表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

24/87

3-6.慟哭の理由

 翌947年1月、耶律堯骨(やりつぎょうこつ)は開封に入城し、中国風の国号「大遼(だいりょう)」の建国を宣言、自らが中華の皇帝と称した。


 契丹の耶律堯骨(やりつぎょうこつ)は、かつて後晋の石敬瑭(せきけいとう)を支援し、見返りに「燕雲十六州」を得ていた。


 しかし、彼の息子の石重貴(せきじゅうき)が契丹への歳貢を拒み、独立の姿勢を強めたため、耶律堯骨(やりつぎょうこつ)は「報復」と「覇道」の名の下に、大軍を率いて南下、開封を陥落させたのだ。


 その一方で、各地では遼の略奪専門部隊「打草穀騎(だそうこくき)」が放たれ、容赦ない掠奪が繰り返されていた。


 この知らせは、いち早く郭威(かくい)の屋敷にも届いた。


 屋敷内は緊張に包まれていた。郭威と柴栄(さいえい)は密室で策を練り、匡胤(きょういん)燁華(ようか))は軍の再編を命じられ、忙しく立ち回っていた。


 編成は概ね整ってきたが、最後の確認のために燁華は趙普(ちょうふ)を探していた。

 夕刻、屋敷内を歩いていると、離れの小屋の脇に、細い通路が続いているのを見つける。

 その奥に、ふたつ、重なった人影があった。


(誰だ……?)


 足が、ぴたりと止まる。

 二人は、肩を寄せ合い、体をぴったりと重ねていた。


 それが趙普と、見知らぬ女であると気づいた瞬間——


 ぐらりと視界が揺れた。


 胸の奥がきゅう、と縮まり、頭の中が真っ白になる。


 次の瞬間、燁華は駆け出していた。


 どこをどう走ったのかは覚えていない。


 気づけば、自室の布団の中にもぐり込んでいた。



 思い出すまいとすればするほど、さっきの光景が脳裏に鮮明によみがえる。

 笑っていた。

 触れていた。

 一度も自分に向けられたことのない熱情が、別の誰かに注がれていた。


 胸の奥が、焼けるように痛い。

 怒りと、嫉妬と、どうしようもない哀しみが、ぐちゃぐちゃに絡み合う。

 吐き気がせり上がり、胃の中を何度空にしても、まだ何かを吐き出したかった。


 趙普にとって、自分はただの男友達。

 ――そんなこと、とうに分かっていたはずなのに。


 けれど、こうして突きつけられると、あまりにも苦しかった。


 ——女であることを、望んではいけない。


 そう思っても、涙は止まらなかった。

 ぐしゃぐしゃに濡れた顔を布団に押しつけても、火照った熱は下がらない。

 心が、壊れてしまいそうだった。


 結局、その夜は一睡もできなかった。



 ◇



 夜が明けきらぬ頃、燁華はひとり、趙普の部屋の前に立っていた。

 冬の廊下は冷たく、指先の感覚も鈍い。


 厨房に向かう柴氏(さいし)が、小さな温石を手渡す。

「朝の廊下は冷えるわよ。無理しないでね」

 呆然と受け取ったものの、その温かみすら、今の燁華には疎ましかった。


 やがて、足音が近づく。

 趙普が戻ってきた。


 燁華は、どんよりと足元を見つめたまま動かない。


「おい、大丈夫か」


 心配そうに肩へ伸びた手を、燁華は鋭く払い落とした。


「……あの女と、付き合っているのか」

 乾いた声。

 まるで、砂を噛むような苦い響き。


「え……?」

 趙普はきょとんと目を瞬かせる。

 "あの女"が誰を指しているのか、一瞬わからなかったらしい。


「昨日、離れの路地で……おまえと一緒にいた女だ」


「ああ、あれか。いや、別に付き合ってはいない」


 あっさりと返された言葉に、燁華は胸が締めつけられる思いだった。

 目は腫れ、鼻は赤く、睨むような視線をまっすぐぶつける。


「ひどい顔だぞ。本当に大丈夫か」


 それでも心配そうに言うその態度に、胸の奥の何かがぐしゃりと潰れた。


「おまえは、好きでもない相手と……あんなことをするのか!?」

 声が震える。


「あんなこと?……ああ。俺は”来る者拒まず、去る者追わず”だからな。頼まれたから、抱いてやっただけだ」


 さらりと言い放たれた言葉に、燁華は、頭の中が真っ白になった。


「なっ……!」

 喉が詰まって、言葉にならない。


 趙普は飄々としたまま言葉を続けた。

「匡胤だって、女の一人や二人、抱いたことあるだろ?」


 ——その瞬間。


「ばかやろう!!!!」


 燁華の拳が、寸分の迷いもなく趙普の腹にめりこんだ。


「ぐはっ……!」


 うめき声を上げて膝をつく趙普。

 そのすぐ脇へ、燁華は温石を容赦なく投げつけた。


 ごつん、と鈍い音。

 古びた板張りの廊下に、無惨な穴が開く。


 何も言わず、燁華は踵を返し、走り去った。



 嫌い!嫌い!!大嫌いだ!!!!!

 あんな奴だとは思わなかった。

 もう二度と、好きだなんて思わない!!!


 ――そう叫びながらも、心はどこまでも痛かった。



 ◇


 朝。郭威が屋敷の皆を集めた。


「遼軍が開封を陥とした。これ以上、手をこまねいている場合ではない。

 我らの手で中原を取り戻すぞ!」


 郭威は自ら開封へ向かい、漢民族を契丹の支配から解放するという。


 柴栄は南へ向かい、略奪を続ける打草穀騎を追撃する。

 燁華と高懐徳(こうかいとく)翠琴(すいきん)は郭威の部隊に同行。

 一方、趙普と三臣(さんしん)は柴栄の補佐につくことになった。


(……しばらく、趙普の顔を見ないですむ)


 燁華は、そのことにかすかな安堵を覚えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