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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

宗教少女

作者: マグロさん

神が海に命を与え、命が文明を作る。


その文明は、二足の足──地上を歩くためのも──を持ち、二本の腕──木を登ったり、他のものを持ったり──を持つ、自らを自らの言語で人間と、そう名乗る生命体が主に作っていた。


人間は、神から与えられた力を持ち、それらをまた、自らの言語で、魔法だとか、スキルだとか言った。


そのスキルは、例えば、モノを浮かせたり、移動させたり、毒が効かなかったり、我々の言葉で言えば超能力の類と何ら変わらないものだ。


魔法は、我々の言葉としても同じようなニュアンスであり、無から水や火を生成したりする、といったものだ。


そう言った能力があれば、便利だと思うだろう。


実際そうなので、文明というのは、我々のよりも早く作られて行く。


だいたい、倍ぐらいの速度で我々と彼らの文明の差は出来ていく。


が、文明が進み、探究をすることにも重きを置くようになれば、錬金術とかも調べるようになる。


ましてや、魔法なんぞという、錬金術以上に神秘的なものがあれば、みんな魔法を調べ始めた。


コレはそういう時代、そういう世界の、まあ割と安定を保てている時期のお話である。


つまり、私たちが普段から読む、魔法や魔物が存在する、ファンタジーのお話なのだ。







神様への祈りという、ルーティンの一種を済ませれば、私の1日が始まる。


薄暗く、あまり明かりが入らない作りである、だだっ広い部屋の中には、私と、神を模した、これまた大きな石像がある。


高い天井の、少し下、そこから差し込む光は床だけを照らし、壁の暗さを際立てる。


私が体を翻し、服が連動してただようように広がって音を立てれば、出口へ向かう。


ゆったりとした歩みは、女性としての可憐さを保つためでもあるし、足全体を覆い隠すスカートを踏まないようにするためだ。


扉のドアノブをゆっくりと回せば、何となくで音を立てないようゆったりと開ける。


「おはようございます、お嬢様」


「おはよう」


何百回もした、朝の挨拶。


様をつけ呼ばれるのも、慣れてきたものだ。


長い廊下を歩く間の沈黙は、もっと慣れたのだが。


日差しがちゃんと入り込む作りになっているのだから、太陽が登る様はよく見える。


「今日も、いつもと変わりない?」


廊下の終わり、目的地の扉の目の前へとつく少し前に、私は聞いた。


「ええ、いつも通り……強いていうなら、被告人の数が少ないぐらいでしょうか」


「そう」


何分か起きにドアノブを回し、部屋に入り、椅子に座る。


高級な装飾が施された部屋は、食事をするための部屋ではあるのだが、二人だけでは広いスペースと机、多すぎる椅子がここにはある。


軽めの、二枚のパンと、何種類かのジャム、それとカフェオレ。


バターと酸味のあるジャムの味を感じながら、小さい咀嚼音だけが虚しく響く。


息すら目立つであろう、静寂こそが、彼女らの日常を占めており、静けさこそが、安寧の証でもあった。


食べ終われば、皿をメイドの格好をした女性が勝手に下げる。


そのまま部屋を出て、少し立てば隣から水が跳ねる音がする。


食器を洗っているのだとわかるのは、いつも聞いているからだ。


私は、今度は一人で廊下を歩き、また別の場所へ向かう。


殺風景な──というわけでもなく、彼女の感性なのだが──赤いカーペットと装飾が施された壁を何分も見る。


途中、何回か曲がるが、景色は大して変わらない。


しかしゆったりと、石のある動きをするのだから、道順は完璧に頭の中にあるのだろう。


やがて人が通るのにはやや大きい、明るいブラウンの扉を開ける。


そこは、その中は、重々しく、神々しい、そんな場所だ。


カラフルなステンドグラスが天井にあり、その中の一つに、人間が描かれている。


神にでも祈るのだろうか、彼女の他に、一人の男が下を向き、二本の足で立っていた。


彼女とその男の間には、人一人分ぐらいの高低差があり、女性が彼を見下ろす形だ。


さらに、二人の間には布があり、見えるのは互いの影だけだ。


白い壁を隔て、彼女は椅子に座る。


初めは、雰囲気たるものが全然違うのだから気づくことはなかったが、レイアウトだけを見ればそう、我々の言葉で言う、裁判所に近かった。


「被告人、これから、神導教が主宰、神宮寺マナイの名が下に裁判を始める」







神導教、名の通り宗教であり、肌をほとんど──下から見上げてせいぜい白い顎が見えるぐらい──見せない格好をしている彼女こそが、その元締め、神宮寺マナイである。


この国は、宗教国家であり、王や貴族が存在する世界においては珍しい、明確とした統治者がいないのが特徴だ。


一応の、責任者たるのが、マナイである。


神導教を一番理解しているという建前のもと、国民に具体的な指示を出す、ということをしている。


人を尊ぶ宗教が、一応とは言え上下関係を作るのかと言いたくはなるが、コレは三百年続いてきたことである。そこには、ちゃんとした歴史があるのだ。


マナイの仕事は、宗教の管理と、裁判と、外交である。


宗教の管理とは、時代によって捉え方が変わる神導教を定めることである。


我々で言えば、仏教がわかりやすいだろう。


仏教は外国の宗教であり、日本はそれを取り入れ、さまざまな宗派が誕生した。


その中で、正式に扱う宗派を決めるのがマナイの仕事だと思えばいい。


裁判とは、宗教の考え方とは別のルールを用いて、犯罪者に判決を下すことだ。


そのルール、法律には、幾分が神導教の考え方も混じっており、宗教の考え方をどれぐらい無視するか、逆にどれだけルールを尊ぶか、という判断を下すためには、マナイのように宗教に精通してなければならない。


民は、ルールではなく、できるだけ神に、宗教によって裁かれたいのだから、神の代わりとしては、マナイが必要だと思ってくれればいい。


外交とは、基本的に条約である。


マナイの国は軍隊を持たず、植民地を作り経済を回そうとするこの時代においては、格好の的である。


であるから、条約を結び、戦争をしないと、この国を戦争に巻き込んではならないと、そう決めている。


これは立地も関係しており、マナイの国を制したものは、そのまま他の国も制覇する、そう考えられるほど整った土地である。だからどこかの国が攻めこんだなら、損得度外視で他国の共同軍を作りそれを阻止する、という条約と考えがあるのだ。


貿易なども多少はやるのだが、それは民にほとんど任せっきりである。


が、軍隊もいないし、れっきとした上下関係はマナイとその他ぐらいであり、自由にやれるこの国は輸出と輸入が盛んである。


学業の制限はなく、宗教に違反する──そういうことは一切ないが──自由な考えを持って良いし、親の職を世襲する必要もない。


軍隊がいないから、他の国と人口は同じでも、生産業に関わる人数は多いということだ。


立地の話に戻るが、マナイの国は様々な国へ繋がっており、また道も整備されているため商人などは皆この国を通る。その最中に村や街に立ち寄り、交易品を買い、そういうことして経済を回す。


以上がマナイの仕事である。


これをもう少し話せば、宗教とルールの違い、宗教家が金を回す理由、宗教の管理などを行うわけ、つまり仕事が始まった理由のことになるのだが、それはまだしない。


今は、マナイの仕事が外国との円満な関係を作っていることを理解してくれれば、それでいい。









今日の分が終われば、大体昼ぐらいらしく、追宮司が、追宮司バツキが、廊下に待機していた。


「お嬢様さま、お疲れ様です」


「さまさま?」


「ふざけただけです。気にしないでください」


「そう」


また豪華な部屋に戻り、昼食を取る。


今日の仕事は終わり、あとは暇なのだから、明日の分の仕事を済ませておこうとなる。


ただ、自由時間なのだから、フランクに。


「ねえ、明日の予定はないわよね?」


「休みの日ですので、特には」


「劇でも見に行く?」


「そう、ですね。ええ、いきましょう」


今主従関係はないのだから、まるで友達のように話す二人。


明日の受刑者達の書類を目に通しつつ、明日の会話をして、あとは他愛もない話が続く。


それを続ければ、夕暮れが過ぎ日は沈み始めていた。


軽く夕食を取り、今度は読書で時間を潰す。


湯船に浸かり、また読書。


ようやく軽い眠気があくびとして出れば、そろそろ寝ようという話になる。


「おやすみなさい」


「では、また明日」


寝室に入り、そこでようやく、厚木の服をマナイは脱ぎ始める。


装飾が可憐な帽子を取り、顔を隠すためのマスクを取り、五枚ぐらい重ねた服を丁寧に脱ぐ。


身につけていたものを綺麗にたたみ、収納をすれば、次は寝間着に着替える。


そこでようやく、重いものを背負っていた体は安息を手に入れる。


誰もいない、誰もいてはいけない、この空間は寂しいといつも思う。


肌を無闇にさらさないと決められている以上、責あるものとして従うしかないのだが、バツキぐらいには見せたいものだった。


そういうことを言っても仕方ないので、ランタンの空気を絞り込む。


唯一の光が消えてしまえば、窓がないこの部屋は、ただの闇となる。


嫌いではない闇に抱かれ、目を閉じる。


そして気が付かぬ間に、朝を迎える。








繰り返していく日常は、変わり映えのしないものではある。


しかし変化は欲しくない。


不満はないし、客観視すれば豊かな生活をしているからだ。


「手紙?お母様から?」


バツキから渡された手紙には、滞りなく、無事かどうか、そう言った内容だった。


生存確認かと思えるほどで、つまらないのを送ってくるものだな、と思う。


「ふーん」


それで終わり、手紙を封筒に戻してしまった。


「もう一枚ある……」


戻す時に、やや古い便箋が入っているのがわかった。


透けて見える黒い字は、いきいきとしているこの感じは、祖母のものだろうと分かった。


古いが、綺麗な模様が枠を作った手紙は、祖母の字と合わさり一つの美術作品のようだった。


その中がビッシリと書かれているのを見るに、本題はこちらで、母は出すなら一緒にと出したのだろう。


渡したいものがあるから、久しぶりに会いにきなさい。要約すればそうなる。


「バツキ?読んだ」


「いえ。何か私に?」


「会いに来いって」


「行くんですか?」


不機嫌というか、めんどくさそうな、嫌そうな顔をする彼女は、私を見つめる。


「三年ぶりに、会うことになるわね」


溜めて言った私の言葉に、彼女もまた溜めて。


「わかりました」


「週末……週明けに行きましょ。仕事は裁判官に任せといて、特に大きな仕事もないしね」


「はい。外交もないので」


「じゃあそれで」


久しぶりに、この街から外へ出る。多分、十年ぶりぐらいだろうと、覚えている。


母も祖母も私に優しくしてくれたのだから、嫌いというわけではない。しかし私も十五歳の成人であるからして、誰かに甘えるような真似は、特別したくない。


今更会ったところで、話せることは多くない。


「それより週末コンサートでも聴きに行かない?」


このままいけば、人への悪口が飛び出すのだろうとわかっていたから、別のことを考えることにする。


大事な人との、楽しい話だけで、私は充分幸せなのだ。







いつも通りの日常を過ごし、バツキとの時間は過ぎていき、週明けは来る。


ベッドから身を乗り出し、いつもの、司祭服と呼ばれたものに着替える。


前日に準備した荷物は、小さい袋の中で完結してしまった。


一方でバツキのは、スカスカのリュックを背負い、扉の前で待機していた。


彼女と一緒に、普段は通らない道を通れば、大きな扉を潜ることになる。


扉の先には、赤い屋根が空と地上の境界を作っており、朝日がそこに影を落としている。


川の上である、橋に立っているここからは、川の安らぎ、鳥の挨拶、川の上を流れる木製の船の動き、生命の営みを感じることができた。


橋を渡り、住宅地へ近づくたびに、見かける人の数は増える。


早くから店の準備をする大人達が、バツキに対し挨拶をする。


歩いていけば、橋は遠くなり、架け橋の先にある建物は視界の中へ収まっていく。


白い壁と、青い屋根。そして様々な色を使われ見るものを魅了するガラス。


それは他国の、王が住む城と同じぐらいの大きさをしているらしく、この国のシンボルである。


しかし人を威圧するわけでもないのは、教会としても作られたからだ。


教会、裁判、私の生活、その他様様な機能を内包した建物は、優しく人を見下ろしていた。


アレのどこに自分の住処があるのか謎ではあるがらさしたる問題ではないと、また前を向く。


石畳の上を、ハイヒールで歩けばコツコツと硬い音が鳴る。


スカートを踏まないように、しかし遅過ぎないように。なれた足つきは優雅さを伴い、道ゆく人を魅了した。


外装から、立ち振る舞いから、全てを見れば、この国王女たる女性だというのはわかるのだが、誰も声をかけはしない。見惚れているからだ。


あの、肌を隠す服の下には、どんな髪色の髪が、どんな色の瞳が、どんな形の裸体があるのだろうと、彼彼女は考える。


それは助平な妄想ではなく、畏怖の、神に対する敬愛に近い。


神がどんな形をしているのかはわからない。けれど想像することはできる。だから偶像崇拝はできる。偶像が、神だと思い込める。


それと同じように、我らが敬愛する女王は、司祭は、教祖様は、どんな人なのだろうと、考えてしまう。


わかるのは、女性ということと、醸し出すのは美しさなのだということだけだ。


まあ、だから皆は仮面の、ローブの下には綺麗な顔があるのだろうと、勝手に想像する。


固唾を飲み、人混みは道を作り、静けさは靴と石がぶつかる音を際立てる。


それが行く当てが、馬車の集まる広場なのだから、見物人は全てそこに集結する。


「予約した二人、番号は61です」


「ああ、それならあちらですね」


男は慣れた手つきで案内をする。


豪華な、貴族用の馬車。


転ばぬようにそこに乗り込んで、扉を閉める。


貴賓溢れる2頭のお馬さんが引く黒と赤の馬車は、アクセントの金色による反射を映し動き出す。


それで終わりだと思われたのか、散っていく観客の中の一人が、その馬車に手を振る。


小さなおててで、自分の目にしているものがわからないであろう知能を持つものはマナイの目に入っていた。


それに対して手を振りかえす。


白い手袋の手は、残った観客をざわめかせる。


その子の親であろう人が、慌てたように子供を抱き上げこちらに一礼する。


マナイの服は、手の平すら隠している。


帽子が髪を、ローブが顔を、服が体のラインを、スカートが足の形を隠している。


だからわからない、腕が細いのか太いのか、足が長いのか短いのか。


その未知の部分が一つ、手のひらが、民の前に示された。


だから湧き上がる。


開けた視界の先に、広大な景色が広がるように、畏怖する対象の手の形が、ハッキリと分かったのだから。


そしてやはりというか、手の形は美しかった。










ゴムのタイヤの馬車が、整備された石畳を歩く。


これが、何日も続くのだから、行くのはやはり面倒くさい。


今日はうちの領土の北へ向かい、端にある村で泊まる予定だ。


大体夕方ぐらいに着くだろうから、それまでの時間殆どをこの馬車で過ごすことになる。


外の景色は、丘陵が続くばかりで、たまに野生の魔物が見えるぐらいなのだから退屈極まりない。


眠っていいだろうか。


そう、私の横にいるバツキに問いかける。


「どうぞ」


重い帽子とローブを取り、力を抜く。


バツキの肩に寄りかかり、揺れる馬車の中で、揺籠の中で私は目を閉じていく。


私の金色の髪と、彼女の銀色の髪が、混ざり合う。


寝ぼけた視界は暗くなり、そこで私の意識も閉じる。


そこから目が覚めれば、夢を見ずよく寝れたのだろうとわかる。


空はほとんどが夜空で、地平の上には青があり、青と夜の間には黄色と橙がある。


昼から夜へののグラデーションと、雲の影が作る空は、星の瞬きもあり美しいものだった。


久しく見てない、こんなに何秒も眺めない空を見れるのだから、旅行というのは悪くはない。


視界の右端、進行方向からは、木々が集まり森へ入ろうというところだった。


そこで馬車はスピードを下げ、馬が叫べば、村へついた合図となる。


ここは何の変哲もない、わけではない村である。


商人などの通行人は他の村の距離、関門の時間制限などもありここに泊まる。


なのだから、宿泊業を盛んにし、それなりに稼いでいる村なのだ。


木を燃やしてできた明かりは星より明るく、宿──そう、日本語で書かれた──であることを示す看板が、そこら中に並んでいた。


狩で得た肉で料理を作り、それで集めた金で商人からものを買う。


米や香辛料を買った村人は、さらに料理を作り商人に振る舞う。


自給自足を捨て、道具や食の殆どを別の場所から買い生活をする彼らはマナイの宗教の信徒でもある。


「お二人様ですね」


その彼らは、マナイの姿を知らないのだから、他の客同様の接客をし、部屋に案内する。


絶えず人が通り、様々な国へ続くこの村は、全身を隠したマナイのことを不審に思うわけがなかった。


人が何日も暮らせる高い金を払って入った部屋は、二人で泊まるには十分な広さだった。


夕食を部屋に運んでもらい、バツキと二人で食べる。


あまりこちらを見ないバツキは、さっさとたいらげて席を立ってしまった。


ゆっくりと一人で食事をしながら、シャワーの音、水が勢いよく出す音を聞きながら、暗くなってきた部屋で、私は寛ぐ。


帽子を取り、顔を隠すローブを取り、凝った肩を労る。


仕事がない。


一人きりで考え事をしていて出たそれは、要すれば暇だということだ。


いや、持ってきたものには本やチェスなどの娯楽はあるのだが、単純にそれだけで暇時間のほとんどを消化しろというのは無理な話である。


手持ち無沙汰なこの感覚は、真面目に仕事をしすぎたからなのだろう。


食事を終え、帽子のマスクをつけて、食器を返しにいく。


自分の仕事は、法律に背いたものを裁くことだ。


そのためには資料が必要で、その資料は個人情報の塊なのだから、易々と外には持ち運べない。


だから手持ち無沙汰で、物思いに耽る。


何分かした後、浴室の扉が開く音で、私は現実に戻ってきた。


考えたことと言えば、結局今後の仕事のことで、特に外交のことだ。


わたしはもう十五歳になる。


それはこの世界では立派な成人なのだから、これまで以上に酒の席やパーティへ招かれるだろう。


(酒は飲みたくないんだけどな)


