2-8.懐徳の心鎧(しんがい)と翠琴の誓い**
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残虐表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
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交渉は無駄か……
意を決した燁華は矢筒に手を伸ばしかける。
曹彬や潘美もすぐに闘えるよう、武器に手をかけた。
が――
「俺がやる」
懐徳が、静かに前へ出た。
その背には、ぶれぬ決意と異様な静けさがあった。
「待て、無茶だ」
燁華が思わず声を上げる。
「信じてくれ」
懐徳は燁華にだけ視線を向けた。
その瞳には、鋼のような光が宿っていた。
「皆を下がらせて。……絶対に手出ししないでくれ」
燁華は一瞬、迷った。だが、頷いた。
翠琴を自分の胸に抱き寄せながら、仲間たちに下がるよう合図を送る。
そして――
懐徳はゆっくりと敵のど真ん中へ歩みを進める。盗賊たちは「なんだこいつ、一人で来るのか?」「バカか?」と嘲笑を浮かべた、その瞬間。
銀色の閃光が、空気を裂いた。
と同時に、目の前の盗賊の首が飛ぶ。
懐徳が、両手に構えた二刀を振るう。
その動きは、速すぎて目視すら追いつかない。
まるで、黒い狼が疾走するかのようだった。
「なっ……!?」
男たちの驚愕の声をかき消すように、血しぶきが舞う。
一瞬で、二人、三人……いや、それ以上が倒れ込む。
懐徳の周囲をぐるりと囲んでいたはずの盗賊たちは、次々と切り伏せられていく。
すべてが正確で、無駄のない一撃。
力任せではなく、動作や気配を極限まで研ぎ澄ませた、冷静な剣さばきだった。
離れた場所からその光景を見つめる燁華は、思わず息を飲む。
「……なんだ、あれは……」
あんな戦いを目にしたことがない。
人の技とは思えない。まるで獣そのものだった――
翠琴は、燁華の腕の中で目を見開いてそれを見つめていた。
あっという間の出来事だった。
荒れ狂うような刃の閃きが止んだとき、盗賊たちはみな地に伏していた。風が枝を揺らす音のほかは、何者かのうめき声がかすかに聞こえるだけだ。
燁華は弓を手にしたまま、思わず息を呑む。つい先ほどまで、あれだけ多くの敵がいたとは思えない静寂が辺りを包んでいた。
まるで時間が止まったかのように、懐徳は不自然に硬直していた。やがて彼は二刀を鞘に戻すと、ふらりと一歩後ずさりし、ゆっくりと膝をつく。周囲に散乱する盗賊の亡骸、その真ん中へ吸い込まれるように座り込むと、両手で頭を抱える。
「兄さん……!」
燁華が声をかけるが、彼は応じない。先ほどまでの冷徹な殺気が嘘のように消え去り、今はただ、深い闇の底に沈んでいるようにも見える。
「懐徳……大丈夫か!?」
曹彬や潘美も心配そうに呼びかけるが、反応はない。
燁華が一歩踏み出そうとしたとき、翠琴がそっと腕を伸ばした。
「お兄さま、私が行く」
促されるように、燁華は言葉を呑み、周囲の仲間たちも足を止める。
翠琴は歩み寄りながら、懐徳の乱れた呼吸を感じ取っていた。彼は目を閉じ、歯を食いしばるようにしてうつむき、ガタガタ震えている。
そばに膝をついた翠琴は、恐る恐る懐徳の肩に手を置き、静かな声で呼びかけた。
「懐徳、聞こえる……?もう大丈夫、終わったのよ」
かすれた声で言いながら、翠琴は懐徳の背をさする。懐徳が押し込めていた絶望や恐怖、痛みや罪悪感が、翠琴の胸へどっと押し寄せる。
ああ……この人は……こんなに一人で苦しんでいたのね。
彼の心が読めなかったのは、彼が固く心を閉ざしていたからだった。
「……あ……」
懐徳がかすかな声を漏らすと同時に、翠琴はそっと彼の頭を自分の胸に抱き寄せた。まるで子どもをあやすように、その髪を優しく撫でる。
「大丈夫、大丈夫よ。もう、全て終わったから」
懐徳は安心したようにふっと力を抜くと、そのまま意識を失った。
◇
懐徳が目覚めると、そこは宿の一室だった。
翠琴はベッド脇の椅子に座り、燁華は腕を組んで棚にもたれかかっている。
「気づいたのね。良かった……」
翠琴は満面の笑みを浮かべ、懐徳の手を両手で包み込む。
「――心鎧か」
燁華が問うと、懐徳はゆっくりと頷く。
「心鎧?」
翠琴が首をかしげる。
「心鎧とは、高家に伝わる特殊能力だ。感情や痛覚を一時的に封じ込める代わりに、圧倒的な戦闘能力を発揮できる。……ただ、あんなに強い“無双”は初めて見た」
そう言って、燁華は懐徳をまじまじと見つめる。
「歴代最強だと言われている」
懐徳が応じる。
「ただ……能力発現中の記憶が全くないんだ。命の危機を感じると勝手に発動する。気づいたら敵も味方も区別なく斬り伏せて……周りは死体の山だ」
「コントロールできないのか」
燁華がさらに問う。
「ああ。色々とやってみてるんだが……。無双が強い分、コントロールが難しい」
「……発現後は、いつもあんな風になるの?」
翠琴が恐る恐る尋ねると、懐徳は婚約者に見せてしまった“醜い姿”を思い出し、苦虫を噛んだような表情になる。
「……ああ。戦闘中の感情や痛みが、一気に押し寄せてくるんだ」
懐徳は大きく息を吐き、天井を仰ぐ。
「疲れているだろう、もう少し休め」
そう告げると、燁華は翠琴を連れて部屋を後にする。
廊下を歩く翠琴は、いつになく神妙な面持ちだった。
二人の自室に戻ると、彼女は小さく息をついて口を開く。
「お姉さま、私……」
「なんだ?」
翠琴はまっすぐ燁華を見つめ、言葉を紡ぐ。
「私、彼を支えるために生まれてきたんじゃないかって思うの」
翠琴の瞳は大きく見開かれ、澄んだ翠色が奥深い決意を宿していた。
「私、この能力がずっと嫌だったの。他人の声が勝手にどんどん聞こえて、憎しみも悲しみも、邪な感情までもが入り込んで……自分がどこにいるのかわからなくなることもあるの。」
その苦しさをわかってくれたのは、燁華ただ一人だった。家族が”その力を使って働け”と言った時も、翠琴が自分の意志で能力を使えるように、守ってくれた。だから……
「お姉さまのためだけに力を使おうって、そう誓ってた。でも、今日、彼の姿を見て……」翠琴は、ふっと目を伏せる「どうしても助けたい、力になりたいと思ったわ」
「そうか」
燁華は柔らかな微笑みを浮かべ、翠琴を見つめる。
「伝心術は相手の心を読むだけじゃない。感情や意識を“送る”こともできるの。
私、使う当てがないからって練習さぼってたんだけど……これからはちゃんとやるわ。彼を救うために。そして姉さまと彼のために、この力を役立てる」
そう言って、翠琴はてへっと肩をすくめる。
燁華はそんな妹の頭をポンポンと叩いた。
「おまえが思うようにすればいい」
翠琴の心の中で、懐徳への温かな想いがじんわりと広がっていった。




