうだ」
趙普は至って冷静に答える。
翠琴はさらに一歩踏み込んで問うた。
「……それで、その、匡胤の衣を……」
「……ああ、見た」
「はあああああっっっっ……」
翠琴は愕然とし、膝から崩れ落ちる。
「ねえ、なんでそんなに冷静でいられるの!? 」
趙普は眉を寄せ、言葉を選ぶように答えた。
「いや、俺は、自分が男色家ではないかと真剣に疑ったことがあった。今は、そうではなかったことが分かって、むしろ安心している」
匡胤の何気ない表情に、時折胸がざわついた。今だからいうが、——唇に触れたい、そう思ったこともある。「……本当に良かった」
「はっ!? 良かったって! え!?」
趙普の言葉の中に、何か姉にとって重要なことが含まれていた気がするけれども、今の翠琴はそれどころではなかった。
「趙普、ねえ、一生のお願い!! このこと、誰にも言わないで!!!」
翠琴は両手を頭の上で合わせて、必死に懇願する。
「分かってるよ」
こんなこと、誰が他の男に知らせるもんか。いや、女もか。
匡胤が女であることを自分だけが知っている、そんな優越感が、趙普の胸にひそかに灯る——が、次の瞬間、翠琴の口からは予想外の言葉が飛び出した。
「実は、懐徳も知ってるの。あと、柴氏も。あの人、会った瞬間に気づいちゃってたから」
なんだよ、俺だけじゃないのかよ!
趙普の心の中でふくらみかけていた誇らしさが、ぷしゅうっとしぼんでいく。
「そうかよ」
分かりやすく不機嫌になっている趙普に、翠琴は少し不安になって、顔を覗き込むように言う。
「ねえ、本当に約束してくれる? 絶対に裏切らない?」
「するよ、するってば……!」
なぜか少し逆ギレ気味の趙普の返答に、翠琴は一つ、息を吸い込んだ。
「じゃあ……私の手に触れて、誓って」
趙普はためらわず手を差し出し、翠琴の掌に触れた。
——その瞬間。
翠琴の胸に、熱い奔流のような感情が一気に流れ込んでくる。
洛陽で紅蓮隊を結成していた頃から、ずっと匡胤に憧れていたこと。匡胤に関する話をあちこちから拾い集めては、全て記録し反芻していたこと。
初めて出会ったときの湧き立つような心。
馬を並べて走ったときの爽快感。
中華の未来を熱く語るその笑顔が眩しく、目を逸らせなかったこと。
——彼女のためなら、この命を投げ出しても惜しくないと、本気で思っていること。
ああ……
翠琴は、まるで火傷でもしたかのように、スッと自分から手を引き、もう片方の手でその手を撫でた。
もうこんなに、お姉さまのことを思ってくれていたなんて……。
少しの沈黙のあと、翠琴は努めて冷静に言う。
「……わかったわ。じゃあ、お姉さまとちゃんと話してね」
そう言って、趙普の背中をぐいっと押して、燁華の部屋へ押し込んだ。