昔、今のポストへつく際に行った儀式で飲んだ酒のことを思い出せば、気乗りしない。


私は酒に弱いのだから、あまり飲まないようにしようと、それぐらいの結論しかでない。


バツキの入れ替わり、浴室の前へ来る。


机の上に置いてきた帽子とマスクのことを思い出し、仕方ないと考えながら身に纏った服を脱いでいく。


毎回思うが、厚着だと脱ぐのが、そしてもちろん着るのが大変めんどくさい。


どうにかしたいとは思うが、無闇に肌を晒さないのが、宗教の考えの一つであり、私はそれを正しいと思っているのだから、仕方ない。


体の汚れを洗い流し、浴槽に浸かる。


肩まで入り、四肢を投げ出すように広げる。


それでもまだ余裕がある湯の大きさは、高い金を払っただけはある。


天井を見つめ、自分の髪の毛を湯の中へつけないよう気をつけながら、全身の力を抜いていく。


仕事だ、仕事がしたい。


いつもだったら、いまはバツキと雑談しながら書類の整理をしていたのだろうに。


ああ、仕事を頼んだ裁判官達だけで、何週間も人に判決を下す。


そもそもあの人たちは他国の人間をうちの領土で裁くためのもので、宗教などは信仰していない。


だから彼らに、神の考えを元にした判決を下せるのか、という疑問が残る。


(でも、それを気にしているのは私だけなんだ)


なぜかと言えば、判決される方もする方もそんなものはどうでも良いからである。


被告人は裁かれることを望むか義務として受け入れるしかないし、判決を下す側からしてみれば神様の考えなどどうでも良いし、ましてや判決にそんなものを持ち込むのすら嫌う人間がいる。


裁いた、法律を元に、我らが教典を元に、被告を、罪あるものを裁いた、というのが重要であって、それはつまり建前であって、結局のところ、人に迷惑をかけた奴を牢屋かそれに近しいものにぶち込めればいいわけなのだ。


私が、今の仕事をしているのは結局生まれによるもので、実力、それたるものはないのかもしれないと、時々考えてしまう。


だから、人が私に向ける目は、マナイではなくて、私の地位に向いていると、そういう孤独感は嫌でも感じてしまっていた。


親が、祖母が、私にそういう目を向けるのは仕方がない。跡継ぎとして私を産んだ、だから私に人の上に立つ人間であれと求めるのは理解できる。


貴族や王が私に利益を、交易による金を求めるのも、仕方のないことだ。


ただ、バツキが、私のパートナーが、私ではなくて、別の私を、司祭だけを見ていたらと思うと、耐えられなくなる。


家族で、恋人で、自己が最も依存し尊重する人が、私が思う自己を見ていない。自己が課した自己ではなく、他者が課した自己だけを望んでいるのは、耐えたくない。


恋人だからといって、まぐわいを、この場合は女性同士だから特に、交尾に近しいこういをするつもりは毛頭ない。だってしたくない。


でもそれは、私の感覚であり、世間一般は、世間の教育を受け育つ一般市民は、快楽だけの夜を、求めるときがある。


仕事も、明日も捨て、目の前のモノだけと、視界が揺らいで黄色く染まるまで、快楽だけを求め渇望し追求するのは、人の欲を大いに満たす。


だけど私は、したくない。


けれど、バツキは、それを求めるかもしれない。


体の関係こそが、婚約書と思えるのかもしれない。


私がサインを求められたら、拒否してしまう。


その瞬間、私に個は無くなる。


話し合いをする機会はいくらでもあるのに、怖気付き世間話に、舵を切ってしまうのは怖いからだ。


バツキは、無理してくれて、同年代なのに、私の世話をしてくれる。


メイドだから、ではなくて、彼女が望み、私の元へ来た。


近縁の、親戚の血筋だから、私に会う機会があっあから、そこで私に惚れたらしいから、私はそれを受け入れここまできた。


しかし反対に依存しいているのは、私だ。


何年もたったこの関係は、ギクシャクしている、と思ってしまう。


話し合いは怖い。その怖さを誰にも見せないことができてしまうから、一人で抱えてしまえる。


考え、考え、思考はグルグル周り、恐怖心が、内向きにそれを流すから、堂々巡りの結論は、意味をなさない。


宗教の長が、思想の長が、考えを帰結することが出来ないのは、ひどく哀れだと、思ってしまう。


宗教を信じる、賭ける、といった行為はとっくにしているのだから、結論はすぐに出せるというのに。


それすらもわかっていながら、怖気付いている、現実に向き合えていない。


風呂から出て、髪と体を拭き、魔法により作られた、ドライヤーを使って髪を乾かす。


美人である顔つきも、鏡の中の私の顔は、親の遺伝だ。


よくよく、母に、父親似の顔だと、美しいあの人似だと言われた。


私が持つものは、ないのだろう。


私だけが持つものは、ないのだろう。


全て他者から課されて出来上がったのが、今の私なんだ。


それを抱え生きてしまうと決めたから、苦しい現実を生きてしまう。


新しい服を着て、足りない帽子を取りに戻れば、ベッドで一足お先に眠っている彼女がいた。


パートナーは、無防備に、つまり疲れたようにぐっすりと眠っていて、肌の露出がいつもより激しい、ラフな格好だった。


それをいくら眺めても、性的欲求は生えてこない、申し訳なさは、出てくる。


性欲は要らないものなのに、それがなければ成り立たないように思えるのが、恋愛関係なのだとわかっていても、制欲のない自己に不安を抱く。


常あるものはないと、所有をやめると、宗教に精通するあまり欲そのものがバカらしく思えている私は、異常なのだ。


私が、神の恩恵を受け、スキルを何個も発動している私は、目の前の人と釣り合っていない。


異常な私が、正常な人間と付き合うのはおかしいと思った。


(私より、彼女の方が先に死ぬ。その時に、その後に、私は何をしたらいいんだ?)


神の加護、健康的な肉体が保障される自分の一族は、百歳ぐらいまで生きるだろうと、言われている。


実際に百歳まで生きたのが初代だけで、後の世代はまだご存命の方々だから証明しようがない。


が、目の前の女は、近縁とはいえ、何者の加護も受けてない、ただの人間であり、病気になる可能性があるし、そもそも四十ぐらいで、いや六十か、それぐらいで死ぬのだ。


遅くてそれなら、本当にいつか別れてしまう。もしかしたら、明日別れるかもしれない。


逃げるように、別のベッドへ潜り込み、そばにあるランプを消す。


月明かりはカーテンに遮られ、暗闇だけの部屋で、布団を被りずっと不安に押しつぶされそうになる。


やがて、悩むのを諦め、ずっと、天井を見つめることにした。


(なんとなく、生きるしかないか)


自分の才能を信じて、生きてみる。


そう言い聞かせて、目を瞑り、眠るのを待った。







習慣として、まだ日も上らぬうちに起きてしまった。


横の、別のベッドでは、バツキは今だに眠っている。


安らかな寝息をかき消さぬよう、衣服と共に外へ出る。


宿のそばにある、井戸水を使って顔を洗えば、空の境目に日差しが差し込む。


朝を迎え、明るさを増していく空は、かすかに星の煌めきが残っていた。


あの空の果てには星があり、太陽もある。


あの、まだ少ししか顔を出していない灯りを中心に、星は回る。


誰かが、どうやってそれを判別したのかは資料がないが、天体観測でもしたのだろう。


それとも、神が、私たちに教えてくれたのかもしれない。


「人間でも早起きするんだ」


世界の大きさを捉えていたら、不意に声をかけられる。


その方向を向けば、やはり人型の生命体が私の方を向いていた。


今の、人は誰も眠っているであろう時間帯に、声が、誰かを呼ぶ声がするのなら、そしてそれが人間であるのなら、私しかこの場にはいないだろう。


その人は、女性の、角と翼が生えた、標準的な魔族だった。


魔力を、魔法を手にして野生の力を増した結果、獣と似た器官を手に入れた人間、魔族。


人とも、他の動物とも子を成せる彼らは独自の文化を形成している。


だから習性として朝早くから活動する者もいるし、普通の人と共に住んだり逆に一人で生きる者もいる。


その女性は、やや露出が激しく、海で嗅げるような匂いからするに、男の相手でもしていたのだろう。


衣服の隙間から、白い装束の合間から見える黒い鱗は人の欲を駆り立てそうだ。


品定めをしていると、相手もそれが終わったのか、マスク越しに私の瞳を見つめる。


「私は夜型だからさあ、夜に起きたことは、人より早く知れるの」


踊るようなステップで、距離を詰めて私の手を取る。


撫でるように手袋の肌触りを確かめた彼女は、私の耳に、帽子に当たらないようできるだけ近づき、こう言う。


「貴方、昨日から、昨日の夜から、狙われているからね」


「そうですか」


そのまま、彼女は私の手と自分の手を連動させ、私を動かす。


ダンス、挨拶のダンスを二人でする。


ステップがリズムを、動きが互いの性格を作り、相互理解を促すダンス。


その中で、私の彼女は、眼と目で会話する。


(赦仏教の長である貴方が、常に誰かにつけられていると、私たちの間で共有されているの)


(それを、どうして?)


(少なくとも碌でもないことだし、知らずに攫われるのは嫌でしょう?)


(そうですね)


(昨日は貴方のお付きの人が守ってくれたようだけど、ずっとそう行くわけでもない)


(今は?)


(今は私が守ってあげる)


(報酬は?)


(いらない、私個人の意思で伝えた情報だし)


(……ありがとうございます)


ダンスは終わり、最後に強いステップでしっかりと地面に立つ。


「旅をしている時、一人だと不安よね。私はずっとここで生活しているけど、人の声が絶えないここが好き。だから真夜中と、朝の初めは嫌いなの」


「寂しいけど、嫌いでも、否定するわけではないでしょう?」


「ええ。寂しくあるから、愛おしさも芽生える。これは、貴方の教えよね」


「そうですね。一つが成り立つから他も成り立つ。左があるから、右もある。幸があるから不幸もある」


「貴方は充分孤独だから、せめて現実では誰かと一緒に、話さなくてもいいから常に人の目につく場所に、いることができればいいと思うわ」


「……ありがとうございます」


「こちらこそ。久々に楽しい朝だったわ」


お辞儀を交わし、互いに違う方向へ歩いていく。


朝はもう、始まっていた。








昨日と同じ馬車に乗り込み、また退屈な時間が流れる。


ただ、昨日と違い眠気はない。


「バツキ」


はっきりと呼びかける。


彼女がそれに応じ、馬車の、揺れる中で、互いに見合う形になる。


「昨日はありがとう。それと、ごめんなさい」


「何を……」


「誰かにつけられていることに、気づいてくれたのでしょう?」


「それ、は」


驚いたように、バツキは私を見つめる。


「私を頼りないと思うのは、結構ですが」


「頼りないなんてことは!」


言い切る前に、私の声は遮られる。


血走った目つきは、眼と鼻の先にある。


「あ、申し訳ございません」


一瞬の間とともに、落ち着きを取り戻し距離を戻す。


「頼りないということは、ないんです。頼り甲斐があるから、ただ、些細なことは、気にしてほしくなくて……言えませんでした」


しばらく、いや一度たりとも見たことのない、慌てた様子は、少しだけ安心をもたらすものだった。


「私たちは、パートナーなのです。ですからできるだけ、支え合いましょう?」


相手の手を取り、手を重ねる。


揺れる馬車は静寂を作らない。だからこそ、言葉は意味をなす。動く中で、互いに見合うからこそ、一定ではない中で話すからこそ、意識は働く。


「そう……ですね」


「そうでなければ、貴方は疲れてしまうでしょう?それは、私にも、貴方にも、善たる始まりにはならないのですから、もう少し、私を頼ってください」


強く言いすぎるのは、上に立つ者の癖だろうか。


「それに、きちんとした意味で、私は貴方に甘えたいのです」


「へ」


帽子を取り、マスクを外し、素顔を彼女に曝け出す。


「お嬢様……」


私は、横へ、彼女の横へ座る。


座れば、向かい合いではなく寄り添いになる。


「私に何かをする必要はないのです。ただ、側にいれば、それでいいのです。行為なぞは二人でともにやりましょう?」


「はい」


話してみることは、一つの方法だった。


自己の望みを言えば、伝えれば、受け入れるか否か選ぶのみ。


恋人関係とは、何もしなくても成り立つ。双方間で私たちはパートナーだと決めればいいだけだ。


なのに生命は快楽のみのまぐわいを、口付けを求める。


それは形が欲しいからだ、現実の行為が取り決めをばっきりと表したように、思えてしまうからだ。


だから、話し合いも、その形を作ったかのように思わせる、一つの無意味な行為だ。


その無意味により、互いは、互いに、どういう人として関わればいいかを理解し、自己に課す。


「貴方が、支え合いを拒むなら、それでいいです。二人で生きることを望むのなら、私の話を考えてくださいね」


「はい」


力強い返答だったのは、命令に対する返事だったからだ。








関門を越え、他国の領土へ入れば、襟元を正すように背筋を伸ばす。


そのまま、流れる空と競争していると、関門の壁より大きなものが見える。


城壁であると分かるのは、それが目の前に来た時、同じ色の甲冑をした人間がいたからだ。


門の中へ入り、人が石畳の上を走る馬車は、しばらくして馬の停止とともに止まる。


「では、また後ほど」


二人でそう挨拶をすれば、会釈して返した男は二頭の馬とともにどこか行ってしまった。


日差しはほとんど真上で、誰も彼も昼飯を取るために歩いていた。


「どうします?」


「昼飯は後でいいから、歩きましょう」


ここは他国で、マナイはただの人なのだけれど、やはり人は自然と道を開ける。


美しい人間だと、感じてしまうからだ。


男も女も魔族問わず、目は彼女へ向く。


あれはどこの貴族だ、それとも女王か。


それらは二人にはどうでも良く、今は二人で歩けることの方が大事だった。


なんとなく、ソルトが歩いて行った方は店が立ち並ぶ、日用品や服の店がある場所で、昼飯を優先する人々は、そこに着いた時にはもういなかった。


(まだつけられてる?)


