灰色のような日常
12月のある日。
冷たい風を避けて会社に出勤すると、オフィスの廊下の隅にクリスマスツリーが見えた。
まばらに電球と飾りがつけられたツリーの上に、小さなカードが差してあった。
『Merry Christmas!』
多くの人の手に触れたのか、少しくたびれて曲がったカード。
もしかしたら、自分の名前があるかもと期待したのかもしれない。
そして皆、宛名がないことを確認して、がっかりしながらカードを元に戻したのだろうか。
つまらないことを考えながらカードを元の位置に戻し、自分のデスクへと歩いて行った。
「メリークリスマス、ジュン。」
その途中、通りすがりの上司が微笑みながら挨拶をしてくる。
気合の入っていないツリーでも、キラキラ光るのを見るだけで、もうクリスマスの気分になるらしい。
「はい、マリアさんも。メリークリスマス。」
私も柔らかな笑顔で返した。
クリスマスか。
実のところ、クリスマスはいつもつらい日だった。
私は郊外にある教会附属の保育園で育った。
アンジェルス保育園。
政府の指針により全国の「保育園」が「グループホーム」と名称を変えたにもかかわらず、いまだに皆が「保育園」と呼ぶ、そんな古くて時代遅れな場所だった。
保育園ではこの時期になると、恒例行事のように教会で一日中奉仕活動をしなければならず、いつも最後には無理に笑顔を作って写真を撮らされた。
大人になってからも同じだった。
この会社に入社する前にはいくつものアルバイトをしたが、クリスマスと年末年始は繁忙期で、一年のうちでも最も手当が高い日であったため、忙しく働いた記憶しかない。
教会内にある保育園で育ったにもかかわらず、私にとってクリスマスとは信仰心とは無関係な一日だった。
誰かにかけるクリスマスの挨拶は、文字通りただの形式的な挨拶だった。
それでも……
わずかに光る電球があるだけでも、ないよりはましだと思った。
午前九時。
イントラネット掲示板に新しいお知らせが載った。
来年春にリリース予定の自社ショッピングモールアプリのベータテスト版を社員に配布するという内容だった。
買い物をするようにアプリを試してみて、社内掲示板に感想を書けば、抽選で五名に近所のスーパーの商品券をプレゼントするとのことだった。
数回のクリックと簡単なレビューだけで数日分の買い物ができるなら、なかなか得だと思い、損して得取れの気持ちでスマートフォンにアプリをダウンロードし、インストールして起動してみた。
SVE Shopping。
Beta Test Ver.
開発者情報:SVE Inc.
会社のロゴとアプリ情報が表示された後、一般的なショッピングアプリのような画面が現れた。
メイン画面には今週の特価セール、カテゴリごとに分類された人気商品、決済履歴と貯まったポイントを確認できるマイページ、あなたへのおすすめなど……
仮想とはいえ、本当に運営されているようにアプリが動いていた。
開発チームはかなり苦労したのだろう。
だが、それだけにどんなレビューを残せばよいのか分からない。
他のショッピングアプリと非常に似ているとでも書けばいいのだろうか。
「おっ、商品券くれるってお知らせ出たね!」
少し悩んでいると、向かいのラインから浮き立った声が聞こえた。
いや、確か「くれる」というよりも、レビューを書いた人の中から抽選で与えられるという話だったような……
ちらっと右側を見ると、二つ先の席に座るカサンドラは、今日も勤務開始と同時に化粧を始めていた。
左手にマスカラを持ち、まつげをしっかりと持ち上げながら、右手でマウスを動かして、まずイントラネット掲示板をチェックしていた。
社内で一番面白い場所はそこらしい。
そして彼女が突然仕事に集中し始めると、片方だけ化粧が終わった顔はなかなか衝撃的だった。
いつかその状態のまま給湯室にコーヒーを取りに来た彼女に出くわして、びっくりしたこともあった。
午前十時三十分。
仕事を始めて一時間半ほど経つと、必ず身体をくねらせ始める社員もいる。
「はあ、またコーヒーが冷めちゃった。」
隣の席のグレッグがそう言いながら、私の肩を軽く叩いた。
私も冷たいオフィスの空気にすっかり冷めてしまったマグカップを持って後に続いた。
12月はどれだけヒーターをつけても空気は冷たい。
ひとりきらきらと光る小さなツリーを通り過ぎ、廊下の端にある左側の引き戸を開けた。
小さな給湯室には、三台の電子レンジと二台の社員用冷蔵庫、そして三つの簡易テーブルがある。
テーブルの上には会社が朝食として提供するコーヒー、クロワッサンや食パン、ジャムなどがまだ残っていた。
乾いたクロワッサンを一口かじった。
「今年のクリスマスは何する予定?」
自分のマグカップを電子レンジで温めていたグレッグが、大きくあくびをしながら尋ねた。
「さあね。君は?」
冷めたコーヒーを流しに捨て、新たにコーヒーを淹れながら尋ねると、グレッグはため息交じりに話し始めた。
「今回はね、母さんが再婚するから一度顔出せって言われたんだ。義父と向こうの家族に挨拶もかねて……それ自体は悪くないけどさ、家までバスで七時間もかかるんだよ。あー、俺にも彼女がいたら、その口実で来年の夏休みにちょっと顔出すくらいにしたのにさ……」
再び湯気の立つコーヒーカップを持って席に戻るまで、グレッグはぶつぶつと話をやめなかった。
社内で唯一、年齢が近い彼とは入社初日から割と仲良くしている。
少しおしゃべりで、お節介なところもあるが、近い席の同僚としては悪くない友人だった。
もっと親しくなってからは、彼が本格的に喋り始めたら半分耳を塞ぐ癖がついたけれど。
「……そう思わない?」
