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2-5.義兄弟の契り

 十一月。

 色づいた葉は地に落ち、裸になった枝々が冬の到来をじっと待っていた。洛陽の空気は冴え冴えと澄み、吐く息が白く宙にほどけていく。


 燁華(ようか)——男名・趙匡胤(ちょうきょういん)率いる紅蓮隊(ぐれんたい)は、大盗賊団の討伐という一大任務を見事果たした。

 その功績は都にも轟き、朝廷から燁華へ、多額の報奨金が贈られた。


 だが燁華は、それを一文も懐に入れなかった。


「この功は、皆の力によるものだ」

 そう言って、すべてを宴の費用とし、残りは紅蓮隊の隊員たちに公平に分け与えた。


 その夜、屋敷の庭は提灯の灯に照らされ、湯気立つ料理と香ばしい香り、賑やかな笑い声で満ちていた。

 寒空の下、大きな火鉢を囲んで湯を沸かし、熱燗や温かい(あつもの)が振る舞われる。

 隊員たちは、戦を終えた安堵と誇りに酔いしれ、杯を重ねた。


 笑いと熱気に満ちたその場の空気が、燁華の内側までじんわりと染み込み、いつの間にか頬が上気していた。酒を飲んだわけではないが、仲間が笑顔で美味しいものを食べ、くつろいでいるのを見るのはとても楽しかった。


「お前の一刀が決まったときは、まさに神懸かっていたぞ!」

「いえいえ、俺なんかより、あのとき指揮を取った曹彬(そうひん)の援護射撃が……!」

 談笑が弾け、杯がぶつかり合うたび、火の粉が空に舞うようだった。


 燁華は、一人ひとりに声をかけてまわった。

「よくやったな」

「遠慮せずに食えよ!」

「まだ酒が残ってるぞ、もっと飲め!」


 普段は冷静に隊を率いている燁華も、今夜ばかりは年相応の笑みを浮かべていた。

 頬が火照っているのは、寒さと熱気のせいだけではない。


 燁華は、皆の陽気な様子に頬を綻ばせつつ、そっと宴を抜け出した。



 ◇



 庭の奥、紅葉もすっかり落ちた楓の木の下で、一人空を仰いだ。

 冷たい風が頬を撫で、火照った肌に心地いい。


 澄んだ月が、夜空の中心で静かに輝いていた。

 まるで、すべてを見透かすかのように。


 ——「国は変わらん。結局、強い者が勝ち、勝った者が正義となるのだ」


 盗賊団の首長・杜重威(とちょうい)が残した言葉が、頭の中をこだまする。


 正義とは何か。


 それは自分が信じた道を貫くことだと、そう信じてきた。


 紅蓮隊と共に洛陽を守り、人を救い、正義を貫く。

 だが、それで本当に世の中が良くなるのか。

 それは本当に、自分自身が望んだ道だったのだろうか。


 たとえこの街に一時の安寧が訪れても、外の世界では今なお戦と混乱が続いている。

 分裂したままの中華では、争いの火種は尽きることがない。


 ——この連鎖を断ち切るには、ただ強いだけの者では足りない。

 民のために治める志を持ち、真に中華を導ける者が必要なのだ。


 そして、それは現皇帝・石重貴(せきじゅうき)ではないであろう。


「私は、その人を見つけたい」

 燁華はぽつりと呟いた。

「心から仕えたいと思える人を。そして、その人と共にこの乱世を終わらせたい」


 それは、生まれて初めて、燁華が“自分の意志”で下した決断だった。


 男として育てられたことも、

 弓や馬、古典を学んだことも、すべては父の望んだ道だった。


 紅蓮隊ですら、自ら望んで立ち上げたわけではない。

 ただ、翠琴と共に事件を追い、気づけば仲間が集まり、いつの間にか中心に立っていただけだ。



 けれど今、初めて燁華は、自分の意志で未来を選んだ。



 紅蓮隊を離れる覚悟は、すでにできていた。


 だが——

 思い浮かぶのは、妹の顔だった。


 翠琴(すいきん)