(ええ)


馬車に追いつき、人混みの中で目立つ私たちを見つけたのは、手練れだろうか。


「いらっしゃい」


「すいません、この服、今着てる服を買い取って欲しいんですけど」


「それを?」


「お金はいいので、代わりに服をください」


店主は、飯を食べながら接客する男は、品定めをするように、私の外装を見る。


「どこの、いや確か、ああ、隣の国の……はあ、なら、いやでもなあ」


「何年か暮らせるぐらいは、価値があるでしょう?」


「夜逃げじゃないよな」


「今は昼です」


「んーなら、いいか。好きな服持っていきな。ボロ切れだろうに、なんでこの店にした?」


「最初に店員が見えたのがこの店だったので」


「へー、飯食って接客してた甲斐があるや」


「じゃあ、適当にもらっていきますね」


「もう片方の、御付きさんのはいいのかい?」


「それは……」


「店側が言うのもなんだが、タダなんだし持って行けよ」


「それも、そうですね」


「そうだなあ、どうせなら、互いに身長差があるし、補色の組み合わせの方が目立つんじゃないか?」


「そんなもんですか」


「コレでも服屋なんだから、信じてくれよ」


「そうですね。なら、選んでくれません?」


「よしきた!あまり肌を出したくないんだろうから、スカーフとか、手袋とか、帽子とか、そう言うものをつければいいし。ところで、好きな色は?来てみたい服の色は?」


「着てみたいのは、黒とか赤ですね。あまり着る機会がないので」


「メイドさんは?服の要望とかは」


「……私は、動きやすければいいです」


「そうか。軟質の素材は、結構いいのあって、あれをメインにするとズボンとかは……」


「お嬢様」


「なに?」


「この店で良かったですね」


「そうね」












昼飯を食べ終え、馬車の集合場所まで行く。


「どうぞ」


男は服装を変えても、すぐ私たちに気づいてくれる。


黒い帽子、赤いワンピース、その上に黒のガーディガンを着た私は、弾む気持ちを、新たな服を着た高揚感を胸に、馬車へ飛び乗る。


その後、せっかく貰った服を着ない、バツキがいつものメイド服姿で乗り込んでくる。


走り出した馬車は、起伏の激しい地形を、そして山道を登っていく。


整備された道とは言え、急な坂を登ってみせる、おもりを運んでみせる足の力にはいつも驚嘆する。


人間的な感性で言えば最高峰の馬は、スタミナも、速さも、力も持つ。


それは度重なる配合で出来ている。


配合、つまり人為的な交尾だ。


それは、宗教的には、マナイの考えの中では、否定される行為ではある。


なぜなら交尾とは、好きな時に、互いが貪り求めるものであり、馬を作るような、強制的なもの、結婚や娼婦のような強制的な肉体関係を作り出すシステムは、それは理想のまぐわいとしては、否定するべきものであるからだ。


しかし、マナイは政治家、自国の女王、独裁者でもあるのだから、それを認めるのも大事だと思っている。


それは、宗教の思考は普遍的なものではないからだ。誰にも適用できるわけではないだろうからなのだ。


例外は、ある。


(結婚は、奴隷関係を作り出す行為で、忌むべきものなのだけれど、なければ人の関係はめちゃくちゃになり社会は回らない)


人はセックスをする必要がないのに、求める。いやと言うほど、飽きても求める。快楽を、抱擁を!


それは性行為が、愛情を形で表したものだと錯覚できるからだ。


一人で行う行為では得られない、何か熱く、視界の色が変わるほど、激しい欲が湧いてくる。


目の前の何かを、激しく独占したいと求め、それを愛だと決めつける。


それは普遍性を持っているから、交尾は愛の一種だと思われてしまう。


結婚も、人と人の関係を、わかりやすい形としたもので、それを大衆に示すことで色々円滑にするという意味がある。


(同性同士でも、結婚できるけど、そんなことより結婚後の関係性を、どうにかしたいのだけれどな)


でもそれは、無理だ、とても厳しいと、言わざるを得ない。


この世界では、結婚とは、一つの主従関係を作るものだ、とマナイは考えている。


女が働き、男が家庭を守る。


初めは理屈だったこの慣習も、今ではルールだ。


昔、つまり文明が出来る前、虚弱な人が大地を踏破し、魔族と呼ばれる、生態系の頂点へと分岐するようになったのは、神が力を与えてくれたからだ。


神が、神を作る。


神々が、人へ力を授ける。


さらにその力は、とりわけ多く、女へ割り振られた。


何故なら神は、男ばかりであり、決まって助平だったからだ。


だから、女は男より強くなり、女が産む女も、やはり男より強い。


だから経済、初期は肉や鉱石でのやり取り、つまり物々交換で経済を作る際には、肉や鉱石は、神の力を持った女性が取ってくる。


そこから女が男を支配する関係は始まる。


女同士はシンパシーを感じるのだから、女の長は女性に有利な社会を作る。


そのまま、貨幣を仲立とした、今の今まで続く社会の根幹システムが作られたときも、結局女が有利であった。


経済を回す、勢いのある産業は全て女が作った。何故なら、男は家事をやるので、そもそも働くと言う発想がない。いや、起きないよう、奴隷根性が染み付いているからだ。


嫌なのは、男性は不満を示さないことだ。


見下げた奴隷根性は、女に使えることを喜びとする。ああ、女様が喜んでくださった!我が身粉になるまで言うことを聞き、良き夫であります!ああ、すごいすごい。


(わたしは、もっと一人一人が、自意識を持って生きるべきだと思っている。いる、けど)


それは、今の私には、今の人間には、無理なのだろう。


この考えを理解し実行できるのは、やはり私だけ。


自分の生活で手一杯の市民は、宗教の正しい意味、論理としての意味を捉える暇はない。


貴族や王は、自国と、最終的には自分のために行動するのであって、真なる意味での優しさ、全世界に対する理解というのは、してはならない。


これらは間違っている、悪である、そういったくだらないものではなく、仕方ない、人間が進化の途中だから、不備が起きている。それだけだ。


だから人は、より良いを、求める。


技術を上げ、労働力を増やし、自分の負担を減らして、出来上がった時間を趣味や努力に繋げれば、人は感受性と知恵が伸びた、社会的生命体へとなる。


だけれど、貴族や王である人間すら、最後に優先するのは、やはり自己なので、全世界の人間は自分本位の行動しかしない。


だから、女は男と婚姻関係を結び、周りがこうだからといって、男に家事をやらせる。


資本家は労働者を雇い、何かと理屈をつけて低賃金で働かせる。


コレでは人の歩みは進まない、太古の奴隷が労働者、夫と名を変えただけだ。


なら、どうすればいいのか。


(私には、才能があると思っている)


母親よりも、祖母よりも、聖女としての、統治者としての、才能だ。


けれどそれは、発達してくれた教育によるものでもあるし、それでも。


(社会は変えられない)


人の進化とは社会の進化、社会の進化は一人では起こせない。


歴史に名を残す先導者も、阿保か正義に酔った大衆を動かしたから本に乗る。


(そういう意味では、裁判官は楽だな)


法か教典に則り、そこに論理を混ぜ込むだけで人を裁けると勘違いされているその仕事は、楽であった。


(人に恨まれるのは、楽なのだよな)


憎しみや、怒りというのは、所詮娯楽であるのだから、それらが自分に向いてきても何も思いはしない。


それで殺されても、私を殺しても、誰も幸せになりはしないのだから、やはり怒りは何も海やしないとわかる。


(それよりも、善行を求めるのは、果てしなく長い道だ)


善の根拠は生きること。


生きてこそ行動ができ、行動こそが善行という結果を作り、結果が生きていたからという根拠を作り出す。


結果の後に理由は来る。


だから生きなくてはならない。自殺を、否定しなければならない。


それは賭けだ。自殺というどう足掻こうが否定できないものを否定して、生きることだけを肯定する、独裁的な思考に近しいことを、やらなくてはならない。


自己を、自己が持つ愚かさを、辛い過去も、希望のない未来も、全て受け止めて生きる。それは楽ではない、生きること自体は善でもない、むしろ苦しいだけだ。


でも、それでも、善なる根拠を抱えて生きて、それが、本当に善に、人の幸に、笑顔になってしまえば、その善行の当人は、良かったと、救われたと、思うだろう。


生きるという、自分の全てを、今の今までが作った自己を、そしてその自己が行なった行為を肯定してくれて、笑って見せられれば、承認欲求のようなものが満たされ、孤独感は薄れる。


より良い善行を求めれば求めるほど、社会は不必要になる。


社会の、法と哲学に基づいた規則ではなく、より小さな、村単位の、家族単位の、個人単位の関わり合いのような、損得を無視した行動こそが、善を産む。何かの物体が、一番より良い形で働く。


それをグローバル化した、人の善意にのみ基づいた規則こそが、社会を最大限に回し、人間を最も幸福にする。


(だけれどそれは、今は無理だ)


知能がないから法ができる、ルール無しでは無秩序が生まれるから規則を作る。


(善行には、知能が必要なんだ、自由が必要なんだ)


知能とは、知恵と経験に基づいた論理的思考力の総称。


自由とは、何か帰属するものがあること。


断っておくが、自由とは、草原の中に放り出されることではない。それは無秩序だ。


知能を伸ばすには、教育を伸ばす。教育を伸ばすには、今の社会だと金を市民が持ち、子供に不自由をさせないこと。そして、試行錯誤を繰り返し効率的な方法を編み出すこと。


自由を作るのは、何かに縛られること。その縛られたものを受け入れることだ。自分で選び、自分で進む、それが自由であり、進むのと選ぶのには、始まりが必要だ。それが家や、故郷というものであり、コレらがあるから、人は迷ってもそこに帰ることができる。帰るためには、帰属する場所を肯定する必要がある。


(だから、もっと国を発展させ、結果を出せば、理由が生まれて他国に示すことができる。自由と教育こそが、人を発展させるものだと、示すことができる)


さしてそのためには、金と知恵と研究と試行と実践と理解と世代を重ねる必要がある。


(世代)


このワードが、一番困る。


なぜならマナイのパートナーはバツキであり、同性同士なのだから、子は成せない。


世継ぎは生まれない。


世襲制の統治者は、今のままだと生まれない。


だが子供を産むなんぞというめんどくさい行為を、子供を育てるという金と労力の行為を、マナイはしたくない。


(その話もするのかもしれない)


祖母が私を呼んだのも、結婚の話のためかもしれない、後継の話をするのかもしれない。


だが結婚を奴隷制度と同じだと思っているマナイは、結婚する気がない。


(奴隷なんぞ欲しくはない)


間違いなく自分の立場だと結婚したら相手が奴隷で私が主人だ。それは嫌だ。


(民を統治するのは性に合うけど、個人を所有するのは絶対に嫌だ)


自分は賢いから、他人ために働ける。


しかし幾ら知恵があろうとも、個人に関わるのは難しい。


王が民を動かすのは、方法の一種、考え方の一種である。だから色々な国で、様々なルールが存在する。どれも正しいから、共存している。


だけれど個人が個人を動かそうとなると、それは命令や強制といった、否定的なものとして受け止められる。自分と違うだけなのに、まるで自分が間違いかのように言われたと、錯覚するからだ。


考え方が違うのは、別に当たり前のことなのに。


そしてマナイは、自分の考えが大衆に理解されても個人には理解されないと考えている。


私の考えを大勢に言えば、それは宗教の言葉であるから、ありがたいことに考え方の一種として捉えてくれる。


個人に言って仕舞えば、殆ど否定と受け止められてしまう。マナイは賢いからだ。


もし、目の前の人間が、論理的かつスラスラと難しい話をしてきたらどう思うだろうか。


なんだか、正しいことを言っている気がしてくる。そして話の内容は、なんとなくで、この人間は自分と違う考えを持っていると理解する。


自分と違う、正しい考えは、まるで自分が間違っていて、相手が正しい、否定なのだと、思ってしまうかもしれない。


だから、相手は強い気に、相手を言い負かすことだけを考えた、論理的ではない話をする。


それに対して、マナイは言い返してしまう。善意で、相手の明らかな間違い、その論理的ではない話だけを対象として言い返す。


尚更、相手は自己が否定されたと感じる。


マナイは、相手がちゃんと受け止めてくれていると信じたいから、尚更言い返す。


そういうことは、容易に想像できたので、マナイは余り人に自分の考えを話したいとは思わない。


(だから本を執筆したり、教育に私の考えを混ぜ込むことで、私の考えを人に伝える)


バツキはマナイの考えを一番近くで浴びているから、マナイの話を冷静に聞いていくれる。


マナイはバツキと一緒に生きたいと考えている、バツキとしか共に歩めないと考えている。


だから、結婚はしない、世継ぎも残さない。


(私の国は、私が行末を決めなくてはならない)


自分の考えをまとめ、最低でも母、そして祖母に、先代達に話そうと思った。







とりわけ人が多いのは、ここが国の中心だからだ。


戦力、技術などで取った平均値は、この国が高い。つまりこの国は世界で最も発展してる国であり、その首都は当然人がいる。


日が傾き始めた時間帯で、ぬるい暑さを感じながら、マナイは歩く。


今日は、ここに泊まるのだ。


明日朝起きてすぐ、祖母のところへ向かうのだが、半日と少しかかる。


だから今日は、早めに移動をやめ、代わりに朝早くから移動する。


日は、城壁の向こうにあるのだから、街は魔法によって作られた炎が照らしている。


ハイテクではないが、技術はある。


つまり機械による整備ではなく、魔法によるインフラが整っているのが、ここ、この国の、マナイの国の隣にある国家であった。


魔法の研究が一番盛んなのがここであり、それが軍力と技術に直結している。


その国が、研究のための資源を欲している人々が、私の国を、輸入と輸出と中継点を担う私の国を、大層気に入ってくれている。


母の代から続いたこの関係があるから、今の私の国がある。


ただ私はあんまりこの国に興味がない。魔法なんぞどうでも良いからだ。


人がランダムで持つ、しかも大抵が女のものである魔法やスキル──神が与えてくれた奇跡──なぞの研究より、科学の、物質同士が起こす現象や、物理的な、物事に働く力の研究の方が、興味と価値がある、はずだ。


そもそも誰にでも平等に適応できる考え方を目指す宗教が、生まれつきの才能を気にかける理由がない。


魔法がなかろうと、才能がなかろうと、それでも生きる人のために、生きる人間のために、宗教があるのだ。生きるための根拠として宗教があるのだから、才能は関係ない。


だから、私の代になってからは、一度しかここに来たことがない、それも挨拶程度であるし、その後すぐに、女王様は変わってしまったのだから、尚のこと関係を深めようとは思わなかった。


「泊まりですね。お二人様ですか?」


高い装飾を施された宿屋に入り、女性から説明を受ける。


部屋の設備と、値段を聞き、相応の価値があると判断すれば、泊まることにする。


そのまま、疲れを取るために浴槽へ浸かる。バツキと二人でだ。


魔力を使い、壁に映像を作り出すことができる、高い設備を使えば、夜の海が見える。


星の煌めきを反射し、新たな星空を作り出しているリアルな海は、そして夜の暗さの中にほのかな灯りと共にいるのは、目新しい快感を私に与える。


遠くから、実際には小さい音が、チャポンチャポンと湯が作る音に紛れて聞こえる。


それが波の音だと、さざめきだと分かれば、二人して大きな浴槽に静かに浸かる。


しばらく夜を楽しんで、私は、いいだろうかと思い、バツキに話しかける。


「ねえ」


目を閉じて体を伸ばしていた私の彼女は、話しかけられて、体が動く。


波が音を作り、海の波をかき消す。


「まだ付けられている?」


「恐らくは……」


「ここに来てから、なんだか、視線のようなものをずっと感じるの。強く、強く、この夜の中に居そうなほどには」


私の表現を、冗談だと馬鹿にしないバツキはいい人だ。


「そうですね、ただ、付けられているというよりは、何か、見られていると感じますね」


「ねえ、本当に悪い人なのかしら」


「さあ、ただ、誘拐目的ではないでしょうね。狙える機会はたくさんありましたし。諜報目的じゃないですか?」


「そう、かしら。なんだか知ってるような感覚なの。シンパシーのような、敵意や邪気を感じない感じが、するの」


それと同時に、やはり最初からの敵意も感じている。


だから、二人は複数の集団につけられているのだろうと判断した。


何が目的なのだろう、あの人が私を呼び寄せたことに関係があるのだろうか、グルなのだろうか。


しかし、複数いるのだから、互いが干渉しあい、結果的に私たちは手を出されていないので、あれば、あればだが、現状維持が最も良いのかもしれない。


風呂を上がり、夜風に揺らされながら、そんなことを考える。


その、思考の最中に見えたものが、なぜか私を惹きつけた。


(闇?)


