3-3.柴氏(さいし)の応援
その夜、燁華は何度も机の前に座っては、ため息をついていた。
ただ、お礼を伝えたいだけなのに……
筆をとり、硯に墨を含ませながら、何度も試し書きを繰り返す。
——「ひとたびお会いしただけなのに、あなたのことが忘れられません」
——「あなたの香が風にまじるたび、胸が波打ち、想いがあふれそうになります」
——「今すぐにでも、もう一度、お会いしたい」
滲み出てくるのは、恋文のような言葉ばかりだった。次々と綴っては、書きかけの紙を丸めて放る。もう部屋の隅には紙くずがいくつも転がっていた。
「男からこんな手紙をもらっても……気持ち悪く思われるだけだ……!」
そう呟いて、頭を抱える。胸の奥がむず痒く、熱っぽい。
こんな感情、初めてだった。どう扱えばいいのか分からない。
これまで一度も、誰かに心を奪われたことなどなかったのだ。
「はあ……」
大きなため息とともに、燁華は布団にもぐり込んだ。
◇
まだ空も白み始めたばかりの頃、燁華ははやばやと目を覚ました。
寝不足のはずなのに、身体はそわそわと落ち着かない。
ふと、どこからか、香ばしい香りが漂ってくる。気がつけばその香りに導かれるように、廊下を歩き、屋敷の厨房を覗いた。
「おはよう。早いのね」
振り返ったのは、柴氏だった。朝の光の中で、彼女は湯気の立つ碗を手に、調理人たちに指示を出していた。
「美味しそうな香りがして……」
「ふふ、今ね、朝食の味見をしていたの。どうぞ、そこに座って」
柴氏は、できたての料理を器に盛り、燁華の前にそっと置いた。
湯気とともに立ちのぼる香りに包まれながら、燁華は静かに口をつけた。ほんのりと甘く、滋味のある味わいが、冷えた心と身体をやさしく満たしていく。
柴氏は、一目で燁華が女であることを見破ってしまった。これまで、誰にもそれを悟られたことはなかったのに……
だからだろうか。燁華はいつになく素直に言葉を発していた。
「趙普に……何か、お返しをしたくて。どんなものを贈ったら、喜ばれるでしょうか」
柴氏は、手元をふと止めて、燁華を見た。一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに優しく目を細めて微笑む。
「あなたは、何をあげたいの?」
「ええと……昨日、栞をいただいたんです。だから、筆とか……文鎮とか。書に使えるものなら、きっと役に立つと思って……」
「いいと思うわ。あなたからのものなら、何でも喜ぶはずよ。彼——ずっとあなたのファンだったんだから」
「……え?」
思わず椅子から腰が浮いた。
「洛陽の英雄の名は、この郭家にも届いていたわ。あなたの武勇伝、趙普は全部覚えているのよ。暗唱できるくらいに」
柴氏は、燁華の頬がみるみる赤くなっていくのを楽しそうに眺めている。
「……その、彼は結婚してるんですか?」
燁華がためらいがちに尋ねると、柴氏はまるで愛らしい娘を見る母のような、柔らかな眼差しでふふふっと笑った。
「していないわ」
その言葉に、燁華はふっと胸をなでおろす。
「そうですか」
安堵が胸いっぱいに広がった、のも束の間——
「求婚者はね、あとを絶たないのだけど」
「えっ……!」
胸が苦しくなり、今にも息が止まりそうだ。
「でも——燁華ちゃんのために、全部断っておこうかしら?」
「そ、そんなこと……できるんですか?」
「もちろん。夫と栄にはこう伝えておくわ。『趙普は、男色らしい』って」
(そ、そこまでしなくても……!)
そう思ったはずなのに、口から出たのは——
「お、お願いします……」
耳まで真っ赤になり、もじもじと俯く燁華。
柴氏はその様子に目を細め、くすくすと笑った。
「あなたの恋、応援してるわね」
柴氏は何かを察したのか、燁華にウィンクを投げた。




