馬の怨は馬ので返す
周辺エピソード 平家物語(自由律に)「華のうちに」
紙に源氏の名だたる者を連ねてみた。ダメだ平家には敵わない。やはり、時代は平家。問題克服の為に、おとなしく力を貸し続けるべし。
ダン!ダン!ダン!荒い足音が近づいてくる。仲綱め。相当に腹を立てているな。取り次ぎの競も焦っているだろうと頼政は思った。急いで紙をしまう。
入ってくるなり、
「まったく、宗盛という男は!」
と言い出した。
「落ち着け。年寄りと言えど耳はよく聞こえる。声は抑えろ。」
そうして座らせる。
「こう言ってはなんだが、お前も悪いのだぞ。天下の平家の前右大将、平宗盛殿が馬をみたいと言っているのに、なんのかんのと言って出さなかったのだからな。小松殿ではなく、あの宗盛殿なのだぞ。いらぬ恨みを買う必要はなかっただろう?」
「ほ、、他の馬ならいざ知らず、(木の下)のみは別です。乗り心地、走り具合、気性。あの鹿毛のスグレモノだけは私だけが乗るものです。」
一気に吐き出した。こ奴は典型的な源氏だ。そう育てたのは私だが、都でやってゆけるのか?
「武士でも源氏はな、、、優れた馬を乗り回し、自らの荘園を見回り、狩りで腕を磨き、一朝事あれば武勇を発揮する。その勇猛さを己の本としている。しかし、平家は違う。花鳥風月を愛で、和歌や音楽(雅楽)の教養を自らのものとしている。我々とはもののとらえ方が違うのだ。そこを分かってやれ。共にあるのだからな。」
「そのような連中の一人が召し上げた(木の下)に仲綱と名付けて、呼んだり、仲綱に乗るとか騒いでるのですよ!」
宗盛にも言い分はある。一度申し出た時に
「乗り回しすぎて疲れているので、今は放牧して休ませているのです。」
と言われてそれなら仕方ないかと周りに話すと
「昨日も庭で乗ってましたよ。」
「えらく元気そうだったが、、、。」
とのこと。ここでカチンと来た貴公子は一日に何度も要請を出してついに侍を遣わし引いていってしまった。
「なんじゃ、歌が添えられている。
こひしくは きてもみよかし 身にそえる かげをばいかが はなちやるべき
じゃと、ヘタな歌を。おい、(仲綱)と焼き印を押せ!」
これ以降、
「噂の名馬を見たいと?よし、仲綱に鞍を置いて引いてこい。仲綱に乗れ。仲綱の鐙をもっと踏め!」
である。源氏の価値観からいうとこれは冗談で済まない侮辱だ。数世代前なら討たれているだろう。それが宗盛には分からない。あくまで仕返しに物笑いにしてやったぐらいの感じなのだ。頼政も源氏だ。それが地紳というべき彼らには耐え難いということは分かる。
「儂はな、平家と共にあるからわかるが、悪質な諧謔と思え。平家には武士として最も切実な土地紛争をちゃんと上から介入し解決できる、治天ではない、治地をその力をもってやってもらえるように言っている。揉め事は辞めてくれ。」
「それは進んでいないでしょう。全て平家との距離で決まる。」
「、、、、急にはできん。平家も朝廷を動かすのに費えが多い。」
しかし、以後も話は進まなかった。馬よりもそのことで鬱屈している。その中で、平家は思ったよりも盤石ではない事が上にいる頼政にはよく見えてきた。特に南都北嶺の僧兵軍団は馬鹿にできない規模だ。そして堂衆合戦は学生と組んで介入するも敗北。もしここに源氏の総力を結集すれば、と思い出す。特に源氏の嫡流、頼朝はもう成人している。結集する核はもう有る訳だ。頼政は徐々に源氏で特に切実な土地問題の解決を政権転覆で成そうか?と思い出す。かつて書いた源氏揃えを取り出した時にイケる!と閃いた。時機が巡ってきている。あとは、誰を担ぐか?だ。
1180年5月に以仁王と共に源頼政が三井寺に向かったという報は世界の目に見えない何かを変えた。束の間の安寧は終わったのだ。
この乱に源頼政の侍、渡辺 競は参加しようとしていたが合流が遅れるうちに、急遽、平宗盛に召された。どうなるものだろうかと思いながら向かうと、
「お前は主の頼政に従うのか?それともかつてウチに仕えた縁を頼るか。」
と問われた。ここで密かに競が口元を緩めて
「無論、宗盛殿を頼ります。存分に使ってください。」と応じたので喜んだ宗盛は。屋敷に留め置き、何かあると競を呼び出した。頃合いよしと思った頃、宗盛にいかにも無念そうな顔をして言った。
「こんな事態ですから武士として、三井寺に乗り込み逆徒の頭、頼政め等を討ち果たして武功を挙げたいものです。ただ使おうと思っていた馬を泥棒に盗まれて乗るに良い馬がいないのです。どうにか都合がつききませんか?」
「よし!とびっきりを出してやろう。」
出てきたのは白葦毛の駿馬。まず競は家に帰り妻子を隠すと鎧を勇ましくはくと、舘に火をつけた。その報が六波羅の宗盛に届くとさすがに理解した。誑かされたのだ。追手が出る、、、、が、競の弓の腕を知る武士らは「24本矢がある。かかって行ったら24人死ぬぞ、、、。」と戦いを挑もうとはしなかった。
三井寺である。集まっていた者は競が合流しないので、六波羅に捕まってヒドい目に遭っているのでは、と話していた。頼政は
「あれほどの男がむざむざ捕まらんだろう。今にも」
と言っていると、競がひょっこり現れた。一同が騒いでいると、
「六波羅のとびっきりに乗ってきました。木の下のお返しができましたな。」
と仲綱に馬を差し出した。
「戻ってきたと?」
宗盛が急いで飛び出すと、確かに白葦毛。が、鬣が切られ、「昔はナン廷、今は平宗盛入道」と焼印が押されていた。不思議なことにこれ以降、この白葦毛には鬣は生えず、焼印も消えなかったということだ。
「馬で叛乱を起こしたわけでは、、、。」
と言いたかったかも知れない頼政入道だが、
馬で受けたことは馬で報いる。
源平合戦の一挿話である。
「「人の都合で焼きごてされるウマの身にもなれ、ブモッ!」」
柳田國男「昔は皆、老年になると頭を剃り、〜入道と号していたのでよっぽど仏教を信仰していたと思われていますが、それは年をとった男の格好がそれしかなかったと言うぐらいのものなのです。(明治大正史世相篇)」