夜なのだから、暗いのは当たり前である。


あるのだけれど、その闇は、線のようで、視界の先の建物裏に入っていることがわかる。


そう、その闇は夜より暗く、蠢いている線のようで、人に恐怖を、神秘を感じさせるものだった。


現状維持、それこそが大事だと、さっき決めたではないか。


だというのに、私は靴を履き、階段を下り、外に出てその線の先へ向かっている。


「どうしたんですか?」


バツキが、怪訝に、そしてやや慌てた様子で尋ねてくる。


「この線、見える?」


黒い線に手を当てながら言う。私の手は暗闇に抱かれて、見えないのだけれど、バツキは私の手があるであろう場所を見ている。


「見えてない?」


これに興味を惹かれたのは、特別だからだ、私にしか見えないからだ。


なぜ?何故かと言えば、私が特別な聖女だからだろう。


私が特別なのだから、見えてる景色も他人とは違うはずなのは、自惚れではなく現実だ。


「敵意が、私の見えている先にあるの」


黒い線に触れると、質量はないが思いがある。殺意のような、つまり私を捕えようとするものだ。


「危険ですよ」


それを理解し、冷静な判断を下せるバツキはまともだ。


まともなのだけど、それは、今の私にはいらないものだった。


「相手の正体がわかるはずなのですから、危険も承知です。それで死んでもそうなるだけだった、わかるでしょう?」


「……私が先に行きます」


「それもダメです。今このタイミングでこの線は出現した。ならこそ、私が率先しなければ、意味がない」


そのまま、着いてこいと言うように、私はズカズカと歩を進める。


昔から、色々なものが見えていて、それはバツキにしか伝えたことがない。


嘘だ、親には伝えたことがある。


ただ、親も特別な人間であって、同じく悩まされているのだから、抱きしめてくれたぐらいだ。


バツキだけが、普通の感性で、普通の人間としての、私の基準である。


青空に浮かぶ白い星を、夜空に集まる虹色の光を、木漏れ日が動き虫を喰らうのや、夜風が挙げる悲鳴も。


どれもバツキには見えない聞こえない。だから普通ではない。


今目の前の、闇のリボンすら、見えてくれない。


それをマナイはもどかしいと、悲しいと感じていた。


自己が見えているものを、暗闇の中の光が生命力を持ち動く美しいさも、光の中の暗闇が夜空を内包しているのすら、バツキは理解しない、できない。


自分の感動が他者に共感されないと言うのは、嫌なものだ。


だから目に見える形の、性行為や結婚制度のような、目に見える形の、承認欲求のようなものを満たすためのものを、人は求める。


それは宗教化の、所有することをやめると決断したマナイですら、ある。


何故かと言えば教育が完璧ではないからだし、まだそう言う時代ではないからとも言える。


ただマナイが他者とは違うのは、その、承認欲求を理解した上で、一度捨てた上で、自己の幸福の論理を組み立て、やはり必要と感じたところだ。


つまり、なんとなく共感を求めておらず、理屈として、切に望んでいるのだ。


だから、焦っている。


バツキに見えないものを、あるように扱い、バツキにあるように見せる。


そのためだけにマナイは前を歩く。それで死んでもいいかのように、ただ自己が好きな人間に自分が見えている景色をなんとか見せようと、伝えようとするのが、今一番優先していることである。


この好奇心は明らかに私を殺す。何かを殺す。しかしそれはどうでも良い彼女に私を多少なりとも理解してもらえるなら、世界が殺されようがどうでも良い。


闇に導かれ、歩いていけば、それはどこまでも続く。


角を何回も曲がり、複雑な道を通り、そう、闇が私から逃げるような、人が人から逃げた道を通ってるような。


「好奇心は猫を殺すぞ」


だから、このラインが人へ続く糸のようなものだと分かれば、それは、人の居場所を示す手がかりとなる。


そして、今目の前にいる男が、そのラインが示す人間だとわかれば、もっと黒色は深くなり、浅くもなり、私を中心として円を作るように何本にも分かれた。


(囲まれた)


それぞれの何かを、黒の濃度は表している。


黒衣を着た、暗殺者、であろう人間はナイフを持って私に突きつける。


狭い路地に、私たちは囲まれている。


「何が目的か、話してくれるなら、要求の一つや二つ考えてあげますけど」


「話したところで理解できるとは思えないが」


相手は、殺すことが目的ではないのだから、話をしてみようと思ったのは、私が宗教を尊ぶ人間だからだ。


「人に話せないから夜道で人に刃物を突きつける、理解されるとは思わないから私には話せない、のではないですか」


「勝手に言ってろ。それより、私たちについてくれば、お前の御付きの女は見逃してやる」


「どうせ、金が地位でしょう?そんなものが欲しいのなら、私以外にもいたものを」


相手を、煽りたいと思ったのは、私だからだ。何かを知りたい、相手を理解したい、私だからだ。


「そんなくだらないものではなくて、もっと高尚な理念のためだ」


「男性の社会地位を上げるとか、なさけないこと言わないでくださいね」


「……なんだと」


「図星ですか。女性に支配される男を解放するためにやることがテロリズムのような拉致監禁なら、やはり支配されて正解ですね」


「貴様っ!」


煽れば相手が突撃してくる。私はそれをわかっているのだから、体の軸を回転させ、避ける。


わかっていたのは、黒いラインが感情を表すものだと理解できたからだし、なにより相手の頭はそんなよくなくて、挑発に乗りやすい奴だとわかってしまったからだ。


靴の履き方、立ち方、話し方、どれも平民に、むしろ奴隷にも近いような振る舞いだ。


こいつらは、誰かに拾われ暗殺者として育てられた。


避けたまま、相手の突撃の勢いを利用し投げ捨てる。


「バツキ!」


空いた包囲の穴に向かい、バツキの手を引き走る。


ああいうものが、私の前に現れたのなら、それには意味をつけることができる。


黒い線が目まぐるしく動いているから、追われていると考えて、ただ走る。


走って、走って、静かなはずの夜中は私とバツキの足音だけになって、やや疲れ始めても足踏みをやめない。


「追いつかれますよ!」


バツキの心配に対し、握った手のひらを強めて答える。


見えているものがある。


それは、白い線だった。


黒の反対、全ての色を内包した白い線を追いかけただ走る。


その線に対し、なんらかのシンパシーを感じているのだから、それに導かれてただ走る。


なんだか暖かさを持つ線が、街の中心へ、城へ向かうほど、白い線は鼓動を増す。


それと同時に、シンパシーも増す。


線の正体を知っているはずなのにわからないのは、朧げでしかその正体を覚えられていないからだ。


突き動かしている、突き動かされている。


誰も彼もが波に飲まれて動き続けている。


だから、光の線が導いたものの正体は、たしかに突き動かすものだった。


男、成人の、この国の貴族の礼装、この国の兵団のマント、そして、魔導士たる上着を着た、男であった。


「助けを求めているわけでもないし、なら」


呑気に、こんな夜中に散歩でもしていたのだろうか、だから目の前に走って来た私達に対して考え始めた。


そんなことを気にする暗殺者共ではないので、上空から何本もナイフが飛んでくる。


それを、後先考えず避ければ、石と鉄の刃がぶつかる音がする。


(この男は、確かにあるのだけれど……!)


惹かれているのはそこではなく、彼が持つ、光だった。


闇の糸は人の胸から生えている。


けれど光は、彼の周りをウロウロと、そして私を求めるが如く光を増す。


この場の、誰も光を見ない、私だけしか見ていないものに、私は手を伸ばす。


伸ばした手が光に触れた時こそが、私の旅の始まりとなりて、世界は光に包まれる。


「魔法陣!?」


暗殺者側の男が、そう叫んでみるとわかるが、光は地面に模様を描いていて、それがなんらかの文字だと分かれば、模様は意味のあるものだとわかるだろう。


そしてそれが魔法陣、契約により、現象を現実に起こすもの。


その、この国の全てを包んだ魔法陣から、一つの物が出てくれば、召喚という現象を引き起こしているのだと皆理解する。


暗闇に、まさしく稲妻のごとく現れたそれは、龍であった。


細く長く、蛇に威厳をつけたような生命は、暗闇の中でも、召喚が終わったあとの夜に包まれていても、光っていた。


(シンパシーの正体!)


その瞳、私の体と同じぐらいの大きさの宝石は、私を写している。


私の体と、宝石の中心が重なれば、興奮したような雄叫びがうるさく鳴る。


今ならわかる、今だからこそ私がこの渦の中心にいると、わかってしまった。


なぜ命を狙われるのか、なぜ龍はいるのか、その光を携えていた男はなんなのか、わからない。


だけれどそれら全部は私が選んだ物、私が関係している物、私が引き起こした物。


私の行動がそばにいるバツキに影響を与えるのだから、このことは強く認識しなくてはならない。


龍の雄叫びは、一瞬で空模様を暗く、星の光を通さない雲を作り出す。


その雲は雨と共に落雷を引き起こし、暗殺者達にだけ降り注ぐ。


「引けぇ!」


誰かが、一人がそう叫べば黒衣の集団は去っていく。


豪雨の中へ残されたのは、私達と、目の前の不思議な男。


初対面ゆえ知っているわけがないのだが、心当たりすらないのは、不思議だった。


この女尊男卑の社会において、それなりの立場を持つであろうこの男のことを、噂すら聞いたことがないのは、不思議である。


「貴方は……」


なんと聞きたかったのだろう。名前?正体?階級?


きっと全てなのだろうと、結果的には言えることであった。


「私?私は、そうだなあ、君に言うなら神様かな」


「神、の人」


私にとっての神とは、私の宗教の始祖たる人だ。


この地に降り立ち、知恵と生命を作り出した人なのだ。


「なら、これは、この金か黄色の龍はどなたなのでしょうか」


「さあ?死んだ命が、私に縋った。縋りし命は、君を得て現実へとなった」


鱗は、ツノは、光沢を持って宙に佇む。


龍が光となり、一つの球体へなれば、それは私の手元へ降って来た。


「この光は、君を求めた。だから、その正体なるものは君しか知らないよ」


その球体はまるで、心臓のようであった。


宝玉?水晶?白と黄色でできたそれは、私の中へ溶けるように入り込む。


「巡回警備してただけなのに、びしょ濡れだ」


神様は、雨を全身で受けながら、私たちへ問いかける。


「追われているんだろ?ウチ来るかい?」


私と同じ色の金髪は、また私と同じく純金のように綺麗だった。


「私はいいけど、バツキはどう?」


問い掛ければ、バツキは怪訝そうに、小声で言う。


「ハッキリと言えば気に入りません。普通に宿で寝ましょう」


「そうね」


ハッキリとものを言ってくれるのは、大変嬉しい。


「せっかくですが、お断りさせてもらいます」


「そう、じゃあ機会があったら、またね」


金髪は、翻って歩いていく。


私たちも止みつつある雨の中を変えることにし、別の方向へ歩いていく。


「帰ったらまたお風呂入ったほうがいいわね」


「そうですねえ」


「バツキ。ごめんなさいね、なんだかよくわからないことに巻き込んでしまって」


「いいですよ、別に。普段は真面目なんですから、たまに変なことするぐらい」


「そう、ありがと」


「それよりですけど、あの龍なんなんですか?あの人ほんとに神様なんですか?」


「さあ?興味ないからどうでもいいし、知る気もありません」


「そんなもんですか」


「そんなもんです」


そう言う現象が現実で起こった、ただそれだけで、理屈は興味ない。


それよりいまは冷えた体をどうにかしようと、ただ歩く。


豪雨と雷は音を鳴らし、今日のいざこざをかき消したのだろう。誰もこのことを知らずに終わり、朝を迎えるのだろう。


そういうことが、不思議なことが起こるのが、この世の中なのだろう。


神がいて、人がいて、魔族もいて、動物がいる。


神様の中にも位はあるらしいし、人の中にも多種多様な価値がある。


魔族は人と動物を掛け合わせたもので、動物なんぞ沢山の種類があるのだから無論魔族も種に富んでいる。


動物にも哺乳類や魚類になどがあり、さらにそこから魔物と非魔物、魔力を持つかそうでないかという分類が起こる。


だから当然、差別、自己以外を拒む行為は当然として起こる。


それを止めるための思考としての、ルールとしての宗教。それを無くすための教育。理解してもらうための政策がある。


神様がいてもこの世は不完全で、どうにもならないことばかりだ。


(あの金髪が、本当に神様なのなら、なんの神様なのだろう)


君に言うなら、と、それを飲み込むなら我が宗教の起源だ。


彼もそう言っていたが、それは飲み込むことが難しい。


(でも仮にほんとなら、また会いたいな)


自分の考え、この場合は主に自分の宗教に理解を知ってもらいたい、と言うのが大きい。


(思想を深め、他者に共有して、生命全体の、人間社会に取り込まれた知識生命の知恵を向上させれば、種別によるのも、階級による差別もなくなる。知恵を深めれば技術が増える、増えた技術が、技術、が)


戦争を、引き起こすのだろう。


今の世は、戦争が少ない。


何故かと言えば近代的に世の中が統合されていく中で戦争がもつ不利益性が周知されつつある、と言うのもそうだが、魔族や魔物が、そしてその中でも特に神様のように崇拝されるような存在がいるのが大きい。


魔族、魔物、人は共存している。


言葉が通じるからであり、言葉が通じるから利害関係を結べるのだ。


例えば、魔物、今回の例としての場合は、水を操る魔物がいたとする。


その水は魔力を含んでいて、作物を良く育てるとすれば?


人、村社会単位の人間達はその水を欲しがるだろう。無論タダではない。


見返りとして作物を分ける、だから魔物は狩りをする必要もない、人は安定した食物の生産、輸出による経済循環が行える。


つまり、今の世の中の半分ぐらいの村や街の、集団で生活する場所というのは、魔物や魔族などの、特別な力を持つ者のおかげであり、それは唯一性、独自性を持つものだ。


だから経済的な価値のある村は沢山あり、その周辺で一番力を持つもの、国がその村達を尊重しているのだから、村間での争いはない。


そして保有、領地として支配している国同士でも、その独自性を掻き集めたものとして、より大きな唯一性を持つのだから、経済的に見れば、争う理由がないのだ。互いの資源を分け合うのが、今の社会だ。


でも本当のわけは、結局魔物達が強いからである。


そもそも利害関係が一致しているから共存できているのであって、力だけで見れば人は支配される側だ。


だから常にご機嫌取りをしなくてはならなくて、戦争なんかやってられない。


そしてもし、仮に、その力が、例えば水の魔物だったら?村に洪水を起こせるかも?人間同士で戦争をして、もし、魔物がその戦争に参加して仕舞えば?