「ああ、そうだね。」
何の話をしていたのか分からないが、肯定的な返事をすればグレッグは満足そうにまた話を続けていくのだった。
そうかと思えば、時々脈絡なく話を切り上げ、まるで何も話していなかったかのようにモニターをじっと見つめていた。
実は、グレッグが突然静かになると、少し不安になる。
騒いでいた子どもが急に静かになったときは、何か悪さをしているというが……
私とグレッグ、そして同じラインのデスクに座るカサンドラとオティスが、税引き後月2400ドルをもらいながらしている仕事は、特別なスキルを求められるものではなかった。
単純で反復的な経理の作業で、毎日、毎週、会社の取引先の社員が一生懸命作成した数字のデータを、別の形式にまとめ直す仕事だった。
その作業も、数式さえ入力しておけば、あとはパソコンの基本的なプログラムがほとんどをこなしてくれた。
いずれ技術が進歩すれば完全に消えるかもしれない、そんな業務。
仕事自体に不満はまったくなかった。
間違えようにも難しい作業だったし、仮にミスがあっても自分の手で十分に解決でき、いわゆる上司に怒鳴られるようなことのない職務だった。
それにもかかわらず、時にはそんな場面に出くわすこともあるのだ。
まさに今のように……。
「いや、どうしたらこんなミスするの? グレッグ、あなたがここで働いて何年だと思ってるの!」
「すみません……」
さっきなんとなく静かだった理由が分かった。
短ければ1週間、長ければ2週間に一度は呼び出されて、あの様だ。
毎回同じミスをしていれば、普通は直るものだが。
「学習能力がないの?」
同じことを思ったのか、レイチェル課長の声も大きくなった。
「ああ、本当にさ。今日は全部が俺のせいじゃなかったんだって。取引先の人間がでたらめな資料をよこしたんだよ。」
「……まあ、そういうのをまとめて連絡して、やり直すのも私たちの仕事ではあるから。」
「だったら、あっちにもしっかり仕事しろって電話すればいいじゃん。いつも俺にだけ言ってくるのって何なのさ!俺が舐められてるのか?完全に独身女のヒステリーだろ?」
ぶつぶつ文句を言いながら、今日も一通り怒られた同僚の隣で仕事をしていると、昼休みになり、もう少し仕事をすれば午後4時に退勤だ。
本当に、いい職場だと思う。
午後5時。
退勤後にバスに乗って45分ほどで市街地を離れると、会社がある都会とはまったく違う街並みが広がる。
いつもホームレスが一人か二人はいるバス停で降りて、古びたコンクリートとレンガの色に包まれた、町外れの低層アパートへと歩いていく。
築30年はゆうに超えているであろう狭いエレベーターを通り過ぎ、3階分の階段を上る。
廊下型アパートの3階、5世帯ある中の中央にある303号室の前でポケットを探る。
果たして防犯になるのかは疑問だが、一応ドアが付いている。
ドアがある以上、出かけるときは礼儀として鍵をかけ、帰ってきたときは鍵を差して回す。
幸い今のところ、家に帰ったら鍵が壊されていたということはなかった。
家に入るとすぐ右手にはトイレがあり、左側にはホールディングドアの向こうに小さなキッチンがある。
調理用のカウンターが一つ、ガスレンジ、小さなビルトイン冷蔵庫と一口シンク。
まるで「これがそろっていればキッチン」と言わんばかりに、狭いスペースに無理やり詰め込んだようなキッチンは、ほとんど使わない。
トイレやキッチンへ向かわずに三歩歩いて左に曲がると、二人がようやく向かい合って立てるくらいの細い廊下がある。
その廊下を五歩進むと、右側に一つのドアがある。
寝室用だろうが、ベッドがないため空き部屋だ。
止まらずにさらに二、三歩進むと、この狭いアパートで最も広い場所であるリビング兼ダイニングに出る。
こちら側からもキッチンとはつながっている。
リビング側には小さなバルコニーもある。
タオルや下着など、簡単な洗濯物を干すのにちょうどいい。
3階なのに、時々バルコニーには猫が遊びに来る。
隣の家のバルコニーから来るのか、それともアパートの外壁にある配管のようなものを伝って上ってくるのかは分からない。
時々目が合うと、静かに見つめ合い、いつも猫の方が先に去っていく。
リビングとキッチンの間には、前の住人が残していった4人用の木製テーブルがあるが、この狭い家でなぜ4人用のテーブルを使っていたのかは分からない。
たぶん捨てられていた家具を拾ってきたのかもしれない。
財布や鍵など、何かを置いておける唯一の家具として、それなりに便利に使っている。
ここで自分が購入した家具といえば、組み立て式家具店で買ったソファベッドだけだ。
ここに座ってコーヒーを飲んだり、横になって眠ったりする。
キッチンの棚を使うこともないので、わずかな服や布団はそこにしまってある。
家で本格的な料理をすることがないから、匂いが染みつくこともなく、別に家具を置かなくても済むほど収納スペースは十分だ。
日常に特別なことはなかった。
週に一度コインランドリーに洗濯に行ったり、天気の良い日は掃除をしたりする。
それ以外には特にすることもなく、電気もあまりつけない。
週末の朝は静かで、ゆっくり寝られる。
夜は少しうるさいが、気にするほどでもない。
ただぼんやりと時間を過ごすだけでも、それなりに穏やかだ。
快適とまでは言えないが、特に不便というわけでもない。
雨に濡れることもなく、誰の視線も気にする必要がない。
一般的な家庭のリビングにあるような、ありふれたテレビや本棚などはないが、退屈はしない。
灰色のような匂いはする。
不快な匂いではないから、問題ない。
家は、悪くない。
私の人生も、悪くない。