どうやって捨てたんだろう。
「一緒に行こう。」
グレッグを待っていた交差点で、まだ首もすわっていない赤ん坊をそっと抱き直しながら、私はもう一度ささやいた。
腕の中の赤ん坊は温かく、ふわふわした赤ちゃんの匂いがした。
「一緒に、私と一緒に行こう。」
同じ言葉を繰り返しながら赤ん坊をあやしていると、赤ん坊は穏やかな呼吸をしながらすやすやと眠りについた。
「一緒に行こう、一緒に行こう。」
赤ちゃんが完全に眠るまで子守唄のように繰り返したその言葉は、おそらく私が誰かに一生かけて聞きたかった言葉だったのかもしれない。
眠った赤ん坊を片腕で抱きながら、青い目のシスターが渡してくれたショッピングバッグの中をのぞいた。
中には赤ん坊の出生届の書類とベビー用品などが入っていた。
私は出生届に記された赤ん坊の名前を見つめた。
『ルカ・アンジェルス』
私のように自分の名前を知らない限り、名前は聖人の名前から、姓は孤児院の名前から取るのが通例だった。
赤ん坊は名前もないまま捨てられたようだった。
ルカ。
綺麗な名前だ。これからたくさん呼んであげよう。
顔を上げると、遠くからグレッグの車が近づいてくるのが見えた。
ちょっと出かけてくると言って出て行った私が赤ん坊を抱えて戻ってきたのを見て、グレッグは少し口を開けた。
「お前、何かやらかしたのか?」
「とにかく出発しよう。」
家へ向かう道すがら、いきさつを話すと、グレッグは呆れたように言った。
「断固として断るべきだっただろ!正気か?」
「リボルバーとショットガンが怖かったの。でもそう言うのはなんだから、私の信仰心が深いってことで。」
「何言ってんだよ、バカか?」
わざと頓珍漢な返事をしてやった。
「政府の補助金も出るって。おむつとミルク代ぐらいにはなるけど、それだけでもありがたいじゃない。」
「俺が言ってるのはそういうことじゃないだろ。18年間も責任持たなきゃならないんだぞ?お前の人生で一番いい時期を全部その子に奪われるってことだ、バカ!」
いい時期か。今のこと?若い時代ってこと?
「いい時代」の意味はさておき、私はグレッグの言葉を訂正した。
「養子にしたわけじゃなくて、一時的な保護だってば。18年間じゃなくて、正式に養子にしてくれる親が現れるまで面倒を見るだけだよ。」
「ジュン、お前赤ちゃんの世話なんてできるのか?」
「できないよ。」
シスターさんは私が子どもの世話をよくしてたって言ってたけど、あの子たちはみんな走り回れるくらい大きかったし。
わりと深刻な問題を直視しながら、私は書類を閉じた。
「信じらんねぇ……!」
グレッグはもう呆れすぎて言葉も出ないといった感じでため息をついた。
でも本当に、まず何をすればいいんだ?私は再びショッピングバッグの中をのぞき込んだ。
替えのおむつが数枚と粉ミルクが一缶、哺乳瓶が二本入っていた。
おむつって一日何回替えるの?ミルクはただの水で溶かせばいいの?赤ちゃんも一日三食なの?
……検索すれば出てくるか。
ピンポーン。
ごちゃごちゃ考えているときにスマホの通知音が鳴った気がして確認したが、画面にはアプリのプッシュ通知しか表示されていなかった。
私、通知が来るようなアプリなんて入れてたっけ?
通知をタップしてみると、数日前にダウンロードした会社のベータ版ショッピングアプリからの通知だった。
何となくでタップしてみると、ポップアップが表示された。
WELCOME!
あなたは新しい命の保護者となりました。よって、当社会福祉企業アンジェルス株式会社は、今後3年間、当社アプリを通じてポイントにてあなたとお子様を支援いたします!
今後、あなたのお買い物の決済金額100%がポイントとして還元されます! -[アプリ情報を見る]
「?」
「???」
なんだこれは、と首をかしげた。単なるスパムにしては、会社から配布されたアプリに孤児院の名前が入っていて、ますます混乱した。
でも今はそんなことよりも大事なことがある。
私はアプリを閉じ、スマホをマナーモードにしてから、グレッグに尋ねた。
「誰か子どもがいる知り合い、いない?」
「いるわけないだろ?!……あ、いた!マリアだ!」
マリア?聖母マリア?