それは、より大きな、人が沢山死んで、大地に草花が生えなくなる、ということだ。


最悪の事態を想定すれば、目に見えている爆弾に近づかないようにすれば、魔物を刺激しないこと、つまりは戦争しないことが、条約として結ばれるようになる。


戦争しない、と言うのが今の社会のルールだ。


(そしてさらにそれを突き詰め、予備の、警備隊としても使えるはずの軍隊の所有を放棄したのが私の国だ)


科学が魔物を上回って仕舞えば、それは戦争になってしまうのだろう。


それは、人と、それ以外の関係を、支配関係を決める、愚かしい戦争なのだ。







少し凸の形を取る道が、雨水を端へ流す。


流された雨水はまた、今度は別の方向に流され、水の浄化装置がある場所へと向かっていく。


雨が明け、綺麗なほど青だけが広がる空は昨日より熱かった。


「おはようございます」


そう言う朝に、私達の元へ、訪問客がやってくる。


「おはようございます」


それは昨日の男で、藍も変わらず長い金髪をライオンのタテガミみたいにまとめていた。


昨日のこと、もしかしたら今日かもしれないが。


とにかくあんなことがあれば、事情聴取されるのは当たり前であろう。


特に拒否するまでもないが、ないのだが。


「どれぐらい時間がかかりますか」


今日は出来るだけ早く出発したいのだ。


「さあ?私は連れてこいと言われただけなので」


自己を神と名乗る割には人の元へ仕えているようだ。


「ただまあ、長くはなりますと、思いますよ」


目は確かに力強さを持っていて、それはこの時代の男には珍しいものだった。


特別な階級の理由であるその特別性は、唯一性のようなもので、なにか才能を持っている、それは加護を受けにくい男には珍しい、ということである。


「わかりました、少々お時間をいただければ同行します」


「どうぞ」


宿の外から中へ入り、店主に話しかける。


「電話ってありますか?」


素っ気なく、というか眠そうに指差された場所へ向かえば、固定型電話がある。


一個だけの、つまりはまだ普及中ということであるそれのボタンをポチポチ押す。


(番号何桁だっけ……)


いつも手紙か、転移魔法陣に糸電話を放り込むやり方しか使わないので困ったことに電話番号を思い出せない。


(帰ったら私のところにも電話を置くか)


朧げな、本当にうろ覚えの記憶を手がかりとして、五桁の番号を入力する。


電線に電気が、電気を転移させるための魔法陣が、遠くの場所と私を繋ぐ。


「はい」


祖母の声が、ハッキリと力強い、他人に対する声が聞こえてきた。


「もしもし?私、マナイなんだけど」


「電話とは珍しいわね」


「本当は今日そっちに着くって言ったけど、明日以降になりそうなの」


「そう、それだけ?」


「うん。だからもう切るね」


「別に急がなくても、ゆっくり来ればいいのに」


「早いほうがいいでしょ?じゃあ切るわね」


耳に当てた電話を、メインの機械であろうものに戻す。


トコトコと、木の板を踏み締めて外に出れば、外にはバツキの神様らしい人が待っていた。










王宮の中、その一室で私たちは待機させられている。


「なんか昨日の人たち、意外と危険な奴ららしくてさ」


金髪がそう言いながら、椅子の上で足を組む。


「テロ組織に関わったものとして、私も君たち二人も、重要な参考人ということになる」


上座側の私たちも椅子に座りながら、出された紅茶を眺めている。


(毒はありませんよ)


(そう)


飲んでみたら、味に覚えがあり、地方の貴族がくれたやつと同じだと思い出す。


「あの、お名前を聞いても?」


「私?私は……今はリン、リン・ライト」


「リン」


「龍と書いて、リンって読むのさ」


「本当に、神様なんですか?」


「そうだよ。君の宗教の起源も私さ」


「神様は、あるだけ、いるだけ。生命として生きて、社会を変える」


「だからここにいる。この国騎士団団長として、今はこの国で働いている」


「私の起源、初代の主宰たるお方に、スキルという加護を与えたのも、あなたなんですか?」


「そうだよ」


「へえ」


信じるも信じないも、私の勝手なのだけど、信じてみようかなと思った。


「じゃあ、金髪は、あなたの遺伝なんですかね」


「え」


「したんでしょう?私の曽祖母と、子作りを」


「なんで、そう思ったのかな」


「私の祖母が、神の子として、曽祖母が単身で妊娠したと記録には残されてます。でも、本当は、授かって妊娠したというのは嘘で、作ったというのが、真実なのかなと」


「神様はいるだけ、出来るだけ不感触を徹するのだから、そう易々とそんなことはしないよ」


「でも、神様も生き物で、その場の感性に流されたりする。それが快楽を伴うものなら尚更に」


「そう、そこまで、考えちゃうか」


観念した、というのは嘘だ。


目の前の男は、仕方なくと言った感じで、自らの下の事情を話す。


「そうだね、うん、まあ、そういうことになるね」


自身のまぐわいの結果なぞ話したくはないのだろうが、仕方なく、話した。


「じゃあ、私からしたら、あなたは曽祖父になるわけだ」


「キツイ?」


「まあ、曽祖父なんてほとんど他人ですので、特に思うことは」


「私からしても君なんて殆ど他人なんだよね。君の、お母さん?お父さん?にも関わってないし」


「母です」


「そもそも私の金髪が、ひ孫?の君へ伝わるなんて思わないけどね。なくはないだろうけど」


それは、そうだろう。


ましてや私の身には、加護たるものが、つまる超常的な能力を発現させる力なんてない。


「私は、君たちに何も残してない。君の祖母が持つ遺伝子の半分は、人間としての私の遺伝子だし。加護は初代にしかあげてないよ」


「はあ」


「父親のなんじゃないかな」


「そうでしょうね」


ようやく、ガチャリとドアが開く。


そこにいたのは知った顔、見たことのある顔で、この国の女王の娘、王女様だった。


「マナイ様」


「お久しぶりです」


そこまでいって、次が出ない。


なんだっけ、名前。


「……アーサー、クラミネットさん」


他人に興味が沸けない自己に少し呆れつつ、頑張って思い出した名をあげる。


クラミネットは、私と同じ歳の筈の、十五歳だ。


この人の母とは、隣国間故話す機会はあるのだが、その娘とはあまり話さない。


そもそも私は、外交としての、パーティなどには参加するけれど、実質的な、条約を結ぶといったものは他人任せ、部下任せだ。


だからそもそも必要以上に、つまり最低限しか情報を集めない。


「リン、あなたには昨日聞きましたから、外で待機していてください」


「わかりました」


出ていく背中を見送れば、部屋に残るのは私とバツキ、そしてクラミネットだ。


「改めまして、アーサークラミネットです。本日はわたくしたちの為にお時間をくれて、感謝します」


気品を感じる挨拶の仕方は、女王と、彼女の母と重なって見えた。


(私も、母と比べられていたりするのだろうか)


するのだろうな、国の党首なのだから、先代と比べ、利用価値、投資価値があるかどうかは常に見られている筈だ。


だから、外交の時は、いい顔をするよう努力してきた。


今も外交だ、だからいい顔を見せる、相手の顔を立てることを、目標としなければ。


「早速、堅苦しいことは抜きにして、本題に入らせてもらいます」


そうやって、代表者としての自己を貸すのは、疲れる。


やはり私にはバツキが必要だ、私を、党首としても、私人としても、私という、マナイという人間を見てくれるバツキは、私のそばにずっと居て欲しい。


「昨日あなた達が襲われたのは、最近勢力を増しつつある、テロ組織です」


テロ組織、それは反乱因子、ということか。


「無知で申し訳ないですが、そのテロ組織についてあまり私と、彼女は知らないのです」


「まあ、所詮はテロしかできない人たちですし、そういう人たちが襲うのは私の国のような国ですから。マナイ様の国を襲う理由は彼らにはないのです」


けれども、私たちはそいつらにつけられていた、はずなのだ。


「ただそのテロ組織は、男だけで構成されているもので、そこが問題なのです」


「魔物でも、味方につけたんですか?」


「そういう、可能性もあるとだけ」


冗談で言ってみたことに、可能性があるらしい。


男だけで、つまり力無き者たちだけで組まれる組織というのはどこの国にも──私の国には女尊男卑はないので必然的に社会運動をする組織は少ないが──存在する。


それは当然この国にもあるのだ。


では、なぜそれが問題かと言えば、それらがやるのがテロ組織であるということだ。


力は無い、が、テロをするというのは、非効率的だ。


なら、力ある者がバックに付いているのだろう、と。


そしてそれは女である筈がなく、さらに男で力を持つ者は有名になり易く、動向が掴みやすい。


人間ではなく魔族や魔物なら、足はつきにくい。


そして一番足がつきにくい、野生としてそこら辺にいるのが、魔物だ。


強き魔物が手を貸せば、社会変革も夢ではない。


「だから彼らの動向は常に調べてますし、ましてやその組織が狙う者は、先に確保します」


クラミネットの目が、政治家の野心を見せる時の、獣のように鋭い目つきへ変わる。


母よりも大物になりそうだ。


つまり彼女は、その組織が狙った私を、保護、もしくは監禁に近い状態へ持っていこうというわけだろうか。


「そうですか」


更々と、監禁されるつもりはない。


されるなら逃げるのみだ。


「私から、私たち二人からお話できることはありそうにないのですけれど」


バツキに手を出すなら容赦はしない。


条約を破ってでも軍隊を作って嫌な思いをさせてやる。


「ですが、そちらの国は警備の者、もしもを防げるほど腕の立つお方はいらっしゃらないでしょう?」


保護がダメなら貸を作る。


恩を売りたいのか、情報へつながる可能性があるのならなんでも良かれなのか。


政治というのは、外交というのは利があるのなら疑うべきだ。


浮かれポンチの気分で条約を結べば、見落としがあるものだ。


「いえ、結構です。襲われたのなら、それまでの話です。それに今は旅行の身、誰とも変わらない一般的な人ですので、わざわざ国を統べることになるであろうお方が手を貸す程でもございません」


席を立ち、バツキと共に帰ろうと、この部屋を出ようとすれば、彼女はこう言う。


「無理強いはしませんが、いつでも声をかけてくださいね。それと、道には十分お気をつけて」


その目には、黒色があった。


昨日の夜に見た、真っ暗な闇が、瞳の中へ存在した。


扉を閉め、赤と白、ついで巾の黄色の装飾が施された廊下を歩く。


「ねえ、バツキ」


「なんですか?」


「私ってモテるわね」


「そうですね」


我が身を狙うのは、テロ組織と国家の長。


あの目はテロ組織と同じで、私に宿る神秘の力を求めている。


そんなものは、私にはないのだが、宗教の建前として存在した、私の一族は神の子だというのに、尾鰭がついたのだ。


「ねえ、バツキ。才能に嫉妬することってある?」


「ありますよ」


誰も彼も力を欲するのは、抵抗したいからだ。


世の中を変えうるほど力を持てば、大衆にイメージされる自由が手に入る。


テロは社会的な自由のため、私を神輿として活動するか、人体改造でもして道具に変えるか、大方そんなところだろう。


クラミネットが、私を欲しがるのは、私の国の後ろ盾が欲しいからだ。


「才能ある妹に、次期の座を奪われようと言う噂は、聞いたことだけはある」


魔法の研究に熱を持ち、国の発展に貢献してきた優秀な妹が、クラミネットにはいる。


私もパーティで見たことがあるのだが、それは大人しい子で、姉の後ろに隠れていた。


それが才覚を発揮し、研究の成果を出せば、目先だけで考えた発言──民の間での会話──が出てくる。


「女王に就く前の彼女に対して、妹の方が成果を出しているから相応しいと、なんとなくで行ってしまう」


統治者としては、就いた後の方が大事だと言うのに。


権力者間ではそういう話は一切ないのは、彼女も成果を出しているからだ。


しかし、いい政治というのは目立つことがない。


当然、彼女が次期として、母のサポートとしての中で行われた大変効果的な政策も、貴族に理解、賞賛されようと、民には、一般の人間には知られることも、理解されることもない。


「どんと構えていればいいだけなのに、悲しいことね」


民の愚かさを、政治にどれだけ興味ないのかを、知らないのだ、彼女は。


その人たちの言葉に踊らされているのは、哀れとしか言いようがない。


「いいんですか?このままだと強行的な手段をとってきますよ」


「妹と同じような目先だけで見た素晴らしい成果を欲するのなら、所詮は王の器ではないということです」


政治家に必要なのは先を見る力だ、そしてそこまで辿り着く為の精神だ。


「私の後ろ盾がなくても、王女になれると、器があると理解できればいいんですけどね」


「そうですね」


それを伝えるのは、いや、伝える必要はなくて、彼女自身で気づくべきなのだが、伝えるとしても、親か妹だろう。


「他人の家庭に首を突っ込む気は、更々ないし」


「そうですよねえ」


にしても、この城は大きい気がする。


私の家と大差ないというのに。他人の家だからだろうか?


今の服装は言わば私服なのだから、あまりこういう場所に居たくないのも、焦りへつながる。


「あら、ごめんなさい」


やや早歩きで角に入れば、人とぶつかりそうになる。


「いえ、急いでいたのはこちらの方なので」


書類の束を抱え、どこかへ向かっていたらしい彼女は、ペコリとお辞儀をし、そのまま廊下を走っていった。


自分よりも小さな身長の子は、クラミネットと同じ、青色の髪をしていた。


「アレ、妹の方ですよね?」


バツキがそう言えば、そうだ、と私は返す。


クラミネットを思い出したのと同時に思い出せた彼女は、幼い頃に見た大人しさを持ったまま、成長したようだった。


本当に、魔法の研究に熱中しているのだろう。さっきチラ見した資料からもそのことはわかった。


「私も、他人から見たらあんな風に遊び呆けているのかしらね」


思ったことを口に出せば、バツキはそれを否定してくる。


「仕事をした上で遊んでいるのですから、いいではないですか」


そうなんだろうな、と、思うことにした。


「あの妹さんは、仕事より先に魔法の研究をしているようですけど」













馬車を出してもらい、今は山道をゆったり登っている。


「いいんですか、本当に野宿で」


「いいんですよ」


このまま、遅れた時間だと、山の中で夜を迎えることになる。


そんな夜中の山を走るのは当然自殺行為なので、途中で寝ることになる。


「襲われたら、どうします?」


「さあ?その時は一緒に死んでくれる?」


「もちろんですよ、お嬢様」


夕暮れは木に隠れ見えなくなり、夜がやってくる。


バチバチと、焚き火が音を立てて揺れる。


暗く、空と木々の境目がわからないほど暗く、馬の声だけが声明を感じさせる。


キャロットを食べている二匹の馬を眺めつつ、保存食を食べる。


味のしないそれは食えたものではないが、我慢する。


「お風呂入りたいな」


のんびりしていると、のどかで、静かな夜に、異質な音が聞こえてくる。


それが馬車の音だとわかるのは、何時間前まで乗っていたからだ。


その馬車は、青と白を基調としたもので、騎士団のものであるとわかる。


馬を操る女は、コチラを見て、馬車から降りた。


後ろの荷台の扉を開けば、当然人が降りてくる。


クラミネットが実力行使に出たのだろうか、それとも。


「こんばんは」


中から降りてきたのは、金髪の、リンだった。


「こんばんは」


立ち上がり、お辞儀をする。


敵、ではなさそうだ。


「出発するのなら、言ってくれればよかったのに」


リンは馬車の女性に感謝を伝え、待機するように伝えた。


「急いでいたので」


リンが、炎を挟み、私に向かう会う形で座る。


私も座り、向き合う。


私の左にいるバツキに目を向ければ、やや眠そうに、うつらうつらしていた。


「私も、久しぶりに君の祖母に会いに行こうかなと思ってね」


魔法陣がリンの手から現れ、その中から透明な容器に入った水が出てくる。


「こういう機会じゃないと、多分もう、会わないからさ」


「気まずいのですか?」


「そう、だね。私は理屈で生きちゃうから、あの子に対しても親というより神様として接してきたんだよね。だから親というより、同棲してた人だと、お互いに思ってるんだ」


「神様と人間を中途半端に行うからそうなるのではないですか」


「単純に、私が親をやると、同じような結果になっちゃうからあまりしたくないの」


「神様だから、ですか?」


「うん」


完璧な教育、それは誰に対して行っても、同じような結果、優秀な人間が出来上がるというものだ。


「神様が、同じように信仰されるように、私も逆に、人間に対して同じような接し方しかできないんだ」


だから、親であることをやめ、できるだけ不干渉を貫いたのだ。


「神様が親をやれば、それは偏りを作る、差別を助長させる。それは宗教としてはダメなことだから、親をやめたんですね」


「うん、でも」


私が炎に薪を足せば、火の勢いは少し増す。


バツキは寝ており、私の肩に寄りかかっている。


私たちが乗ってきた馬車の運転手も、馬と共に寝ている。


リンが乗ってきた馬車の持ち主は、少し離れた位置で空を眺めている。


「やっぱり親でもありたいから、関係あるものとして、出来れば見送りたいから、今のうちに会っておこうかなって」


「……愛、ですか?」


「そうだよ」


「宗教を深めていくと、愛というのが愚かしく思えてくるのです。皆がいう愛が、性行為を求めるか、上下関係を求めるといったものに思えてきて」


愛し合うことと、結婚はイコールではないのに、皆は同列にして語るのが、バカみたいに思える。


「私は、父親の顔を、祖父の存在も、知りません。つくづく思うのです。私は、愛のもとに生まれたのかと。両親が愛し合っていて、それで私を作ろうという発想になるのがわからないのです」


