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予備パパの気持ち

「ふーん。」


薄くブラウンが入ったレンズ越しに、興味深そうな視線が私を舐めるように見つめた。


「私、名前をお伝えしましたっけ?ガブリエル・ライトです。」


職員は今さらながら自分の名前を伝え、角ばった眼鏡を押し上げた。


「え?ああ、はい。」


その瞬間、しまったと思った。


さっきのあの夫婦の非常識な態度に腹が立ち、思わず言葉が出てしまったが、私はまだルカを養子に迎えようと心を決めたわけではなかった。


明日の朝には、どうしてあんなことを言ったのか後悔するかもしれないのに……。


それにこの人、修道院長シスターの“ファミリー”の一人じゃなかったっけ?


『書類は問題ないように頼むよ。』


その電話一本で私は今ここに立っている。


もしこの職員が院長シスターに「例の彼、あの赤ちゃんを養子にしたいみたいですよ?」なんて伝えたらどうする?


『進めて。』


シスターの幻聴が聞こえた気がした。


その一言で、いつの間にか私はルカの父親になっているのではないか。


心の中で首を振った。


さすがにそれは飛躍しすぎだ。


町全体がカルト化して、その中で何が起こっているのか外部では全く分からない……なんてことは映画の中だけ……でもない。現実は映画より奇なり、だ。


アメリカは広いし、州政府の目がすべてに届くわけではなく、ここは特に田舎だし。


じゃあ、俺はもう父親になるのか?それって良いことなのか悪いことなのか?


そんな想像をめぐらせながら、いつの間にか職員と一緒に席を移して座っていた。


目の前には様々なパンフレットが並べられていた。


どこかで見たような、デジャヴを感じた。


「こちらをご覧ください。」


ガブリエルが細かい字で書かれたパンフレットに丸をつけながら説明を始めた。


「赤ちゃんを合法的に養子に迎えるには、弁護士、ソーシャルワーカー、医師、政府関係者、養子縁組の専門家など、多くの準備が必要です。」


「はい。」


ガブリエルが鉛筆で職業をひとつずつ指さすたびに、お金が崩れていく音が聞こえる気がした。


「彼らを雇って手続きを進めるには、平均して3万ドルほどかかると考えてください。」


「はい。」


私の月給は2,400ドルだから、年収を超える金額だった。


「養子縁組の手続きには約1年ほどかかると考えられます。ここでは親と子のマッチング手続きが省略されるので、おそらくそれよりは時間がかからないでしょう。」


「なるほど。」


「ジュンさん、二十代半ばですよね?結婚はまだで?」


「はい。」


「ご存じかもしれませんが、未婚者でも合法的に子どもを養子に迎えることは可能です。ただし、ひとり親の養子縁組はやはりもう少し厳しく審査されますね。」


私はごくりと唾を飲んだ。


深く相談しなくても、自分には赤ちゃんを養子にする資格がないように思えた。


片胸がぽっかりと空いたような気分だった。


ああ、迷っていたけど、やっぱり私はルカと一緒にいたかったんだな。


ガブリエルも、私が言葉にしなくても状況を察してくれるだろう。


「今は途方に暮れているように感じるかもしれませんが、ゆっくり準備すれば大丈夫ですよ。」


「……僕には、望みがないんじゃないでしょうか。」


しょげた声で聞くと、ガブリエルはそっと笑ってルカを見つめた。


「ずっと赤ちゃんを大事に抱いていらっしゃいますね。」


「あ……赤ちゃんは、頭をしっかり支えてあげないといけないって聞いたので……。」


「里親期間が長くなればなるほど、そして赤ちゃんが成長するにつれて親に愛着を持つようになればなるほど、ジュンさんがルカを養子に迎える可能性は高まりますよ。」


一筋の光が見えた気がした。そうだ、養子縁組には金銭的な条件がすべてではなかった。


「お金があり、結婚しているからといって必ずしも養子縁組の資格があるわけではありません。養子を望む里親と子どもとの絆は非常に重要なポイントになります。」


「僕にも、チャンスはあるんでしょうか?」


ガブリエルはニコッと笑った。冷たい眼鏡越しに滲む、温かな笑顔だった。


「もちろんです。もしジュンさんが今お話しした書類手続きを終えていたら、先ほどの夫婦よりも先に、ジュンさんに赤ちゃんを迎えるチャンスがあったでしょうね。」


私はルカと目を合わせて、さらに強く抱きしめた。


ルカが小さくあくびをした。


「ただ、ジュンさんにとって一番の問題はやはり費用ですね。残念ながら、その部分は私たちがどうにかできることではありません。」


「できるだけ早く、何とか方法を見つけてみます。」


***


「さあ、家に着いたよ。」


優しく声をかけると、赤ちゃんがまるで分かったかのように目をパチパチさせた。


まだ本当に笑う時期ではないとネットで読んだけれど、ルカは時々、ふっと笑うようにも見えた。


まだ笑えない赤ちゃんの代わりに、にっこりと微笑み返し、ミルクを飲ませて寝かしつけた。


「今日一日寒い中、お疲れさま。」


横に座りながら赤ちゃんのお腹をさすり、がらんとしたリビングを見つめた。


お金がなくてまだ養子申請は始められていないが、申請後にスムーズに進められるように、今からすべての準備を始めなければならなかった。


まず、赤ちゃんが暮らすのに適した環境かどうか合格点をもらうには、必要なものが一つや二つではなかった。


今は基本の家具すらなく、誰が見ても不合格。


実は里親に選ばれるためにもクリアすべき部分だったが、あのときはなんとなくうやむやにしてしまった。


院長シスターの神聖なショットガンの影響力がどこまで及ぶのかは分からないが、今回も同じようにうまくいくとは限らない。


……たとえそうだったとしても、ルカには本当にちゃんとした家を作ってあげたかったし、マリアの家のように明るく温かい家にしたい。


家。もうここは本当に、私たちの家なのだから。


……違うかな?この町自体が問題かな?稼いで引っ越した方がいいかな?