飛び出しそうになったバカみたいな思考を、口に出すことだけは堪えた。
「そうだ、マリアは子どもが二人いるって言ってた。今回のクリスマスは出費がかさみそうだって、女子社員と雑談してたのを聞いたんだ。そういえばカサンドラもシングルマザーじゃん!」
「……あー、カサンドラはちょっと……」
日ごとに長くなるカサンドラのまつげのことを思い出し、つい言葉を濁してしまった。
「まあ、確かに私もカサンドラは……なんていうか、ちょっと常識外れな人って感じかな。とにかく、マリアにいろいろ聞いてみればいいよ。お前、マリアとは仲いいのか?」
「クリスマスの挨拶を交わす程度には……」
マリアは40代前半の女性で、私やグレッグ、カサンドラとは担当している業務が違った。
同じオフィスにいる以外には特に接点もなかった。
でも今は、好き嫌いを言っている場合ではなかった。実際、今こうしてぐっすり眠っている赤ん坊が目を覚ましたら何をすればいいのか全く分からないんだから。
「とりあえずメッセージ送ってみなよ。会社の全社員のメールアドレス一覧を見れば電話番号も出るはず。」
赤ちゃんを一時的に保護することになったので助けが必要だという突然のメッセージにも、マリアは快く「時間ができたら来ていいよ」と返信をくれた。
私たちはそのまま彼女の家を訪ねた。
「まあ、なんてこと……新生児じゃない。」
マリアは赤ん坊をそっと抱きながら静かに言った。気になることは多いはずなのに、それ以上は何も聞かず、代わりに赤ちゃんの様子を見守っているようだった。
「名前はルカです。男の子。」
「そうなのね。かわいそうに。こんなに小さくて可愛いのに。」
マリアが小さな声で答えた。
いつの間にか、彼女のそばには彼女の息子たち二人がルカのそばにやって来ていた。
二人とも赤ちゃんから目を離せないでいた。
雰囲気を和ませるために尋ねた。
「二人とも可愛いですね。何歳ですか?」
「七歳と五歳です。赤ちゃんが不思議なんでしょうね。」
マリアは笑いながら自分の子どもたちを見つめた。
よく熟したリンゴのように頬がほんのり赤い子どもたちは、明るく元気そうに見えた。
それに加えて、家の明るい雰囲気や住人の愛情が込められた家具などが目に入ってきた。
マリアは私に、赤ちゃんの世話をするためのさまざまな方法をスピード授業のように教えてくれた。
話の途中で赤ちゃんが目を覚ました時には、ミルクの与え方やおむつの替え方も見せてくれた。
突然押しかけて、図々しくも二時間ほど居座ったあと、帰り際には自分の子どもたちが赤ちゃんだった頃に使っていたという抱っこひもまで持たせてくれた。
「こうして、こうやって……赤ちゃんが少しだけ首を支えられるようにはなってますけど、頭はちゃんと支えてくださいね。」
抱っこひもをつけた自分の姿はかなり不格好だったが、赤ちゃんにとってはずっと安全に見えて安心した。
マリアは、知っておくと良いことをあとでメールにまとめて送ってくれると言いながら、一つアドバイスを添えた。
「もし可能であれば、赤ちゃんの世話に慣れるまでの間は休暇を取った方がいいわ。育児休暇を申請すれば、運が良ければ最大12週間まで休めるから。」
「可能であれば」という言葉は、当然お金の話だった。アメリカでは育児休暇中は無給なのだから。
……3ヶ月ほど給料がなくても大丈夫だろうか?