横にいるバツキを、狂おしいほど私は愛している。


けれど、性行為も、二人で子育てをすることも、考えられない。


「私は今の党首として、次世代を、私の世継ぎを育てる必要があるのでしょうけど、仮に男の精子を私に宿して、苦労して産んだその子を、愛せるかと言えば、多分愛せないのです」


「そう」


「私が愛せるのは、この世でバツキだけです。けれどそれだけだと、私が理想とする国を、次世代に残せなくなると、考えてしまいます」


後継人を、育てたくないのだ。けれど、育てなくてはならない。


「やっぱり人を愛せるようになった方がいいんでしょうかね」


「いや、別に愛のもとに子供が生まれるわけでもないし、考えすぎじゃないかな」


実にあっさりと、彼は答える。


「愛は、あった方がいいのかもしれない。けどなくてもいいんだ」


水を一口飲み、彼は続ける。


「宗教は、君の宗教は理屈なんだから、愛なんてなくてもいいのさ。君に必要なのは、実行力。そしてそれはもう既にある」


「はあ」


「私は五千年生きているんだけどね、本当に、いろんな人を見てきたんだ。いろんな時代を体験したんだ」


「五千年」


「私も最初は普通の人間だったんだ。ただ生まれと才に恵まれ、誰よりも豊かな人生を送る、ただの人だった」


「それが、神様に」


「色々あって、ね」


「それで、どうしたんですか?」


「神様になっちゃって、なるまでにね、親友を殺してしまったり、国を転覆させたりと、色々やってきたよ」


「へえ」


「色んな命に出会ったんだ。何億年も生きたい奴、一つの存在が八つに別れたもの、私を親のように慕う子、私のことを好いてくれる人、私を尊敬する人、私と共に歩んでくれる魔物、私を抱きしめてくれる人、そして、私を神様にした存在」


楽しそうに、彼は語る。


「見てきたんだ、沢山のことを。それら全てが私を作る、原初の神が作ったこの世界が、今の、その後を継いだ私を作っている」


遠い目で過去を見る彼は、驚くべきことを、当然のように話してくれる。


「何回も結婚して、子供を作った。それが社会を動かしたり、何の意味もなかったり、それが私を作り、突き動かす」


熱がこもり、まるで縁起のようだ。


「先代の神様にね、こう言われたんだ。私を作ったのは誰だろうか、と。それはわかりようがないんだ。わかったって意味もないし。神様の目的は作ること、そして作った物が、自分の内側にしかなかった物が、いつか自分を超えること!」


「その人にとっては、それが貴方だったんですか」


「うん。私が、神様を殺し、新たな神になった。そこで私は決めたんだ、色んなことをやろうって。もっと世界を伸ばして、私を超える物がいつか現れて、そいつが神になって、そいつが新たな世界を作って、また、繰り返して」


神様の感覚は、私にはわからない。


「そしてその世界はみんなで作るんだ。この世の全てが、次の世の全てを作り、いつか大きな渦が、この世に意味を作る」


「そう考えると、私という存在はちっぽけですね」


「そう、誰も彼も小さいんだ。でも、それが積み重なれば私のような神を作る。だから君も全力で生きればいい。後のことなんか、後からついてくるし」


愛は、所詮些細なことだと、彼は言いたいのだろう。


「君は愛せる人だけを愛せばいいさ。大事なのは考えること。死ぬにしても、生きるにしても、考える!考えたら、それが行動の根拠になる。根拠ある行動は、自分を変える!」


熱く語る彼は、なんだか楽しそうに、炎に負けないほど勢いがあった。


これが神なのだと、思い知らされる。


人間のような形、でも内は人間とは違う。


わかるようでわからない、それはこの世に常のものがないように、この男が揺らめく存在だからだろう。


五千年、いや、その先代の神を踏まえているのだと考えれば、世界の最初から全ての物が、目の前の存在を作り出している。


根っこはあるのだろう、人間だった頃の彼が。


その根は育ち、枝分かれし、その先に、葉がついた。


冬が来れば葉は落ち、春が来ればまた生える。


それを何年も、最低でも五千年──先代も含めれば、この世で一番長い時間──繰り返した。


五千年かけ変わったその木は、原型を感じさせぬものになった。


焼けたのかもしれない、薬で成長を促したのかも。誰かが枝を奪った、それとも枝を付け足した?


色々積み重ねたリンは、もはや何なのかわかり得ない存在へとなった。


神としか、そんな抽象的でしか表せない、存在へと。


(生きるのって、めんどくさいな)


横にいる、肩で寝るのをやめ、私の足で寝ているバツキを見る。


「私には、アナタだけいればいいか」









夜明けは狼の声と共に。


一睡もせず、ただ神と語り明かしたこの夜は、貴重な物なのだろう。


「まだ送り届けてないのに、いいんですか?」


金貨を詰めた袋を持ちながら、馬車の準備をする男は、持たされた大金に怯えるように言う。


「ええ。それより、遠回りして帰ってくださいね」


「……はい。では、またのご利用を」


朝日でようやく照らされた時、その地面を馬は駆ける。


走り出した馬が鳥の群れを飛び立たせ、朝の始まりの代替えとなる。


「起きて」


一番遅く起きたバツキに身支度をさせ、私たちは青色の馬車に乗る。


「じゃあ、私は寝るから」


馬車の中で二人きり、そして眠気。


だからバツキの方に寄りかかり寝ようとする。


いや、こちらの方がいいか。


「え」


もっと体を倒し、柔らかい足に顔を預ける。


「アナタも、昨日私の足で寝たのだから、おあいこですよ」


眠気を我慢して納得させるための言葉を出して、私はそのまま眠った。


私はあまり夢を見ない。


何故かと言えば、毎日ぐっすり眠っているからだ。


じゃあ、今、つまり馬車の中という不安定極まりない場所なら?


脳は半分ぐらい起きていて、思考をして、現実とは違うものを私に見せてくれる。


しかしそれは、はっきりした夢だった。


(呼ばれている)


声が特に鮮明で、本当に聴こえているようだった。


(そういうことを認識できているのは、夢ではないからか)


夢、ではない。


眠り、虚な気持ちを手に入れ、言わばリセットしたから、この小さな内からの声が聞こえた、となる。


現実の私は眠っているのだろう。


眠っているから、イメージという形で、私の目に映る、白黒の世界は作られる。


眠っているらしいから、脳は声を聞けるほどの余裕がある。


「アナタは誰ですか」


金の龍は、我が視界に。


声もなく音もなく、ただ白黒の世界にある金色は、私の手を取り、背中に乗せる。


白黒の世界に龍は駆け、空を飛ぶ。


どこへ連れて行こうというのだろう。


現実と同じ色の雲を突き抜け、面白みのない空を渡り、遠くまで来て龍は止まる。


ゆったりと降りていけば、そこは見覚えのある景色で、凄惨な光景だ。


「戦争の後の国へ連れてきて、何を見せたいのですか」


この世界において数少ない戦争、それによって滅んだ国の跡地は、沢山のクレーターと血で出来ていた。


復興の手当を経済的にも直接的にも支援したことがあるから、わかる。


「私の時より直ってますね」


国の、城壁の跡地の中にはキャンプがあり、そこに人は沢山いた。


どれもこれも、動いていないのだが。


「白黒で、写真機で撮った景色のよう。これがアナタの記憶なら、私に見せたい物があるのでしょう?」


龍は、私を地に下ろし、一つの方向に私を誘う。


テントの集団を抜け、復興を再開しつつある、市街地の方へ歩く。


空を飛ぶ鳥は停止し、噴水から飛び散る水滴は固定されている。


少しばかり見ていたいこの景色も、次に私が見たものには及ばなかった。


「死体」


ただの死体ではない。


しかしなにか、ドがつくほど変な死体でもない。


特別なのはその死体だけ、色がついていて、普通なのは、下半身がないことだ。


「これが、アナタ?」


建物が崩れ、その破片に埋まっている彼は、大量の血を流し地に伏せている。


他にも、建物が倒れている場所があり、それらはどれも修復中だった。


「あの日の地震か」


地震で建物が倒れて、それで人が死ぬ、というのはよくある話だ。


「これを見て、私にどうしろと?」


人の死は沢山見てきた、だから言える、これはただの事故死だと。


特別でも何でもない、ありきたりな死に方だと。


「知っていてほしい?伝えてほしい?誰に?なぜ?」


そこまで考えて、一つの仮定にいたる。


死んだ男を見る。


残った上半身、更にその頂点。


「もしかして、アナタは」


色を見て確証を得た時には、私は目を覚ましていた。


モノクロに比べて、現実は明るい。


眩しい世界は、私を無理やり起こそうとする。


「バツキ」


「起きました?まだ時間はありますけど」


「もう少し、このままでいさせて」


柔らかい足の肉に、顔を埋める。


「悲しい夢を見たから、もう少し、このままがいい」


「好きなだけいいですよ」


そう、そういう、ことだったのか、だから、かの龍は私を頼った。


それを受け止めるためには、誰かが必要で、私にとってはバツキのみ。


「いつも、ありがとう。ごめんなさい」


私は完璧ではないから、人に迷惑をかける。


それは仕方ないのだけど、やはり、出来るだけの完全を求めてしまう。


論理的に言えば、一人で生きられることは何の美点でもないのだが、それを求めてしまう。


意味をないものを求め、仕方ないことから逃げたいと思ってしまう。


辛い現実とその気持ちが合わされば、多少なりとも私の心は崩れてしまった。


ぐちゃぐちゃの心は、時間を溶かす。


ずっと気持ちを整理してると、沢山あったはずの時間は消えて、もうその時が来てしまう。


「着いたよ」


ノックと共に扉が開き、そこにはリンと馬車の女性がいた。


「眠い?」


横になったままの私を見て、彼は言う。


「いえ、大丈夫です」


起き上がり、馬車から出る。


出れば外の景色が見える。景色は懐かしく感じる。


下手したら村より大きな屋敷が、私の目の前にある。


ここに来たのは、何年前だろう?


門の前で、ベルを鳴らせば、屋敷の扉が開く。


「あ」


自分から、呆れた声が出たのは、嫌だったからだ。


「よく来たわね」


「お久しぶりです」


その人と私の距離が近づくたび、私の心臓は跳ねる。


ドクンドクンなるのは、嫌だからだ。


私の彼女を阻む門が開き、距離が目の前まで縮まると、彼女は私を抱きしめる。


「いやあ、ほんとうによく来てくれて!」


「はは」


自分の母に、抱きしめられて喜べないのは悲しかった。


「バツキも。マナイはよくやってる?」


「ええ、よくやっていますよ」


「そちらのお客さんは?」


「お婆様に用があると」


「お母さんに!何にもないところですけど、よければゆっくりしていってくださいね」


庭園を抜け、屋敷の中へ入る。


小さい頃に見たのとは、大きさに違和感を覚えるのは、私が成長したからだ。


「お母さん?マナイが来たわよ?」


屋敷の一室に、母はノックをかける。


厳粛な許可と共に、扉が開かれると、そこには祖母がいた。


何年たとうが、老人は変わらないのだろうか、抱いた印象のままそこにその人はいた。


祖母は、私を見て、その背後にいたリンを見る。


目を丸くさせ、しばらく黙ったままだった彼女は、次に口を開く時にはもう冷静な、いつも通り厳かにしていた。


「マナイ、そちらのお方は?」


「知ってる人、なんでしょ?」


「……ええ。少し、二人きりにさせて」


「わかったわ」


母、私、バツキ、馬車の人は、部屋を出る。


部屋を出たとき、馬車の人は外で待つと言い、そのまま屋敷を出ていってしまった。


私たち三人は別の部屋で、客人用の部屋で、テーブルを挟み座っていた。


言うしかない。


真正面にいる母に向かい、口を開く。


「お母さん」


「なに?」


「その、急なんだけど、お父さんのこと、愛してた?」


「本当に急ね。……愛してたわよ」


「お父さんは、お母さんのこと好きだった?」


「さあ?どうかしら」


「お父さんは、私のこと好きだった?」


「ええ。あまりアナタには実感がないでしょうけど」


「その、そのなんだけど」


言わなきゃいけない。言いたくない。


横にあるバツキが不安そうに、そしてここにいてもいいのかと考えている。


私は、自分と彼女の不安を和らげるため、自分の左手を彼女のみかな手に重ねる。


「お父さん、多分、死んじゃったの」


「え」


龍が見せたあの死体は、あの金髪の男の死体は、私の父のものだ。


感覚的に、理屈的に理解できたそれは、真実だ、真実なのだ。


「お父さんは、地震の事故に巻き込まれて、死んじゃったの」


「何で、」


「その父が、私のところに来たのよ」


驚くほど簡単に、私の胸から、黄色の宝玉が取り出せた。


宝玉を、母の手に渡す。


触り、次に抱きしめる。


抱きしめたまま、うずくまって、嗚咽を漏らす。


「本当に、死んじゃったのね」


これは、理屈ではなく感覚でしか理解できない。


だから、無理に理屈にして飲み込むのには、時間がかかる。


「少しだけ、一人にさせてくれるかしら」


そう言われて、宝玉を残したまま、私とバツキは部屋を出る。


扉を閉めた後、溢れ出た啜り泣きが、扉の奥から聞こえてくる。


愛していた、彼女は男を愛していた。


私も、愛されていた。だからこの世に生まれて、生きている。


その愛の結果が、愛した娘に、恋した人の死を告げられることなのは、申し訳ないとしか言えなかった。


あの宝玉は、人の心臓のように熱くて、触れば命を感じられる。


私の親がそれに触れば、触れて てしまえば、わかるだろう。


抱いたことのある男と同じ熱を持っているのだと、裸で触れ合った時に聞いた、心臓のリズムだと、わかってしまえる。


私がシンパシー、遺伝子的な感覚で父親だと理解できた、それ以上に父親の死を理解できてしまえる。


(こんなことしかしてあげられないの?)


自問。


十二歳で、今の立場、国を収めるという立場を持った時は、出来るだけ親に頼らないと、ゆっくりしていてほしいと願ったのに。


風が吹き、森がざわめく。


その音を掻き消すほど、私の心は揺れている。


私は、バツキが死んだら耐えられない。


母は、同じ痛みを受けている。


「マナイ、戻ってきてくれる?」


それなのに、私を呼び戻す。


扉を開け、先程と同じように座る。


目元が赤く腫れている母は、それでも強く、聖女と謳われた人として私を見ていた。


「あまり、父親の話をしたことがなかったのは、話せるようなことがなかったのよ」


宝玉を愛おしそうに撫でながら、彼女は語る。


「貴方が生まれてから、彼は被災地を飛び回っていて、家にもあまり帰ってこなかった」


それは、知っている。


「いい人だった、美しい、美男子だった」


それも、知っている。


楽しそうに、嬉しそうに、いつも私に話してくれていたのを覚えている。


私に父親を感じて欲しいがため、そんなことを話してくれたのかは、わからないが。


「だから、こんなことを言うのは失礼だけど、貴方が生まれた時は、自分が惚れた男と同じ美しさを持っていたのが、嬉しかったの」


本当に、父と私は似ているらしい。


髪の色も、顔つきも、きっと目の色も同じなのだろう。


「死んでいたなんて知らなかった。ありがとう、伝えてくれて」


笑顔で、私に宝玉を返す。


命の鼓動を持つそれは、私の内に収まっていく。


「宝玉は、もうただの祈りなの。貴方の父が、貴方と一緒にいることだけを、望んだ。一緒にいることしかできないから、ずっと貴方のものなのよ」


何故、母でもなく私なのだろう。


「私との思い出は沢山あるもの。でも、娘との思い出はない」


だから、私と共に思い出でも作ろうと言うのだろうか。


「それも、宝玉もいつか消えるから、その時はまた伝えにきてくれる?」


「わかりました」


「優しい子ね」


親は子に命令する生き物で、子はそれに従うかを選べる。


ただ、大体は有無を言わずに従ってしまうのは、相手が親だからだ。


親は子に対し愛を注ぐ、なら、子供は親に何をする?