まともな家具ひとつない、暗くじめじめした家を見回して、ため息混じりに言葉がこぼれた。


「……先は長いな。」


それでもやる気はあった。


午前中に家を出たときと午後の今、変わったのは覚悟だけだったけれど、すでに赤ちゃんと私は家族になったように思えた。


赤ちゃんもそう感じているかは分からないけど……なんとも言えない気持ちだった。


いつの間にかすやすや眠っている赤ちゃんのそばで、食卓に座り、必要なものを書き出し始めた。


まず、赤ちゃんが最も多くの時間を過ごす、きちんとした寝床が必要だ。


それから、ベビー用品を収納したり、おむつ替えがしやすい収納棚兼シェルフのようなものも欲しい。


赤ちゃんの服を入れるクローゼットも必要だろう。


自分の服はすべてキッチンの食器棚や引き出しにしまっていたけれど、なぜか赤ちゃんの服はそうしたくなかった。


キッチンで料理をしないので食器棚が空いており、服の置き場所がなかったからそこに入れて暮らしていた。


ちゃんとした収納スペースがあるのに、わざわざお金を使って家具を買う必要性を感じなかったし、それが合理的だと思っていた。


でも今思えば、私はただ適当に暮らしていただけだった。


少しでも自分を大切にしていたら、ちゃんとしたクローゼットぐらいは揃えようとしていただろう。


そこまで考えが及んで、私はどれほどルカを大切に思っているかを改めて実感した。


子どもにはきちんとした生活空間を与えたいという思いが強く湧いてきた。


子どもと自分が一緒に暮らす“巣”として家を見つめ直すと、頭の中が一気に忙しくなった。


どうすればもっと合理的に空間を分けられるか、与えられた空間に合った家具を揃え、それに合わせた生活ができるかと考えると、なぜか胸が高鳴った。


こんなにワクワクしたのはいつ以来だろう?


もちろん、手元にあるお金のことを考えると、膨らんだ気持ちは風船のようにしぼんでしまったけれど。


ため息をつきながら、前にざっとつけてみた家計簿を開いた。


育児休職中は無給だし、ルカに支給される政府の補助金も、すべてルカのために使っても足りないくらいだった。


電気・水道込みの家賃が700ドル。通信費が112ドル。自分の食費をなんとか200ドル以内に収めたとしても……。


通勤がない分、交通費は減らせるとはいえ、細々と発生する出費を考えると、毎月の固定費は1,050ドルほどだった。


明日、週給が入るのを最後に、それ以降の収入はない……。


「ふむ。」


誰が見ても、打つ手のない状況だった。


それでも3か月もの無給休暇を思い切って取ったのは、自分にある程度の“切り札”があったからだった。


この町に住みながら、たまに急な出費が必要なときにやっていたアルバイト。


今住んでいるアパートは低層だが、全体で5棟ある団地で、家賃の管理と住民対応をするオフィス職員のほか、建物のメンテナンスのために実際に動く管理人が2人いた。


2人は普段、入居者から求められる細かな修繕をしたり、芝刈りや駐車場の管理、団地内の街灯やごみ置き場の管理を行っていた。


前の住人が出たあとのペンキ塗りやニス塗りも彼らの仕事で、定期的にアパートの階段や駐車場の水洗いも行っていた。


2人で5棟を管理していたため、当然人手はいつも足りず、ときどきアパートの掲示板には、住人の中からパートタイムで雑務を手伝える人を募集する貼り紙があった。


時給は15ドル。現金で即支払い。


幼い頃から何でも自分でやってきた私は、ちょっとしたノウハウもあるし、手先もそこそこ器用なので作業は難しくなかった。


他の応募者よりもテキパキと作業をこなせたので、連絡先を残しておけば、いつも最優先で仕事が回ってきた。


それにもかかわらず、私がこの仕事を積極的にしなかった理由は、人との関係がとにかく面倒だったからだ。


管理人たちはぶっきらぼうで、ちゃんと作業しているのに、言ったことが分かったかと何度も確認してきたり、私が目の前にいても空気のように無視して会話したりした。


入居者たちはもっとひどかった。


彼らは基本的に不平不満が多く、人種差別も当たり前だった。


蛇口の修理や電球の交換に訪れると、まるで私から変な臭いでもするかのように距離をとって監視してくる。


可笑しなことに、作業が丁寧なことは分かっていたのか、特に文句は言われなかったが。


修理に来たのに、玄関先で「なんでお前が来たんだ、元の管理人を呼べ」と言う人も必ずいた。


当時は呆れと怒りを感じていたけれど、今となってはそれくらいどうでもよかった。


他のバイトを探せば基本的に移動時間が必要だし、赤ちゃんを連れて行くことはできない。


だからといってベビーシッターに預けたら、育休を取った意味がない。


管理人のバイトなら、一日数時間だけ働けばいいし、ルカと一緒に行動することもできる。


実際、管理人の一人は放課後に自分の子どもを連れていたこともあった。


人種差別?


耐えられる。


人格を否定されるような言動?


「誰も私の同意なしに、私に劣等感を抱かせることはできない」という格言を信じている。


明日からでも空いている仕事があれば連絡をくれと管理人にメッセージを送るため、私は電話を手に取った。


「……!」


そして、ホーム画面を見た瞬間、私は目を大きく見開いた。


姿を消していた“マニト”アプリが戻ってきていた。



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