 燁華のたった一人の妹であり、特異な能力「伝心術(テレパシー)」を持つ少女。

 その力は、触れた相手の心を読み取る代わりに、深く傷つく危険を伴う。政治の道具として肉親に利用されかけたことも、一度や二度ではない。

 その度に燁華は、彼女を守ってきた。


 だが、これから先、自分が命を懸けて戦に出れば——もし命を落とせば、誰が翠琴を守るのか。

 あの無邪気な笑顔を、誰が守り抜けるのか。


 燁華は、一つの決意と共に、高懐徳(こうかいとく)を呼び出した。



 ◇



「呼び出してすまない。寒くなったな」

 中庭の一隅、月明かりの下で、燁華は先に言葉を投げた。


 高懐徳は変わらぬ無表情で、ただ黙って頷く。

 その姿はまるで、一振りの刃。研ぎ澄まされた静けさと、凍てついた内面を併せ持っていた。


「まずは今回の働き、感謝している。あなたがいてくれて、本当に助かった」

 燁華がそう言うと、高懐徳は淡々と、だが真摯に頭を下げた。


「それで……聞いておきたいことがある」


 燁華は目を細め、じっとその顔を見つめる。


「妹のこと——どう思っている?」

 ここ数年、定期的に文を交わしていたことは知っている。そのやりとりに、どんな想いが込められていたのか——それを確かめたかった。


 高懐徳は、わずかに目を見開いた。が、すぐに短く答える。


「私の婚約者です」


 あまりにも素っ気ないその一言に、燁華は吹き出した。


「以前、翠琴が言っていた。『あの人、心がないみたいで怖いです』ってな」


 高懐徳はわずかに目を見開いたが、すぐに視線を逸らす。

 だが、その仕草がかえって人間味を感じさせ、燁華は静かに続けた。


「妹は、感情で動く人間だ。あなたとは……まるで正反対だ。

 だが、それゆえに、私は妹をあなたに託したいと思っている。

 あの子を——生涯、守り抜いてくれるか?」


 言葉が夜気に溶けるように静かに消えたあと、しばし沈黙が降りた。

 高懐徳は、燁華の真意を咀嚼するかのように、ただじっと黙していた。


 やがて、まっすぐに顔を上げて——


「もちろんです」

 凛とした声が返った。

「俺は、一度結んだ絆を裏切ることはありません。命に代えても」


 燁華の瞳が、揺れる月のようにやわらかく細められた。



「……では、ここで誓ってくれ」

「私と結義兄弟(けつぎきょうだい)になって欲しい。あなたが兄、私が弟だ」


 高懐徳はわずかに面食らった様子を見せたが、燁華の熱い眼差しに押され、うなずいた。


「望むところです」


 二人は剣を抜き、それぞれの上腕をわずかに傷つけ、血を交えた。

 血の契り。義に生き、志を共にするという誓い——


「今から、あなたは私の兄だ」

 燁華は笑った。

「これからは『兄さん』と呼ばせてもらうぞ」


 高懐徳は……わずかに口元を綻ばせた。


 そのとき、庭の向こうから弾んだ声が響いた。


「お兄さまー……あっ、こんなところに」


 翠琴が、裾を翻しながら駆けてくる。

 高懐徳の姿を見つけると、ぴたりと足を止め、少し身体をこわばらせたが、すぐによそゆきの笑顔を作る。


黒蠍討伐(くろさそり)でのご活躍、お見事でした。皆があなたの勇姿を熱く語っております。私も、この目で見たかったですわ」


 高懐徳は、「ありがとう」と短く返した。

 その声は、どこか柔らかく、以前よりも幾分優しげだった。


 だが、翠琴は気まずそうに視線を逸らし、


「さ、お兄さま、戻りましょ」

 と、燁華の腕を引っ張った。


 燁華はふっと笑みを浮かべ、振り返りざまに高懐徳に小さくうなずいた。


 そして、姉妹は夜の灯に照らされながら、屋敷の奥へと戻っていった。


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