恐らく、全てだろう。


自分に親の子供を課すことを、生活や行動のアドバイスを、無意識的に望んでしまう。


俗に言えば、洗脳なのかもしれない。


それでも、その洗脳を認識し、行動するのなら、自分の意思なのかもしれない。


「娘の前で泣きたくはなかったんだけどね」


親としての威厳を保とうとしているのだから、この人は私の親なんだ。


辛いだろうに、平気にしてみせる、それに対して子は何も出来はしない。


「おばあちゃんの所に行ってくる」


だから、逃げたかった。


逃げるのはダメなのに、逃げてしまった。


「バツキ」


縋るように出た名前の主は、黙って私について来てくれる。


廊下に出て、人気の少ないここは、いつもの不気味さを感じさせてくれる。


このだだっ広い屋敷を歩き回っていた時、親も誰も見当たらない時、幼き私は恐怖を感じた。


それが今、逆に誰も、バツキ以外誰も、私のことを見ない場所に変わっていた。


「どうしたらいいか、わからなかった」


壁にもたれかかり、そのまま床に座る。


行儀の悪さを口にする者は誰もいない。


「親は私に愛を注いでいるのに、私は親を他人としか思ってあげられない」


親だと感じても、血が繋がってると分かっていても、愛を感じられても、最終的には他人として認識してしまう。


「……辛い、の」


見上げるパートナーは、いつも通りの顔で、私を見下ろしている。


「政治家として、宗教の長として、それを言い訳に他人と親密に関わろうと思えない」


「それでも、いいんじゃないですか」


「そうなんだらうけど、自信がないの」


「自信なんてなくてもいいでしょ?」


「求めたいの」


「求めてしまうのでは?」


「考えてしまうの」


「ならもう、諦めてください」


服にシワが付きますよ、と、彼女は私を立たせる。


「私は賢くないですし、マナイが求める答えを持っているわけでもないです」


立たせた勢いのまま、彼女は私を抱きしめる。


「一緒に居てあげることしか、できません」


いつも、辛い時に彼女は抱擁をくれる。


優しくて、一緒に悲しんでくれて、側にいてくれる。


「悲しいなら、いま思いっきり悲しんでください。落ち着いたら、生きてください」


「ありがとう」


泣きたいのに、泣けはしない。


吐きたい時に吐けたら、どんなに楽だろう。


苦しい時に苦しめるのなら、死にたい時に死ねれば。


生まれたくて産まれることができるのなら。


この世は望む通りに動かない。


「生きて、私を幸せにしてください」


けど、今の私は生きたくて生きている。


自分が愚かしく思えて、辛いはずなのに、生きたい。


生きて、幸せになりたかった。












悩んで生きるのは当たり前のことであるし、階級に関わらず誰しも体験している。


人間が完璧ではない、つまりいついかなる時も常が──もっと、より、そういった、向上を促す言葉のこと──がついてくるからだ。


問題なのは、それを認識し、生きると言うこと。


どんなに頑張っても上には上があることを知りながら努力をするのは辛いことである。


上がり続けるハードルを飛び続けるのは誰にも出来ることではない。


かといって諦めて成長を辞めたところで、幸せになれるわけでもない。楽にはなれるだろうが。


「失礼します」


ドアをノックし、扉を開けると、部屋の明かりが自分に当たる。


「適当に座りなさい」


祖母が、事故に対してそう言うことを言えば、素直に近くにあった椅子に座ることにした。


多種多様なイス、趣味で世界から集められたそれは、部屋に統一感をもたらさない。


けれど汚い、無秩序というわけでもないのは、椅子に機能があるからだ。


インテリア、座るよう。


座るにしても、背中を預けるのか、体を預けるのか。


木製か鉄製かそれともクッションのようなものか。


それ以外にも、広い部屋には沢山の物がある。


何故かと言えば、祖母はあまり動かないからだ。


この広い屋敷で暮らす上で、自分の生活のほぼ全てを、屋敷に比べれば小さき部屋で完結させようとするのは、年寄りだからだ。


現にいま、家一つは余裕で買えるほどの金額を持ったラウンジチェアに座り、外を眺めている。


外を眺めている目線に私とバツキはおらず、その目には青い空とそれを邪魔する窓だけが映っているのだろう。


「私はもう、長くないかもしれないじゃない?」


体を起き上がらせ、こちらに顔を向ける。


「そうですね」


互いに、確かめるように見つめ合う。


記憶の中の顔は、幼い頃から変わらず老けたままで、目の前の顔はさらに老けていた、いや、弱っていた。


変わらぬ物、普遍の存在なのではないかと思えてしまう祖母が、変わっていたことに多少の動揺を覚える。


常ある物がないのは、宗教を尊ぶ身としては分かっていたことだが、親だけは、変わらない存在だと思っていた。


母も、祖母も、変わってしまう。


なら私も変わっているのだろう。家族は、私を見つめて、変わったことに何を抱くのだろう。


「ここには、沢山の物がある。最初期の経典から、家族写真まで」


「そうですね」


「だから、必要な物があるのなら今のうちに、早いうちに持っていってほしいの」


「わかりました」


「どうせ、何日かここにいるのでしょう?」


「そうですね。三日ぐらいは」


「なら、適当にしていいわ。私の椅子も、死んだら持っていっていいから」


「はい」


それで、会話は終わった。


ああ、目の前の人は死ぬのだと、それで終わりだ。


何回も人の死にゆく様を見た身としては、もう何も思えない。








食事をしている。


親と、祖母と、私にバツキ。


リンとそのお付きの人は帰ってしまった。


祖母とリンが何を話したのかはわからない、聞く気にもなれない。


書かれるのは私の物語であり、他者の話ではない。


「仕事の方は、上手くやれてるの?」


母が、私に問いかけてくる。


「はい。外国の方も、国民の人たちも、よく働いてくれてます」


「お母さん、あんまり政治は得意じゃないから、私より大事な娘がその仕事のポストに就くなんて不安で不安で」


「はあ」


母の、仕事としての性能はカリスマ性が目を引く物だと、私は感じている。


母はいま自分で口にした通り、政治的な物、つまり難しいことを考えるのを得意としない。


が、それでも国として成立させたのは、圧倒的なカリスマ、才能的なものによる物だ。


美貌と、自己を顧みない独善的な慈善行為。


それにより、国内外問わず人を惹きつけた。


被災地には私産を惜しみなく投資し、他国の姫様は美貌に惹かれ協力する。


理想を、子供が口に唱えるような理想を語れば、誰かがそれをサポートする。


その誰かは国民か他国の姫。


聖母と揶揄されたこの人は、民に国を信じさせ、他国と非戦の契りを交わして国を安定させてくれた。


私とは、正反対な人だ。


「それはもう何回も聞きました。娘が不安なのはわかりますが、マナイはあなたよりよくやってますよ」


呆れた祖母が、ゆっくりと料理を食べながら言う。


「いえ、お母様が国を安定させ、人口を増やしてくれたから、国として教育やワークシェアリングを推進できていますし」


これは事実だ。


祖母、母、私と、時代が進むにつれ医療技術、特に出産に対する物が進歩している。


だから出産率が増える、というわけでもないが。


経済の上昇、意識の変化、分業化、育休制度。


色んなことが起因となり、人口が急速的に増えた。


母が私を産んだ頃は特にそれが著しく、ベビーブームと言われている。


つまり大量に生産された子供たちはいま、十五歳前後ということであり、職に就いている成人というわけだ。


(それが、効率的な仕事配分を求める私には好都合だった)


が、実際には、職に就いていない人が、他の世代に比べ多かった。


それは国が安定しているから、その中のミクロである村も安定している。


安定した村は既存の村人のみでやっていけるし、仕事も長女が継ぐ。


つまりは村によっては村内の作業に対し過剰な人員が割かれており、更には仕事を継げず、村の中で賃金の低い仕事をするしかない人もいる。


だから私はその、仕事を継げない次女や男を首都へ呼び、私の仕事に対する教育を行っている。


私は仕事を軽減できる、呼ばれた人はそれなりの職にありつけるし、さらには他者に誇れる仕事、国の統治者の元で働いているという事実が手に入る。


村社会において何を仕事にしているか、というのは労働条件より大事であったりする。


だから私の元で働いているという事実は、村のもの、特にその子の親からしてみれば安心できるものだ。


(そういうことを理解できたから、今になってやっと成果が出て来た)


これを始めてから大体三年が経つ。


呼び寄せた人間はやはりバラバラで、初めからうまくいくわけでもない。


そもそも次女や男というのは長女に比べ教育に金を注ぎ込まれているわけがないので、まあ、酷いことを言えば頭が悪い。


だから仕事も覚えられなかったり、礼儀作法もなってなかったりする。


(外国から裁判官を呼び寄せたりして、リソースを割きまくった結果、三年という短い月日で芽が出てきた)


難しい書類仕事も、ダンスも、計算も、できるようになった。


つまり、その人たちは一般の人間より優れた人になり、私の仕事の一部を肩代わりしてくれるほどの存在になった。


この結果は政治家としては正しいのだけど、宗教としては、特定個人を特別扱いするということなので、好ましくはない。


だから、マナイは、やや悩んでいた。


この事実は議論されるべきものなのに、民衆は何も言わない。


つまり、政治に興味がないのでは?と。


(私の後継を作るために、かつ私が楽するためには選挙ぐらいしかないのだけれど、民衆が催事に対する理解を持てないのならこれは無しになる)


「宗教の方は、大丈夫なの?」


「割合で考えると少しずつ増えています」


ここで、少し会話が終わる。


静かに、音を立てず皆が食事を進める。


「結婚、する気はあるの?」


祖母が、口を開いた。


母には焦りが見えている。


二人はこのことを、聞きたかったのだろうか。


結婚、政治の意味としては子孫作り。


「ありません」


だからはっきりと言う。


自己の政治体制をはっきりと口にする。


「そう、そうなのね」


驚いたのか、それとも安心したのか、母は呂律がうまく回らない。


「後継のことは考えているの?」


「後身を何人か育て、あとは他国を参考にし選挙を実施しようと考えています」


祖母の平然とした調子には、同じくいつも通りの声で答える。


「その、個人的な結婚はしないの?政治家としてじゃなくて、マナイとして結婚とか」


「結婚は、どうあれ行いません。ただ、共に歩むパートナーならもう見つけてます」


母の問いにも、落ち着いて答える。


そしてこの返答が、次に何を産むのかは、わかりやすいだろう。


「本当!?」


母は食らいつくように、少し体をこちらに傾けて言う。


分かっている、わかっていた。


自分の娘にパートナーがいると分かった時には、親はたいそう驚く物だ。


そしてそれが自分に知らされていなく、かつ恋愛に興味がなさそうな娘があたりまえのように口に出せば尚更だ。


「誰なの?」


だから祖母が、出来るだけ冷静に話の舵を取る。


「……」


言ってしまう、ずっとの秘密を。


言って、言ってしまって、何の意味があるというのだろう?


「バツキ」


「はい」


私の、横に座らせていたバツキを向けば、覚悟を決めたと、何を言われる覚悟はあると、そう感じさせてくれた。


ありがとう。


「私は、お嬢様と、マナイと昔からお付き合いをさせてもらっています」


バツキの一族は、ずっと私の家系と共に歩んできた。


当然ステレオタイプな思考だと、従者とその支配者がお付き合いというのは受け入れ難い。


「私は、バツキと一生を添い遂げるつもりでいます。かといって結婚はしませんし、養子を取るつもりもありません」


結婚というのは、当事者のためでなく、当人以外のためにあるのは、少し考えればわかる話ではある。


なのでそれをしないということは、ある意味では。


(親不孝なんだ)


重い沈黙、ただ耐え難い静寂が、流れている。


全員の皿の上には何もなく、終わりのはずのこの時間も、このままだと延々と伸びそうなぐらいだ。


同性婚がダメなわけでもない、ダメなわけがないのだけど、私がした選択は、バツキが行った選択は、愚かとも言える判断だった。


ただ二人でずっと、これから出会う人間を諦めて過ごす。


「そう、なのね」


母が、こちらを見つめる。


その目は母親として強い目で、覚悟を問うている。


問われる覚悟は伴侶としての、共に死ぬ物としての覚悟だ。


また沈黙が流れ、その間私と母は見つめ合う。


ドアが開き、この屋敷のメイド達が食器をさげていく。


「マナイ」


「はい」


母が口を開き、こう言ってくれた。


「大事にしなさいね」


「はい」









夜風が吹いて、草木が揺れてくれれば、夜の寂しさは消えてくれる。


星空を見上げ、時には庭を眺める。


屋敷のテラスから外を眺めていると、後ろから足音が聞こえた。


「少しいい?」


母親が、この時期にしては厚着で立っている。


冷え性らしいこの人は、テラスにある祖母のコレクションのひとつである椅子に座る。


「大丈夫です」


「ありがと」


母親に対しての気持ちは、あまりない。


物心ついた頃の関心は政治であったし、それは今でも大して変わらない。


仕事をして、親の補佐をし始めたのが、十歳ぐらいの時で、後を継いだのが二年後だった、はず。


そこから三年、つまり今日まで働いて来た。


人生の三分の一は仕事であるし、その以前も関心があったのは政治と宗教。


そこに親が入り込む余地はなく、誰か、人に対する、興味関心というのも、バツキが全て持って行った。


私にとって、この人は世間一般でいう親と同じ扱いをできているのだろうか。


歩いているときに自分がまっすぐ歩けているのか不安になるように、綺麗だと思った物が他人から見てどう映るかを気にするように、親を親として扱えているのかは、不安で仕方なかった。


それは親が私を子として、マナイを課しているからで、私はマナイとして、この人の子として振る舞わなければならないという、思い込みである。


この考えは愚かしいことはわかっているのだが、愛した夫はいない、母だっていつ死ぬかわからないという、いつか孤独になるしかない人に対し、子を捨てろと、私は私として生きていくというのは、口に出せなかった。


手招きされ、側による。


母はそっと私を抱き寄せ、胸の中に引き寄せる。


朝にされたのとは違う、抱擁だ。


(あたたかい)


