2-6.紅蓮(ぐれん)の別れ、旅立ち
年が明けて、正月。
大盗賊団の討伐からしばし時が過ぎた洛陽の街は、冬の冷たい空気を含みながらも、どこか穏やかな活気を取り戻していた。
燁華――男名:趙匡胤――は、街の一角にある“紅蓮隊”の拠点にて仲間を前に、新たな道を歩む決意を口にしていた。紅蓮の旗を掲げて洛陽を守ってきた彼女だが、中華を根本から変えるために、旅に出るという。
「私はここを離れる。残りたい者は残ってもいい。離れる者も止めはしない」
ざわめく隊員たちを前に、燁華はいつもと変わらぬ落ち着いた声で伝える。
杜重威の娘が、「父の遺志をつぎ、彼が成し遂げたかったことを、別の形で成し遂げたい」と隊に残り、古参の仲間たちとともに洛陽を守っていくことになった。
「いつか、またどこかで会えるさ」
燁華が小さくほほえむと、杜の娘は深く頭を下げ、それぞれが静かに旅立ちを見送った。
◇
燁華が向かう先は、叔父・王彦超の屋敷。
彼は燁華の父である趙弘殷の義弟にして、節度使を歴任した名将だ。
人柄も良く、部下からの信も厚いと聞く。
出発の朝――
翠琴は、燁華の部屋の前に立っていた。
「お姉さま、私もついて行っていい?」
燁華はふっと優しい笑みを浮かべる。
「いいぞ、止めてもくるんだろ」
やがて二人は一頭の馬を連れ、屋敷の門を出る。深紅の門扉をくぐると、そこには見慣れた男が立っていた。
「――高懐徳様!? あなたもいらっしゃるんですか?」
翠琴が驚きの声を上げると、燁華は一瞬で表情を和らげ、朗らかな声で懐徳に言う。
「兄さん、待たせたな」
「兄さん……?」
翠琴は目を丸くして、きょろきょろと二人を見比べる。
「翠琴、俺たちは義兄弟になったんだ。これからは行動を共にする」
「な、な、な、な……」
あまりの展開に思考が追いつかず、翠琴は口をぱくぱくさせる。そのまま懐徳に軽々と抱き上げられ、彼の馬に乗せられた。
「きゃっ!」
懐徳の逞しい腕が翠琴の腰を支えると、彼女は顔を赤らめながらも慌てて体を固くする。
「重くて馬が嫌がるかもしれないな」
懐徳が低い声で言うと、
「なによ、失礼ねっ!」
翠琴はさらに赤くなって、懐徳の胸をポカスカ叩く。
その小さな拳の感触に、懐徳はふとほほえんだ。
二頭の馬は、三人を乗せてゆっくりと進み始める。
こうして馬上で体が密着してしまうと、懐徳の体温が否応なく伝わってくる。
あいかわらず何を考えているのか、翠琴の伝心術でもさっぱり読めない。その恐ろしさがありつつも、背に伝わる熱はどこか心地よかった。
三人は洛陽の街を後にした。
◇
城門をくぐると一転、開けた郊外の風景が広がる。枯れ草の色が目立つ冬の原野には、ところどころ雪が残る。遠方に霞む山並みは薄紫にけぶり、長閑な空気が流れているようでいて、どこか緊張感をはらんでいた。そんな景色を横目に、三人は馬を進める。
燁華が懐徳に耳打ちする。
「ずっとつけられてるな」
「……ああ」と懐徳も答える。
「少し、馬を休ませよう」
燁華がわざとらしく声を張ると、馬からすっと降りた。
懐徳も翠琴を抱えるようにして降ろす。
彼女はまた少し顔を赤らめたが、文句は言わなかった。
その瞬間、懐徳の姿がふっと消える。
木立の影に回り込んだかと思うと、次の瞬間、短剣の刃が追跡者の首元にぴたりと触れていた。
「……何者だ」
「ひいっっ!!」
悲鳴とともに、木の陰からごろごろと転がり出てきた三つの影。
「あっ……!」
翠琴は、見慣れた顔を見て、口をぽかんと開けた。
「す、すまん!悪気はないんだ!」
潘美が両手を上げて弁明する。
「兄貴っ、俺たちを見捨てないでくれよ……」
曹彬が情けなくも懇願するように叫ぶ。
「はは、匡胤がいない洛陽なんて、つまらないんだもの」
韓珪はどこか照れたように笑った。
燁華はため息をひとつ。
「はあ……お前たち、私についてくるなら、もう洛陽には戻れないぞ」
「もちろんだ!」曹彬が拳をにぎる。「兄貴が行くなら、地獄だってついてくぜ!」
「匡胤のいる場所が、俺たちの故郷さ」潘美が静かに言った。
「病気の妹は杜の娘さんに預けたし、あたしももう洛陽に未練はないわよ〜」韓珪がにっこり。
燁華は一瞬黙っていたが、やがて口元を緩めた。
「仕方ないな……」
その顔には、少しだけ嬉しさが滲んでいた。
それを見逃すはずもなく、翠琴はくすっと笑った。
◇
次の町で三頭の馬を手配した。
三人は初めての騎馬に歓声をあげる。
「すっげー! 将軍になった気分だ!」と曹彬ははしゃぎ、
潘美は驚くほど自然に乗りこなしている。
「こ、こわくないわよ〜っ!」と韓珪は馬の首にしがみつきながら恐る恐る進む。
その後ろで、懐徳の馬に揺られる翠琴は、どこか機嫌が悪かった。
姉をとられたような、妙な寂しさが胸の奥をつつく。
「ねえ、あなたいつ兄さまと義兄弟になったのよ?」
「屋敷での宴の夜だ」
(あの……二人きりだったときだわ。なんだか怪しい雰囲気だったのはそのためだったね。)
翠琴はその夜のことを思い出し、ひとり頬を膨らませた。
「私の方が、先に兄さまの妹だったんだからねっ!」
懐徳がふっと笑う。
その頬を膨らませる仕草が、やけに可愛く、
まるで小さな子どもみたいだ。
「なっ……バカにしてるでしょ!? もう、知らないっ!」
ぷいっとそっぽを向く翠琴。
感情がころころ変わる彼女は、見ていて飽きない。
思わず肩を震わせて、笑いをこらえた。
こんなふうに心の奥から笑ったのは、いつぶりだっただろうか。
そんなふたりの心の距離は、いつの間にか縮まっていた。
時折聞こえる翠琴の怒り声と、懐徳の微かな笑い声。
そこにドタバタな3人が加わり、一行は賑やかに旅を続けた。




