3-6.慟哭の理由
翌947年1月、耶律堯骨は開封に入城し、中国風の国号「大遼」の建国を宣言、自らが中華の皇帝と称した。
契丹の耶律堯骨は、かつて後晋の石敬瑭を支援し、見返りに「燕雲十六州」を得ていた。
しかし、彼の息子の石重貴が契丹への歳貢を拒み、独立の姿勢を強めたため、耶律堯骨は「報復」と「覇道」の名の下に、大軍を率いて南下、開封を陥落させたのだ。
その一方で、各地では遼の略奪専門部隊「打草穀騎」が放たれ、容赦ない掠奪が繰り返されていた。
この知らせは、いち早く郭威の屋敷にも届いた。
屋敷内は緊張に包まれていた。郭威と柴栄は密室で策を練り、匡胤(燁華)は軍の再編を命じられ、忙しく立ち回っていた。
編成は概ね整ってきたが、最後の確認のために燁華は趙普を探していた。
夕刻、屋敷内を歩いていると、離れの小屋の脇に、細い通路が続いているのを見つける。
その奥に、ふたつ、重なった人影があった。
(誰だ……?)
足が、ぴたりと止まる。
二人は、肩を寄せ合い、体をぴったりと重ねていた。
それが趙普と、見知らぬ女であると気づいた瞬間——
ぐらりと視界が揺れた。
胸の奥がきゅう、と縮まり、頭の中が真っ白になる。
次の瞬間、燁華は駆け出していた。
どこをどう走ったのかは覚えていない。
気づけば、自室の布団の中にもぐり込んでいた。
思い出すまいとすればするほど、さっきの光景が脳裏に鮮明によみがえる。
笑っていた。
触れていた。
一度も自分に向けられたことのない熱情が、別の誰かに注がれていた。
胸の奥が、焼けるように痛い。
怒りと、嫉妬と、どうしようもない哀しみが、ぐちゃぐちゃに絡み合う。
吐き気がせり上がり、胃の中を何度空にしても、まだ何かを吐き出したかった。
趙普にとって、自分はただの男友達。
――そんなこと、とうに分かっていたはずなのに。
けれど、こうして突きつけられると、あまりにも苦しかった。
——女であることを、望んではいけない。
そう思っても、涙は止まらなかった。
ぐしゃぐしゃに濡れた顔を布団に押しつけても、火照った熱は下がらない。
心が、壊れてしまいそうだった。
結局、その夜は一睡もできなかった。
◇
夜が明けきらぬ頃、燁華はひとり、趙普の部屋の前に立っていた。
冬の廊下は冷たく、指先の感覚も鈍い。
厨房に向かう柴氏が、小さな温石を手渡す。
「朝の廊下は冷えるわよ。無理しないでね」
呆然と受け取ったものの、その温かみすら、今の燁華には疎ましかった。
やがて、足音が近づく。
趙普が戻ってきた。
燁華は、どんよりと足元を見つめたまま動かない。
「おい、大丈夫か」
心配そうに肩へ伸びた手を、燁華は鋭く払い落とした。
「……あの女と、付き合っているのか」
乾いた声。
まるで、砂を噛むような苦い響き。
「え……?」
趙普はきょとんと目を瞬かせる。
"あの女"が誰を指しているのか、一瞬わからなかったらしい。
「昨日、離れの路地で……おまえと一緒にいた女だ」
「ああ、あれか。いや、別に付き合ってはいない」
あっさりと返された言葉に、燁華は胸が締めつけられる思いだった。
目は腫れ、鼻は赤く、睨むような視線をまっすぐぶつける。
「ひどい顔だぞ。本当に大丈夫か」
それでも心配そうに言うその態度に、胸の奥の何かがぐしゃりと潰れた。
「おまえは、好きでもない相手と……あんなことをするのか!?」
声が震える。
「あんなこと?……ああ。俺は”来る者拒まず、去る者追わず”だからな。頼まれたから、抱いてやっただけだ」
さらりと言い放たれた言葉に、燁華は、頭の中が真っ白になった。
「なっ……!」
喉が詰まって、言葉にならない。
趙普は飄々としたまま言葉を続けた。
「匡胤だって、女の一人や二人、抱いたことあるだろ?」
——その瞬間。
「ばかやろう!!!!」
燁華の拳が、寸分の迷いもなく趙普の腹にめりこんだ。
「ぐはっ……!」
うめき声を上げて膝をつく趙普。
そのすぐ脇へ、燁華は温石を容赦なく投げつけた。
ごつん、と鈍い音。
古びた板張りの廊下に、無惨な穴が開く。
何も言わず、燁華は踵を返し、走り去った。
嫌い!嫌い!!大嫌いだ!!!!!
あんな奴だとは思わなかった。
もう二度と、好きだなんて思わない!!!
――そう叫びながらも、心はどこまでも痛かった。
◇
朝。郭威が屋敷の皆を集めた。
「遼軍が開封を陥とした。これ以上、手をこまねいている場合ではない。
我らの手で中原を取り戻すぞ!」
郭威は自ら開封へ向かい、漢民族を契丹の支配から解放するという。
柴栄は南へ向かい、略奪を続ける打草穀騎を追撃する。
燁華と高懐徳、翠琴は郭威の部隊に同行。
一方、趙普と三臣は柴栄の補佐につくことになった。
(……しばらく、趙普の顔を見ないですむ)
燁華は、そのことにかすかな安堵を覚えた。