夜の寒さを打ち消すのは、暑さを持っているからだ。


愛が熱に変換され、熱が人の心を動かす。


「あなたが、バツキと付き合ってると言った時は驚いた、というよりはなんというか、怖かったの」


私を離した彼女は、今度は、向きを変え、私に同じ方向を向かせ、また抱き寄せる。


母の上に、人の前に座ることになってしまった私は、なんとなくで星を見上げる。


「孫が見れない、結婚式もやらない、母として参加できるイベントはもう、やらないのだろうと、わかってしまったから」


傲慢、我儘な言葉だが、親としては、仕方ない思いだ。


「でも、それでも、反面に嬉しさたる物が湧いて来たの」


母娘で同じ空を見上げる。


「貴方が変わったことが、変わるために、生きたことが、何より嬉しかった。私が産んだ物が、勝手に生きていたことがわかって、私の知らないものになっていて」


泣いているのは、見なくてもわかった。


「あの人が、貴方のお父さんも死んで、貴方はもう成人して、今日出会えて、きっと、辞めるにはふさわしい日だと思った」


言いたいことは、わかってしまう。


血だの遺伝子だのそんなまやかしではなく、この人は私の親だという事実が、何年か私を育てるために共に暮らしたという事実が、互いに相互理解を生んでいた。


「貴方はもう、親離れしていいのよ」


「……はい」


私が私として歩むために、彼女が彼女として歩むためには、互いの関係を打ち消す必要がある。


なぜならもう、互いに必要とする理由がなくなったからだ。


成人したマナイからしてみれば、全てを自分で決めたいのは当然であるし、母親からしてみれば、結婚もしない、子も産まない娘に対し、酷い言い方だが価値がないからだ。


「今まで、ありがとう、たくさんのものをくれて」


大好きな人との愛の形、その役目は果たした。それだけでいいのだ。


「だから私にも、子離れさせてくれる?」


「はい」


強く、強く抱きしめる。


親としてではなく、一人の女として、独善的なエゴを込めた抱擁を皮切りに、二人は親子関係をリセットする。


遺伝子が繋がっているという事実から、二人はどう足掻こうと血縁なのだが、そういう問題ではない。


結婚しない娘に対して、親としてマナイを貸すのは、先代の人間として口を出すのは当然亀裂を産む。


独り立ちした個として生きなくてはならないのに、親に子を課されるのはストレスである。


抱きしめられた体は解放され、また空を見上げる。


「そろそろ、寝ようと思います」


「そう、おやすみ」


席を立ち、歩く。


親子関係は、互いが互いに存在を課している。


それを理解しないままの子育て、つまり平民や奴隷が行う子育てでは、互いの間に亀裂を生じさせる。


だからそれを、意識する必要があるのだ。


意識していないと、いつまでも互いを望まぬ形で縛り付けてしまう。


意識しているから、今日は簡単に親離れを、子離れを行えた。


自由とは、縛られて出来上がる。


親子関係という契りを意識し、それを縛りと認識しているから、それを一旦辞めるという選択、つまり自由があった。


意識しなかったら、できなかったら、何を止めればいいのかすらわからない。


(早く戻ろう)


バツキが待っている。


今の私は、マナイだ。


バツキの彼女というだけの、人間だ。







家に帰りたいと思うのは、当然ホームシックである。


だが、今いる場所は、元は家なのだ。


幼き頃に共に育った自然すら今は見覚えのない他者へ変わっている。


「では、さようなら」


「体に気をつけてね」


母親が、私と、バツキにハグをして距離を取る。


行動から漏れ出る甘さが、つくづく優しい人だと思う。


バツキは、お付きの人が、主と結ばれるのはダメだというのにそれを許す。


バツキは少し照れくさそうにしていて、普段は見れない顔に私はにやけてしまう。


呼び寄せた馬車へ乗れば、緑のざわめきと同じリズムでタイヤが音を鳴らす。


音が打ち消しあい、小さなざわめきだけが、この中へ残る。


「疲れました?」


私を、身長を使い見下ろすバツキはそう言う。


「そう、ね。疲れたわ」


疲労というのを感じるのだから、そうなのだろう。


「でも会えてよかった。会話できて、良かった」


今日会わなかったら、もう会えないだろうから。


会える時に、人と会いたいものだな。


「おばあちゃんも多分、もう死んじゃうの」


私の目線の先にあるのは、小さい箱。


私が持って帰ろうと思った、あの家の思い出。


中を開けて見ると、そこには私が一番綺麗だと思った祖母のカラー写真と、あとは小さい頃に使っていた動物の人形が二つだけだった。


「もっと高い椅子とか貰おうとは思わなかったんですか?」


「そんなものはいつでも買えるでしょ」


木製の軽い箱は、大切なものを守りながら馬車と共に揺れる。


「祖母が死んで、その頃は仕事が忙しいから葬式には出れなくて、何日かしてようやくお墓に私は行く」


リスの人形を手に取り眺めてみれば、案外可愛らしいものだ。


どこに飾ろうか考えながら気持ちを吐露する。


「だから本当に、今日で会うのが最後なの」


ガラスで作られた瞳は本物より美しい。


外の景色を写し、生命にない躍動を道具が持つ。


「母も今回のが無ければ、きっと気苦しいままの関係だった」


私は今日、自由になった。


帰れる場所がある意味で出来た。


遠く離れるあの屋敷は、いつか私の帰る場所となる。


帰属する場所ができた時、人は自由を手に擦ることができる。


「家族としての私にとって、大事な機会でした」


母親とはまた会う、つまりまたここには戻ってくるのだけれど、


(戻ってこようと思えるのは)


今があったから。


「ありがとう。バツキ」


「私は、何も」


「何もしてくれなくていいの。居てくれて、ありがとう」


人が苦しみ貫いた時最後に縋るのが精神の支え。


精神の支えとは人の根幹。


人の根幹とは、人の全て。


今まで生きたことが、これから生きる術となる。


その全て、生きた時間に占めるバツキはあまりにも大きなものだった。


「なら、よかったです」


ガタンガタンと、馬車は揺れる。


揺れながらただ時を流れる。


それだけなのに、何故だか楽しく感じてしまうのは、楽しかったからだ。


この経験が、今回のことが、自分にとって大事で、大切で、ありがたい、つまり楽しいものだったから、自然とその経験の続きである今も気分がいい。


この楽しさが、嬉しさが、馬車の速度が上がると同時に消えていくのは、あの場所から離れているからだ。


それは悲しいのだけれど、終わりが悲しくなくてはならないのが世の常である。


悲しく無ければ人は前に進めないのは、甘えたがりだからだというのは、わかる話である。


悲しいから、辛いから、怒っているから、前に進む。


進行方向の先に待つかもしれない幸を求め、歩くしかない。


だから悲しみは、不幸は必要なのだ。


(さようなら、過去の私よ)














戻ってきたのは、隣の国。


だから人は多いし、魔法を生かしたテクノロジは眼に入る。


そしてその国の中心、統治者が存在する城の中なら、尚更に煌びやかさと複雑さを感じてしまう。


「国の統治者が、一個人に執着ですか」


その、そこを支配する、統治者が存在する場所を統治するもの、女王が私を押し倒している。


側にいるバツキを手で静止させ、目は鼻の先の綺麗な顔に映る。


「私はこうするしか、民に支持される貴方様に求愛を求めるしか、私の民の支持をもらうことはできないので」


なんとも情けない独白だろうか。


「貴方からすれば、私と言う政治者は完璧に見えるでしょう」


わざと、彼女の胸を揉む。


甘い声、震えた体、驚きと嫌悪が混じるその瞬間に、体勢を入れ替え太刀とネコを変える。


「でも、貴方が思うほど完璧ではないんですよ」


目と鼻の下にある、彼女の顔は、私を見つめることができていない。


「貴方を抱いてあげることも、抱かせてあげるのもしてあげましょう。国として援助もあげましょう」


宗教は、性欲を否定しない。


結婚も、その果ての性行為も、事実として黙認している。


「それが望みなのなら、後ろ向きの思考ではなく、貴方としての至極真っ当な論理で出たお誘いなら、バツキが、私の最愛の人が不幸になろうとも貴方を抱いてあげましょう」


横から声が聞こえてくるのは、バツキがいるからだ。


宗教とは所詮原理原則、人の根っこたる部分である。


教典を学べば、大抵の、法律に反しない程度の行為は宗教として黙認されるように文化としてなる。


だから聖職者が、一身の女を押し付けているのは、なにも複雑なことではない。


「その目で、自信を持てるほど愚かしいのならと言う話ですが」


体勢は入れ替わり、どちらが猫なのかは明らかだ。


それで目の前の女が目を逸らしたのを見れば、結局は迷っているだけなのだと思い知らされる。


他者によって確立される自己は、別の他者によって揺らがされる。


そういうことを理解できなければ、一生他人に振り回されるだけなのだ。


「今日は、この国に泊まろうと思います」


ベッドから降りて、崩れた服の襟を正せば、私は玄関へ向かい歩く。


「バツキ」


優しく、どうしても甘ったるい声でしか呼べないその名前を呼べば、その人は私の隣を歩いてくれる。


私にとって、私を確立する絶対的な他者はバツキだけ、バツキしかいないのだ。


それが、後ろの人にはないだけで、その人は悩み迷う。


それを救うのが宗教なのではないのかと言われれば、それは違う。


むしろ宗教ほど受動的にしか、自らを自らの行動で救わんとするものにしか意味をなさないものはない、と言える。


あの人は、どう救われたいのだろうか。


「バツキ」


名前を呼ぶ、話をするために。


赤く沈む空は、暗く青い海に変わっていく。


「もしあのお方から誘いがあったら、私は行こうと思います」


彼女に向かい、女の誘いに乗ると発言した。


「ええ」


納得したように見せかけた声は、微かに震えていて、戸惑っていて、怒っていて、悲しんでいる。


人間の感情の平行処理に感心していると、次と言葉が飛んでくる。


「はっきり言えば、嫌ですが」


廊下の壁に追いやられ、高い身長が私を見下ろす。


「まあ、少しぐらいなら、許せますよ」


ゆるりと離れ、背後の夕陽を私に隠す。










だから、私は今ここにいる。


夜の中、ただランタンだけが見える、部屋であろうはずの場所で、声だけ聞こえる相手を前に。


肌の熱が伝わってくるのは、抱いているからだ。


「泣いている」


シクシクと。


「迷っている」


フラフラと。


「救いを求めている」


具体的ではないそれを。


彼女が弱音を吐く、二つの意味で、弱い音を。


「人の目が、私を刺してくる。親族の声が、私をバラバラにする」


他者によって確立するために、他者によって殺される。


それが人の子なのだ。


「貴方を見た時、私を見てなかった。ただ一つのあの女性だけを見つめている瞳に、私は吸い込まれた」


続ける。


「暗い瞳で私を捉えてよ、そしたら一人になれるから」


まだ続く。


「ねえ、虚偽で私を愛してよ、満足できるから」


これで終わる。


「だから、抱きしめないでよ、本当の愛で私を満たそうとしないでよ」


終わったので、私は始める。


「貴方は救われません」


続く。


「他者より優れた教育を受けたからには、上回った分他者に奉仕しなくてはならない」


まだ続く。


「変わらないことなんてない。だから貴方がずっと満たされることもない」


もっと続く。


「宗教は人を救わない。宗教は人を確立するためだけにある」


ずっと続く。


「貴方が迷ってもがいてフラフラで存在があやふやな到底知恵ある人と呼べないのなら、私に賭けなさい」


続けるしかない。


「私に貴方の個を託し、私だけによって確立される人になるのです」


これで終わりだ。


「さあ、どうします?」


私は今、死ねと言ったのだ。そして新たに生まれ変われとも。


それは、呪いである。


私に縛られろと、呪われろと、託せと、賭けろと、信じてみろよ、と。


「めんどくさ」


本音が出た、彼女の。


「そうですね」


「救われるためには、そんなにめんどくさいことをするの?」


「さあ?」


「私は、今のままいて救われたいのに、捨てなきゃいけないの?」


「さあ?」


「めんどくさいよ、すごく」


「じゃあ、捨てます?名前も姓も身分も過去も、捨ててどこか逃げてみるのもありですよ」


「それは、とても楽ね」


「でしょう?」


「でも、ごめんなさい。それはできそうにない」


「へえ」


「私は私でありたい」


「なら、私から言えることはないですね」


ベッドに横になり、シーツを体に掛ける。


目の前に横になる彼女は、私を強く抱きしめる。


「どうしても、このまま進むしかないのですね」


「ええ、恐らくは」


私も抱きしめる。


結局は嘔吐してでも生きるしかないのだ。


全てを捨てる勇気もないのなら、諦めてしぶとく生きるしかないのだ。


生きることでしか、人は変われないのだから。


「私も、貴方も、きっと誰も悩みを抱えて、解決もせず刺さったまま生きている」


真に幸せなどあり得ないのだ。


「痛みは消えなくても、減らすことはできる」


だから限りなく、その幸せに、近づけるよう努力する。


「だから今日はもう、寝ましょう」


ランタンの明かりを消し、暗闇の中で二人、互いの痛みを分かち合って、心臓の鼓動を与え合って、共に明日を迎えることにした。







夢を見た、また夢を見た。


色褪せた世界ではなく、色とりどりの世界の中で、私と、誰かと誰か、沢山の人が、何かをしている。


それが掃除だと、環境整備だと気づいたのは、少ししてからだ。


(大人だ)


少し背が伸び、体が引き締まっている私を見る。


なら、その隣にいてくれるのは、見たことない格好をしたバツキなのだろうと、理解した。


変わる、変わっていく。


街の中のゴミを拾い、休憩し、また拾う。


とても一国の女王がすることではないが。


(楽しそうだと、感じている)


理屈、つまり政治ではなく、感情の、行動としての環境保護。


それをしている私は、一番輝いていた。











ああ、朝だ。


差し込む朝日は私を目覚めさせる。


隣には安らかな眠りにつく、生きた色をした女がいる。


「起きてください」


彼女の頬を撫で、目覚めを促せば、汚れた瞼が開く。


エスコートし、共に顔を洗い、軽く髪を、肌を、整える。


身だしなみを整えた後は、共に朝食を食べ、同じ部屋で一休みする。


「そろそろ行こうかと思います」


重く冷めた空気を切り裂いた私の言葉は、案外あっさりと受け入れられた。


「そうですか。忘れ物にはお気をつけて」


「ええ」


物を確認し、ドアノブへ手をかざし、最後に後ろを振り向く。


「また、いつか」


「ええ、またいつか。私の初恋の人」














「結構、案外に楽しい旅行だった」


「そうですか」


今の季節はなんだっけ、春だっけ、秋だっけ。


地域の寒暖差が激しいこの世界は、季節という物を忘れさせる。


「神様には会うし、父親は死んだらしいし、母は泣くし、祖母は死ぬ準備はしていたし、二人にモテた!」


「二人?」


「言ってなかったっけ、最初の次の日に、朝女性と踊ったの」


「貴方、貴方ねえ!」


「そうそう、それぐらい砕けてくれなきゃ」


「話を逸らさないでくださいよ」


「それでも、私は貴方が好きよ。バツキ」


この気持ちは変わらない。


何があっても変わらない。


変えることができない、思い込みなのだ。


変わって、変わらなくて、そんなことを繰り返して、今回の旅行みたいなことを繰り返して。


その果てに何があるの?その過程になにがあるの?


それを決めるのは自分だ。だから生きる。


全部を決めるのは自分だ。だから考える。


生きるか死ぬかをまず決めて、死にたければ死ねばいい。そこに善悪も罰と呼べるものも、なにもないのだから。


生きるのなら、次の選択をすればいい。


目の前の娯楽に飛び込むのもいいだろう。先の景色へ寄り道せず向かうのもいいだろう。


生きることは全ての根拠。善悪を選定できるのも、生きる決意。


だから、人殺しもしてもいい。サメがサメを喰らうようなものなのだから。


生きることを決め、人殺しをしないと決め、今日のことを決め、明日を決め、いつか疲れる日が来るだろう。


そしたらまた考えればいい。自分が本当に生きたいのか、生きたいと思えるのか。


生きて、生きて、生きて、生きていけば、死にたくなる、辛くなる、何もしたくなくなる。


それでいいよ、それでもいいんだよ。


眠って、休んで、逃げて、迷って。


そこで考えることができるようになれば、また選択すればいい。


自分より尊大な、神がいるとわかって、自己に価値を見出せなくても、生きたっていいし、そこで自殺したって責められはしない。


思い人が死んだって、悲しくたって、生きたければ生きればいい。


死ぬために生きるのもいい。


いつか辛いことが起きるとわかってでも、生きたければ生きればいい。


大事なのは、選ぶこと。


貴方が選んだことなら、考えたことなら、きっと誰かを幸せにできるはずなのだから。


だから、生きてみればいい。


この意味のない話を読み終えて、栞を挟むことなく表紙を閉じればいい。


ただ意味もなく生きてみればいい。


ずっと、ずっと、歩いて、走って転んで泣いて嘔吐して。


貴方が望むままに、行動してみればいいさ。

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