陸の【初めて】
「み、宮本さん……」
前回の授業に引き続き、4限目の古典の授業でも、海は居眠りをしていた。
眼鏡をかけた若いお姉さん先生に名前を呼ばれても夢の中……
「み、宮本さん、授業中ですよ……」
海は、先生に注意されてからようやく目覚めて「は……?」と腑抜けた返事をしながら顔を上げた。
姿勢が悪かったからか、海の座る椅子と机が「ガタン」と揺れた。
清水さんは、海を小馬鹿にするように目を細め、クスクスと笑っていた。
「お、おはようございます、宮本さん。質問です。教科書37ページの『やうやうしろくなりゆく山やまぎは、すこし明あかりて』という文章は、どういう意味だと思いますか?」
「知りませんよ。そもそも教科書持ってきてません」
「え、あの、どういう意味だと思うか教えてください。正解しなくてもいいので、想像で答えてくれれば……」
「知りません」
先生の質問を遮って再び顔を下げて居眠りを始めた。
先生は奥歯を噛んで、ちょっとイライラしていた。海の授業を受ける態度は、おそらく最低評価だろう。
同じ教室で授業を受けているクラスメイトたちは「なんなんだ、あいつ」という表情で、机に突っ伏する海に視線を注いでいた。
「清水さん。『やうやうしろくなりゆく山やまぎは、すこし明あかりて』は、どういう意味でしょうか?」
「明け方に、だんだん山と空がはっきり見えてきて、でしょうか?」
「はい。だいたい清水さんがおっしゃった通りの意味ですね。ありがとうございます」
清水さんは正解。そして海の方を見て「バーカ」と小さくつぶやいたのを、俺の耳が聞き逃さなかった。
本当に性格が悪いな、この人!
馬鹿にされているのは海だけれど、なぜだか俺がイライラしてしまって、ボールペンをぎゅっと強く握りしめてしまった。
(でも、相手はあの清水さんだ。言い返せない、クソ悔しい……)
俺は悔しさから、奥歯を、唇をぐっと噛んだ。
スクールカースト上位の陽キャ女子である清水さんに俺が苦言を呈したところで、仲間を連れてきて、数倍にして仕返しされるに違いない。
(ごめん、海。名誉挽回できない……)
俺は心の中で海に謝った。
海は机に突っ伏して、よだれを垂らしながら呑気にスヤスヤと眠っていた。
海は、清水さんからのからかいを、大して気にしてないみたい……
昼夜逆転生活を送ってきた海にとって、昼間の授業は、心地よい子守唄でしかなかったようだ。
けれど、久しぶりに海が学校に来てくれて、俺は嬉しかった。
♦
「本日の授業は以上です。来週までに、作品鑑賞レポートを仕上げてきてくださいね」
古典の授業が終わると同時に、鐘の音が鳴った。
「はっ、お昼ご飯の時間だ……!」
チャイムの音で目覚めた海は、俺の手を引いて教室を出ようとする。
どんだけお昼休憩を楽しみにしていたんだよ。
「あ、ちょっと待ってよ、海。今、プリントを片付けてるところだから……」
「早く。お腹空いた」
「あ、うん。分かってるから、ちょっと待って……」
慌ててプリントをファイルにまとめようとした。
俺は焦って、授業プリントを挟んだファイルを床に落としてしまった。
中に挟まっていた授業プリントが床に散乱した。
「あ、ミスった……」
「はい、どーぞ」
なんと、教室を出ようとしていた清水さんが戻ってきて、俺のプリントを拾うのを手伝ってくれた――海が拾うのよりも早く、だ。
俺はプリントを拾いながら、清水さんに丁寧にお礼を伝えた。
「あ、ありがとう、清水さん」
「いーよ。困ったときはお互い様だもんね、アタシたちのクラスは!」
清水さんは、俺の黒い瞳を覗き込んで、ニヤッと笑った。
その一部始終を間近で見ていた海は「はぁ……」と深いため息をついて、目線を落とし、プリントを拾いながら、どこか不満顔だった。
それに気が付いた清水さんは、口角を上げてまた笑った。
「あ、ごめんねー、海ちゃん!陸くんとのイチャイチャを邪魔しちゃってー!」
