1-1.兄と妹
三月。庭の雪はすっかり溶け、風が柔らかくなり始めた頃。
趙家の庭の一角で、十一歳の燁華は木陰に腰を下ろし、静かに書を読んでいた。
彼女は、淡い藍色の短い上着――襦を身にまとっていた。袖は動きやすいようにやや短めに仕立てられ、腰には共布の細い帯が、きゅっと結ばれている。
下には、男児の服である袴をはいていた。
すっと通った鼻筋とまっすぐな眉が、あどけなさの中にも中性的な美しさを宿している。艶やかな黒髪は肩に届くほどに伸び、高い位置で軽く結ばれていた。
庭の奥、咲き誇るシロツメクサの中に、妹の翠琴はしゃがみ込み、小さな白い花を摘んでいた。
柔らかな絹で仕立てられた、淡い桃色の襦と、それと同色の単が、緑の草原に映えている。
細い眉と、濃い翠の大きな瞳。丸い鼻と紅に染まった頬が、少女らしい愛らしさを引き立てていた。ふんわりとした茶色の髪は肩にかかるほどに伸ばされ、額の上で軽く紐でまとめられている。
「お姉さま、見て!」
翠琴の声が、木々の隙間から跳ねるように響く。
きらきらと弾ける笑顔をこちらに向けている。
かんむりを頭に載せた翠琴は玉のように愛らしい。
「お花、たくさん咲いてるの。花かんむりを作ったのよ。お姉さまにも!」
花で編んだ小さな冠を手に、翠琴が駆け寄ってくる。
燁華は書を閉じ、立ち上がる。
「わ……私はいい!」
燁華が慌てて首を振るのも気に留めず、翠琴は嬉しそうに花かんむりを差し出した。
その瞬間、花の柔らかい香りがふわっと燁華の鼻をくすぐる。
正直を言うと、美しい花かんむりを被ってみたい気持ちはある。……しかしそんな可愛らしいものは、燁華には似合わない。翠琴のような愛らしい表情はできないし、服装だって男ものだ。そんな自分が花を頭に載せても、滑稽なだけだろう。
男児のなかった趙家は、出生時に”大業を成し遂げる証”が現れた燁華を、「趙匡胤《ちょうきょういん》」という名前の男児として育てた。
「お姉さまに似合うと思ったのに」
翠琴は残念そうに唇を尖らせる。
「おまえが二つかぶればいいさ」
そう言って燁華がかんむりを翠琴の頭に載せると、妹の顔がぱっと明るくなる。
「わあっ!」
くるくると回りはじめた翠琴の桃色の裾が、風にふわりと舞った。
「お姉さま、私、かわいい?」
「ふふ、世界一かわいいぞ」
そう言いながら、燁華の胸はちくりと痛んだ。
翠琴を見ていると、“女の子”とはこうあるべきだと、見せつけられているような気がする。それに比べて自分は——愛想もなく、背ばかり高く、女らしさなどどこにもない。自分が男でも、とても魅力的だとは感じないだろう。
「はあっ」
燁華は木陰に戻り、再び書を開いた。
書の世界に入れば、心が静かになった。
そこには余計な視線も声もなく、自分が“男か女か”を問う者もいない。
行を追うことで、心のざわめきが少しずつ薄れていく。
自分は、男であることを望まれている。
家を継ぐ者として、剣を振るう者として。
ただ本当は、時々わからなくなることがある。
自分の中の”女”が、翠琴のように自由に振る舞いたいと悲鳴を上げる。
でも、それでも、私は趙家の跡取りだ。
期待には応えなければならない。
燁華は”女”の自分を、今日もスッと心の奥に押し込めた。
◇
一方の翠琴は、ただただ燁華が羨ましかった。
趙家の跡取りとして育てられた姉には、何もかもが用意されている。
武術、学問、礼法——どれも一流の師がついている。
そして、姉はそれら全てを見事にこなしていた。
自分が外で遊んでいる間、姉は書を読み、筆を走らせている。
琵琶の練習中にも、姉は外で弓を引き、馬にまたがっている。
——お姉さまの世界は、どんどん広がっていくのに。
自分の世界は、家の中に閉じられていってしまう、そんな気がした。
「お姉さまは、いいなあ」
厩舎に立ち寄った燁華に、翠琴は声をかけた。
「何がいいんだ?」
「色んなことを教わってるし、弓や馬も上手。……この前ね、お父さまに“私も馬に乗りたい”ってお願いしたの。でも“まだ早い”って。お姉さまが私の年にはもう乗ってたのに。不公平だわ!」
言いながら、翠琴はふくれっ面になった。
(私だって、ちゃんとやればできるのに。お父さまはわかってない)
たしかに最初は、鶏にすら驚いて泣いたこともある。けれど、それは昔の話。
今の自分は違う。
ちゃんと走れるし、転ばなくなったし、字も上手に書けるようになった。
(なのに、お姉さまはすぐ馬に乗せてもらって……)
燁華はふっと笑う。
「翠琴がどんくさいのを知ってるからだろ」
「ひどーい!!私、ちゃんと速く走れるようになったんだからね!」
翠琴は、腕をぶんぶん振って、走る真似をする。
「じゃあ、競争してみるか?」
馬を馬房に戻し、腕をまくる。
翠琴はぴたりと動きを止めた。
(……え? 本気でやる気?)
「う……今日はやめとく。お姉さまに勝ちをゆずってあげる!」
先ほどまで威勢の良かった翠琴だが、姉の本気に一気にやる気をしぼませる。
燁華は肩を震わせて笑った。
「ああ。ありがとうな。」
「ところで、伝心術の練習はもう終わったのか?」
燁華の問いに、翠琴はぴたりと動きを止め、ぱちくりと瞬きをした。
「ええっとぉ……」
翠琴には、生まれつき特殊な能力があった。
伝心術——触れた相手の思考や感情を感じとる力だ。
この能力は趙家の血に稀に現れるもので、古くは“家を栄えさせる力”とも、“破滅を呼ぶ呪い”ともささやかれてきた。
「伝心術、あんまり好きじゃないの」
ぽつりと漏らす声に、燁華は眉をひそめた。
「どうして?」
「だって……聞きたくないことまで入ってくるの。悲しい気持ち、怒ってる気持ち、嬉しい気持ち……全部がごちゃごちゃになって、頭の中がぐるぐるするの。頭がおかしくなりそう!」
翠琴は小さく首をすくめ、潤んだ瞳をそらす。その目の奥には、幼いなりの苦悩がにじんでいた。
燁華は何も言わず、そっと翠琴の頭に手を伸ばすと、優しくなでる。
その温もりに、翠琴の表情が少しだけ緩む。
「お姉さま」
「無理しなくていいんだ。力を使いたくなければ、使わなくていい。誰になんと言われても、私が守ってやる」
その一言に、翠琴はほっとしたように目を閉じ、姉の胸元に身をあずけた。
春の風がふわりと吹き抜ける。
まだ幼い二人は、それぞれの宿命に揺れながらも、お互いを深く思いやっていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます❤︎
ブックマークしていただけますと、泣いて喜びます!