3-8.月下の約束
六月、遼軍が完全に撤退すると、劉知遠は開封へと入城した。
このとき彼は「後漢」の皇帝として即位し、郭威を宰相兼枢密副使に任命する。宰相は政治の最高責任者であり、枢密副使は軍事の責任者だ。それほどに劉知遠の郭威への信頼は厚かった。
しかし、遼や後晋の時代に任命された各地の節度使たちは、その地位をそのままに新政権を迎えていた。
彼らの多くは、節度使出身で皇帝となった劉知遠の正統性を認めようとせず、次々と反乱を起こした。
この難局に立ち上がったのが、郭威と柴栄である。郭威は柴栄と軍を合わせ、反乱軍の鎮圧を指揮。各地で大きな戦功を挙げた。
だが、郭威の手腕はそれだけにとどまらない。単なる軍の将ではなく、政治家としての才も発揮する。
彼は地方の有力者や節度使が持つ独立性を抑えることで、中央政府の統治力を強化した。
また、武力で押さえつけるだけではなく、反乱勢力との交渉や駆け引きを重ね、一部の地では戦わずして統治権を取り戻すことにも成功した。
郭威は、剣と知恵の両方を持つ者として、その存在を周囲に知らしめていく。
◇
反乱が鎮圧され、政権もようやく安定の兆しを見せはじめた十一月のある晩。郭威邸では、ささやかな祝宴が開かれていた。
「無礼講じゃあ!」
郭威が上機嫌に叫び、屋敷中に笑いがこだまする。酒の勢いも相まって、頭から酒を浴びる者まで現れる始末だった。
郭威の妻の柴氏は最近は体調がすぐれず、柴栄も叔母に付き添っていた。
燁華と翠琴は宴に加わっていた。燁華は二十を過ぎてから酒に強くなった。盃を手にすれば、いつもの冷静さは鳴りをひそめ、明るく開放的な顔になる。まるで郭威に張り合うかのように、皆に酒を注ぎ、自分も豪快に飲み干していく。
その様子を、翠琴がひやひやと見守っていた。視線を送るたび、どこか落ち着かずそわそわと目を動かす。もう一人、同じように落ち着かぬ面持ちで燁華を見守っていたのは趙普だった。
あれ以来、燁華は趙普と距離を置いていた。業務上最低限の会話以外はしないようにしていたのだが……酒の入った燁華は、そんなことに意識を回せていなかった。
「私は酔ってないっ!」
タチの悪い酔っ払いのように、顔を赤くして趙普に絡む燁華。その姿に、翠琴の不安は募るばかりだった。
そんなとき、近くにいた軍の上役らしき男が、翠琴に酒を勧めてくる。
「どうだい、お嬢さんも一杯」
「いえ、私、お酒はちょっと……」
困りながら断ろうとすると、「じゃあ、これなら大丈夫」と甘い香りの液体を手渡された。翠琴は大好きな果汁の香りに笑みを浮かべ、「ありがとうございます」と礼を言って一気に飲み干す。
瞬きをして目を開けると、世界がぐるりと回った。頭がぼんやりして、目の前が霞んでいく。
「……あれ?」
机に突っ伏す翠琴。その腰に、男の手が伸びかけた——そのとき。
「——私の婚約者です」
静かな声が、その手を制した。
高懐徳だった。冷ややかな視線を男に向けると、相手は少し怯みながらも、「おっと、これはこれは高殿……失礼」と舌打ちまじりに下がった。
懐徳は翠琴をそっと抱きかかえ、庭先の石に腰かける。冷水を湯呑みで飲ませようとするも、うまく飲ませられずに翠琴の胸元を濡らしてしまう。
「くそ……すまん」
そう言って口移しで水を飲ませる。
翠琴の唇は、想像よりはるかに柔らかかった。
翠琴を膝に抱きながら、ふと顔を上げれば、空には丸い月。
まるで白銀を流したような夜空だった。
そういえば……匡胤と義兄弟の契りを交わしたのも、こんな夜だった。
「……ん、懐徳?」
翠琴が意識をうっすら取り戻し、顔をしかめる。
「大丈夫か?」
「うん……でも、ちょっと気持ち悪い……」
「酒を飲まされたらしい。しばらく、ここで休め」
翠琴は懐徳の胸に身を預け、夜空を見上げた。
「……きれい」
「そうだな。きれいだ」
だが懐徳の視線は、月よりも、彼女に注がれていた。
翠琴は頬を赤らめて視線を逸らす。
「懐徳。私、あなたにもう一つ、秘密を打ち明けなきゃ」
「……秘密?」
翠琴はゆっくりと言葉をつむぐ。
「あの夜、懐徳はお兄さまと義兄弟になったでしょ」
懐徳と同じく、翠琴もまたあの夜のことを思い出していたらしい。
「だから……伝えなきゃ。あの、驚くかもしれないけど、驚かないでね」
「驚くけど驚かないんだな。分かった」
「もうっ! 真面目に聞いてよ!」
こんな時でさえ、懐徳は冷静にツッコミを入れてくる。
翠琴は懐徳の頬を両手で挟み、小さな口を作らせてふざける。懐徳はその手をやさしく外した。
翠琴は深く息を吸い、語りはじめる。
「匡胤はね、本当は……お兄さまじゃなくて、お姉さまなの」
懐徳はしばし言葉を失った。
「女……なのか?」
「そう」
翠琴は、燁華が男として育てられた理由を丁寧に語った。趙家に男子が生まれなかったこと、生まれた時の赤い光のせいで、家のために燁華が男として生きる道を選ばされたこと——
「お姉さまの本当の名前は、“燁華”。火のように燃えて、花のように華やかで……ぴったりでしょ」
「……燁華。たしかに、彼女にふさわしい名前だ」
「お姉さまね、とても真面目で、周囲の期待に応えようとして、いつも頑張りすぎちゃうの」
「……ああ」
懐徳は同感した。
彼女はいつだって、自分の役割を完璧に果たしていた。
達成すべきことがあれば、それを成し遂げるまで徹底的に。
だから、みんな彼女を信じてついて行くのだ。
「ねえ、懐徳。あなた、お姉さまの義兄弟になったのなら、お姉さまのこと……ちゃんと守ってほしいの。私の、大切なたった一人のお姉さまだから。約束よ」
翠琴が差し出した小指に、懐徳は自分の小指を絡めた。
「——約束する」
その言葉を聞いた直後、翠琴はすうすうと寝息を立てはじめた。
「……おやすみ」
懐徳は、そっと彼女の髪を撫でた。
月が、二人の背に、静かに降り注いでいた。