清水さんは、わざと声を大にして、俺と海の仲の良さを強調した。
教室を出ようとしていたクラスメイトたちの視線が一瞬、俺と海に注がれる。
俺は、恥ずかしさから顔を熱くした。
清水さんは、何ごともなかったかのようにプリントをまとめて、友達と一緒に教室を出て行った。
「……」
「……ありがとう、海」
「……」
海は黙って、残りにプリントを拾うのを手伝ってくれた。
教室には俺と海だけが残っていて、とても静かだった。
「う、海……」
「なに?」
「清水さんに、怒ってる……?」
「そんなことない」
「いや、怒ってるの顔に出てるよ!」
海は、眉間にしわを寄せて、奥歯をぐっと噛んでいた。
やはり、清水さんの狡猾な皮肉やからかいの言葉が、心の底に突き刺さっていたらしい。さっきは平気な顔してたけど。
「あんなの気にしたら負けだよ。受け流すか無視するのが正解だと、俺は思う」
「……学食いっぱい食べて忘れるから大丈夫」
ぶっきらぼうに返事した海と学生食堂へと向かった。
♦
「あ、宮本さん、」
昼休み、俺と一緒に学生食堂に向かう海のことを呼び止めたのは、担任の先生だった。
海は、また眉間にしわを寄せて不満顔をしながら、背後の先生と顔を合わせた。
「なんですか?」
「放課後に職員室に来てください。渡したい書類とか、お話したいことがいろいろとありますので……」
「……ちっ」
なんと海は、担任の先生を前にして堂々と舌打ちをした。
「え、あの、先生に限らず、人前で舌打ちをするのやめなさいね……」
「すみませんでしたー。ついクセで」
謝罪の言葉を述べたが、どこか不貞腐れたような感じの海。
しかし先生は立場上、これまで不登校の生徒だった海に強く怒ることも、注意することもできなかった。
――わたしの叱責のせいで、宮本 海さんがまた学校に来なくなったらどうしよう……
きっと、先生の頭には、そんな不安がよぎったに違いない。
「で、では。放課後、職員室に来てくださいね。よろしくお願いします」
先生は口元をぎゅっと結び、渡り廊下のほうへ歩いていった。
ここは、先生に代わって俺が注意してあげないと。
「海、人に謝るときは、誠心誠意謝らないとダメだよ」
「……うるさい」
「お、怒らないでよ。怖いよ……」
海の低い声は、どこか圧がある。
彼女の黒い瞳の奥には、イライラの炎が燻っている。
「私は、陸と一緒にいるために学校に来たの。めんどーな授業を受けたり、清水美玖とかいう【人の気持ちも推し量れない最低な女】にからかわれたり、わざわざ書類を受け取りに来たわけじゃない」
「え、ああ……でも、それとこれとは話が別だよ。人に謝るときは、ちゃんと謝らないと……」
「あーうるさい、うるさい。早くお昼ごはん食べよー」
「……」
陸と一緒にいるために学校に来たの、と言われて、嬉しい一方、俺以外の人との関係を疎かにされて、ちょっと複雑な気持ちだ。
これ以上私に指図するな、という海からの圧を感じたので、俺は口を閉ざした。
海と手を繋いで、学生食堂への道のりを歩く。
廊下ですれ違う生徒たちからじろじろ見られて、恥ずかしくって、とても居心地が悪かった。
けれど、海とまともに手を繋ぐのは初めてで、心の半分は嬉しかった。
海の手、柔らかくて、温かい……
「陸、」
「あ、はい……」
「手汗すごいよ。緊張してんの?」
「ご、ごめん……女の子と手繋ぐの初めてで、なんか、ドキドキしちゃって……」
俺はポケットの中のハンカチを取り出し、慌てて汗を拭おうとした。
海は「いいよ、気にしないで」と、俺の耳元で囁いた。
そして今度は、俺のほうから海の手を握って、隣を歩いた。
なんだか、ただ手を繋いで歩いているだけなのに、すごく幸せな気持ちになった。
「陸の初めて、私が奪っちゃった。へへ」
海は、いたずらっぽく俺の耳元で囁いた。
俺は目線を逸らした。
廊下の窓の外には、【海】のように青く美しい空が広がっていた。