3-5.趙普の告白
秋の陽が穏やかに差し、空はどこまでも澄み渡っていた。
燁華と趙普は並んで馬を駆り、草原を風のように走り抜ける。
頬をなでる秋風が心地よい。
やがて視界がひらけ、小さな湖が現れた。
水面は鏡のように空を映し、陽の光が波紋に金色のきらめきを添えている。
馬を休ませ、湖畔の石にふたり並んで腰を下ろす。
風が草を揺らし、葉擦れの音がふとした沈黙を包み込んでいた。
「……やっぱり、武人より文人が国を治めたほうがうまくいくんだろうな」
ぽつりと、燁華(男名:趙匡胤)が呟く。
靴を脱いで若く柔らかい草の上に足を降ろすと、足の裏にひんやりとした感触が伝わり心地が良い。
趙普もまた、靴を脱いで足を投げ出していた。
「でも、文人が力を持てば、それはそれで新たな歪みを生むぞ」
腕をまくり、空を仰ぐ。雲ひとつない空を見れば、心まで清らかになるようだった。
「今のように貴族や豪族の子弟ばかりが登用されれば、結局は同じように腐敗するだけだろうな」
「だからこそ、登用制度そのものを見直さなくてはならないな」
燁華は、両手で膝を抱える。
足の裏にあたる石は、ザラザラとしていた。
「今の科挙は詩文や暗記に偏りすぎていると思う。もっと実務能力や論理的思考を問う内容にした方が、実力のある者を引き上げられると思わないか。例えば、経書の解釈を試験に取り入れるとか……だとしたら、その書物は、何がいいと思う?」
沈黙が落ちた。
冷気を含む風が、ぴゅうっと二人の間を抜け、燁華は乱れる髪を手でおさえた。
趙普は何か言いかけては……口を閉じ、
そのまま湖面に目を落とした。
静寂が再び二人を包んだ。
「……おい?」
不自然な間に気づいた燁華が声をかけると、趙普は急に顔を上げた。
「……すまん! 匡胤!!!」
突然、趙普が草の上に降り、頭を下げた。
「え? 何を謝ってるんだ?」
「……実は俺、書を……ほとんど読まないんだ」
耳まで赤く染め、趙普は顔をゆっくりと上げながら、小さく告白した。
「……は?」
「初めて会った時の孟子の引用——あれ、話すきっかけが欲しくて、前の晩に必死で覚えたんだ。孟子の本をそこに置いておいたのも、俺」
さすがに怒られるかと身構えた趙普は、視線を伏せた。
ところが、返ってきたのは意外な反応だった。燁華の弾けるような笑い声が、空気を震わせた。
「はっはっはっ、なんだそれ」
燁華は腹を抱えて笑い転げる。
「笑いすぎだろ……」
「まんまとおまえの術中に嵌ったってわけか」
「まあ……そうかもな」
趙普は、照れくさそうに小さく笑った。
武にも文にも秀でているとは言えない自分が、あの“趙匡胤”と対等に話をしたい一心で仕組んだ、ちっぽけな芝居だった。
何も持たない自分。何もできないと思い込んでいた日々。
それでも、観察眼と口先だけで、なんとかここまでやってきた。
けれど、遠くから聞こえてくる趙匡胤の噂は、いつもまばゆかった。
騎射において右に出る者はおらず、古今東西の書を読みあさる。人望も厚く、才色兼備の天才――そんな人物が本当に存在するのか、どこか作り話のようにも思っていた。
しかし、目の前に現れたのは、まさに噂通りの人だった。
なんとしてでも近づきたい。仲良くなりたい。
ただ、それだけだった。
「……おい、泣くほど笑うなよ」
趙普は、涙を浮かべた燁華の脇腹を肘でそっと小突く。
燁華は、長く自分が慕われていたという事実に、思わず胸が熱くなっていた。
けれど、それは“趙匡胤”として、男として慕われているのだ。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥がひどく締めつけられた。
——私が彼から欲しい感情は、それではない。
しかし、そんなことは口が裂けても言えない。
燁華は目に溜まった涙を指で拭い、無理に笑顔を作りながら、言葉をつないだ。
「まあ、いいさ。趙普、お前の賢さは十分知っている。むしろ、本も読まずにあそこまで思考を巡らせられるなんて……ある意味、すごいな」
「それは……褒めてるのか?」
「どっちだと思う?」
「うーん……どっちでも。もう慣れてるさ」
趙普は肩をすくめると、すこし気恥ずかしそうに笑った。
「昔、田舎で教師をしてたことがあるんだけどな。あんなに書を読まない教師は、俺くらいだっただろうな」
「じゃあせめて、『論語』くらいは読んでおいたほうがいいぞ」
「……まあ、そのうちに」
趙普は湖面を見ながら、小さく返した。
そんなやりとりが、やけに心地よかった。
風が髪を揺らし、ふたりの間をやさしく撫でていった。
燁華は思う。
(こんな日々が、長く続けばいいのに)
だが——
それは、叶わぬ願いだった。
◇
同年十二月。北からの風が冷たさを増し始めた頃。
契丹の耶律堯骨は、大軍を率いて南下。
後晋の首都・開封はあっけなく包囲され、やがて陥落した。
皇帝・石重貴は捕らえられ、北へ連行される。
その日をもって、後晋は滅びた。