本当に自分が何の考えもなく、いきなり赤ちゃんを連れてきてしまったのだと実感した。
会社も休まなきゃいけないんだな。
でも不思議と後悔はなかった。たった数時間しか一緒にいなかったのに、赤ちゃんのぬくもりがあまりにも温かかったから。
「いろいろありがとう、マリア。」
マリアに改めてお礼を言い、家へと向かった。
そういえばマリアは、すぐにスーパーに行っておむつを買うように言っていた。哺乳瓶も4~5本は予備が必要だとも。
長い一日が終わり、ようやく家に着いた。
マリアの言葉通り、帰り道にスーパーに寄っておむつやおしり拭き、予備の哺乳瓶などを買っていたので荷物が多かった。
グレッグには、あとでちゃんとご馳走するからと約束し、何度もお礼を言った。
グレッグは首を振りながら、心からの幸運を祈ると言って帰っていった。
赤ちゃんを抱えてロビーのドアを背中で押し開けた。
いつもは階段を使うけど、引っ越してきてから初めてエレベーターを使った。
カチャン。
重いドアを開けて家の中を横切った。
眠っている赤ちゃんをソファに寝かせ、その横に顔をうずめて一息ついた。
押し寄せる疲れに、しばらく何も考えられなかった。
今日はいったい何が起きたんだろう。
静かな寝息を立てて眠る赤ちゃんを見つめながら、ふと、家の雰囲気がマリアの家とは全く違うことを強く感じた。
家具はソファベッド一つだけのリビング、家の雰囲気に合っていない大きすぎるダイニングテーブル一つ、それに暗くて寒々しい室内。
「これは……」
急いで立ち上がり、ヒーターのスイッチを入れた。
一人の時は室温なんて気にもしなかったのに。
ぬくもりとは関係ないけれど、家中の照明も全部つけてみた。
それでも部屋はどこか薄暗かった。
昨日までは何とも思わなかったのに、急に家がとてもみすぼらしく感じられた。
私はしばらく拳を握ったり開いたりして立っていたが、とりあえずコートを脱いで椅子にかけた。
そしてもらってきたショッピングバッグの中でごちゃごちゃになっていた書類やベビー用品を、食卓の端にまとめて整理した。
急に物が増えていて、どこか不自然だった。
スーパーのレシートを整理しながらスマートフォンを開き、銀行アプリにアクセスした。
口座に残っていたのは556ドル。
隔週の給料が手取りで1200ドル入るが、次の給料日まではまだ4日あった。
私は紙を一枚引っ張り出して、ざっと家計簿をつけてみた。
一日のランチ代が8ドル。交通費が5ドル。今週までに支払う通信費が112ドル。
その他細々とした出費を合わせると、今週末にはおよそ1500ドルが残る予定だった。
そして月末には家賃700ドルと、その他諸々の雑費を支払うと、次の給料日までの2週間は700ドル程度でやりくりしなければならなかった。
1週間の生活費がだいたい150ドル前後なので、普段なら問題なかったはずなのに。
「はあ、もうちょっと貯金しておけばよかった。」
思わずため息まじりに言葉が漏れた。
入社してから何年も、特に浪費はしてこなかったけど、資産運用もしていなかった。
子育てでどれだけ追加の出費があるか分からないが、今のように週に200ドルの余剰ではとても足りないだろう。
育児休暇を取るならなおさら無理だ。
政府から一時保護の補助金が出るとしても、おそらく500ドル前後だとマリアが言っていた。
ペンを手の中で転がしながら、働かない頭ではもうどうにもならないと思い、とにかく寝ようと決めた。
軽くシャワーを浴びて着替え、赤ちゃんの隣に横になった。
一人で寝る分には構わないが、赤ちゃんが隣にいるとソファベッドは狭すぎた。
赤ちゃん用のベッドを買うべきか?それとも、一緒に寝ても広々と使えるサイズのベッドを買うべきか?
どれくらいの期間一緒にいるのかも分からないのに、家具を買うのはちょっと……。
でもたとえ数ヶ月だけでも、赤ちゃんには良い環境を用意してあげたかった。
赤ちゃんは覚えていないだろうけど……。
……。
すうすうと静かな寝息を立てて、穏やかに上下する赤ちゃんの身体を見ていると、なぜか胸が熱くなった。
小さな赤ちゃんはとても温かくて、可愛かった。
どうしてこんな赤ちゃんを捨てられたんだろう。
少し世話をするだけでも経済的に負担だし、体力的にも大変なのは明らかだったけれど。
それでも、こんなに愛おしいのに、どうしてこんな子を捨てられたんだろう。
捨てられた子どもは、生きること自体がとてもつらいのに。
この子は、良い家庭に出会えるだろうか。
その時まで、私がしっかりしなきゃいけないな。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。